行き止まりフリーフォール
ー/ー「ねえ、君のお母さん、前に学校に来てもらったときより、少し疲れているように見えないかい。……最近、何かあったの?」
授業参観の日のことだ。いつもより少し着飾った母は、教室の後ろの方で他の生徒のお母さん達と話している。時折笑い声が聞こえた。若い教師は、目立たないように私を教壇に呼んで小さく尋ねてきた。
「……おとうさん、最近少し…うるさくて。おかあさんが、商店街のおばさんとかおじさんと話すと、おこるんです。いやだって、いってました」
わたしと二人きりで母と出かけてくると、わたしのことも睨んでくるくらいだった。今日、本屋に行ったんだってな、どこに行ってたんだ。二人でか。だれか彼女に話しかけてなかったか、男だけじゃない、女もだぞ。どうしてちゃんと見てないんだ。二人で出かけておいて、なにをやってる。
今日は小学校まで母を呼んでしまったから、またわたしを怒るかもしれなかった。どなられるのはすきじゃない。
「そんな……こんなことを君の前で言ってはいけないんだろうけど、ひどいお父さんだね……そんな人と一緒に暮らしているなんて、お母さんも疲れてしまって当然だ。お父さんに殴られたりなんてしてないだろうね? 何かあったら、すぐに先生に言って欲しいな。先生に、隠し事はしなくていいんだ。安心して、教えて欲しい。これ、先生の連絡先、渡しておくね」
「はい」
心配するように眉を下げた先生は、ちらちらと母の方を見ながら、メモをわたしてきた。
その後、その時の父とは離婚が成立し、結局先生のメモは渡しそびれてしまった。苗字が変わった後、先生は私に時折母の様子や、メモを渡したかどうかをそれとなく聞いてきたが、全て適当にはぐらかした。あの父がいた時より、睡眠時間は間違いなく伸びていたので、私は結構、満足だった。
「なぁ、Aをいじめたんだってな。同じ飼育委員だったろう? どうしてそんなひどいことをしたんだ、悩みがあるなら先生が聞いてやるから、全部言ってごらん」
放課後のことだ。ジャージ姿の教師が、鋭い視線を向けてくる。カーテンの外側がオレンジ色に染まっていて、校庭から他の生徒達の声が聞こえてくる。
Aというのはクラスメートの女の子であり、とても大人しく、日に一度は消しゴムを床に落とす子だ。
「全く、記憶にありませんが」
本当になんのことだかわからない。ニワトリってかわいいけど見てるとお腹空いちゃうんだよね、と放課後に笑いかけてくるくらいの親交はあったはずだが。
「……先生はな、理由もわからず一方的に叱ったりしたくないんだよ。でも、お前がそう言うなら、お母さんを学校に呼ぶしかなくなるんだぞ」
「Aさんに惚れてた男子生徒に惚れてた他のクラスの女子が最近突っかかってきてこわい、って泣いてる彼女の話を聞いてただけです」
Aは見た目通りに大人しいが、見た目を裏切りびっくりするほど逞しいため少し話を聞いていたらあっさり泣き止んだし、現在は何をどうしたのか知らないがAと彼女を恨んでいた女子生徒は普通に仲が良くなったようである。相談に乗った以外は、本当に何もしていない。
「そんなこと言ってもな……ほら、お前のお家、少しややこしいことになってるじゃないか。お兄さんやお姉さんとは仲良くやってるのか? 父親が違うって聞いたぞ。今度先生がお前ん家に行ってやろうか。お母さんはいつ頃お家に居るんだ?」
額に汗を滲ませ必死に言い募る教師に、お家の周りをうろつく人たちが多いんですけど、どうしたら良いんですかと訊きそうになった。わたしやおねえちゃんやお母さんの後ろをずっとついてくるんです。
私のことを心配してくれたのかうちの様子を知りたかったのか、どうやら家の周辺を歩き回っていたらしいその教師が、同じく回遊魚をしていた他の男に殴られ入院したのはその二週間後のことだった。
「ねえ、あんたのお母さん、すごい綺麗じゃない? テレビに出てくる人とはちょっと違う感じだけど。つい見かけると目で追っちゃうなぁ」
ポニーテールを揺らしながら、彼女が瞬きをする。目がぱっちりと大きく、可愛らしい女の子だった。
「それはよく言われる。あと、私は似てないってのもよく言われる」
