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シュウヘイクンノコト

ー/ー




 -ボクのキモチ-③
 
 【その目がわるい
 キモチワルイ物を
 見るような目をしたから
 心が痛かった
 僕だってこんなことしたくなかった】
 

 20XX年 十月

 カチ。
 六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。
「今日も時間通り」
 シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。
「あと二センチ右」
 枕の位置も決まっている。
 カーテンは必ず右から開ける。
 次は歯磨きだ。

 お母さんの部屋にちらっと目を向け、真っ直ぐな階段を降りている途中、カチャっと音が聞こえた。
「秀ちゃん、おはよう」
 廊下に足を付けてから振り返る。
「おはよう」
 白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。
 まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。
「肌寒いわ」
「まだ暑いくらいだよ」
 体温調節が上手く機能していないのかもしれない。
 ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。
「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」
「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」

 ───巡る季節を当たり前のように過ごせると思っていた。

「今日は秀ちゃんの好きな、じゃがいものお味噌汁を作ろうかしら」
「ありがとう。着替えたら行くね」
 好きな食べ物すら優先してくれる。
 洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。
 ……あいつが帰ってきたのだ。
 口笛と共に。

 ────ピーピー、ピ。
 心がざわつく。

 ドカドカとキッチンに向かう足音が響く。
『まず、手洗い』
 本人に言えるはずもない。
 
「……新品同様にしろって言ってんだ」
 始まった。
「できるだけやってみるわ」
「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」
「キレイにするから……」
「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」
 ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。
 
 『にげろ』
 頭が命令する。
 でも、体は固まったまま動かない。
 
「我が家の天才くん、盗み聞きか?相変わらず悪趣味だな」
 ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。
 その影は、罪のない壁に向けられる。
「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」
 首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。
 お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。
 絶対に聞こえてるはずなのに。
 
 兄があの汚らしい部屋に入ったことを音で確認し、駆け足で自室に滑り込む。
 ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。
 
────貧弱。

 そうだ。兄の言う通りだ。
 お母さんを助けにいかなかった。
 お父さんと同じではないか。
 
 アイロンがけがしてあるワイシャツに右から袖を通し、ボタンをきっちりと止める。
 整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。
 キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。
 
 滅多に失敗しないはずなのに……。
 
 「秀ちゃん、ごめんね」
 その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。
 「……作らなかったの?」
 ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。
 パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。
 「おはよう。成績はどうだ?」
 「おはようございます。特に変わりはないよ」
 「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」
 声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。
 「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」
 「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」
 そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。
 「そろそろ行ってくる」
 「行ってらっしゃい」
 部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。

 「……お味噌汁、ごめんね」
 震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。
 「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」
 「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」
 
 ────その笑顔は、まるで仮面のようだった。
 お母さんの素顔を思い出せない。

 壁に貼り付けられた時計の針を凝視し、そっと銀色の丸みのあるスプーンを置く。
 「行ってきます」
 「気をつけてね」
 揃えられた靴を右足から履く。
 一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。
 自分のペースを乱すわけにはいかない。

 道路を占領している茶色に変身した葉たちは、居場所を探すように風の思うままに浮遊している。
 葉に心を奪われていたのだろう。
 目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。
「おーい!秀平!」
 名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。
 「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」
 たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。
 「ごめん、颯太。おはよう」
 「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」
 ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。
 「大丈夫。ありがとう」
 廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。
 脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。
 なぜなら、ぼくは貧弱だから。
 「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」
 「……今、何時?」
 「八時十分」
 「うそ……だろ。急ごう!」
 遅刻確定。

 ────アイツのせいだ。
 人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。
 存在価値などない。
 だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。
 
 「何で、真っ直ぐ止めないんだ」
 隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。
 「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」
 「ごめん。寝不足なんだ」
 「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」
 そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。
 「……」
 枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。
 「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」
 「そ、そんなわけないだろ」
 颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。
 もう、時間なんてどうでもいい。
 「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」
 「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」
 「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」
 「ありがとう」
 手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。

 ガラガラと戸を引く音で様々な目が集まる。
 初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。
 「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」
 チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。
 「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」
 スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。

 黒板に陳列された文字など興味はない。
 ノートの下へ隠した雑誌に集中する。
 片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。
 ドクドクと血液が急速に流れていく。
 そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。

 ────あなたの、本当に見たいものが見えます。
 私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。

 「同じ景色を見たい」
 ぽつりとつぶやいた。

 陽が傾き、落ち葉に二人の影が伸びている。
 葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。
 「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」
 「予定あるの?」
 「……ない」
 「息抜きに付き合ってほしい」
 「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」
 ポジティブな颯太に感謝した。
 本当は帰りたくないだけだ。
 廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。
 
 「颯太、本当に見たいものってある?」
 「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」
 「幽霊かもしれないね」
 街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。
 
