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(十)

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 その後夫婦は、息も絶え絶えに追いかけてきた錦児を伴い、三人揃って屋敷へと帰った。
 だが林冲は、決して消えぬ怒りの炎に身を任せ、抜き身の短剣を手に樊楼へと引き返した。当然のように、そこに陸謙の姿はなかった。
 剣を手に、獣のような目で街を彷徨う禁軍教頭の姿を目にした人々がいったいどう思うかなど、考えもしなかった。
 陸謙の屋敷へと再び足を向ければ、周りの家々は、林冲が暴れ回る音を聞いてすっかり怯えた様子で門を閉め切り、人の姿は見当たらない。
 やがて空が紫紺に包まれ、星が瞬き、太陽が再び姿を現すまで、林冲は陸謙の家の前に立ち続けた。
 帰ってこないことなど、わかっていた。もう二度と己の前に、あの気の抜けたような笑顔を浮かべて現れようとしないことなど、千も万も承知していた。
 「あなた……ねえ、私はこうして何事もなく済んだのよ。謙兄さん、いいえ、陸謙がどんなことを企んでいたとしても、失敗したの。だからもう、思い詰めないで。身体がおかしくなってしまうわ」
 それから三日間、ろくに飯も食わず酒も飲まず、ただ幽鬼の如く屋敷の中を歩き回る己の様子に耐えかねた妻は、何かとなだめすかしたが、それでも身の内に渦巻く嵐は収まらなかった。
 「真娘、俺は……俺は、己が許せないのだ。二度までもお前を危険な目に遭わせておきながら、あの若造を殴ることさえできなかった。おまけに、生まれたときから兄弟のように育った男の裏切りを見抜くこともできず……何が友だ、何が兄弟だ。誓ったのだ、あいつは内から、俺は外から、義のために……二人なら……それを、あいつは、高俅が、あの忌まわしい高一族が怖くなって、こうして俺を騙して、お前を売ろうとした。絶対に許さん!」
 その夜、妻は何も言わず、ただ林冲の背をさすり続けた。
 そうして林冲が家にこもりきりとなり四日目を迎えた昼、岩のような拳で軽快に門扉を叩き、獅子のような声で己を呼びながら、花和尚が姿を見せた。
 「おい弟、俺だ、智深だ」
 「兄貴……」
 からっと晴れた夏の日を思わせるその声に、久方ぶりに林冲の顔に血の気が戻ってくる。
 「兄貴、お久しぶりです。今日はいかがされた」
 「いかがも何も、以前会ってからもう随分立つではないか。毎日子分どもの相手だけでは物足りず、お前と話がしたくて、こうしてやってきたのだ。お前こそ、どうかしたのか。食いすぎて腹でも痛めたか?」
 あの日、友だった男もこうして訪ねてきたのだ、と胸の内に鈍い痛みを覚えながら、林冲は弱々しく微笑んだ。
 「兄貴じゃあるまいし、そんなことで体を壊しはせぬ。ばたばたとしていて、お目にかかることができず面目ない。でも、こうしてせっかくまたお会いできたのだから、ぜひ一杯飲みに行きましょう……どこか、店へ」
 今日は、娘夫婦に起こった事件を聞きつけた舅が、朝から家に来てくれている。鬱々とこもりきりの己を妻も心配していたし、久しぶりに外の空気を吸いに行くのも良いだろう。
 「はは、それはいい! さ、行くぞ、兄弟」
 智深と出かけることを告げれば、どこか安心したような顔で頷いた妻を舅に預け、林冲は智深と肩を並べて歩き出した。
 「弟よ、本当にどこか悪いのではあるまいな。大根のような顔色だ。おまけに少し、痩せたようだぞ」
 「兄貴、お気遣いありがとう。だが、体は無事なのだ……このことは、静かなところで話そう」
 樊楼も、高俅の屋敷の近くも避け、東水門(とうすいもん)の近くの路地裏にひっそり佇む酒店に足を運ぶ。
 数席しかないこじんまりとした店だが、極上の銘酒を揃えており、一人になりたいときによく訪れる。小さな池を囲む庭が見渡せる席は、陸謙にさえ教えなかった特等席であった。
 「さすが都育ちだ、風情のある店を知っている」