「んー、たしかにあんたは似てないかも。でもあんたもお母さんとは違う方向に綺麗よ。愛想が悪いのよ、あんた。でさあ、」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。綺麗な桃色の唇を開いたり閉じたりした。彼女が校庭の隅のベンチなんかに私をこっそり呼んだ理由がわかった気がした。
「このあいだの日曜、うちのパパが出かけてったんだけど、なんか様子がおかしかったからさ、付いてっちゃったんだ。そしたら、喫茶店で、パパがあんたのお母さんと二人でお茶しててさ。びっくりしちゃった。あの二人、仲良いのかな。もしかしたら高校の同級生とか。ドラマみたいだけど」
そのドラマ、泥沼とか不倫とか修羅場とかそういう単語が踊る話だったりする? とは流石に言えなかった。
「お母さんに訊いた方がいい?」
「………うん、ごめんね、お願い」
たっぷり沈黙して、彼女が頷いた。彼女の反応を見るに、たまたま知り合いに再開してお茶をしたような雰囲気ではなかったんだろうなぁ、そのお父さん。と思っていたのだが、母に尋ねてみたら
「ううん? あんまり知らない人よ? いきなり、三週間くらい前かな? 昔好きだった女の人に似ていてびっくりした、って話しかけて来てね、私の方がびっくりしちゃった。これも縁ですし、って誘われてお茶してきたの。また会いたいですって嬉しいことに言ってくれてね、この間の日曜日に待ち合わせしてまた遊んできたのよ。よくわからないけど、優しい人だったわ」と頰に手を当てて微笑んでいた。
その数週間後、彼女の両親が離婚したらしく、彼女は母親と共に引っ越したために転校し、その姿を見ることはなくなってしまった。
背が高い男子生徒が上を向いてしまうと、顔が全く見えなくなる。そういう時、一体何処を見ているのかがとても気になった。
「なあ、ええと、おはよう」
声をかけたのは彼の方だが、まるで目が合わなかった。バレンタイン当日、朝から可愛いデザインの紙袋を持って教室に立っているのは、他の男子生徒から睨まれても仕方がないような気がする。後ろの席にいる生徒が一人、舌打ちした。
「あのさ、お前んちのお母さん、この前うちに遊びに来てくれたんだよ。うちの母ちゃんと、仲良いみたいでさ」
「そうなの」
誰かから早朝に貰ってきたのだろうチョコレートを腕からぶら下げて何の話だろうか。自覚しているのかしていないのか知らないけど、彼はおモテになるタイプの人間であり、教室の隅、ロッカーの前に立ち竦んでいる女子生徒の顔がどんどん青白くなっていく。背中に紙袋が見えた。
「すげえ、なんつうか、きれいで優しそうな人でさ、なんか見ててぼーーってしちまった。あんな人と一緒に暮らしてるなんていいな、お前。良い匂いしそうな、こう、かわいいお母さん…みたいな感じじゃん。あんな人と一緒に暮らせたら、これ以上の幸せはねえと思う」
日々の中に他人の視線や足音にナイフや謎の手紙が大量に混じってくる生活だけどね。彼はイイ笑顔を浮かべると、自分の机に戻っていった。一度も見たことがない表情だった。ロッカーの前の女子生徒、私の方を見て涙を堪えないように。私のせいではない。
バレンタインという日は、一種の女の子にとっては戦争にも近い日だ。私にとっては、あまり関係ない話だが。どんな男の子に好意を持とうが、だいたい、母を一目見れば何が起こるかはもう経験上わかっている。姉の二の舞というのも、芸がない。
今の時点で十分なので、これ以上母の周囲に回遊魚を増やしても仕方がないという話だ。二週間に一度、見知らぬ男に母についていきなり話しかけられる生活にも、そろそろ飽きが来ていることだし。
目の前で若い男が足を抑えて呻いている。指も変色して膨れ上がっていた。これではまともに動けないだろう。
私は片手で金槌を握ってそれを眺めている。人の肉を打つ音にも骨を砕くのももう慣れていた。人の生活を散々侵害しておいて、これくらいで何泣き喚いてんだという感想も。
