シュウヘイクンノコト
ー/ー-ボクのキモチ-③
【その目がわるい
キモチワルイ物を
見るような目をしたから
心が痛かった
僕だってこんなことしたくなかった】
20XX年 十月
カチ。
六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。
「今日も時間通り」
シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。
「あと二センチ右」
枕の位置も決まっている。
カーテンは必ず右から開ける。
次は歯磨きだ。
お母さんの部屋にちらっと目を向け、真っ直ぐな階段を降りている途中、カチャっと音が聞こえた。
「秀ちゃん、おはよう」
廊下に足を付けてから振り返る。
「おはよう」
白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。
まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。
「肌寒いわ」
「まだ暑いくらいだよ」
体温調節が上手く機能していないのかもしれない。
ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。
「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」
「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」
───巡る季節を当たり前のように過ごせると思っていた。
「今日は秀ちゃんの好きな、じゃがいものお味噌汁を作ろうかしら」
「ありがとう。着替えたら行くね」
好きな食べ物すら優先してくれる。
洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。
……あいつが帰ってきたのだ。
口笛と共に。
────ピーピー、ピ。
心がざわつく。
ドカドカとキッチンに向かう足音が響く。
『まず、手洗い』
本人に言えるはずもない。
「……新品同様にしろって言ってんだ」
始まった。
「できるだけやってみるわ」
「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」
「キレイにするから……」
「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」
ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。
『にげろ』
頭が命令する。
でも、体は固まったまま動かない。
「我が家の天才くん、盗み聞きか?相変わらず悪趣味だな」
ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。
その影は、罪のない壁に向けられる。
「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」
首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。
お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。
絶対に聞こえてるはずなのに。
兄があの汚らしい部屋に入ったことを音で確認し、駆け足で自室に滑り込む。
ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。
────貧弱。
そうだ。兄の言う通りだ。
お母さんを助けにいかなかった。
お父さんと同じではないか。
アイロンがけがしてあるワイシャツに右から袖を通し、ボタンをきっちりと止める。
整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。
キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。
滅多に失敗しないはずなのに……。
「秀ちゃん、ごめんね」
その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。
「……作らなかったの?」
ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。
パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。
「おはよう。成績はどうだ?」
「おはようございます。特に変わりはないよ」
「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」
声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。
「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」
「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」
そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。
「そろそろ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。
「……お味噌汁、ごめんね」
震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。
「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」
「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」
────その笑顔は、まるで仮面のようだった。
お母さんの素顔を思い出せない。
壁に貼り付けられた時計の針を凝視し、そっと銀色の丸みのあるスプーンを置く。
「行ってきます」
「気をつけてね」
揃えられた靴を右足から履く。
一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。
自分のペースを乱すわけにはいかない。
道路を占領している茶色に変身した葉たちは、居場所を探すように風の思うままに浮遊している。
葉に心を奪われていたのだろう。
目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。
「おーい!秀平!」
名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。
「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」
たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。
「ごめん、颯太。おはよう」
「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」
ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。
「大丈夫。ありがとう」
廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。
脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。
なぜなら、ぼくは貧弱だから。