 笑い方を思い出させてくれた。
 ぼくは颯太に支えられていた。

 「……聞いてほしいことがあるんだ」
 声色を下げ、兄のことを話した。
 「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」
 ぼくの考えは間違っていなかった。
 「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」
 「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」
 犬が吠えるほどの笑い声が響く。
 颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。
 「また、明日な」
 ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。
 
 残酷にも現実は変わらない。
 ならば、ぼくが変わるしかない。

 「ただいま」
 ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。
 帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。
 「ただいまぁ」
 もう一度、言う。
 しかし『おかえりなさい』が返ってこない。
 自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。
 「……血?」
 点々と赤色が床を汚している。
 いや、黄色の塊もだ。
 一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。
「お、お母さん?」
 覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。
 白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。
「どうしたの!」
「……秀ちゃん、おかえりなさい」
 鼻の下には乾いた赤色が付いている。
 手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。
「転んだの」
 瞬きせず黄色い物体だけを見ている。
 「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」
 「本当に自分で転んだの」
 「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」
 庇っていることが許せなかった。
 「……やめて。そんな言い方しないで!」
 脳が揺れるほど髪を振り乱している。
 「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」
 ポタポタと透明の雫が床を濡らす。
 「秀ちゃんは、いい子……でしょ」
 ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。
 それ以上、何も言い返すことができなかった。
 流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。
 
 自分の力で変わろうとしたのに、無理だった。
 赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。

 右目の瞼を無理やり広げ、希望の色をしたコンタクトを黒い瞳にピタっと乗せた。
 「冷たいな」
 心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。
 変身の瞬間を知るものは誰もいない。

 自室に戻りカーテンを掴み、窓から見える枯葉たちを哀れに思った。
 緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。
 「価値がない奴は消えればいい」
 ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。
 「秀ちゃん……」
 柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。
 「開けないで」
 「お夕飯、できたわよ」
 「……」
 「待ってるわね」
 一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。
 ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。
 

 ────ジリリリ。
 
 聞いたことない音が耳に入り込み、目覚まし時計だと認識するのに数秒を要した。
 
 『私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした』
 ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。
 「少しずつ近づいているのかな」
 枕の位置なんて、どうでもいい。
 それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。
 ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。
 「ご飯、食べてないでしょ」
 「……昨日の」
 「そうよ」
 一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。
 「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」
 いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。
 「いらない」
 尖った視線を送った。
 
 ────丸い瞳がパリンと割れた気がした。

 玄関の前に立ち、二つピッタリと寄り添うスニーカーを見つめる。
 一段足を下ろすと、ひんやりとした。
 「いい子ぶりやがって」
 右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。
 「揃わないと価値がないくせに」

 ────ピーピー、ピ。
 「来た」
 
 反射的にクルリと背を向け、駆け上がる。
 ……貧弱なぼくが顔を出したのだ。
 毛布を被り、息を整える。
 『……殺されたいのか!』
 また悪い子が喚いている。
 「お前がいなくなればいい」
 価値のないやつなのだから。

 ────ピーピー、ピ。
 
 違和感を確かめるために、両方のカーテンを開ける。
 顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。

 カーペットに足跡をつけるほどの勢いでベッドから飛び降りた。
 聞き耳を立て、そっと階段を降りる。
 「仕方ないじゃない」
 「出ていってもらう。このままだと、あいつに全てを食い潰される」
 「あなた……本当に父親なの?」
 「言いなりになるのが親ではない」
 「正信がいないと」
 細く震えた声が胸をざわつかせる。
 
 「生きて……いけないの!」

 ぐちゃ。
 体内で異音がした。

 「……お前。秀平が可哀想だろ」
 「いい子じゃないなら……いないの」

 ぐちゃ、ぐちゃ。
 『ヒビキ、ぼく見えたよ』

 もう、なにも聞こえなかった。
 

 カーテンの一点が淡い光を照らす。
 ぼくは家の音に敏感だ。
 静かにドアを閉め廊下に出た。
 ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。
 取っ手を握り、下に体重をかけた。
 
 ────赤い目だけを覗かせる。

 まるで歓迎しているかのようにお父さんは、天井に顔を向け規律が守られた呼吸をしている。
 ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。

 グニャリ。
 左手も添え、二つの力を一つにする。
 刃が体内の奥へ侵入していく。
 解放された血液たちは二度と戻れない。
「……誰だ」
 温かいものがぼくの内ももに伝わる。
「……に、逃げろ!」
 目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。
 赤い噴水は月明かりに照らされる。