このご時世、思ったより人の悲鳴なんかを気にかける人間は少ないようで、今の所は警察のご厄介になったことない。通報されてもいいかと思いながら行っていることなのだが、案外、そうはならなかった。母のストーカー達についても、何年前からもずっと何もしてくれなかったことだし、そういうものなのかもしれない。
もうそろそろ兄に連絡を取ってしまおうか。何度も母を付け狙う者達に刺されたり殴られたり殺されかけたりしていた兄は、いつのまにか妙なところに人脈を得たようで、そういったところの連中に声をかけては母の回遊魚達を攫って連れていく。姿を消した彼らが、どういった用途で使われているのかはよく知らない。死んでいない人間は、思ったより使い道が多いのかもしれなかった。もしかしたら、生きていない人間に加工されているのかもしれないが。
兄はたまにそこそこの金額をバイト代、と言って持ち帰ってきて、母や私に何か買ってくれたり奢ってくれたりする。そんな時、姉もうちに居てくれたらよかったのにな、と思う時もある。
「……わかっ、た、…わかったよ、……君、見てたら、……なあ、……」
「……何が?」
気でもくるったのか、男は涙でぐちゃぐちゃの目で、私を見る。なんだよ、その目。まるで
「………きみ、ずっと、僕と一緒だよ、……おなじだと思った、じぶんが他の人たちから、なんの価値もなくて、必要じゃないものっておもわれてるんだろなって、ずっと、みんな、僕よりももっと好きで大事な人がいるって、わかってるから」
なにか言おうとした。涙を零す男が、私を見ている。ちがうやめろ。金槌を握る指に力が入る。
「さみしいんだろ、きみも。誰かに自分をすきになってほしい。ゆるしてほしいし、あいしてほしい、誰よりきみが一番たいせつだって言って欲しいんだ」
わたしは彼を
授業参観の日のことだ。いつもより少し着飾った母は、教室の後ろの方で他の生徒のお母さん達と話している。時折笑い声が聞こえた。若い教師は、目立たないように私を教壇に呼んで小さく尋ねてきた。
「……おとうさん、最近少し…うるさくて。おかあさんが、商店街のおばさんとかおじさんと話すと、おこるんです。いやだって、いってました」
わたしと二人きりで母と出かけてくると、わたしのことも睨んでくるくらいだった。今日、本屋に行ったんだってな、どこに行ってたんだ。二人でか。だれか彼女に話しかけてなかったか、男だけじゃない、女もだぞ。どうしてちゃんと見てないんだ。二人で出かけておいて、なにをやってる。
今日は小学校まで母を呼んでしまったから、またわたしを怒るかもしれなかった。どなられるのはすきじゃない。
「そんな……こんなことを君の前で言ってはいけないんだろうけど、ひどいお父さんだね……そんな人と一緒に暮らしているなんて、お母さんも疲れてしまって当然だ。お父さんに殴られたりなんてしてないだろうね? 何かあったら、すぐに先生に言って欲しいな。先生に、隠し事はしなくていいんだ。安心して、教えて欲しい。これ、先生の連絡先、渡しておくね」
「はい」
心配するように眉を下げた先生は、ちらちらと母の方を見ながら、メモをわたしてきた。
その後、その時の父とは離婚が成立し、結局先生のメモは渡しそびれてしまった。苗字が変わった後、先生は私に時折母の様子や、メモを渡したかどうかをそれとなく聞いてきたが、全て適当にはぐらかした。あの父がいた時より、睡眠時間は間違いなく伸びていたので、私は結構、満足だった。
「なぁ、Aをいじめたんだってな。同じ飼育委員だったろう? どうしてそんなひどいことをしたんだ、悩みがあるなら先生が聞いてやるから、全部言ってごらん」
放課後のことだ。ジャージ姿の教師が、鋭い視線を向けてくる。カーテンの外側がオレンジ色に染まっていて、校庭から他の生徒達の声が聞こえてくる。
Aというのはクラスメートの女の子であり、とても大人しく、日に一度は消しゴムを床に落とす子だ。
「全く、記憶にありませんが」
本当になんのことだかわからない。ニワトリってかわいいけど見てるとお腹空いちゃうんだよね、と放課後に笑いかけてくるくらいの親交はあったはずだが。
「……先生はな、理由もわからず一方的に叱ったりしたくないんだよ。でも、お前がそう言うなら、お母さんを学校に呼ぶしかなくなるんだぞ」
