1 未知との遭遇
ー/ー 今日は6月の――何日かは忘れてしまった。
とにかく、『契約』が成される日だ。
それなのに。
どんよりとした雨雲が広がる空の下。
児童養護施設『すこやか園』の屋上では――善夜がフェンスに追い詰められていた。
「お前ふざけてんのか!?」
職員の高橋が、勢いよく彼女の頬を張った。
身体が吹っ飛び、背中がフェンスを鳴らす。
頬の内側から広がる、かすかな鉄の味。
自分を取り囲む児童たちが、クスクスと笑っている。
「どれだけ問題起こせば気が済むんだ!? 毎日毎日俺を走らせやがって……」
もちろん、問題を起こした覚えはない。
児童たちによって突然、屋上に呼び出されたのだ。
もしかして……――と思ったのに。
期待に胸を膨らませてついて行ったら、酷い目に遭った。
心身への暴力は日常茶飯事だったが、今回はいつも以上に激しい。
顔も身体も、あちこちがズキズキと痛む。
着ているセーラー服も、更にボロボロで埃まみれになってしまった。
ジンジンと痛む頬に手をやったまま、善夜は肩を落とした。
(やっぱり……嘘だったのかな)
あんな手の込んだものを用意してまで、自分を騙して楽しみたかったのだろうか。
まんまと引っかかってしまった自分に、顔が熱くなった。
不意に吹きつけた突風が、スカートと亜麻色の髪を乱暴になびかせていく。
屋上の砂と埃が巻き上がる。
思わず顔を背ければ――園庭で、児童と職員が楽しそうに笑い合っている。
これだけの騒ぎなのに、自分を見る者は誰もいない。
そう感じた瞬間、胸の奥がスッと軽くなった。
残っていた希望や期待が消えて、空っぽになったような感覚だ。
「……もう、いいです」
ポツリと出た声は、思ったよりも穏やかだった。
善夜がフェンス側に向き直ると、どよめきが起こる。
「おいおいおい……」
「まじかよ!?」
「本気なの……!?」
動揺の言葉が聞こえるが、止めに来る者はいない。
止められたとしても、振り切って飛び降りるつもりだが。
彼女は最初から決めていた。
あと1つだけ――この『契約』が叶わなければ、ここで終わらせようと。
最後の最後にダメモトで試した、小さな希望。
その結果は、単なるイタズラだった。
よく考えればそんなウソみたいなこと、起こるはずないのに。
それなのに、真剣に願い事を書いて、丁寧にサインして……
「……ふふっ……」
自分でもバカみたいで、思わず口から笑いがこぼれる。
ふと見上げた空には、鳩が独りぼっちで翼を広げていた。
その視界が少しずつ、溶けるように滲んでいく。
区切りをつけたつもりだったが――やっぱり悔しいし、悲しい。
自分の一生が、虐げられただけで終わるなんて。
いつの間にか、児童や高橋の声が聞こえてこなくなっていた。
自分が飛び降りるのを、息を潜めて待っているのかもしれない。
だったらお望みどおり、死んでやる。
善夜は涙を拭った指をフェンスにかけ――
「……え……?」
まばたきを2回してみたが、鳩はまだそこにいた。
先ほどと変わらず、翼を広げたまま。
「……あれ……?」
彼女はここで気が付いた。
高橋や児童たちの声、風の音、町のざわめき。
今まで聞こえていた音が、全て消えていることに。
音だけではない。風も止んでいた。
まるで世界が、動きを止めたかのように。
「――時間固定、無事完了しました」
「!!?」
突如落ちてきた聞き覚えのない男の声に、善夜はびくりと肩をこわばらせた。
落ち着いたトーンでありながらも、意志のこもった低い声。
「そうですね……今のところ気配はありません」
淡々とした声は、誰かと話しているようだった。
周囲を見回すも、視界に声の主らしき人物は入ってこない。
高橋と児童たちも、先ほどと変わらぬ好奇と侮蔑のこもった目をこちらに向けて立っている。
驚いた者は大きな口を開けたまま。
楽しそうにこちらを見ている者はまばたき一つせず。
誰一人、ピクリとも動かない。
(何が……どうなってるの……?)
人も、動物も、町さえも。
男の声が言ったように――この世界の時間が固定されたみたいだった。
「――ひっ……!?」
善夜は再び肩を弾ませた。
背中に風が逆流する感覚が生まれたからだ。
「……はい、問題ありません」
すぐ後ろで、例の男の声が聞こえる。
「すでに確保しています」
恐怖心と好奇心がせめぎ合うようにゆっくりと。
振り返った善夜の目が、大きく見開かれた。
「……!……!」
そこに、見知らぬ男が立っていた。
ショートにしては伸び気味の黒髪。黒いスーツ。
二十代半ばから三十代前半ぐらいか。端正ではあるものの、逆に言えば特徴のない顔立ちで年齢が見えない。
彼はいったい、何者なのだろうか――と、考え始めた矢先。
(……もしかして、この人が……!)
