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プロローグ—— 境界線上の嚥下(エンゲ)

ー/ー



雨が降っていた。  それも、ただの雨ではない。  世界そのものを灰色に塗り潰し、輪郭を溶かしてしまうような、重く、冷たい鉛色の雨だ。

 放課後の教室。  時刻は18時を少し回ったところだというのに、窓の外は既に深夜のように暗い。  激しくガラスを叩く雨音だけが、静寂に包まれた校舎内を支配していた。

「……ねえ、ソウ。いい加減、帰ろうよ」

 脳髄の奥から、幼い声が響く。  鼓膜を震わせる空気の振動ではない。思考の海に直接波紋を広げるような、内なる声。

「……ああ。わかってる」

 俺、七夕 (たなばた そう)は、机に突っ伏していた体をゆっくりと起こした。  誰もいない教室。黒板には消し忘れた数式が白くこびりついている。  また、やってしまった。  居眠りをしていたわけではない。ただ、ぼんやりと雨を見ていただけだ。思考が霧散し、意識が現実と夢の境界を漂うような感覚。物心ついた頃から繰り返される、俺の悪い癖だ。

『ソウってば、最近ぼーっとしてる時間が増えてるよ。また別の世界の夢を見てた?』 「夢じゃないさ。ただの空想だ」

 俺はカバンを掴み、誰に聞かせるでもなく呟いた。  俺には「もうひとりの自分」がいる。  名前は――便宜上、リクと呼んでいる。  二重人格という病名で片付けられるのかもしれないが、俺たちの関係はもっと穏やかで、共生的だ。俺が表層意識、リクが深層意識。  成績はクラスの下の中。運動神経に至っては、体育のサッカーでボールを蹴ろうとして空振りし、足を捻挫するレベル。顔立ちも、集合写真に写ってもどこにいるか探されるほどに平凡。  そんな「何者でもない」俺にとって、このリクとの対話だけが、世界との唯一の接点だった。

 廊下に出ると、湿ったカビの臭いと、床用ワックスの臭いが混ざり合った独特の空気が鼻をつく。  蛍光灯が一本、チカチカと点滅を繰り返していた。

『……なんか、変だね』

 リクが不安げに囁く。 「変って、何が?」 『空気が、ざらざらしてる。いつもの雨の日と違う。……すごく、嫌な感じ』

 俺は足を止めた。  リクの勘は鋭い。俺が気づかない些細な変化や、人の感情の機微を、彼は敏感に感じ取る。  背筋を、冷たい指でなぞられたような悪寒が走った。

「気のせいだろ。早く帰って、風呂に入ろう」

 俺は不安を振り払うように、早足で昇降口へと向かった。  傘立てに残っていたのは、骨が一本折れた安物のビニール傘だけ。  それを広げ、俺は豪雨の中へと飛び出した。

 視界は最悪だった。  街灯の光が雨粒に乱反射し、世界全体が滲んだ水彩画のように曖昧に見える。  いつもなら大通りを通るが、この雨だ。少しでも早く家に帰りたくて、俺は迷わず近道の路地裏へと足を踏み入れた。

 それが、運命の分かれ道だったなんてことは、物語の中だけの話だと思っていたのに。

 雑居ビルの隙間。  室外機のファンが回る重低音と、雨音が反響する薄暗い通路。  そこに足を踏み入れた瞬間、リクが叫んだ。

『――ソウ! 前から来る!』

 警告と同時だった。  暗闇の奥から、何かが猛スピードで飛び出してきた。

「っ!?」

 避ける暇などなかった。  ドンッ!! という鈍い音と共に、俺の体は弾き飛ばされた。  受け身も取れず、泥水の中に背中から叩きつけられる。冷たい水が制服の中に染み込み、全身の体温を奪っていく。

「いっ……てぇ……」

 肺から空気が押し出され、咳き込みながら顔を上げる。  ぶつかってきた相手も、数メートル先で無様に転がっていた。  黒いロングコートを着た、長身の男だ。  手には銀色のアタッシュケースが、まるで命綱であるかのように握りしめられている。

「す、すいません……大丈夫です――」

 謝罪の言葉は、喉の奥で凍りついた。  男が顔を上げたからだ。  街灯の薄明かりに照らされたその顔は、恐怖で歪み、脂汗と雨でぐちゃぐちゃになっていた。  だが、異常なのはそこじゃない。  男の腹部。裂けたコートの隙間から見えるシャツは鮮血に染まっているが、その血の色が……どこかおかしい。  赤い液体の中に、青白い光の粒子が混じっている。まるで、血液そのものがデジタルデータで構成されているかのように、傷口が明滅しているのだ。

