忘却のアイロン、記憶の栞 前編
ー/ー もし、辛い記憶だけを選んで消せるクリーニング店があったら、あなたはそのドアを叩きますか? 誰もが抱える「忘れたい」という願いの先に、取り戻せない大切なものがあるとしたら……
ー※ー ー※ー ー※ー
クリーニング店『霧雨堂』のカウンター
で、櫂は古いメモ帳の最初の一ページをなぞっていた。そこには、消えかけた鉛筆の線だけが残っている。何を書こうとしたのかは、もう思い出せない。
物書きになる、という思いを胸に秘め、仕事の合間をぬって言葉を紡ぐことを考える。謎の多いこの店の店主は、しばしば物思いに耽る自分をそっとしておいてくれるのがありがたい、と彼は思う。
店主の振るうアイロンから、真っ白な蒸気が立ちのぼる。蒸気は、布に染みついた誰かの記憶を吸い上げ、天井の染みへと溶けていく。櫂はそれを「消える」とは書かず、ただ「薄くなる」とだけ、メモ帳に記した。
——忘れられた時、人はどうなるのだろう。
答えを言葉にしようとすると、いつも指先で逃げていく。櫂は、確かなことだけを書く癖があった。温度、重さ、匂い。感情の名前は、どれも嘘っぽく思えた。
ドアベルが鳴り、顔色の悪い女性が入ってきた。カウンターに置かれたのは、重たげなウールのマフラーだった。
「これに付いた記憶を……消してください」
裏切りの記憶だという。店主は何も言わず、今日は櫂にアイロンを渡した。櫂は頷き、蒸気を慎重に当てる。繊維の奥から、絡まった何かがほどけていくのを、指先で感じた。
作業が終わると、マフラーはふっくらと蘇り、女性は軽くなった足取りで店を出ていった。櫂はメモ帳に一行だけ書いた。
――蒸気。少し甘い匂い。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
もし、辛い記憶だけを選んで消せるクリーニング店があったら、あなたはそのドアを叩きますか? 誰もが抱える「忘れたい」という願いの先に、取り戻せない大切なものがあるとしたら……
ー※ー ー※ー ー※ー
クリーニング店『|霧雨堂《きりさめどう》』のカウンター
で、|櫂《かい》は古いメモ帳の最初の一ページをなぞっていた。そこには、消えかけた鉛筆の線だけが残っている。何を書こうとしたのかは、もう思い出せない。
物書きになる、という思いを胸に秘め、仕事の合間をぬって言葉を紡ぐことを考える。謎の多いこの店の店主は、しばしば物思いに耽る自分をそっとしておいてくれるのがありがたい、と彼は思う。
店主の振るうアイロンから、真っ白な蒸気が立ちのぼる。蒸気は、布に染みついた誰かの記憶を吸い上げ、天井の染みへと溶けていく。櫂はそれを「消える」とは書かず、ただ「薄くなる」とだけ、メモ帳に記した。
——忘れられた時、人はどうなるのだろう。
答えを言葉にしようとすると、いつも指先で逃げていく。櫂は、確かなことだけを書く癖があった。温度、重さ、匂い。感情の名前は、どれも嘘っぽく思えた。
ドアベルが鳴り、顔色の悪い女性が入ってきた。カウンターに置かれたのは、重たげなウールのマフラーだった。
「これに付いた記憶を……消してください」
裏切りの記憶だという。店主は何も言わず、今日は櫂にアイロンを渡した。櫂は頷き、蒸気を慎重に当てる。繊維の奥から、絡まった何かがほどけていくのを、指先で感じた。
作業が終わると、マフラーはふっくらと蘇り、女性は軽くなった足取りで店を出ていった。櫂はメモ帳に一行だけ書いた。
――蒸気。少し甘い匂い。