「Aさんに惚れてた男子生徒に惚れてた他のクラスの女子が最近突っかかってきてこわい、って泣いてる彼女の話を聞いてただけです」
Aは見た目通りに大人しいが、見た目を裏切りびっくりするほど逞しいため少し話を聞いていたらあっさり泣き止んだし、現在は何をどうしたのか知らないがAと彼女を恨んでいた女子生徒は普通に仲が良くなったようである。相談に乗った以外は、本当に何もしていない。
「そんなこと言ってもな……ほら、お前のお家、少しややこしいことになってるじゃないか。お兄さんやお姉さんとは仲良くやってるのか? 父親が違うって聞いたぞ。今度先生がお前ん家に行ってやろうか。お母さんはいつ頃お家に居るんだ?」
額に汗を滲ませ必死に言い募る教師に、お家の周りをうろつく人たちが多いんですけど、どうしたら良いんですかと訊きそうになった。わたしやおねえちゃんやお母さんの後ろをずっとついてくるんです。
私のことを心配してくれたのかうちの様子を知りたかったのか、どうやら家の周辺を歩き回っていたらしいその教師が、同じく回遊魚をしていた他の男に殴られ入院したのはその二週間後のことだった。
「ねえ、あんたのお母さん、すごい綺麗じゃない? テレビに出てくる人とはちょっと違う感じだけど。つい見かけると目で追っちゃうなぁ」
ポニーテールを揺らしながら、彼女が瞬きをする。目がぱっちりと大きく、可愛らしい女の子だった。
「それはよく言われる。あと、私は似てないってのもよく言われる」
「んー、たしかにあんたは似てないかも。でもあんたもお母さんとは違う方向に綺麗よ。愛想が悪いのよ、あんた。でさあ、」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。綺麗な桃色の唇を開いたり閉じたりした。彼女が校庭の隅のベンチなんかに私をこっそり呼んだ理由がわかった気がした。
「このあいだの日曜、うちのパパが出かけてったんだけど、なんか様子がおかしかったからさ、付いてっちゃったんだ。そしたら、喫茶店で、パパがあんたのお母さんと二人でお茶しててさ。びっくりしちゃった。あの二人、仲良いのかな。もしかしたら高校の同級生とか。ドラマみたいだけど」
そのドラマ、泥沼とか不倫とか修羅場とかそういう単語が踊る話だったりする? とは流石に言えなかった。
「お母さんに訊いた方がいい?」
「………うん、ごめんね、お願い」
たっぷり沈黙して、彼女が頷いた。彼女の反応を見るに、たまたま知り合いに再開してお茶をしたような雰囲気ではなかったんだろうなぁ、そのお父さん。と思っていたのだが、母に尋ねてみたら
「ううん? あんまり知らない人よ? いきなり、三週間くらい前かな? 昔好きだった女の人に似ていてびっくりした、って話しかけて来てね、私の方がびっくりしちゃった。これも縁ですし、って誘われてお茶してきたの。また会いたいですって嬉しいことに言ってくれてね、この間の日曜日に待ち合わせしてまた遊んできたのよ。よくわからないけど、優しい人だったわ」と頰に手を当てて微笑んでいた。
その数週間後、彼女の両親が離婚したらしく、彼女は母親と共に引っ越したために転校し、その姿を見ることはなくなってしまった。
背が高い男子生徒が上を向いてしまうと、顔が全く見えなくなる。そういう時、一体何処を見ているのかがとても気になった。
「なあ、ええと、おはよう」
声をかけたのは彼の方だが、まるで目が合わなかった。バレンタイン当日、朝から可愛いデザインの紙袋を持って教室に立っているのは、他の男子生徒から睨まれても仕方がないような気がする。後ろの席にいる生徒が一人、舌打ちした。
「あのさ、お前んちのお母さん、この前うちに遊びに来てくれたんだよ。うちの母ちゃんと、仲良いみたいでさ」
「そうなの」
誰かから早朝に貰ってきたのだろうチョコレートを腕からぶら下げて何の話だろうか。自覚しているのかしていないのか知らないけど、彼はおモテになるタイプの人間であり、教室の隅、ロッカーの前に立ち竦んでいる女子生徒の顔がどんどん青白くなっていく。背中に紙袋が見えた。
