シュウヘイクンノコト
ー/ー
-ボクのキモチ-③
【その目がわるい
キモチワルイ物を
見るような目をしたから
心が痛かった
僕だってこんなことしたくなかった】
20XX年 十月
カチ。
六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。
「今日も時間通り」
シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。
「あと二センチ右」
枕の位置も決まっている。
カーテンは必ず右から開ける。
次は歯磨きだ。
お母さんの部屋にちらっと目を向け、真っ直ぐな階段を降りている途中、カチャっと音が聞こえた。
「秀ちゃん、おはよう」
廊下に足を付けてから振り返る。
「おはよう」
白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。
まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。
「肌寒いわ」
「まだ暑いくらいだよ」
体温調節が上手く機能していないのかもしれない。
ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。
「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」
「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」
───巡る季節を当たり前のように過ごせると思っていた。
「今日は秀ちゃんの好きな、じゃがいものお味噌汁を作ろうかしら」
「ありがとう。着替えたら行くね」
好きな食べ物すら優先してくれる。
洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。
……あいつが帰ってきたのだ。
口笛と共に。
────ピーピー、ピ。
心がざわつく。
ドカドカとキッチンに向かう足音が響く。
『まず、手洗い』
本人に言えるはずもない。
「……新品同様にしろって言ってんだ」
始まった。
「できるだけやってみるわ」
「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」
「キレイにするから……」
「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」
ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。
『にげろ』
頭が命令する。
でも、体は固まったまま動かない。
「我が家の天才くん、盗み聞きか?相変わらず悪趣味だな」
ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。
その影は、罪のない壁に向けられる。
「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」
首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。
お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。
絶対に聞こえてるはずなのに。
兄があの汚らしい部屋に入ったことを音で確認し、駆け足で自室に滑り込む。
ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。
────貧弱。
そうだ。兄の言う通りだ。
お母さんを助けにいかなかった。
お父さんと同じではないか。
アイロンがけがしてあるワイシャツに右から袖を通し、ボタンをきっちりと止める。
整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。
キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。
滅多に失敗しないはずなのに……。
「秀ちゃん、ごめんね」
その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。
「……作らなかったの?」
ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。
パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。
「おはよう。成績はどうだ?」
「おはようございます。特に変わりはないよ」
「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」
声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。
「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」
「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」
そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。
「そろそろ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。
「……お味噌汁、ごめんね」
震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。
「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」
「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」
────その笑顔は、まるで仮面のようだった。
お母さんの素顔を思い出せない。
壁に貼り付けられた時計の針を凝視し、そっと銀色の丸みのあるスプーンを置く。
「行ってきます」
「気をつけてね」
揃えられた靴を右足から履く。
一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。
自分のペースを乱すわけにはいかない。
道路を占領している茶色に変身した葉たちは、居場所を探すように風の思うままに浮遊している。
葉に心を奪われていたのだろう。
目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。
「おーい!秀平!」
名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。
「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」
たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。
「ごめん、颯太。おはよう」
「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」
ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。
「大丈夫。ありがとう」
廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。
脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。
なぜなら、ぼくは貧弱だから。
「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」
「……今、何時?」
「八時十分」
「うそ……だろ。急ごう!」
遅刻確定。
────アイツのせいだ。
人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。
存在価値などない。
だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。
「何で、真っ直ぐ止めないんだ」
隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。
「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」
「ごめん。寝不足なんだ」
「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」
そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。
「……」
枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。
「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」
「そ、そんなわけないだろ」
颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。
もう、時間なんてどうでもいい。
「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」
「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」
「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」
「ありがとう」
手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。
ガラガラと戸を引く音で様々な目が集まる。
初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。
「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」
チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。
「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」
スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。
黒板に陳列された文字など興味はない。
ノートの下へ隠した雑誌に集中する。
片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。
ドクドクと血液が急速に流れていく。
そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。
────あなたの、本当に見たいものが見えます。
私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。
「同じ景色を見たい」
ぽつりとつぶやいた。
陽が傾き、落ち葉に二人の影が伸びている。
葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。
「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」
「予定あるの?」
「……ない」
「息抜きに付き合ってほしい」
「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」
ポジティブな颯太に感謝した。
本当は帰りたくないだけだ。
廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。
「颯太、本当に見たいものってある?」
「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」
「幽霊かもしれないね」
街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。
笑い方を思い出させてくれた。
ぼくは颯太に支えられていた。
「……聞いてほしいことがあるんだ」
声色を下げ、兄のことを話した。
「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」
ぼくの考えは間違っていなかった。
「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」
「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」
犬が吠えるほどの笑い声が響く。
颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。
「また、明日な」
ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。
残酷にも現実は変わらない。
ならば、ぼくが変わるしかない。
「ただいま」
ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。
帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。
「ただいまぁ」
もう一度、言う。
しかし『おかえりなさい』が返ってこない。
自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。
「……血?」
点々と赤色が床を汚している。
いや、黄色の塊もだ。
一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。
「お、お母さん?」
覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。
白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。
「どうしたの!」
「……秀ちゃん、おかえりなさい」
鼻の下には乾いた赤色が付いている。
手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。
「転んだの」
瞬きせず黄色い物体だけを見ている。
「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」
「本当に自分で転んだの」
「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」
庇っていることが許せなかった。
「……やめて。そんな言い方しないで!」
脳が揺れるほど髪を振り乱している。
「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」
ポタポタと透明の雫が床を濡らす。
「秀ちゃんは、いい子……でしょ」
ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。
それ以上、何も言い返すことができなかった。
流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。
自分の力で変わろうとしたのに、無理だった。
赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。
右目の瞼を無理やり広げ、希望の色をしたコンタクトを黒い瞳にピタっと乗せた。
「冷たいな」
心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。
変身の瞬間を知るものは誰もいない。
自室に戻りカーテンを掴み、窓から見える枯葉たちを哀れに思った。
緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。
「価値がない奴は消えればいい」
ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。
「秀ちゃん……」
柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。
「開けないで」
「お夕飯、できたわよ」
「……」
「待ってるわね」
一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。
ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。
────ジリリリ。
聞いたことない音が耳に入り込み、目覚まし時計だと認識するのに数秒を要した。
『私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした』
ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。
「少しずつ近づいているのかな」
枕の位置なんて、どうでもいい。
それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。
ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。
「ご飯、食べてないでしょ」
「……昨日の」
「そうよ」
一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。
「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」
いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。
「いらない」
尖った視線を送った。
────丸い瞳がパリンと割れた気がした。
玄関の前に立ち、二つピッタリと寄り添うスニーカーを見つめる。
一段足を下ろすと、ひんやりとした。
「いい子ぶりやがって」
右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。
「揃わないと価値がないくせに」
────ピーピー、ピ。
「来た」
反射的にクルリと背を向け、駆け上がる。
……貧弱なぼくが顔を出したのだ。
毛布を被り、息を整える。
『……殺されたいのか!』
また悪い子が喚いている。
「お前がいなくなればいい」
価値のないやつなのだから。
────ピーピー、ピ。
違和感を確かめるために、両方のカーテンを開ける。
顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。
カーペットに足跡をつけるほどの勢いでベッドから飛び降りた。
聞き耳を立て、そっと階段を降りる。
「仕方ないじゃない」
「出ていってもらう。このままだと、あいつに全てを食い潰される」
「あなた……本当に父親なの?」
「言いなりになるのが親ではない」
「正信がいないと」
細く震えた声が胸をざわつかせる。
「生きて……いけないの!」
ぐちゃ。
体内で異音がした。
「……お前。秀平が可哀想だろ」
「いい子じゃないなら……いないの」
ぐちゃ、ぐちゃ。
『ヒビキ、ぼく見えたよ』
もう、なにも聞こえなかった。
カーテンの一点が淡い光を照らす。
ぼくは家の音に敏感だ。
静かにドアを閉め廊下に出た。
ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。
取っ手を握り、下に体重をかけた。
────赤い目だけを覗かせる。
まるで歓迎しているかのようにお父さんは、天井に顔を向け規律が守られた呼吸をしている。
ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。
グニャリ。
左手も添え、二つの力を一つにする。
刃が体内の奥へ侵入していく。
解放された血液たちは二度と戻れない。
「……誰だ」
温かいものがぼくの内ももに伝わる。
「……に、逃げろ!」
目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。
赤い噴水は月明かりに照らされる。
右目が影を捕らえる。
「おかあさん、どこいくの」
床につけていた手足が止まる。
「秀……ちゃん?」
「ちがう。わるいこ」
赤い花びらが舞う。
────『キレイ』だなと思った。
ポケットにある銀色の丸みを撫でる。
『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。
────ピーピー、ピ。
来た。もう、逃げない。
