3時間目が終わった後は体育だったので、
藤城皐月は休み時間に印刷室に行けなかった。皐月は修学旅行のしおりの刷り上がりが気になっていた。
4時間目が終わった後も給食当番だから
江嶋華鈴の手伝いには行けなくて、皐月が印刷室に行けたのは給食後の掃除が終わった後だった。掃除を終え、皐月が印刷室に行くと華鈴が複合機の前で何か操作していた。
「まだ印刷終わってないの?」
「児童の分は全部終わった。今は先生方の分と、予備で少し余分に印刷してる」
「へぇ……。じゃあ、すぐに終わっちゃうね」
華鈴が複合機のボタンを押し、印刷が始まった。
「うん。刷り上がったしおりをクラス毎に分ける作業も終わったから、あとは残りを印刷して終わり。せっかく来てもらって悪いけど、藤城君はもうやることないよ」
この部屋に入ってから華鈴は一度も皐月と目を合わせていない。五年生の時、皐月はよく華鈴に落ち着きのない行動をたしなめられていたが、こんな冷たい対応はされたことはなかった。
「じゃあ印刷している間に、今日の委員会の打ち合わせでもしておく?」
「いつもそんなことしないのに……。今日の委員会はしおりの製本して、それで終わりでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「刷り上がったしおりは委員会をする理科室にまだ持って行けないから、この部屋に置いておくよ。私は印刷が終わったら教室に戻るから」
「そうか……」
「だから、ここは私だけで大丈夫。藤城君はみんなのところに遊びに行けばいいよ」
口調は険しくないが、ここまで華鈴は皐月の顔を全く見ようとしなかった。皐月はやんわりと避けられていることに少し腹が立ってきた。
皐月が今日、華鈴に怒られる理由はない。華鈴が怒っているとすれば、昨日の
入屋千智と二人で帰ったことくらいしか考えられない。あの時の華鈴はイライラしているように感じたからだ。
「江嶋さぁ、なんで話す時、俺の顔を見ないの?」
「……」
「まあいいや。今日の委員会は理科室から印刷室に移動してやるからな。その方が面倒がなくていいだろ。2組と3組の委員には俺から伝えておくから。黄木君には江嶋から伝えておいてくれ」
「うん」
「じゃあ、俺、行くわ」
皐月は言葉を発して、すぐに印刷室を出た。皐月の背中越しに華鈴が何かを言ったのはわかったが、何を言っていたのかは聞き取れなかった。何を言ったのかを確認する気もなかったので、聞こえないふりをした。
校庭では6年4組と3組がサッカーの試合をしていた。皐月はあまりサッカーが得意ではないので、積極的に加わりに行こうという気にはなれなかった。
教室に戻る気にもなれず、図書室で時間を潰す気にもなれない。皐月は昼休みが終わるまで、校庭の片隅の飼育小屋でぼ〜っと過ごすことにした。
飼育小屋には兎が2匹が飼われている。以前はチャボが4羽飼育されていたが、鳥インフルエンザの発生で鳥類の飼育が避けられるようになった。鶏舎を取り壊した分、兎の運動場が広くなり、兎が元気になったように見える。
皐月が飼育小屋に来た時は他に児童が一人もいなかった。2匹の兎の名はミルクとココアという。兎の男の子のココアは日陰で昼寝をしていて、女の子のミルクは巣穴を出たり入ったりして忙しそうだ。
飼育係のお世話がしっかりしているので、稲荷小学校の兎は2匹とも健康だ。飼育小屋は清潔に保たれていて、餌はいつも新鮮だ。
皐月は小屋のネットを掴みながら、野球のキャッチャーを真似てつま先立ちで深く腰を下ろした。もうこのまま昼休みが終わるまでずっとここにいようと思った。
雌兎のミルクを見ながら、印刷室でのことを思い返した。
皐月としては、せっかく華鈴と二人になれたのだから、もう少し華鈴と話をしたかった。修学旅行の話でもいいし、とりとめのない雑談でもいい。何なら昨日の千智のことで嫌味を言われても構わなかった。だが、さっきのように距離を置かれるのは面白くない。
華鈴と二人で下校した時や、華鈴の家に呼ばれて部屋に上げてもらった時、皐月は華鈴を異性として意識し、そして惹かれた。
タイミングが合えば、千智ではなく華鈴と付き合っている世界線もあったのかもしれないとさえ思った。形の良い一重瞼で、端正な顔立ちをしている華鈴は自分好みの顔立ちだ。華鈴は千智のように男子児童から人気があるわけではないが、千智と同じくらい華鈴も魅力的だ。
華鈴から皐月と距離を置くようになったのなら、それはそれでいいことではないかと考えてみた。
今の自分には恋愛関係になった相手が増え続けている。このままでは友人の
花岡聡に言われた「お前にかかわった女、みんな不幸になるじゃないか」が現実になりかねない。
実際、自分自身のことをロクな奴じゃないと思っている。聡の言葉は呪いのように、いつも心を刺し貫いている。
ならば華鈴とはこれ以上親しくならないで、友人としての関係で留めておくべきなのかもしれない。
自分なら華鈴のことを今以上に好きになったとしても、華鈴に依存することなく、気持ちを抑え込むことはできると思う。だが、華鈴が自分のことを好きになったとしたら、どうだろう。その気持ちに対して誠実に応えることはできないだろう。
飼育小屋の中で走り回っているミルクを見ていると、これ以上メランコリーに沈まなくてすむ。皐月にとって目の前の兎が救いになっている。
もの凄い勢いで穴に潜ったミルクが、ひょっこりと別の穴から顔を出した。ミルクが皐月の方を見て、目が合った。
ミルクが余りにもかわいくて、皐月は小屋の中に入ってミルクを抱きしめ、もふもふしたくなった。
(かわいいんだから、キュンとなるのは仕方がないよな……)
皐月には華鈴が何を思っていたのかはよくわからなかったが、負の感情を抑制していたことは伝わっていた。
それなのに皐月は自分の感情を抑えきれなかった。好きだという気持ちは抑えられるのに、怒りの感情を抑えられないのは間違っている。正しいのはこの逆だ。
皐月の背後に児童が集まって来た。低学年の女の子たちが兎を見に来たようだ。上級生がいると彼女たちも気を使うだろうと思い、皐月は飼育小屋を離れることにした。
(華鈴だって兎に負けないくらいかわいいのにな……)
皐月は少し離れたところで振り返り、遠くから飼育小屋の中の兎を見た。江嶋華鈴だけでなく、
入屋千智や
栗林真理、
及川祐希だって兎のようにかわいい。
(こんなの、みんな好きになるに決まってるじゃん)
皐月は再び飼育小屋にもどって、女の子たちと一緒に兎を見た。ちょうど雄のココアも目を覚まして、ミルクと一緒に小屋の中を走り回っていた。寝ている兎よりも元気に遊んでいる兎の方がかわいい。これは人も同じだ。
「ねえ、みんなって兎、好き?」
「好きー!」
皐月が女の子たちに聞くと、元気よく答えてくれた。この子たちも兎に負けないくらいかわいい。
「どうして兎のこと好きなの?」
「かわいいからー!」
「だよね〜。僕も兎ってかわいいから大好きだ」
今度こそ皐月は飼育小屋を離れた。もう後ろ髪を引かれる思いは何もなかった。