「すげえ、なんつうか、きれいで優しそうな人でさ、なんか見ててぼーーってしちまった。あんな人と一緒に暮らしてるなんていいな、お前。良い匂いしそうな、こう、かわいいお母さん…みたいな感じじゃん。あんな人と一緒に暮らせたら、これ以上の幸せはねえと思う」
日々の中に他人の視線や足音にナイフや謎の手紙が大量に混じってくる生活だけどね。彼はイイ笑顔を浮かべると、自分の机に戻っていった。一度も見たことがない表情だった。ロッカーの前の女子生徒、私の方を見て涙を堪えないように。私のせいではない。
バレンタインという日は、一種の女の子にとっては戦争にも近い日だ。私にとっては、あまり関係ない話だが。どんな男の子に好意を持とうが、だいたい、母を一目見れば何が起こるかはもう経験上わかっている。姉の二の舞というのも、芸がない。
今の時点で十分なので、これ以上母の周囲に回遊魚を増やしても仕方がないという話だ。二週間に一度、見知らぬ男に母についていきなり話しかけられる生活にも、そろそろ飽きが来ていることだし。
目の前で若い男が足を抑えて呻いている。指も変色して膨れ上がっていた。これではまともに動けないだろう。
私は片手で金槌を握ってそれを眺めている。人の肉を打つ音にも骨を砕くのももう慣れていた。人の生活を散々侵害しておいて、これくらいで何泣き喚いてんだという感想も。
このご時世、思ったより人の悲鳴なんかを気にかける人間は少ないようで、今の所は警察のご厄介になったことない。通報されてもいいかと思いながら行っていることなのだが、案外、そうはならなかった。母のストーカー達についても、何年前からもずっと何もしてくれなかったことだし、そういうものなのかもしれない。
もうそろそろ兄に連絡を取ってしまおうか。何度も母を付け狙う者達に刺されたり殴られたり殺されかけたりしていた兄は、いつのまにか妙なところに人脈を得たようで、そういったところの連中に声をかけては母の回遊魚達を攫って連れていく。姿を消した彼らが、どういった用途で使われているのかはよく知らない。死んでいない人間は、思ったより使い道が多いのかもしれなかった。もしかしたら、生きていない人間に加工されているのかもしれないが。
兄はたまにそこそこの金額をバイト代、と言って持ち帰ってきて、母や私に何か買ってくれたり奢ってくれたりする。そんな時、姉もうちに居てくれたらよかったのにな、と思う時もある。
「……わかっ、た、…わかったよ、……君、見てたら、……なあ、……」
「……何が?」
気でもくるったのか、男は涙でぐちゃぐちゃの目で、私を見る。なんだよ、その目。まるで
「………きみ、ずっと、僕と一緒だよ、……おなじだと思った、じぶんが他の人たちから、なんの価値もなくて、必要じゃないものっておもわれてるんだろなって、ずっと、みんな、僕よりももっと好きで大事な人がいるって、わかってるから」
なにか言おうとした。涙を零す男が、私を見ている。ちがうやめろ。金槌を握る指に力が入る。
「さみしいんだろ、きみも。誰かに自分をすきになってほしい。ゆるしてほしいし、あいしてほしい、誰よりきみが一番たいせつだって言って欲しいんだ」
わたしは彼を
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
「ねえ、君のお母さん、前に学校に来てもらったときより、少し疲れているように見えないかい。……最近、何かあったの?」
授業参観の日のことだ。いつもより少し着飾った母は、教室の後ろの方で他の生徒のお母さん達と話している。時折笑い声が聞こえた。若い教師は、目立たないように私を教壇に呼んで小さく尋ねてきた。
「……おとうさん、最近少し…うるさくて。おかあさんが、商店街のおばさんとかおじさんと話すと、おこるんです。いやだって、いってました」
わたしと二人きりで母と出かけてくると、わたしのことも睨んでくるくらいだった。今日、本屋に行ったんだってな、どこに行ってたんだ。二人でか。だれか彼女に話しかけてなかったか、男だけじゃない、女もだぞ。どうしてちゃんと見てないんだ。二人で出かけておいて、なにをやってる。
今日は小学校まで母を呼んでしまったから、またわたしを怒るかもしれなかった。どなられるのはすきじゃない。