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僕だってこんなことしたくなかった】
20XX年 十月
カチ。
六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。
「今日も時間通り」
シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。
「あと二センチ右」
枕の位置も決まっている。
カーテンは必ず右から開ける。
次は歯磨きだ。
お母さんの部屋にちらっと目を向け、真っ直ぐな階段を降りている途中、カチャっと音が聞こえた。
「秀ちゃん、おはよう」
廊下に足を付けてから振り返る。
「おはよう」
白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。
まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。
「肌寒いわ」
「まだ暑いくらいだよ」
体温調節が上手く機能していないのかもしれない。
ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。
「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」
「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」
───巡る季節を当たり前のように過ごせると思っていた。
「今日は秀ちゃんの好きな、じゃがいものお味噌汁を作ろうかしら」
「ありがとう。着替えたら行くね」
好きな食べ物すら優先してくれる。
洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。
……あいつが帰ってきたのだ。
口笛と共に。
────ピーピー、ピ。
心がざわつく。
ドカドカとキッチンに向かう足音が響く。
『まず、手洗い』
本人に言えるはずもない。
「……新品同様にしろって言ってんだ」
始まった。
「できるだけやってみるわ」
「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」
「キレイにするから……」
「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」
ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。
『にげろ』
頭が命令する。
でも、体は固まったまま動かない。
「我が家の天才くん、盗み聞きか?相変わらず悪趣味だな」
ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。
その影は、罪のない壁に向けられる。
「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」
首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。
お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。
絶対に聞こえてるはずなのに。
兄があの汚らしい部屋に入ったことを音で確認し、駆け足で自室に滑り込む。
ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。
────貧弱。
そうだ。兄の言う通りだ。
お母さんを助けにいかなかった。
お父さんと同じではないか。
アイロンがけがしてあるワイシャツに右から袖を通し、ボタンをきっちりと止める。
整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。
キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。
滅多に失敗しないはずなのに……。
「秀ちゃん、ごめんね」
その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。
「……作らなかったの?」
ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。
パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。
「おはよう。成績はどうだ?」
「おはようございます。特に変わりはないよ」
「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」
声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。
「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」
「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」
そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。
「そろそろ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。
「……お味噌汁、ごめんね」
震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。
「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」
「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」
────その笑顔は、まるで仮面のようだった。
お母さんの素顔を思い出せない。
壁に貼り付けられた時計の針を凝視し、そっと銀色の丸みのあるスプーンを置く。
「行ってきます」
「気をつけてね」
揃えられた靴を右足から履く。
一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。
自分のペースを乱すわけにはいかない。
道路を占領している茶色に変身した葉たちは、居場所を探すように風の思うままに浮遊している。
葉に心を奪われていたのだろう。
目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。
「おーい!秀平!」
名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。
「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」
たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。
「ごめん、颯太。おはよう」
「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」
ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。
「大丈夫。ありがとう」
廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。
脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。
なぜなら、ぼくは貧弱だから。
「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」
「……今、何時?」
「八時十分」
「うそ……だろ。急ごう!」
遅刻確定。
────アイツのせいだ。
人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。
存在価値などない。
だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。
「何で、真っ直ぐ止めないんだ」
隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。
「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」
「ごめん。寝不足なんだ」
「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」
そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。
「……」
枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。
「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」
「そ、そんなわけないだろ」
颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。
もう、時間なんてどうでもいい。
「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」
「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」
「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」
「ありがとう」
手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。
ガラガラと戸を引く音で様々な目が集まる。
初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。
「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」
チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。
「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」
スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。