「は……あ、ぁぁ……」

 男は俺の存在など目に入っていないかのように、うわ言を繰り返している。

「ここも、ダメか……。座標特定が早すぎる……」 「あ、あの……救急車、呼びましょうか?」

 俺がおっかなびっくり声をかけると、男はビクリと肩を震わせ、血走った目で俺を凝視した。  その瞳孔が開いている。

「内通者だ……! そうでなきゃ説明がつかない……!」

 男は独り言を叫びながら、這いつくばって後ずさる。

「『委員会』の連中は、最初からこのルートを知っていたんだ。俺たちを泳がせて、データを完全に回収するために……クソッ! 裏切られた! 俺たちは使い捨ての駒かよ!」

 会話が噛み合わない。  委員会? データ? なんの話だ?  関わってはいけない。本能がそう警鐘を鳴らす。  逃げよう。このまま立ち上がって、回れ右をして――。

『待って、ソウ』

 リクの声が、俺の足を止めた。

『あのアタッシュケース。……呼んでる』 「は? 呼んでるって……」 『僕たちを、呼んでる気がするんだ』

 その時、男が再び俺を見た。  今度は、俺の顔を値踏みするように、じっと見つめてくる。  そして、驚愕に目を見開いた。

「……お前、まさか」

 男が這いずり寄ってくる。怪我人とは思えない俊敏さで、俺の胸ぐらを掴み上げた。  鼻先が触れるほどの距離。鉄錆と、オゾンのような焦げ臭い匂いが漂う。

「『重なっている』のか? ひとつの器に、ふたつの魂が……?」 「な、何言ってるんですか! 離してください!」 「適合率……計測不能。いや、これなら……あるいは」

 男の目に、狂気じみた光が宿る。それは絶望の淵で見つけた、蜘蛛の糸にすがるような目だった。

「時間がない。奴らが来る。……『掃除屋(イレイザー)』が、もうそこまで来ているんだ」

 男は震える指でアタッシュケースのロックを解除した。  プシュウゥッ、と空気が抜ける音と共に、ケースが開く。

 そこに入っていたのは、宝石でも札束でもなかった。  一言で言うなら、『心臓』だった。  ただし、それは機械でできた心臓だ。  幾何学的な立方体が複雑に組み合わさり、脈打つように変形を繰り返している。中心核からは、目がくらむような蒼い光が溢れ出していた。

「な、なんですか、これ……」

 美しい。  恐怖よりも先に、俺はその物体に魅入られてしまった。  鼓動が早くなる。自分の心臓が、その機械の鼓動とシンクロしていくのがわかる。

「これは『種子(シード)』だ。世界の(ことわり)を書き換えるための、禁忌のソースコード」 「ソース……コード……?」 「君なら、扱えるかもしれない。いや、君のような『イレギュラー』にしか、これは芽吹かない!」

 男はケースから『それ』を鷲掴みにした。  光る物体は、男の手の中で液体のように形を変え、ゼリー状の塊へと変化する。

「君なら、未来を変えられる」

 男が叫ぶ。  それは願いのようでもあり、呪いのようでもあった。

「受け取れ! そして生き延びろ!」 「えっ、ちょっ――」

 拒絶する間もなかった。  男の手が俺の顎を強引にこじ開ける。  そして、その発光するゼリー状の塊を、俺の口の中にねじ込んだ。

「んぐぅっ!? ごぼっ……がっ……!?」

 異物感。  喉が裂けるかと思った。  それは自らの意思を持っているかのように、俺の舌の上を蠢き、食道を無理やり押し広げて滑り落ちていく。  焼けるような熱さ。  食道の内壁が焼爛(ただ)れるような激痛と共に、それは胃袋へと落下した。

「あ、が……あぁぁぁぁっ!!」

 胃の中で、爆弾が破裂したような衝撃が走る。  熱い、熱い、熱い!  血液が沸騰する。全身の血管という血管に、灼熱の泥が流し込まれるような感覚。  視界が明滅する。  雨の音が遠ざかり、代わりに耳元で、無機質な電子音が響き始めた。

『――System Check... OK.』 『Host: Sou Tanabata / Riku. Dual Core detected.』 『Install... Start.』

(な、なんだこれ……誰の声だ……!?)