今日は小学校まで母を呼んでしまったから、またわたしを怒るかもしれなかった。どなられるのはすきじゃない。
「そんな……こんなことを君の前で言ってはいけないんだろうけど、ひどいお父さんだね……そんな人と一緒に暮らしているなんて、お母さんも疲れてしまって当然だ。お父さんに殴られたりなんてしてないだろうね? 何かあったら、すぐに先生に言って欲しいな。先生に、隠し事はしなくていいんだ。安心して、教えて欲しい。これ、先生の連絡先、渡しておくね」
「はい」
「はい」
心配するように眉を下げた先生は、ちらちらと母の方を見ながら、メモをわたしてきた。
その後、その時の父とは離婚が成立し、結局先生のメモは渡しそびれてしまった。苗字が変わった後、先生は私に時折母の様子や、メモを渡したかどうかをそれとなく聞いてきたが、全て適当にはぐらかした。あの父がいた時より、睡眠時間は間違いなく伸びていたので、私は結構、満足だった。
その後、その時の父とは離婚が成立し、結局先生のメモは渡しそびれてしまった。苗字が変わった後、先生は私に時折母の様子や、メモを渡したかどうかをそれとなく聞いてきたが、全て適当にはぐらかした。あの父がいた時より、睡眠時間は間違いなく伸びていたので、私は結構、満足だった。
「なぁ、Aをいじめたんだってな。同じ飼育委員だったろう? どうしてそんなひどいことをしたんだ、悩みがあるなら先生が聞いてやるから、全部言ってごらん」
放課後のことだ。ジャージ姿の教師が、鋭い視線を向けてくる。カーテンの外側がオレンジ色に染まっていて、校庭から他の生徒達の声が聞こえてくる。
Aというのはクラスメートの女の子であり、とても大人しく、日に一度は消しゴムを床に落とす子だ。
Aというのはクラスメートの女の子であり、とても大人しく、日に一度は消しゴムを床に落とす子だ。
「全く、記憶にありませんが」
本当になんのことだかわからない。ニワトリってかわいいけど見てるとお腹空いちゃうんだよね、と放課後に笑いかけてくるくらいの親交はあったはずだが。
「……先生はな、理由もわからず一方的に叱ったりしたくないんだよ。でも、お前がそう言うなら、お母さんを学校に呼ぶしかなくなるんだぞ」
「Aさんに惚れてた男子生徒に惚れてた他のクラスの女子が最近突っかかってきてこわい、って泣いてる彼女の話を聞いてただけです」
「Aさんに惚れてた男子生徒に惚れてた他のクラスの女子が最近突っかかってきてこわい、って泣いてる彼女の話を聞いてただけです」
Aは見た目通りに大人しいが、見た目を裏切りびっくりするほど逞しいため少し話を聞いていたらあっさり泣き止んだし、現在は何をどうしたのか知らないがAと彼女を恨んでいた女子生徒は普通に仲が良くなったようである。相談に乗った以外は、本当に何もしていない。
「そんなこと言ってもな……ほら、お前のお家、少しややこしいことになってるじゃないか。お兄さんやお姉さんとは仲良くやってるのか? 父親が違うって聞いたぞ。今度先生がお前ん家に行ってやろうか。お母さんはいつ頃お家に居るんだ?」
額に汗を滲ませ必死に言い募る教師に、お家の周りをうろつく人たちが多いんですけど、どうしたら良いんですかと訊きそうになった。わたしやおねえちゃんやお母さんの後ろをずっとついてくるんです。
私のことを心配してくれたのかうちの様子を知りたかったのか、どうやら家の周辺を歩き回っていたらしいその教師が、同じく回遊魚をしていた他の男に殴られ入院したのはその二週間後のことだった。
私のことを心配してくれたのかうちの様子を知りたかったのか、どうやら家の周辺を歩き回っていたらしいその教師が、同じく回遊魚をしていた他の男に殴られ入院したのはその二週間後のことだった。
「ねえ、あんたのお母さん、すごい綺麗じゃない? テレビに出てくる人とはちょっと違う感じだけど。つい見かけると目で追っちゃうなぁ」
ポニーテールを揺らしながら、彼女が瞬きをする。目がぱっちりと大きく、可愛らしい女の子だった。
「それはよく言われる。あと、私は似てないってのもよく言われる」