「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」
「……今、何時?」
「八時十分」
「うそ……だろ。急ごう!」
遅刻確定。
────アイツのせいだ。
人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。
存在価値などない。
だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。
「何で、真っ直ぐ止めないんだ」
隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。
「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」
「ごめん。寝不足なんだ」
「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」
そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。
「……」
枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。
「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」
「そ、そんなわけないだろ」
颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。
もう、時間なんてどうでもいい。
「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」
「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」
「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」
「ありがとう」
手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。
ガラガラと戸を引く音で様々な目が集まる。
初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。
「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」
チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。
「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」
スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。
黒板に陳列された文字など興味はない。
ノートの下へ隠した雑誌に集中する。
片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。
ドクドクと血液が急速に流れていく。
そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。
────あなたの、本当に見たいものが見えます。
私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。
「同じ景色を見たい」
ぽつりとつぶやいた。
陽が傾き、落ち葉に二人の影が伸びている。
葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。
「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」
「予定あるの?」
「……ない」
「息抜きに付き合ってほしい」
「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」
ポジティブな颯太に感謝した。
本当は帰りたくないだけだ。
廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。
「颯太、本当に見たいものってある?」
「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」
「幽霊かもしれないね」
街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。
笑い方を思い出させてくれた。
ぼくは颯太に支えられていた。
「……聞いてほしいことがあるんだ」
声色を下げ、兄のことを話した。
「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」
ぼくの考えは間違っていなかった。
「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」
「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」
犬が吠えるほどの笑い声が響く。
颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。
「また、明日な」
ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。
残酷にも現実は変わらない。
ならば、ぼくが変わるしかない。
「ただいま」
ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。
帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。
「ただいまぁ」
もう一度、言う。
しかし『おかえりなさい』が返ってこない。
自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。
「……血?」
点々と赤色が床を汚している。
いや、黄色の塊もだ。
一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。
「お、お母さん?」
覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。
白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。
「どうしたの!」
「……秀ちゃん、おかえりなさい」
鼻の下には乾いた赤色が付いている。
手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。
「転んだの」
瞬きせず黄色い物体だけを見ている。
「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」
「本当に自分で転んだの」
「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」
庇っていることが許せなかった。
「……やめて。そんな言い方しないで!」
脳が揺れるほど髪を振り乱している。
「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」
ポタポタと透明の雫が床を濡らす。
「秀ちゃんは、いい子……でしょ」
ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。
それ以上、何も言い返すことができなかった。