 地面に転がり、喉を掻きむしってえずく俺を、男は見下ろしていた。  その表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。

「すまないな、少年。……だが、これで『隠す』ことはできた」

 男は立ち上がり、ふらつく足取りで路地の出口――俺が来た方向とは逆の方角へと向いた。

「おい! 誰かいないか! 裏切り者はこっちだぞ!」

 大声で叫びながら、男は走り出す。  囮だ。  自分自身を餌にして、俺から敵の目を逸らそうとしている。

「待っ……アンタ……!」 「走れ! 振り返るな! 日常にしがみつけ!」

 男の背中が闇に消えていく。  俺は動けなかった。胃の中の激痛と、体の芯から湧き上がる謎の全能感に支配されて、指一本動かせない。

 直後だった。

 ヒュンッ。  風を切る音などしなかった。  ただ、空間が「断裂」するような音がして、男が消えた方角の空気が歪んだ。

「――対象捕捉(ターゲット・ロック)。コード99」

 頭上から声がした。  人の声じゃない。合成音声のような、感情の一切ない響き。  見上げると、ビルの壁面に『それ』らが張り付いていた。  三体。  人型をしているが、表面は鏡のようにツルリとしており、顔があるべき場所には巨大な単眼レンズだけが輝いている。  雨の中、重力を無視して壁を這うその姿は、巨大な銀色の蜘蛛のようだった。

「痕跡(トレース)あり。個体Aは囮と推測」 「追跡を開始する。……ん? 接触者の反応あり」

 巨大なレンズが、ギョロリと動き、地面にうずくまる俺を捉えた。  赤いレーザー光が俺の眉間を焼く。

 殺される。  理屈じゃなく、生物としての本能が死を確信した。

『動いて! ソウ!』

 リクの絶叫が脳髄を叩く。  その声が引き金となり、硬直していた俺の体が弾かれたように動いた。

「う、うわあああああっ!!」

 俺は泥水を蹴り上げ、来た道を無我夢中で駆け出した。  足がもつれる。肺が悲鳴を上げる。  だが、止まれば死ぬ。  背後で、コンクリートが爆ぜる音がした。熱線か何かが、俺のいた場所を焼き払ったのだ。