 物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回していた智深も、なんとも言えぬ良い香りの酒と肉が運ばれてきたとたん、牛のように鼻をひくつかせ、雷のように腹を鳴らした。
 「実は今日は起きるのが遅く、まだ何も食っていないのだ」
 「では、兄貴から」
 盃を打ち合わせれば、待っていたとばかりに肉にかぶりつく智深の豪快な様を見ていると、もはや城壁の如く厚みを増した心中の曇に、ひとつ小さな穴が空くような心地があった。
 「先日、高衙内が俺の妻に手を出そうとしたのを覚えているか」
 「ああ、助平の畜生の馬鹿野郎のことだな」
 「そいつがまた、俺の妻を狙ったのだ。おまけに、俺の幼なじみだった男を抱き込んで、俺を騙してな」
 事の次第を語るうちに、みるみると智深の顔が真っ赤になっていき、ついにはすっかり骨ばかりになった皿を割らんばかりに卓に打ち付けた。
 「色魔の畜生のあんぽんたんめ! 俺の弟と妹に手を出そうとは、いい度胸だ! 今すぐくびり殺してやる!」
 「ま、待ってくれ兄貴、落ち着いて」
 立ち上がり、髭やら眉毛やら全身の毛を逆立てて怒りを露わにする智深の姿はさながら閻魔のようで、このままでは何の関係もないこの店まで壊しかねないと、林冲はあわてて智深の両肩を押さえて座らせた。
 「結局、妻は何ごともなかった。二度も俺に計略を阻まれては、高衙内も、もう手出しはして来るまい。俺の婚礼の時には、高俅も自ら足を運び祝儀の品を携えてきたくらいだ。これ以上騒ぎを大きくすれば、養父の顔に泥を塗ることになることくらい、さすがの高衙内もわかっていよう。己への不甲斐なさも怒りもあるが……俺があの若造を殴らなかったことで、高俅の顔も立った。この上、兄貴にまで累が及んでは」
 「兄だからこそ、こうして腹を立てるのだ! 弟を侮辱するは、この俺を侮辱するも同じ。妹に害をなそうとするは、この俺に害をなそうとするも同じこと」
 肩に置いた手は、いつのまにか、智深の熱い拳の中に握り込まれた。さすがの膂力に、骨がきしむ。
 「いいか林冲、次こそ、お前たち夫婦に手を出す者がいたら、俺に言うんだ。たとえ役人だろうが、太尉だろうが、皇帝だろうが、俺の知ったことではないわ!」
 「わかった、わかったよ兄貴、兄貴の情義に、俺は心を打たれた。今日はとことん付き合ってくれ」
 「そうだ、それでこそ好漢だ。お前の足下にも及ばない糞野郎のことなぞ、酒を飲んで忘れてしまえ。そして明日からは、ちゃんと外へ出ろ。今のお前は、大根どころか干し菜のようだ」
 つばを飛ばして檄を叫ぶ義兄弟を見ている内、知らず、こわばっていた顔がほどけてゆく。
 思えば不思議なものだ。三十年も隣にいた男より、出会って十日も経たぬ男のほうが、己の心に深く恩義を刻むとは。
 「さすがは菜園番だ、野菜の話が次々出てくる」
 「ハハ、実はな、畑仕事も悪くないと思い始めて、子分や農夫に混じって、俺も土をいじり始めた」
 「それで、以前会ったときよりさらに日に焼けているのだな」
 「お前も一緒にやってみるか?」
 「では、明日から毎日、調練の後に兄貴の畑に行って、酒を飲みながら眺めるとしよう」
 「何だと? 見ているだけで済むと思うなよ」
 笑い声をあげたのは、久しぶりだった。
 この陽気な大男の前では、鬱々としているほうが難しい。
 「なあ、林冲、毎日来い。話したいことは、山のようにあるのだ」
 「わかったよ兄貴。畑も……少しならば、手伝おう」
 その日からは、調練を終えた後、智深の菜園に赴くことが日課となった。
 あるときは菜園の番屋で、ある時は店で、ある時は林冲の家で、毎日酒を酌み交わし愉快に笑い合ううちに、あの日の狂おしいほどの怒りは少しずつ薄れていった。
 元気を取り戻した夫を見て、妻は、私の言葉さえ三日かかっても聞き入れなかったのに、と口を尖らせながら、それでも嬉しそうに微笑んでいた。
 失いかけた平穏な日々が、再び戻ってきたのだと、林冲は信じた。