 右目が影を捕らえる。
「おかあさん、どこいくの」
 床につけていた手足が止まる。
「秀……ちゃん?」
「ちがう。わるいこ」
 赤い花びらが舞う。

 ────『キレイ』だなと思った。

 ポケットにある銀色の丸みを撫でる。
 『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。
 

 ────ピーピー、ピ。
 来た。もう、逃げない。
 


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 -ボクのキモチ-③
 【その目がわるい
 キモチワルイ物を
 見るような目をしたから
 心が痛かった
 僕だってこんなことしたくなかった】
 20XX年 十月
 カチ。
 六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。
「今日も時間通り」
 シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。
「あと二センチ右」
 枕の位置も決まっている。
 カーテンは必ず右から開ける。
 次は歯磨きだ。
 お母さんの部屋にちらっと目を向け、真っ直ぐな階段を降りている途中、カチャっと音が聞こえた。
「秀ちゃん、おはよう」
 廊下に足を付けてから振り返る。
「おはよう」
 白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。
 まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。
「肌寒いわ」
「まだ暑いくらいだよ」
 体温調節が上手く機能していないのかもしれない。
 ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。
「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」
「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」
 ───巡る季節を当たり前のように過ごせると思っていた。
「今日は秀ちゃんの好きな、じゃがいものお味噌汁を作ろうかしら」
「ありがとう。着替えたら行くね」
 好きな食べ物すら優先してくれる。
 洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。
 ……あいつが帰ってきたのだ。
 口笛と共に。
 ────ピーピー、ピ。
 心がざわつく。
 ドカドカとキッチンに向かう足音が響く。
『まず、手洗い』
 本人に言えるはずもない。
「……新品同様にしろって言ってんだ」
 始まった。
「できるだけやってみるわ」
「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」
「キレイにするから……」
「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」
 ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。
 『にげろ』
 頭が命令する。
 でも、体は固まったまま動かない。
「我が家の天才くん、盗み聞きか?相変わらず悪趣味だな」
 ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。
 その影は、罪のない壁に向けられる。
「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」
 首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。
 お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。
 絶対に聞こえてるはずなのに。
 兄があの汚らしい部屋に入ったことを音で確認し、駆け足で自室に滑り込む。
 ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。
────貧弱。
 そうだ。兄の言う通りだ。
 お母さんを助けにいかなかった。
 お父さんと同じではないか。
 アイロンがけがしてあるワイシャツに右から袖を通し、ボタンをきっちりと止める。
 整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。
 キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。
 滅多に失敗しないはずなのに……。
 「秀ちゃん、ごめんね」
 その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。
 「……作らなかったの?」
 ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。
 パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。
 「おはよう。成績はどうだ?」
 「おはようございます。特に変わりはないよ」
 「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」
 声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。
 「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」
 「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」
 そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。
 「そろそろ行ってくる」
 「行ってらっしゃい」
 部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。
 「……お味噌汁、ごめんね」
 震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。
 「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」
 「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」
 ────その笑顔は、まるで仮面のようだった。
 お母さんの素顔を思い出せない。
 壁に貼り付けられた時計の針を凝視し、そっと銀色の丸みのあるスプーンを置く。
 「行ってきます」
 「気をつけてね」
 揃えられた靴を右足から履く。
 一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。
 自分のペースを乱すわけにはいかない。
 道路を占領している茶色に変身した葉たちは、居場所を探すように風の思うままに浮遊している。
 葉に心を奪われていたのだろう。
 目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。
「おーい!秀平!」
 名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。
 「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」
 たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。
 「ごめん、颯太。おはよう」
 「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」
 ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。
 「大丈夫。ありがとう」
 廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。
 脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。
 なぜなら、ぼくは貧弱だから。
 「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」
 「……今、何時?」
 「八時十分」
 「うそ……だろ。急ごう!」
 遅刻確定。
 ────アイツのせいだ。
 人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。
 存在価値などない。
 だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。
 「何で、真っ直ぐ止めないんだ」
 隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。
 「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」
 「ごめん。寝不足なんだ」
 「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」
 そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。
 「……」
 枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。
 「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」
 「そ、そんなわけないだろ」
 颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。
 もう、時間なんてどうでもいい。
 「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」
 「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」
 「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」
 「ありがとう」
 手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。
 ガラガラと戸を引く音で様々な目が集まる。
 初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。
 「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」
 チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。
 「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」
 スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。
 黒板に陳列された文字など興味はない。
 ノートの下へ隠した雑誌に集中する。
 片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。
 ドクドクと血液が急速に流れていく。
 そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。
 ────あなたの、本当に見たいものが見えます。
 私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。
 「同じ景色を見たい」
 ぽつりとつぶやいた。
 陽が傾き、落ち葉に二人の影が伸びている。
 葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。
 「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」
 「予定あるの?」
 「……ない」
 「息抜きに付き合ってほしい」
 「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」
 ポジティブな颯太に感謝した。
 本当は帰りたくないだけだ。
 廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。
 「颯太、本当に見たいものってある?」
 「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」
 「幽霊かもしれないね」
 街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。
 笑い方を思い出させてくれた。
 ぼくは颯太に支えられていた。
 「……聞いてほしいことがあるんだ」
 声色を下げ、兄のことを話した。
 「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」
 ぼくの考えは間違っていなかった。
 「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」
 「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」
 犬が吠えるほどの笑い声が響く。
 颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。
 「また、明日な」
 ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。
 残酷にも現実は変わらない。
 ならば、ぼくが変わるしかない。
 「ただいま」
 ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。
 帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。
 「ただいまぁ」
 もう一度、言う。
 しかし『おかえりなさい』が返ってこない。
 自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。
 「……血?」
 点々と赤色が床を汚している。
 いや、黄色の塊もだ。
 一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。
「お、お母さん?」
 覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。
 白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。
「どうしたの!」
「……秀ちゃん、おかえりなさい」
 鼻の下には乾いた赤色が付いている。
 手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。
「転んだの」
 瞬きせず黄色い物体だけを見ている。
 「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」
 「本当に自分で転んだの」
 「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」
 庇っていることが許せなかった。
 「……やめて。そんな言い方しないで!」
 脳が揺れるほど髪を振り乱している。
 「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」
 ポタポタと透明の雫が床を濡らす。
 「秀ちゃんは、いい子……でしょ」
 ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。
 それ以上、何も言い返すことができなかった。
 流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。
 自分の力で変わろうとしたのに、無理だった。
 赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。
 右目の瞼を無理やり広げ、希望の色をしたコンタクトを黒い瞳にピタっと乗せた。
 「冷たいな」
 心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。
 変身の瞬間を知るものは誰もいない。
 自室に戻りカーテンを掴み、窓から見える枯葉たちを哀れに思った。
 緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。
 「価値がない奴は消えればいい」
 ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。
 「秀ちゃん……」
 柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。
 「開けないで」
 「お夕飯、できたわよ」
 「……」
 「待ってるわね」
 一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。
 ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。
 ────ジリリリ。
 聞いたことない音が耳に入り込み、目覚まし時計だと認識するのに数秒を要した。
 『私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした』
 ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。
 「少しずつ近づいているのかな」
 枕の位置なんて、どうでもいい。
 それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。
 ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。
 「ご飯、食べてないでしょ」
 「……昨日の」
 「そうよ」
 一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。
 「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」
 いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。
 「いらない」
 尖った視線を送った。
 ────丸い瞳がパリンと割れた気がした。
 玄関の前に立ち、二つピッタリと寄り添うスニーカーを見つめる。
 一段足を下ろすと、ひんやりとした。
 「いい子ぶりやがって」
 右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。
 「揃わないと価値がないくせに」
 ────ピーピー、ピ。
 「来た」
 反射的にクルリと背を向け、駆け上がる。
 ……貧弱なぼくが顔を出したのだ。
 毛布を被り、息を整える。
 『……殺されたいのか!』
 また悪い子が喚いている。
 「お前がいなくなればいい」
 価値のないやつなのだから。
 ────ピーピー、ピ。
 違和感を確かめるために、両方のカーテンを開ける。
 顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。
 カーペットに足跡をつけるほどの勢いでベッドから飛び降りた。
 聞き耳を立て、そっと階段を降りる。
 「仕方ないじゃない」
 「出ていってもらう。このままだと、あいつに全てを食い潰される」
 「あなた……本当に父親なの?」
 「言いなりになるのが親ではない」
 「正信がいないと」
 細く震えた声が胸をざわつかせる。
 「生きて……いけないの!」
 ぐちゃ。
 体内で異音がした。
 「……お前。秀平が可哀想だろ」
 「いい子じゃないなら……いないの」
 ぐちゃ、ぐちゃ。
 『ヒビキ、ぼく見えたよ』
 もう、なにも聞こえなかった。
 カーテンの一点が淡い光を照らす。
 ぼくは家の音に敏感だ。
 静かにドアを閉め廊下に出た。
 ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。
 取っ手を握り、下に体重をかけた。
 ────赤い目だけを覗かせる。
 まるで歓迎しているかのようにお父さんは、天井に顔を向け規律が守られた呼吸をしている。
 ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。
 グニャリ。
 左手も添え、二つの力を一つにする。
 刃が体内の奥へ侵入していく。
 解放された血液たちは二度と戻れない。
「……誰だ」
 温かいものがぼくの内ももに伝わる。
「……に、逃げろ!」
 目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。
 赤い噴水は月明かりに照らされる。
 右目が影を捕らえる。
「おかあさん、どこいくの」
 床につけていた手足が止まる。
「秀……ちゃん?」
「ちがう。わるいこ」
 赤い花びらが舞う。
 ────『キレイ』だなと思った。
 ポケットにある銀色の丸みを撫でる。
 『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。
 ────ピーピー、ピ。
 来た。もう、逃げない。