 男の悲鳴は聞こえなかった。  おそらく、一瞬で消されたのだ。

 俺は走った。  平凡だった日常が、粉々に砕け散った破片の上を。  腹の中に、世界を揺るがす『鍵』という名の異物を抱えたまま。

 雨はまだ、激しく降り続いている。  まるで、俺の罪を洗い流そうとするかのように。あるいは、これから始まる絶望的な運命を隠蔽するかのように。


次のエピソードへ進む 第1話 日常、ノイズ、そして断頭


みんなのリアクション

雨が降っていた。  それも、ただの雨ではない。  世界そのものを灰色に塗り潰し、輪郭を溶かしてしまうような、重く、冷たい鉛色の雨だ。
 放課後の教室。  時刻は18時を少し回ったところだというのに、窓の外は既に深夜のように暗い。  激しくガラスを叩く雨音だけが、静寂に包まれた校舎内を支配していた。
「……ねえ、ソウ。いい加減、帰ろうよ」
 脳髄の奥から、幼い声が響く。  鼓膜を震わせる空気の振動ではない。思考の海に直接波紋を広げるような、内なる声。
「……ああ。わかってる」
 俺、七夕 双《たなばた そう》は、机に突っ伏していた体をゆっくりと起こした。  誰もいない教室。黒板には消し忘れた数式が白くこびりついている。  また、やってしまった。  居眠りをしていたわけではない。ただ、ぼんやりと雨を見ていただけだ。思考が霧散し、意識が現実と夢の境界を漂うような感覚。物心ついた頃から繰り返される、俺の悪い癖だ。
『ソウってば、最近ぼーっとしてる時間が増えてるよ。また別の世界の夢を見てた?』 「夢じゃないさ。ただの空想だ」
 俺はカバンを掴み、誰に聞かせるでもなく呟いた。  俺には「もうひとりの自分」がいる。  名前は――便宜上、リクと呼んでいる。  二重人格という病名で片付けられるのかもしれないが、俺たちの関係はもっと穏やかで、共生的だ。俺が表層意識、リクが深層意識。  成績はクラスの下の中。運動神経に至っては、体育のサッカーでボールを蹴ろうとして空振りし、足を捻挫するレベル。顔立ちも、集合写真に写ってもどこにいるか探されるほどに平凡。  そんな「何者でもない」俺にとって、このリクとの対話だけが、世界との唯一の接点だった。
 廊下に出ると、湿ったカビの臭いと、床用ワックスの臭いが混ざり合った独特の空気が鼻をつく。  蛍光灯が一本、チカチカと点滅を繰り返していた。
『……なんか、変だね』
 リクが不安げに囁く。 「変って、何が?」 『空気が、ざらざらしてる。いつもの雨の日と違う。……すごく、嫌な感じ』
 俺は足を止めた。  リクの勘は鋭い。俺が気づかない些細な変化や、人の感情の機微を、彼は敏感に感じ取る。  背筋を、冷たい指でなぞられたような悪寒が走った。
「気のせいだろ。早く帰って、風呂に入ろう」
 俺は不安を振り払うように、早足で昇降口へと向かった。  傘立てに残っていたのは、骨が一本折れた安物のビニール傘だけ。  それを広げ、俺は豪雨の中へと飛び出した。
 視界は最悪だった。  街灯の光が雨粒に乱反射し、世界全体が滲んだ水彩画のように曖昧に見える。  いつもなら大通りを通るが、この雨だ。少しでも早く家に帰りたくて、俺は迷わず近道の路地裏へと足を踏み入れた。
 それが、運命の分かれ道だったなんてことは、物語の中だけの話だと思っていたのに。
 雑居ビルの隙間。  室外機のファンが回る重低音と、雨音が反響する薄暗い通路。  そこに足を踏み入れた瞬間、リクが叫んだ。
『――ソウ! 前から来る!』
 警告と同時だった。  暗闇の奥から、何かが猛スピードで飛び出してきた。
「っ!?」
 避ける暇などなかった。  ドンッ!! という鈍い音と共に、俺の体は弾き飛ばされた。  受け身も取れず、泥水の中に背中から叩きつけられる。冷たい水が制服の中に染み込み、全身の体温を奪っていく。
「いっ……てぇ……」
 肺から空気が押し出され、咳き込みながら顔を上げる。  ぶつかってきた相手も、数メートル先で無様に転がっていた。  黒いロングコートを着た、長身の男だ。  手には銀色のアタッシュケースが、まるで命綱であるかのように握りしめられている。
「す、すいません……大丈夫です――」
 謝罪の言葉は、喉の奥で凍りついた。  男が顔を上げたからだ。  街灯の薄明かりに照らされたその顔は、恐怖で歪み、脂汗と雨でぐちゃぐちゃになっていた。  だが、異常なのはそこじゃない。  男の腹部。裂けたコートの隙間から見えるシャツは鮮血に染まっているが、その血の色が……どこかおかしい。  赤い液体の中に、青白い光の粒子が混じっている。まるで、血液そのものがデジタルデータで構成されているかのように、傷口が明滅しているのだ。
「は……あ、ぁぁ……」
 男は俺の存在など目に入っていないかのように、うわ言を繰り返している。
「ここも、ダメか……。座標特定が早すぎる……」 「あ、あの……救急車、呼びましょうか?」
 俺がおっかなびっくり声をかけると、男はビクリと肩を震わせ、血走った目で俺を凝視した。  その瞳孔が開いている。
「内通者だ……! そうでなきゃ説明がつかない……!」
 男は独り言を叫びながら、這いつくばって後ずさる。
「『委員会』の連中は、最初からこのルートを知っていたんだ。俺たちを泳がせて、データを完全に回収するために……クソッ! 裏切られた! 俺たちは使い捨ての駒かよ!」
 会話が噛み合わない。  委員会? データ? なんの話だ?  関わってはいけない。本能がそう警鐘を鳴らす。  逃げよう。このまま立ち上がって、回れ右をして――。
『待って、ソウ』
 リクの声が、俺の足を止めた。