 信じることしか、できなかった。



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 その後夫婦は、息も絶え絶えに追いかけてきた錦児を伴い、三人揃って屋敷へと帰った。 だが林冲は、決して消えぬ怒りの炎に身を任せ、抜き身の短剣を手に樊楼へと引き返した。当然のように、そこに陸謙の姿はなかった。
 剣を手に、獣のような目で街を彷徨う禁軍教頭の姿を目にした人々がいったいどう思うかなど、考えもしなかった。
 陸謙の屋敷へと再び足を向ければ、周りの家々は、林冲が暴れ回る音を聞いてすっかり怯えた様子で門を閉め切り、人の姿は見当たらない。
 やがて空が紫紺に包まれ、星が瞬き、太陽が再び姿を現すまで、林冲は陸謙の家の前に立ち続けた。
 帰ってこないことなど、わかっていた。もう二度と己の前に、あの気の抜けたような笑顔を浮かべて現れようとしないことなど、千も万も承知していた。
 「あなた……ねえ、私はこうして何事もなく済んだのよ。謙兄さん、いいえ、陸謙がどんなことを企んでいたとしても、失敗したの。だからもう、思い詰めないで。身体がおかしくなってしまうわ」
 それから三日間、ろくに飯も食わず酒も飲まず、ただ幽鬼の如く屋敷の中を歩き回る己の様子に耐えかねた妻は、何かとなだめすかしたが、それでも身の内に渦巻く嵐は収まらなかった。
 「真娘、俺は……俺は、己が許せないのだ。二度までもお前を危険な目に遭わせておきながら、あの若造を殴ることさえできなかった。おまけに、生まれたときから兄弟のように育った男の裏切りを見抜くこともできず……何が友だ、何が兄弟だ。誓ったのだ、あいつは内から、俺は外から、義のために……二人なら……それを、あいつは、高俅が、あの忌まわしい高一族が怖くなって、こうして俺を騙して、お前を売ろうとした。絶対に許さん!」
 その夜、妻は何も言わず、ただ林冲の背をさすり続けた。
 そうして林冲が家にこもりきりとなり四日目を迎えた昼、岩のような拳で軽快に門扉を叩き、獅子のような声で己を呼びながら、花和尚が姿を見せた。
 「おい弟、俺だ、智深だ」
 「兄貴……」
 からっと晴れた夏の日を思わせるその声に、久方ぶりに林冲の顔に血の気が戻ってくる。
 「兄貴、お久しぶりです。今日はいかがされた」
 「いかがも何も、以前会ってからもう随分立つではないか。毎日子分どもの相手だけでは物足りず、お前と話がしたくて、こうしてやってきたのだ。お前こそ、どうかしたのか。食いすぎて腹でも痛めたか?」
 あの日、友だった男もこうして訪ねてきたのだ、と胸の内に鈍い痛みを覚えながら、林冲は弱々しく微笑んだ。
 「兄貴じゃあるまいし、そんなことで体を壊しはせぬ。ばたばたとしていて、お目にかかることができず面目ない。でも、こうしてせっかくまたお会いできたのだから、ぜひ一杯飲みに行きましょう……どこか、店へ」
 今日は、娘夫婦に起こった事件を聞きつけた舅が、朝から家に来てくれている。鬱々とこもりきりの己を妻も心配していたし、久しぶりに外の空気を吸いに行くのも良いだろう。
 「はは、それはいい! さ、行くぞ、兄弟」
 智深と出かけることを告げれば、どこか安心したような顔で頷いた妻を舅に預け、林冲は智深と肩を並べて歩き出した。
 「弟よ、本当にどこか悪いのではあるまいな。大根のような顔色だ。おまけに少し、痩せたようだぞ」
 「兄貴、お気遣いありがとう。だが、体は無事なのだ……このことは、静かなところで話そう」
 樊楼も、高俅の屋敷の近くも避け、|東水門《とうすいもん》の近くの路地裏にひっそり佇む酒店に足を運ぶ。
 数席しかないこじんまりとした店だが、極上の銘酒を揃えており、一人になりたいときによく訪れる。小さな池を囲む庭が見渡せる席は、陸謙にさえ教えなかった特等席であった。
 「さすが都育ちだ、風情のある店を知っている」