流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。
自分の力で変わろうとしたのに、無理だった。
赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。
右目の瞼を無理やり広げ、希望の色をしたコンタクトを黒い瞳にピタっと乗せた。
「冷たいな」
心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。
変身の瞬間を知るものは誰もいない。
自室に戻りカーテンを掴み、窓から見える枯葉たちを哀れに思った。
緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。
「価値がない奴は消えればいい」
ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。
「秀ちゃん……」
柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。
「開けないで」
「お夕飯、できたわよ」
「……」
「待ってるわね」
一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。
ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。
────ジリリリ。
聞いたことない音が耳に入り込み、目覚まし時計だと認識するのに数秒を要した。
『私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした』
ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。
「少しずつ近づいているのかな」
枕の位置なんて、どうでもいい。
それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。
ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。
「ご飯、食べてないでしょ」
「……昨日の」
「そうよ」
一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。
「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」
いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。
「いらない」
尖った視線を送った。
────丸い瞳がパリンと割れた気がした。
玄関の前に立ち、二つピッタリと寄り添うスニーカーを見つめる。
一段足を下ろすと、ひんやりとした。
「いい子ぶりやがって」
右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。
「揃わないと価値がないくせに」
────ピーピー、ピ。
「来た」
反射的にクルリと背を向け、駆け上がる。
……貧弱なぼくが顔を出したのだ。
毛布を被り、息を整える。
『……殺されたいのか!』
また悪い子が喚いている。
「お前がいなくなればいい」
価値のないやつなのだから。
────ピーピー、ピ。
違和感を確かめるために、両方のカーテンを開ける。
顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。
カーペットに足跡をつけるほどの勢いでベッドから飛び降りた。
聞き耳を立て、そっと階段を降りる。
「仕方ないじゃない」
「出ていってもらう。このままだと、あいつに全てを食い潰される」
「あなた……本当に父親なの?」
「言いなりになるのが親ではない」
「正信がいないと」
細く震えた声が胸をざわつかせる。
「生きて……いけないの!」
ぐちゃ。
体内で異音がした。
「……お前。秀平が可哀想だろ」
「いい子じゃないなら……いないの」
ぐちゃ、ぐちゃ。
『ヒビキ、ぼく見えたよ』
もう、なにも聞こえなかった。
カーテンの一点が淡い光を照らす。
ぼくは家の音に敏感だ。
静かにドアを閉め廊下に出た。
ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。
取っ手を握り、下に体重をかけた。
────赤い目だけを覗かせる。
まるで歓迎しているかのようにお父さんは、天井に顔を向け規律が守られた呼吸をしている。
ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。
グニャリ。
左手も添え、二つの力を一つにする。
刃が体内の奥へ侵入していく。
解放された血液たちは二度と戻れない。
「……誰だ」
温かいものがぼくの内ももに伝わる。
「……に、逃げろ!」
目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。
赤い噴水は月明かりに照らされる。
右目が影を捕らえる。
「おかあさん、どこいくの」
床につけていた手足が止まる。
「秀……ちゃん?」
「ちがう。わるいこ」
赤い花びらが舞う。
────『キレイ』だなと思った。
ポケットにある銀色の丸みを撫でる。
『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。
────ピーピー、ピ。
来た。もう、逃げない。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
-ボクのキモチ-③
【その目がわるい
キモチワルイ物を
見るような目をしたから
心が痛かった
僕だってこんなことしたくなかった】
キモチワルイ物を
見るような目をしたから
心が痛かった
僕だってこんなことしたくなかった】
20XX年 十月
カチ。
六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。
「今日も時間通り」
シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。
「あと二センチ右」
枕の位置も決まっている。
カーテンは必ず右から開ける。
次は歯磨きだ。
六時に鳴る目覚ましのボタンを押す。
「今日も時間通り」
シーツを手のひらでスーッと撫で、シワを伸ばす。
「あと二センチ右」
枕の位置も決まっている。
カーテンは必ず右から開ける。
次は歯磨きだ。
お母さんの部屋にちらっと目を向け、真っ直ぐな階段を降りている途中、カチャっと音が聞こえた。
「秀ちゃん、おはよう」
廊下に足を付けてから振り返る。
「おはよう」
白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。
まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。
「肌寒いわ」
「まだ暑いくらいだよ」
体温調節が上手く機能していないのかもしれない。
ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。
「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」
「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」
「秀ちゃん、おはよう」
廊下に足を付けてから振り返る。
「おはよう」
白いネグリジェの上にはカーディガンを纏っている。