「んー、たしかにあんたは似てないかも。でもあんたもお母さんとは違う方向に綺麗よ。愛想が悪いのよ、あんた。でさあ、」
「んー、たしかにあんたは似てないかも。でもあんたもお母さんとは違う方向に綺麗よ。愛想が悪いのよ、あんた。でさあ、」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。綺麗な桃色の唇を開いたり閉じたりした。彼女が校庭の隅のベンチなんかに私をこっそり呼んだ理由がわかった気がした。
「このあいだの日曜、うちのパパが出かけてったんだけど、なんか様子がおかしかったからさ、付いてっちゃったんだ。そしたら、喫茶店で、パパがあんたのお母さんと二人でお茶しててさ。びっくりしちゃった。あの二人、仲良いのかな。もしかしたら高校の同級生とか。ドラマみたいだけど」
そのドラマ、泥沼とか不倫とか修羅場とかそういう単語が踊る話だったりする? とは流石に言えなかった。
「お母さんに訊いた方がいい?」
「………うん、ごめんね、お願い」
「………うん、ごめんね、お願い」
たっぷり沈黙して、彼女が頷いた。彼女の反応を見るに、たまたま知り合いに再開してお茶をしたような雰囲気ではなかったんだろうなぁ、そのお父さん。と思っていたのだが、母に尋ねてみたら
「ううん? あんまり知らない人よ? いきなり、三週間くらい前かな? 昔好きだった女の人に似ていてびっくりした、って話しかけて来てね、私の方がびっくりしちゃった。これも縁ですし、って誘われてお茶してきたの。また会いたいですって嬉しいことに言ってくれてね、この間の日曜日に待ち合わせしてまた遊んできたのよ。よくわからないけど、優しい人だったわ」と頰に手を当てて微笑んでいた。
その数週間後、彼女の両親が離婚したらしく、彼女は母親と共に引っ越したために転校し、その姿を見ることはなくなってしまった。
「ううん? あんまり知らない人よ? いきなり、三週間くらい前かな? 昔好きだった女の人に似ていてびっくりした、って話しかけて来てね、私の方がびっくりしちゃった。これも縁ですし、って誘われてお茶してきたの。また会いたいですって嬉しいことに言ってくれてね、この間の日曜日に待ち合わせしてまた遊んできたのよ。よくわからないけど、優しい人だったわ」と頰に手を当てて微笑んでいた。
その数週間後、彼女の両親が離婚したらしく、彼女は母親と共に引っ越したために転校し、その姿を見ることはなくなってしまった。
背が高い男子生徒が上を向いてしまうと、顔が全く見えなくなる。そういう時、一体何処を見ているのかがとても気になった。
「なあ、ええと、おはよう」
声をかけたのは彼の方だが、まるで目が合わなかった。バレンタイン当日、朝から可愛いデザインの紙袋を持って教室に立っているのは、他の男子生徒から睨まれても仕方がないような気がする。後ろの席にいる生徒が一人、舌打ちした。
「あのさ、お前んちのお母さん、この前うちに遊びに来てくれたんだよ。うちの母ちゃんと、仲良いみたいでさ」
「そうなの」
「そうなの」
誰かから早朝に貰ってきたのだろうチョコレートを腕からぶら下げて何の話だろうか。自覚しているのかしていないのか知らないけど、彼はおモテになるタイプの人間であり、教室の隅、ロッカーの前に立ち竦んでいる女子生徒の顔がどんどん青白くなっていく。背中に紙袋が見えた。
「すげえ、なんつうか、きれいで優しそうな人でさ、なんか見ててぼーーってしちまった。あんな人と一緒に暮らしてるなんていいな、お前。良い匂いしそうな、こう、かわいいお母さん…みたいな感じじゃん。あんな人と一緒に暮らせたら、これ以上の幸せはねえと思う」
日々の中に他人の視線や足音にナイフや謎の手紙が大量に混じってくる生活だけどね。彼はイイ笑顔を浮かべると、自分の机に戻っていった。一度も見たことがない表情だった。ロッカーの前の女子生徒、私の方を見て涙を堪えないように。私のせいではない。
バレンタインという日は、一種の女の子にとっては戦争にも近い日だ。私にとっては、あまり関係ない話だが。どんな男の子に好意を持とうが、だいたい、母を一目見れば何が起こるかはもう経験上わかっている。姉の二の舞というのも、芸がない。