 物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回していた智深も、なんとも言えぬ良い香りの酒と肉が運ばれてきたとたん、牛のように鼻をひくつかせ、雷のように腹を鳴らした。
 「実は今日は起きるのが遅く、まだ何も食っていないのだ」
 「では、兄貴から」
 盃を打ち合わせれば、待っていたとばかりに肉にかぶりつく智深の豪快な様を見ていると、もはや城壁の如く厚みを増した心中の曇に、ひとつ小さな穴が空くような心地があった。
 「先日、高衙内が俺の妻に手を出そうとしたのを覚えているか」
 「ああ、助平の畜生の馬鹿野郎のことだな」
 「そいつがまた、俺の妻を狙ったのだ。おまけに、俺の幼なじみだった男を抱き込んで、俺を騙してな」
 事の次第を語るうちに、みるみると智深の顔が真っ赤になっていき、ついにはすっかり骨ばかりになった皿を割らんばかりに卓に打ち付けた。
 「色魔の畜生のあんぽんたんめ! 俺の弟と妹に手を出そうとは、いい度胸だ! 今すぐくびり殺してやる!」
 「ま、待ってくれ兄貴、落ち着いて」
 立ち上がり、髭やら眉毛やら全身の毛を逆立てて怒りを露わにする智深の姿はさながら閻魔のようで、このままでは何の関係もないこの店まで壊しかねないと、林冲はあわてて智深の両肩を押さえて座らせた。
 「結局、妻は何ごともなかった。二度も俺に計略を阻まれては、高衙内も、もう手出しはして来るまい。俺の婚礼の時には、高俅も自ら足を運び祝儀の品を携えてきたくらいだ。これ以上騒ぎを大きくすれば、養父の顔に泥を塗ることになることくらい、さすがの高衙内もわかっていよう。己への不甲斐なさも怒りもあるが……俺があの若造を殴らなかったことで、高俅の顔も立った。この上、兄貴にまで累が及んでは」
 「兄だからこそ、こうして腹を立てるのだ! 弟を侮辱するは、この俺を侮辱するも同じ。妹に害をなそうとするは、この俺に害をなそうとするも同じこと」
 肩に置いた手は、いつのまにか、智深の熱い拳の中に握り込まれた。さすがの膂力に、骨がきしむ。
 「いいか林冲、次こそ、お前たち夫婦に手を出す者がいたら、俺に言うんだ。たとえ役人だろうが、太尉だろうが、皇帝だろうが、俺の知ったことではないわ!」
 「わかった、わかったよ兄貴、兄貴の情義に、俺は心を打たれた。今日はとことん付き合ってくれ」
 「そうだ、それでこそ好漢だ。お前の足下にも及ばない糞野郎のことなぞ、酒を飲んで忘れてしまえ。そして明日からは、ちゃんと外へ出ろ。今のお前は、大根どころか干し菜のようだ」
 つばを飛ばして檄を叫ぶ義兄弟を見ている内、知らず、こわばっていた顔がほどけてゆく。
 思えば不思議なものだ。三十年も隣にいた男より、出会って十日も経たぬ男のほうが、己の心に深く恩義を刻むとは。
 「さすがは菜園番だ、野菜の話が次々出てくる」
 「ハハ、実はな、畑仕事も悪くないと思い始めて、子分や農夫に混じって、俺も土をいじり始めた」
 「それで、以前会ったときよりさらに日に焼けているのだな」
 「お前も一緒にやってみるか?」
 「では、明日から毎日、調練の後に兄貴の畑に行って、酒を飲みながら眺めるとしよう」
 「何だと? 見ているだけで済むと思うなよ」
 笑い声をあげたのは、久しぶりだった。
 この陽気な大男の前では、鬱々としているほうが難しい。
 「なあ、林冲、毎日来い。話したいことは、山のようにあるのだ」
 「わかったよ兄貴。畑も……少しならば、手伝おう」
 その日からは、調練を終えた後、智深の菜園に赴くことが日課となった。
 あるときは菜園の番屋で、ある時は店で、ある時は林冲の家で、毎日酒を酌み交わし愉快に笑い合ううちに、あの日の狂おしいほどの怒りは少しずつ薄れていった。
 元気を取り戻した夫を見て、妻は、私の言葉さえ三日かかっても聞き入れなかったのに、と口を尖らせながら、それでも嬉しそうに微笑んでいた。
 失いかけた平穏な日々が、再び戻ってきたのだと、林冲は信じた。
 信じることしか、できなかった。