まるでプリンセスのように一段、一段ゆっくりと足を降ろしている。
「肌寒いわ」
「まだ暑いくらいだよ」
体温調節が上手く機能していないのかもしれない。
ポキッと簡単に折れてしまいそうな両腕をさすっている。
「今年の冬も無事に越えられるか心配なの」
「大丈夫。こうして今年も冬を迎えられてるんだから」
───巡る季節を当たり前のように過ごせると思っていた。
「今日は秀ちゃんの好きな、じゃがいものお味噌汁を作ろうかしら」
「ありがとう。着替えたら行くね」
好きな食べ物すら優先してくれる。
洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。
……あいつが帰ってきたのだ。
口笛と共に。
「ありがとう。着替えたら行くね」
好きな食べ物すら優先してくれる。
洗面所へ向かい歯ブラシに手を伸ばしたと同時に、ガチャと大きな音が耳を刺す。
……あいつが帰ってきたのだ。
口笛と共に。
────ピーピー、ピ。
心がざわつく。
心がざわつく。
ドカドカとキッチンに向かう足音が響く。
『まず、手洗い』
本人に言えるはずもない。
『まず、手洗い』
本人に言えるはずもない。
「……新品同様にしろって言ってんだ」
始まった。
「できるだけやってみるわ」
「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」
「キレイにするから……」
「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」
ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。
始まった。
「できるだけやってみるわ」
「やってみるじゃなくてやれよ。この汚れを落とせなかったら新品を買ってもらう。プレミアついてるから高いんだよな。親父に頼んでもいいぜ」
「キレイにするから……」
「じゃ、よろしく。ちなみに、じゃがいもの味噌汁なんて作るなよ。俺が嫌いなの知ってるだろ」
ガタガタと椅子を鳴らし、兄が近づいてくる。
『にげろ』
頭が命令する。
でも、体は固まったまま動かない。
頭が命令する。
でも、体は固まったまま動かない。
「我が家の天才くん、盗み聞きか?相変わらず悪趣味だな」
ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。
その影は、罪のない壁に向けられる。
「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」
首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。
お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。
絶対に聞こえてるはずなのに。
ぼくを見下ろすその影だけが、異様に大きく揺れた。
その影は、罪のない壁に向けられる。
「頭が良くたって生きていけねぇ。……貧弱な弟をもつ兄の気持ちにもなれよ」
首を縮め、カメに似たぼくをグリグリと踏みつけて立ち去った。
お父さんは浦島太郎のように、ぼくを助けてくれない。
絶対に聞こえてるはずなのに。
兄があの汚らしい部屋に入ったことを音で確認し、駆け足で自室に滑り込む。
ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。
ゼェゼェと息を整えようと集中するが、後悔という渦へ飲み込まれそうになる。
────貧弱。
そうだ。兄の言う通りだ。
お母さんを助けにいかなかった。
お父さんと同じではないか。
お母さんを助けにいかなかった。
お父さんと同じではないか。
アイロンがけがしてあるワイシャツに右から袖を通し、ボタンをきっちりと止める。
整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。
キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。
整った部屋を一度見まわしてから、自室を出た。
キッチンが近づくとベーコンの匂いが漂ってくる。しかし、いい香りだけではなく黒いものを想像させた。
滅多に失敗しないはずなのに……。
「秀ちゃん、ごめんね」
その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。
「……作らなかったの?」
ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。
パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。
「おはよう。成績はどうだ?」
「おはようございます。特に変わりはないよ」
「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」
声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。
「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」
「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」
そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。
「そろそろ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。
その言葉になんの反応もせず、機械のようにトーストを口に運ぶお父さんの姿に苛立ちを感じた。
「……作らなかったの?」
ぼくの頭と口は味噌汁が食べられると思っていた。だからテーブルに置かれている玉子スープが美味しそうに見えなくなる。
パンパンと食べくずを払い、お父さんは口を開く。
「おはよう。成績はどうだ?」
「おはようございます。特に変わりはないよ」
「何の心配もいらないわよね。スケジュール通り、お勉強も進んでいるもの」
声色を変えたお母さんが会話に参加してきた。
「秀ちゃんはね、いい子だし自慢の息子なのよ」
「そうだな。親を困らせたこともないし、俺も秀平には期待してるんだ」
そう言ったあと、ご馳走様のポーズをし鞄を片手に席を立った。
「そろそろ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
部長の顔に切り替え二人の声に見送られた。
「……お味噌汁、ごめんね」
震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。
「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」
「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」
震えを隠すかのように、食べくずをゴミ箱に放り込んだ。
「気にしてないよ。お母さんは……大丈夫?」
「全然平気よ!慣れっこだわ。それに、私には秀ちゃんがいるもの」
────その笑顔は、まるで仮面のようだった。
お母さんの素顔を思い出せない。
お母さんの素顔を思い出せない。
壁に貼り付けられた時計の針を凝視し、そっと銀色の丸みのあるスプーンを置く。
「行ってきます」
「気をつけてね」
揃えられた靴を右足から履く。
一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。