今の時点で十分なので、これ以上母の周囲に回遊魚を増やしても仕方がないという話だ。二週間に一度、見知らぬ男に母についていきなり話しかけられる生活にも、そろそろ飽きが来ていることだし。
バレンタインという日は、一種の女の子にとっては戦争にも近い日だ。私にとっては、あまり関係ない話だが。どんな男の子に好意を持とうが、だいたい、母を一目見れば何が起こるかはもう経験上わかっている。姉の二の舞というのも、芸がない。
今の時点で十分なので、これ以上母の周囲に回遊魚を増やしても仕方がないという話だ。二週間に一度、見知らぬ男に母についていきなり話しかけられる生活にも、そろそろ飽きが来ていることだし。
目の前で若い男が足を抑えて呻いている。指も変色して膨れ上がっていた。これではまともに動けないだろう。
私は片手で金槌を握ってそれを眺めている。人の肉を打つ音にも骨を砕くのももう慣れていた。人の生活を散々侵害しておいて、これくらいで何泣き喚いてんだという感想も。
このご時世、思ったより人の悲鳴なんかを気にかける人間は少ないようで、今の所は警察のご厄介になったことない。通報されてもいいかと思いながら行っていることなのだが、案外、そうはならなかった。母のストーカー達についても、何年前からもずっと何もしてくれなかったことだし、そういうものなのかもしれない。
もうそろそろ兄に連絡を取ってしまおうか。何度も母を付け狙う者達に刺されたり殴られたり殺されかけたりしていた兄は、いつのまにか妙なところに人脈を得たようで、そういったところの連中に声をかけては母の回遊魚達を攫って連れていく。姿を消した彼らが、どういった用途で使われているのかはよく知らない。死んでいない人間は、思ったより使い道が多いのかもしれなかった。もしかしたら、生きていない人間に加工されているのかもしれないが。
兄はたまにそこそこの金額をバイト代、と言って持ち帰ってきて、母や私に何か買ってくれたり奢ってくれたりする。そんな時、姉もうちに居てくれたらよかったのにな、と思う時もある。
私は片手で金槌を握ってそれを眺めている。人の肉を打つ音にも骨を砕くのももう慣れていた。人の生活を散々侵害しておいて、これくらいで何泣き喚いてんだという感想も。
このご時世、思ったより人の悲鳴なんかを気にかける人間は少ないようで、今の所は警察のご厄介になったことない。通報されてもいいかと思いながら行っていることなのだが、案外、そうはならなかった。母のストーカー達についても、何年前からもずっと何もしてくれなかったことだし、そういうものなのかもしれない。
もうそろそろ兄に連絡を取ってしまおうか。何度も母を付け狙う者達に刺されたり殴られたり殺されかけたりしていた兄は、いつのまにか妙なところに人脈を得たようで、そういったところの連中に声をかけては母の回遊魚達を攫って連れていく。姿を消した彼らが、どういった用途で使われているのかはよく知らない。死んでいない人間は、思ったより使い道が多いのかもしれなかった。もしかしたら、生きていない人間に加工されているのかもしれないが。
兄はたまにそこそこの金額をバイト代、と言って持ち帰ってきて、母や私に何か買ってくれたり奢ってくれたりする。そんな時、姉もうちに居てくれたらよかったのにな、と思う時もある。
「……わかっ、た、…わかったよ、……君、見てたら、……なあ、……」
「……何が?」
「……何が?」
気でもくるったのか、男は涙でぐちゃぐちゃの目で、私を見る。なんだよ、その目。まるで
「………きみ、ずっと、僕と一緒だよ、……おなじだと思った、じぶんが他の人たちから、なんの価値もなくて、必要じゃないものっておもわれてるんだろなって、ずっと、みんな、僕よりももっと好きで大事な人がいるって、わかってるから」
なにか言おうとした。涙を零す男が、私を見ている。ちがうやめろ。金槌を握る指に力が入る。
「さみしいんだろ、きみも。誰かに自分をすきになってほしい。ゆるしてほしいし、あいしてほしい、誰よりきみが一番たいせつだって言って欲しいんだ」
わたしは彼を