思い至った、その途端――荒れ地に雨が降り、緑が芽吹き花が咲くように。
彼女の心に驚きと興奮、喜びが湧き上がってきた。
目が合った。
前髪から覗く切れ長の目――闇色の瞳が、無感情にこちらを見下ろしている。
彼は折り畳み式の黒い端末を耳に当てたまま、静かに言った。
「――では、公務執行に入ります」
とにかく、『契約』が成される日だ。
それなのに。
どんよりとした雨雲が広がる空の下。
児童養護施設『すこやか園』の屋上では――善夜がフェンスに追い詰められていた。
「お前ふざけてんのか!?」
職員の高橋が、勢いよく彼女の頬を張った。
身体が吹っ飛び、背中がフェンスを鳴らす。
頬の内側から広がる、かすかな鉄の味。
自分を取り囲む児童たちが、クスクスと笑っている。
「どれだけ問題起こせば気が済むんだ!? 毎日毎日俺を走らせやがって……」
もちろん、問題を起こした覚えはない。
児童たちによって突然、屋上に呼び出されたのだ。
もしかして……――と思ったのに。
期待に胸を膨らませてついて行ったら、酷い目に遭った。
心身への暴力は日常茶飯事だったが、今回はいつも以上に激しい。
顔も身体も、あちこちがズキズキと痛む。
着ているセーラー服も、更にボロボロで埃まみれになってしまった。
ジンジンと痛む頬に手をやったまま、善夜は肩を落とした。
(やっぱり……嘘だったのかな)
あんな手の込んだものを用意してまで、自分を騙して楽しみたかったのだろうか。
まんまと引っかかってしまった自分に、顔が熱くなった。
不意に吹きつけた突風が、スカートと亜麻色の髪を乱暴になびかせていく。
屋上の砂と埃が巻き上がる。
思わず顔を背ければ――園庭で、児童と職員が楽しそうに笑い合っている。
これだけの騒ぎなのに、自分を見る者は誰もいない。
そう感じた瞬間、胸の奥がスッと軽くなった。
残っていた希望や期待が消えて、空っぽになったような感覚だ。
「……もう、いいです」
ポツリと出た声は、思ったよりも穏やかだった。
善夜がフェンス側に向き直ると、どよめきが起こる。
「おいおいおい……」
「まじかよ!?」
「本気なの……!?」
動揺の言葉が聞こえるが、止めに来る者はいない。
止められたとしても、振り切って飛び降りるつもりだが。
彼女は最初から決めていた。
あと1つだけ――この『契約』が叶わなければ、ここで終わらせようと。
最後の最後にダメモトで試した、小さな希望。
その結果は、単なるイタズラだった。
よく考えればそんなウソみたいなこと、起こるはずないのに。
それなのに、真剣に願い事を書いて、丁寧にサインして……
「……ふふっ……」
自分でもバカみたいで、思わず口から笑いがこぼれる。
ふと見上げた空には、鳩が独りぼっちで翼を広げていた。
その視界が少しずつ、溶けるように滲んでいく。
区切りをつけたつもりだったが――やっぱり悔しいし、悲しい。
自分の一生が、虐げられただけで終わるなんて。
いつの間にか、児童や高橋の声が聞こえてこなくなっていた。
自分が飛び降りるのを、息を潜めて待っているのかもしれない。
だったらお望みどおり、死んでやる。
善夜は涙を拭った指をフェンスにかけ――
「……え……?」
まばたきを2回してみたが、鳩はまだそこにいた。
先ほどと変わらず、翼を広げたまま。
「……あれ……?」
彼女はここで気が付いた。
高橋や児童たちの声、風の音、町のざわめき。
今まで聞こえていた音が、全て消えていることに。
音だけではない。風も止んでいた。
まるで世界が、動きを止めたかのように。
「――時間固定、無事完了しました」
「!!?」
突如落ちてきた聞き覚えのない男の声に、善夜はびくりと肩をこわばらせた。
落ち着いたトーンでありながらも、意志のこもった低い声。
「そうですね……今のところ気配はありません」
淡々とした声は、誰かと話しているようだった。
周囲を見回すも、視界に声の主らしき人物は入ってこない。
高橋と児童たちも、先ほどと変わらぬ好奇と侮蔑のこもった目をこちらに向けて立っている。
驚いた者は大きな口を開けたまま。
楽しそうにこちらを見ている者はまばたき一つせず。
誰一人、ピクリとも動かない。
(何が……どうなってるの……?)
人も、動物も、町さえも。
男の声が言ったように――この世界の時間が固定されたみたいだった。
「――ひっ……!?」
善夜は再び肩を弾ませた。
背中に風が逆流する感覚が生まれたからだ。
「……はい、問題ありません」
すぐ後ろで、例の男の声が聞こえる。
「すでに確保しています」
恐怖心と好奇心がせめぎ合うようにゆっくりと。
振り返った善夜の目が、大きく見開かれた。
「……!……!」
そこに、見知らぬ男が立っていた。
ショートにしては伸び気味の黒髪。黒いスーツ。
二十代半ばから三十代前半ぐらいか。端正ではあるものの、逆に言えば特徴のない顔立ちで年齢が見えない。
彼はいったい、何者なのだろうか――と、考え始めた矢先。
(……もしかして、この人が……!)
思い至った、その途端――荒れ地に雨が降り、緑が芽吹き花が咲くように。
彼女の心に驚きと興奮、喜びが湧き上がってきた。
目が合った。
前髪から覗く切れ長の目――闇色の瞳が、無感情にこちらを見下ろしている。
彼は折り畳み式の黒い端末を耳に当てたまま、静かに言った。
「――では、公務執行に入ります」
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