自分のペースを乱すわけにはいかない。
「行ってきます」
「気をつけてね」
揃えられた靴を右足から履く。
一歩外に踏み出した時、バタンと廊下を響かせた音が聞こえ、胸のざわつきを抱えたまま扉を閉めた。
自分のペースを乱すわけにはいかない。
道路を占領している茶色に変身した葉たちは、居場所を探すように風の思うままに浮遊している。
葉に心を奪われていたのだろう。
目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。
「おーい!秀平!」
名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。
「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」
たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。
「ごめん、颯太。おはよう」
「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」
ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。
「大丈夫。ありがとう」
廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。
脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。
なぜなら、ぼくは貧弱だから。
「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」
「……今、何時?」
「八時十分」
「うそ……だろ。急ごう!」
遅刻確定。
葉に心を奪われていたのだろう。
目の前の光が赤から青へ変わったことにすら気が付かずにいた。
「おーい!秀平!」
名を呼ぶ声に反応し、首を左右に動かすと葉たちとは違い、風を切る友人が近づいてくる。
「やっと気づいた。のどが痛くなっちゃったよ。全然気づかないんだもんな。何回か青になってたぞ。大丈夫か?そのお陰で追いついたから、俺はよかったけど」
たくさんの言葉を浴びせられ驚くしかなかった。しかし、牧村颯太の存在で自転車に乗っていることを思い出した。
「ごめん、颯太。おはよう」
「本当に大丈夫かよ。顔面蒼白だぞ」
ぼくにも仮面が必要なのかもしれない。
「大丈夫。ありがとう」
廊下を響かせた音は、きっと兄の仕業だ。
脳内を占領されている理由を言えるはずもなかった。
なぜなら、ぼくは貧弱だから。
「いや、絶対におかしい。秀平が時間を守らないなんて、太陽が西から昇るくらいありえない」
「……今、何時?」
「八時十分」
「うそ……だろ。急ごう!」
遅刻確定。
────アイツのせいだ。
人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。
存在価値などない。
だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。
人から奪うことしか脳がない『悪い子』の兄が全て悪い。
存在価値などない。
だとしたら『良い子』は価値があるということなのか。
「何で、真っ直ぐ止めないんだ」
隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。
「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」
「ごめん。寝不足なんだ」
「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」
そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。
「……」
枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。
「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」
「そ、そんなわけないだろ」
颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。
もう、時間なんてどうでもいい。
「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」
「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」
「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」
「ありがとう」
手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。
隙間のない駐輪場にまで腹が立つ。
「今日の秀平は、やっぱりおかしい。何をそんなにイラついてるんだよ」
「ごめん。寝不足なんだ」
「違う。活字と睨めっこしすぎだな。息抜きしろよ」
そう言って颯太は、雑誌の一面を目の前に突き出し、視界を奪った。
「……」
枯葉が緑を取り戻したかのように、ぼくの心に色が蘇る。
「マジかよ。顔が赤いぞ。一目惚れか?」
「そ、そんなわけないだろ」
颯太は正しい。薄い紙の向こうにいる『ヒビキ』がぼくの心を奪った。
もう、時間なんてどうでもいい。
「俺に感謝しろよぉ。『ヒビキ』を知らない高校生なんていないんだからな」
「うん。……その雑誌、借りてもいいかな」
「そうこなくっちゃ!たまには息抜きが必要だ」
「ありがとう」
手のひらで皺をそっと伸ばし鞄にしまった。
ガラガラと戸を引く音で様々な目が集まる。
初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。
「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」
チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。
「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」
スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。
初めて視線を浴びる側の気持ちを知ったが、思っていたほど大したことではなかった。
「新堂さん、牧村さん。遅刻の理由は、何ですか」
チョークを大袈裟に弄び、鋭い言葉を投げかけられる。
「ごめんなさい!チェーンが外れてしまったんです。新堂さんが手伝ってくれて助かりました」
スラスラと答えられる颯太を羨ましく思い、自分の貧弱さを再認識した。
黒板に陳列された文字など興味はない。
ノートの下へ隠した雑誌に集中する。
片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。
ドクドクと血液が急速に流れていく。
そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。
ノートの下へ隠した雑誌に集中する。
片目だけが赤い『ヒビキ』と目が合う。
ドクドクと血液が急速に流れていく。
そして、横に並ぶ文字が胸を刺した。
────あなたの、本当に見たいものが見えます。
私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。
