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抜こうとて 指をこぼるる柔き棘
心に刺さりて 夜を更かしぬ
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都会の片隅、古いアパートの三階にその店はある。看板はない。ただ、夜が深まると窓から琥珀色の灯りが漏れるだけだ。
僕はその夜、左手の人差し指に違和感を覚えて階段を上がった。棘が刺さったのだ。目に見えないほど細く、けれど確かに神経を逆撫でする、柔らかな棘が。
「おや、それは『追憶の棘』ですね」
店主の老人は、僕の指先をルーペで覗き込んで言った。
この店は、身体に刺さった「形のないもの」を抜く専門店だ。
「抜こうとしたでしょう?」
「ええ。でも、なかなかうまくいきません。掴もうとすると、するりと逃げるんです」
老人は頷き、真鍮のピンセットをアルコールランプで炙った。
「それはそうです。この棘は、あなたが忘れたくないと願った言葉や、誰かの体温からできている。無理に抜こうとすれば、より深く、心の方へと逃げていく」
老人の言葉通り、棘は指先から腕を伝い、今は胸のあたりでチリチリと熱を持っている。
処置は簡単だった。老人が差し出したのは、銀色の小さな針ではなく、一杯の温かいカモミールティーだった。
「今夜は、その棘と夜を更かしてください。抜く必要はありません。溶けるのを待つのです」
僕は釈然としないまま自宅に戻った。
ベッドに入ると、棘の場所がはっきりとわかった。それは今日、街角ですれ違ったかつての恋人の、名前を呼びかけて飲み込んだ瞬間の痛みだった。
抜こうとして指をこぼれたあの感触。拒絶されたのではなく、自分から手放せなかった記憶。
暗闇の中で、僕は自分の胸に手を当てた。
刺さっているのは、痛みという名の優しさだ。
夜が更けるにつれ、棘は少しずつ、けれど確実に僕の心に馴染んでいった。それはもう「異物」ではなかった。
翌朝、目が覚めたとき、指先の違和感は消えていた。
けれど、心臓の奥がほんの少しだけ重い。
それは、僕が一生かけて持ち歩くことに決めた、目に見えない輝きだった。
*日記風雑感*
棘、刺さると意外に取れにくい。
刺抜き、って家にあったかなー。
バラの棘なんかはまだ「いたっっ」
はあるけど、刺さって抜けないほどまでにはならないから……
むしろ、他の草木のちっさい棘が危ない。
いつの間に?
通りすがりにやられたーが。
小さくて、でも、威力はあるんだよなあ……