黒板に陳列された文字など興味はない。
ノートの下へ隠した雑誌に集中する。
片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。
ドクドクと血液が急速に流れていく。
そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。
────あなたの、本当に見たいものが見えます。
私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。
「同じ景色を見たい」
ぽつりとつぶやいた。
陽が傾き、落ち葉に二人の影が伸びている。
葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。
「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」
「予定あるの?」
「……ない」
「息抜きに付き合ってほしい」
「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」
ポジティブな颯太に感謝した。
本当は帰りたくないだけだ。
廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。
「颯太、本当に見たいものってある?」
「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」
「幽霊かもしれないね」
街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。
笑い方を思い出させてくれた。
ぼくは颯太に支えられていた。
「……聞いてほしいことがあるんだ」
声色を下げ、兄のことを話した。
「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」
ぼくの考えは間違っていなかった。
「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」
「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」
犬が吠えるほどの笑い声が響く。
颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。
「また、明日な」
ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。
残酷にも現実は変わらない。
ならば、ぼくが変わるしかない。
「ただいま」
ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。
帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。
「ただいまぁ」
もう一度、言う。
しかし『おかえりなさい』が返ってこない。
自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。
「……血?」
点々と赤色が床を汚している。
いや、黄色の塊もだ。
一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。
「お、お母さん?」
覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。
白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。
「どうしたの!」
「……秀ちゃん、おかえりなさい」
鼻の下には乾いた赤色が付いている。
手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。
「転んだの」
瞬きせず黄色い物体だけを見ている。
「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」
「本当に自分で転んだの」
「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」
庇っていることが許せなかった。
「……やめて。そんな言い方しないで!」
脳が揺れるほど髪を振り乱している。
「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」
ポタポタと透明の雫が床を濡らす。
「秀ちゃんは、いい子……でしょ」
ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。
それ以上、何も言い返すことができなかった。
流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。
自分の力で変わろうとしたのに、無理だった。
赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。
右目の瞼を無理やり広げ、希望の色をしたコンタクトを黒い瞳にピタっと乗せた。
「冷たいな」
心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。
変身の瞬間を知るものは誰もいない。
自室に戻りカーテンを掴み、窓から見える枯葉たちを哀れに思った。
緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。
「価値がない奴は消えればいい」
ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。
「秀ちゃん……」
柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。
「開けないで」
「お夕飯、できたわよ」
「……」
「待ってるわね」
一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。
ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。
────ジリリリ。
聞いたことない音が耳に入り込み、目覚まし時計だと認識するのに数秒を要した。
『私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした』
ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。
「少しずつ近づいているのかな」
枕の位置なんて、どうでもいい。
それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。
ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。
「ご飯、食べてないでしょ」
「……昨日の」
「そうよ」
一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。
「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」
いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。
「いらない」
尖った視線を送った。
────丸い瞳がパリンと割れた気がした。
玄関の前に立ち、二つピッタリと寄り添うスニーカーを見つめる。
一段足を下ろすと、ひんやりとした。
「いい子ぶりやがって」
右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。
「揃わないと価値がないくせに」
────ピーピー、ピ。
「来た」
反射的にクルリと背を向け、駆け上がる。
……貧弱なぼくが顔を出したのだ。
毛布を被り、息を整える。
『……殺されたいのか!』
また悪い子が喚いている。
「お前がいなくなればいい」
価値のないやつなのだから。
────ピーピー、ピ。
違和感を確かめるために、両方のカーテンを開ける。
顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。
カーペットに足跡をつけるほどの勢いでベッドから飛び降りた。
聞き耳を立て、そっと階段を降りる。
「仕方ないじゃない」
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「あなた……本当に父親なの?」
「言いなりになるのが親ではない」
「正信がいないと」
細く震えた声が胸をざわつかせる。
「生きて……いけないの!」
ぐちゃ。
体内で異音がした。
「……お前。秀平が可哀想だろ」
「いい子じゃないなら……いないの」
ぐちゃ、ぐちゃ。
『ヒビキ、ぼく見えたよ』
もう、なにも聞こえなかった。
カーテンの一点が淡い光を照らす。
ぼくは家の音に敏感だ。
静かにドアを閉め廊下に出た。
ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。
取っ手を握り、下に体重をかけた。
────赤い目だけを覗かせる。
まるで歓迎しているかのようにお父さんは、天井に顔を向け規律が守られた呼吸をしている。
ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。
グニャリ。
左手も添え、二つの力を一つにする。
刃が体内の奥へ侵入していく。
解放された血液たちは二度と戻れない。
「……誰だ」
温かいものがぼくの内ももに伝わる。
「……に、逃げろ!」
目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。
赤い噴水は月明かりに照らされる。
右目が影を捕らえる。
「おかあさん、どこいくの」
床につけていた手足が止まる。
「秀……ちゃん?」
「ちがう。わるいこ」
赤い花びらが舞う。
────『キレイ』だなと思った。
ポケットにある銀色の丸みを撫でる。
『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。
────ピーピー、ピ。
来た。もう、逃げない。