私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした。
「同じ景色を見たい」
ぽつりとつぶやいた。
ぽつりとつぶやいた。
陽が傾き、落ち葉に二人の影が伸びている。
葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。
「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」
「予定あるの?」
「……ない」
「息抜きに付き合ってほしい」
「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」
ポジティブな颯太に感謝した。
本当は帰りたくないだけだ。
廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。
葉のせいなのだろうか、ぼくの形は歪んでいるように見えた。
「どこまで歩くんだよ。便利な乗り物があるんだからさ、ペダルを漕ごうぜ」
「予定あるの?」
「……ない」
「息抜きに付き合ってほしい」
「仕方ないなぁ。たまには季節を肌で感じるのもいいかもな」
ポジティブな颯太に感謝した。
本当は帰りたくないだけだ。
廊下を響かせた音の正体を目で確かめる勇気がない。
「颯太、本当に見たいものってある?」
「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」
「幽霊かもしれないね」
街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。
「ウケる。『ヒビキ』に影響されてるな。俺、頭悪いから意味が理解できない。見たいものって心霊的なこと?それとも未来?」
「幽霊かもしれないね」
街を歩く人たちの表情までが、明るくなるほどの声を風にのせた。
笑い方を思い出させてくれた。
ぼくは颯太に支えられていた。
ぼくは颯太に支えられていた。
「……聞いてほしいことがあるんだ」
声色を下げ、兄のことを話した。
「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」
ぼくの考えは間違っていなかった。
「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」
「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」
犬が吠えるほどの笑い声が響く。
颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。
「また、明日な」
ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。
声色を下げ、兄のことを話した。
「俺が兄貴だったらよかったな。一人っ子が言っても説得力がないけどさ、守るものがあるってことは自分の存在価値になると思うんだ」
ぼくの考えは間違っていなかった。
「生まれ変わったら、兄貴になってほしいよ」
「おーい!恋人同士みたいで、少し気持ちが悪いです」
犬が吠えるほどの笑い声が響く。
颯太に打ち明けたことで、心のざわつきが一瞬、消えた気がした。
「また、明日な」
ペダルを漕ぐ姿をいつまでも見ていたかった。
残酷にも現実は変わらない。
ならば、ぼくが変わるしかない。
ならば、ぼくが変わるしかない。
「ただいま」
ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。
帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。
「ただいまぁ」
もう一度、言う。
しかし『おかえりなさい』が返ってこない。
自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。
「……血?」
点々と赤色が床を汚している。
いや、黄色の塊もだ。
一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。
「お、お母さん?」
覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。
白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。
「どうしたの!」
「……秀ちゃん、おかえりなさい」
鼻の下には乾いた赤色が付いている。
手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。
「転んだの」
瞬きせず黄色い物体だけを見ている。
「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」
「本当に自分で転んだの」
「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」
庇っていることが許せなかった。
「……やめて。そんな言い方しないで!」
脳が揺れるほど髪を振り乱している。
「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」
ポタポタと透明の雫が床を濡らす。
「秀ちゃんは、いい子……でしょ」
ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。
それ以上、何も言い返すことができなかった。
流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。
ポケットに箱の存在を確認し、右足から靴を脱ぐ。
帰宅時間が遅い理由を必死に考えていたが、無意味だった。
「ただいまぁ」
もう一度、言う。
しかし『おかえりなさい』が返ってこない。
自室に駆け込みたい気持ちを鎮め、静かすぎるキッチンに足を向けた。
「……血?」
点々と赤色が床を汚している。
いや、黄色の塊もだ。
一番奥にある椅子の脚元に、人が座っている。
「お、お母さん?」
覗き込むと、流し台に背を預けたお母さんがいた。
白かったはずのネグリジェは、ミミズが這うように赤色の筋を付けている。
「どうしたの!」
「……秀ちゃん、おかえりなさい」
鼻の下には乾いた赤色が付いている。
手の甲で拭おうとしているが、カピカピしていて変化がない。
「転んだの」
瞬きせず黄色い物体だけを見ている。
「嘘つかないで。ぼく、聞いたんだ。大きなドアの音を」
「本当に自分で転んだの」
「絶対に嘘だ!お兄ちゃんだろ!」
庇っていることが許せなかった。
「……やめて。そんな言い方しないで!」
脳が揺れるほど髪を振り乱している。
「あんたまで逆らうの?一体、何が悪いのよ。黙って私の言うことを聞いてればいいの!」
ポタポタと透明の雫が床を濡らす。
「秀ちゃんは、いい子……でしょ」
ぼくを見るお母さんは、腫れた瞼で微笑む仮面をつけていた。
それ以上、何も言い返すことができなかった。
流し台へかけた手にグッと力を入れ、ゆっくりと立ち上がったお母さんを残し洗面所に向かった。
自分の力で変わろうとしたのに、無理だった。
赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。
赤色の目になれば、いい子は悪い子になれる。
右目の瞼を無理やり広げ、希望の色をしたコンタクトを黒い瞳にピタっと乗せた。
「冷たいな」
心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。