『あのアタッシュケース。……呼んでる』 「は? 呼んでるって……」 『僕たちを、呼んでる気がするんだ』
 その時、男が再び俺を見た。  今度は、俺の顔を値踏みするように、じっと見つめてくる。  そして、驚愕に目を見開いた。
「……お前、まさか」
 男が這いずり寄ってくる。怪我人とは思えない俊敏さで、俺の胸ぐらを掴み上げた。  鼻先が触れるほどの距離。鉄錆と、オゾンのような焦げ臭い匂いが漂う。
「『重なっている』のか? ひとつの器に、ふたつの魂が……?」 「な、何言ってるんですか! 離してください!」 「適合率……計測不能。いや、これなら……あるいは」
 男の目に、狂気じみた光が宿る。それは絶望の淵で見つけた、蜘蛛の糸にすがるような目だった。
「時間がない。奴らが来る。……『掃除屋《イレイザー》』が、もうそこまで来ているんだ」
 男は震える指でアタッシュケースのロックを解除した。  プシュウゥッ、と空気が抜ける音と共に、ケースが開く。
 そこに入っていたのは、宝石でも札束でもなかった。  一言で言うなら、『心臓』だった。  ただし、それは機械でできた心臓だ。  幾何学的な立方体が複雑に組み合わさり、脈打つように変形を繰り返している。中心核からは、目がくらむような蒼い光が溢れ出していた。
「な、なんですか、これ……」
 美しい。  恐怖よりも先に、俺はその物体に魅入られてしまった。  鼓動が早くなる。自分の心臓が、その機械の鼓動とシンクロしていくのがわかる。
「これは『種子《シード》』だ。世界の理《ことわり》を書き換えるための、禁忌のソースコード」 「ソース……コード……?」 「君なら、扱えるかもしれない。いや、君のような『イレギュラー』にしか、これは芽吹かない!」
 男はケースから『それ』を鷲掴みにした。  光る物体は、男の手の中で液体のように形を変え、ゼリー状の塊へと変化する。
「君なら、未来を変えられる」
 男が叫ぶ。  それは願いのようでもあり、呪いのようでもあった。
「受け取れ! そして生き延びろ!」 「えっ、ちょっ――」
 拒絶する間もなかった。  男の手が俺の顎を強引にこじ開ける。  そして、その発光するゼリー状の塊を、俺の口の中にねじ込んだ。
「んぐぅっ!? ごぼっ……がっ……!?」
 異物感。  喉が裂けるかと思った。  それは自らの意思を持っているかのように、俺の舌の上を蠢き、食道を無理やり押し広げて滑り落ちていく。  焼けるような熱さ。  食道の内壁が焼爛《ただ》れるような激痛と共に、それは胃袋へと落下した。
「あ、が……あぁぁぁぁっ!!」
 胃の中で、爆弾が破裂したような衝撃が走る。  熱い、熱い、熱い!  血液が沸騰する。全身の血管という血管に、灼熱の泥が流し込まれるような感覚。  視界が明滅する。  雨の音が遠ざかり、代わりに耳元で、無機質な電子音が響き始めた。
『――System Check... OK.』 『Host: Sou Tanabata / Riku. Dual Core detected.』 『Install... Start.』
(な、なんだこれ……誰の声だ……!?)
 地面に転がり、喉を掻きむしってえずく俺を、男は見下ろしていた。  その表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「すまないな、少年。……だが、これで『隠す』ことはできた」
 男は立ち上がり、ふらつく足取りで路地の出口――俺が来た方向とは逆の方角へと向いた。
「おい! 誰かいないか! 裏切り者はこっちだぞ!」
 大声で叫びながら、男は走り出す。  囮だ。  自分自身を餌にして、俺から敵の目を逸らそうとしている。
「待っ……アンタ……!」 「走れ! 振り返るな! 日常にしがみつけ!」
 男の背中が闇に消えていく。  俺は動けなかった。胃の中の激痛と、体の芯から湧き上がる謎の全能感に支配されて、指一本動かせない。
 直後だった。
 ヒュンッ。  風を切る音などしなかった。  ただ、空間が「断裂」するような音がして、男が消えた方角の空気が歪んだ。
「――対象捕捉《ターゲット・ロック》。コード99」
 頭上から声がした。  人の声じゃない。合成音声のような、感情の一切ない響き。  見上げると、ビルの壁面に『それ』らが張り付いていた。  三体。  人型をしているが、表面は鏡のようにツルリとしており、顔があるべき場所には巨大な単眼レンズだけが輝いている。  雨の中、重力を無視して壁を這うその姿は、巨大な銀色の蜘蛛のようだった。
「痕跡《トレース》あり。個体Aは囮と推測」 「追跡を開始する。……ん? 接触者の反応あり」
 巨大なレンズが、ギョロリと動き、地面にうずくまる俺を捉えた。  赤いレーザー光が俺の眉間を焼く。
 殺される。  理屈じゃなく、生物としての本能が死を確信した。
『動いて! ソウ!』
 リクの絶叫が脳髄を叩く。  その声が引き金となり、硬直していた俺の体が弾かれたように動いた。
「う、うわあああああっ!!」
 俺は泥水を蹴り上げ、来た道を無我夢中で駆け出した。  足がもつれる。肺が悲鳴を上げる。  だが、止まれば死ぬ。  背後で、コンクリートが爆ぜる音がした。熱線か何かが、俺のいた場所を焼き払ったのだ。
 男の悲鳴は聞こえなかった。  おそらく、一瞬で消されたのだ。
 俺は走った。  平凡だった日常が、粉々に砕け散った破片の上を。  腹の中に、世界を揺るがす『鍵』という名の異物を抱えたまま。
 雨はまだ、激しく降り続いている。  まるで、俺の罪を洗い流そうとするかのように。あるいは、これから始まる絶望的な運命を隠蔽するかのように。