変身の瞬間を知るものは誰もいない。
「冷たいな」
心と反対の温度をぼくの瞳で感じた。
変身の瞬間を知るものは誰もいない。
自室に戻りカーテンを掴み、窓から見える枯葉たちを哀れに思った。
緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。
「価値がない奴は消えればいい」
ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。
「秀ちゃん……」
柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。
「開けないで」
「お夕飯、できたわよ」
「……」
「待ってるわね」
一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。
ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。
緑へ変身できず、誰にも必要とされなくなるのだから。
「価値がない奴は消えればいい」
ワイシャツをベッドに放り投げ、そのまま体も預ける。
「秀ちゃん……」
柔らかな小さな声がドアの向こうから聞こえる。
「開けないで」
「お夕飯、できたわよ」
「……」
「待ってるわね」
一体、何枚の仮面を付け替えているのだろう。食欲など皆無だ。
ぼくはこの夜、初めてそのまま夢の中の住人となった。
────ジリリリ。
聞いたことない音が耳に入り込み、目覚まし時計だと認識するのに数秒を要した。
『私が見えた景色は、変わらないと信じていたものでした』
ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。
「少しずつ近づいているのかな」
枕の位置なんて、どうでもいい。
それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。
ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。
「ご飯、食べてないでしょ」
「……昨日の」
「そうよ」
一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。
「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」
いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。
「いらない」
尖った視線を送った。
ヒビキの言葉が脳裏に浮かぶ。
「少しずつ近づいているのかな」
枕の位置なんて、どうでもいい。
それなのに、空き箱を無くしたことを気にしている。
ガチャと取っ手を引き、キッチンに行くとテーブルには乾いたものたちが並んでいる。
「ご飯、食べてないでしょ」
「……昨日の」
「そうよ」
一度破っただけで、ぼくはもういい子ではなくなる。
「捨てるなんて、可哀想だと思わない?」
いい子を失ってしまう自分が、可哀想なだけだ。
「いらない」
尖った視線を送った。
────丸い瞳がパリンと割れた気がした。
玄関の前に立ち、二つピッタリと寄り添うスニーカーを見つめる。
一段足を下ろすと、ひんやりとした。
「いい子ぶりやがって」
右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。
「揃わないと価値がないくせに」
一段足を下ろすと、ひんやりとした。
「いい子ぶりやがって」
右から履けと言われている気がして、離ればなれにしてやった。
「揃わないと価値がないくせに」
────ピーピー、ピ。
「来た」
「来た」
反射的にクルリと背を向け、駆け上がる。
……貧弱なぼくが顔を出したのだ。
毛布を被り、息を整える。
『……殺されたいのか!』
また悪い子が喚いている。
「お前がいなくなればいい」
価値のないやつなのだから。
……貧弱なぼくが顔を出したのだ。
毛布を被り、息を整える。
『……殺されたいのか!』
また悪い子が喚いている。
「お前がいなくなればいい」
価値のないやつなのだから。
────ピーピー、ピ。
違和感を確かめるために、両方のカーテンを開ける。
顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。
顔の描かれた紙を数えながら口笛を鳴らす兄の姿があった。
カーペットに足跡をつけるほどの勢いでベッドから飛び降りた。
聞き耳を立て、そっと階段を降りる。
「仕方ないじゃない」
「出ていってもらう。このままだと、あいつに全てを食い潰される」
「あなた……本当に父親なの?」
「言いなりになるのが親ではない」
「正信がいないと」
細く震えた声が胸をざわつかせる。
聞き耳を立て、そっと階段を降りる。
「仕方ないじゃない」
「出ていってもらう。このままだと、あいつに全てを食い潰される」
「あなた……本当に父親なの?」
「言いなりになるのが親ではない」
「正信がいないと」
細く震えた声が胸をざわつかせる。
「生きて……いけないの!」
ぐちゃ。
体内で異音がした。
体内で異音がした。
「……お前。秀平が可哀想だろ」
「いい子じゃないなら……いないの」
「いい子じゃないなら……いないの」
ぐちゃ、ぐちゃ。
『ヒビキ、ぼく見えたよ』
『ヒビキ、ぼく見えたよ』
もう、なにも聞こえなかった。
カーテンの一点が淡い光を照らす。
ぼくは家の音に敏感だ。
静かにドアを閉め廊下に出た。
ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。
取っ手を握り、下に体重をかけた。
ぼくは家の音に敏感だ。
静かにドアを閉め廊下に出た。
ゆっくりと角を曲がり寝室の前で足を止める。
取っ手を握り、下に体重をかけた。
────赤い目だけを覗かせる。
まるで歓迎しているかのようにお父さんは、天井に顔を向け規律が守られた呼吸をしている。
ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。
ぼくは音を立てない猫のように腹の上へ滑り込み、血液を送り出す臓器をめがけて振り下ろした。
グニャリ。
左手も添え、二つの力を一つにする。
刃が体内の奥へ侵入していく。
解放された血液たちは二度と戻れない。
「……誰だ」
温かいものがぼくの内ももに伝わる。
「……に、逃げろ!」
目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。
赤い噴水は月明かりに照らされる。
左手も添え、二つの力を一つにする。
刃が体内の奥へ侵入していく。
解放された血液たちは二度と戻れない。
「……誰だ」
温かいものがぼくの内ももに伝わる。
「……に、逃げろ!」
目を見開き、喉元がミミズのように蠢いた。
赤い噴水は月明かりに照らされる。
右目が影を捕らえる。
「おかあさん、どこいくの」
床につけていた手足が止まる。
「秀……ちゃん?」
「ちがう。わるいこ」
赤い花びらが舞う。
「おかあさん、どこいくの」
床につけていた手足が止まる。
「秀……ちゃん?」
「ちがう。わるいこ」
赤い花びらが舞う。
────『キレイ』だなと思った。
ポケットにある銀色の丸みを撫でる。
『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。
『ヒビキ』と同じ景色を見ようと思う。
────ピーピー、ピ。
来た。もう、逃げない。
来た。もう、逃げない。