台風の夜にスカートを履いてはいけない
ー/ー 台風の夜はいつもドキドキする。
モチコは胸が高鳴るのを感じながら、白い砂浜の波打ち際に立っていた。
海の向こうの夕焼けを眺める。
これから台風が来るというのに、空は穏やかだった。
「嵐の前の静けさ、だ」
ひとりつぶやいたモチコは、少し弾んだ息を整えようと深呼吸する。
海から吹いてくる風は生ぬるく湿っていて、潮の香りを運んできた。
「日が沈むまでは、台風もこなさそうだし」
予報では台風が上陸するまで、まだ時間がある。
しばらくは、ここにいても大丈夫だろうと判断した。
穏やかな潮風がモチコの首筋を通り、ボブカットに揃えた毛先を揺らして吹き抜けていく。
風に揺れる白い髪は、夕日に照らされ、サラサラと透明な銀色に輝いていた。
本格的な夏が来る直前のこの季節は、一年で最も日の沈む時間が遅い。
黒ぶちメガネの奥にある青い瞳が、ようやく沈もうとしている夕日を見つめていた。
台風が近づくなか、モチコは仕事のあとにまっすぐ家へは帰らず、急いでこの砂浜へやってきた。
それは、あるものを見るためだ。
「そろそろかな?」
モチコは砂浜の先にある小さな島へ視線をうつす。
砂浜からほど近い海に浮かんだ島は、陸地と橋でつながっている。
島のいちばん高いところには、灯台が建っていた。
この灯台は、船が安全に航海をするために建てられたものでもあるが、もうひとつ重要な役割がある。
台風を観測する、気象台としての役割だ。
台風の通り道となっているこの街では、常に台風を観測し、対策をすることが必要不可欠だった。
ときには猛烈な雨や風の力を弱めるために、台風と戦わなくてはならない場合もある。
魔法技術が発達しているこの街では、台風と戦うのは空を飛ぶ魔女たちの仕事だ。
びゅう、と少し重たい風が吹いた。
モチコの着ている白いブラウスの襟がはためき、水色のロングスカートが太腿までめくり上がる。
「うわ!」
慌ててスカートを手で押さえたが、台風の近づく海辺には、モチコ以外だれもいない。
もう多少めくれても気にしないことにして、スカートを暴れさせたまま空を眺めた。
モチコがこの場所にいる理由。
それは、台風の空に、魔女が飛ぶところを見るためだ。
とくに、夜空を翔ける魔女を見るのが好きだった。
ホウキが飛ぶ軌跡に沿って流れる、彗星のような光の尾。
あれは何度見ても美しい。
ずっと憧れていた『魔女になって空を飛びたい』という夢。
その幼い頃からの夢が破れてしまった今でも、こうして夜空を飛ぶ魔女を見ることだけは好きだった。
キンコン、カーン――。
そのとき、鐘のような音が、街中の屋根を震わせるように鳴り響いた。
街のあちこちに設置されている魔導拡声器から出る音だ。
鐘のような音に続いて、透き通った女性の声が聞こえてきた。
「――台風が接近しています。ただいまより、タイフーンシグナル・ナンバー4を発令します」
台風警告信号とは、台風が来たときの避難警報にあたるものだ。
台風の脅威度に応じて、シグナルは1から9までのレベルがある。
9に近いほど脅威度は高く、このシグナルに応じて、避難方法などが決められている。
台風の多いこの街で、人間が生きていくための知恵といえるだろう。
「――繰り返します。タイフーンシグナル・ナンバー4を発令します。規則に従い、すみやかに行動してください」
シグナル4は、中レベルの台風といったところだ。
すべての市民は屋内への避難が義務づけられ、商店なども一斉にクローズとなる。
そして、魔女は台風へ向けて出撃するのだ。
シグナル発令のアナウンスが終わると同時に、街は避難する人々で慌ただしくなった。
それにつれ、モチコの胸の高鳴りも大きくなる。
日は沈む寸前で、空はすでに藍色になりかけていた。
もうすぐ台風が来る。じきに雨も降り始めるだろう。
モチコもすみやかに帰宅しなければならない。
ただ、その前に、一目だけでも夜空を飛ぶ魔女を見たかった。
もう一度、空を見上げたモチコの瞳が、キラリと光るものを捉える。
それは、灯台の上のほうで星がまたたくように輝いたあと、黄金色の尾をもつ彗星のように、跡を残しながら空を翔けていった。
「黄金色の魔女だ……!」
モチコはその美しさに小さく感嘆の声をあげると、いっときのあいだ見とれていた。
問題が起きたのは、そのときだった。
ゴウ、と低い音がして、スカートがぶわりと広がるのが分かった。
すぐに強い風が来ると予感して身構えたが、衝撃は全くやってこない。
代わりに、砂浜を舐めるように迫ってきた突風が、突き上げるようにスカートの中を襲い、足をふわりとすくい上げた。
「――あっ」
次の瞬間、小さく叫んだ時には、モチコは空中にいた。
左右の足が地面から離れ、視界の上下左右が回転する。
体勢を整える間もなく、竜巻のような風が、あっという間にモチコを遥か上空へと持ち上げた。
ロングスカートが、風を思いっきり受けて膨らんだせいだ。
モチコの軽い身体は、猛烈な風によって、糸の切れた凧のように飛ばされてしまっていた。
上昇が止まり、今から落下が始まろうとする一瞬、モチコは視界の端に灯台を見た。
この街で最も高い場所にある灯台が、自分より下にあることに気づいて、状況を理解する。
――この高さから落ちたら、確実に死ぬ。
落下する感覚の中、モチコは自分でも意外なほど落ち着いて、色々なことを考えていた。
こういうのを走馬灯というのかもしれない。
――台風の夜にロングスカートを履いてはいけない。
――落ちたらつぶれて死ぬのか。海に落ちて、クラーケンの今夜のおかずになるのはやだな……。
いくつかの言葉が浮かんだあとで、最後に考えたのは、叶わなかった夢についてだった。
魔女になって空を飛びたいという夢。
頑張って働いて学費をためて魔法学校へ通ったこと。
結局才能が無くて魔女になれなかったこと。
空を飛べない自分が、最期にこうして空を飛んでいるのは、ちょっと皮肉だ。
この世界には、どれだけの数の夢があるんだろう。
そのうちいくつが叶い、いくつが消えていくのか。
――私は叶わなかった夢と一緒に、ここで消えるのだ。
ひとりごとのような思考を終えたモチコは、最期の瞬間を迎えるために、静かに目を閉じる。
すると、まぶたの裏に、金色の粉を振りまいたような光が見えた。
ちょっと早いけど、もう天国かな?
……と思ったりもしたが、その直後、明らかに現世からの声が響く。
「――手を出せ!」
まるで暗闇に差し込む一条の光のような、凛々しい声だった。
モチコは反射的に、右手を声のする方へ伸ばす。
宙をさまよった手は、次の瞬間、差し出されたもうひとつの手によって、しっかりと握られた。
「――上がるぞ! 手を離すな!」
ふたたび声が聞こえたのと同時に、モチコは落下から一転、上昇する感覚を味わう。
目を開くと、固く結ばれた右手の先に、ホウキに乗った魔女が見えた。
その魔女は、艶のある長い黒髪を、耳の下のあたりでふたつに結んでいた。
結んだテールの先が風になびいて、華やかに踊っている。
全身にまとった黄金色のオーラが黒髪に反射して、キラキラと輝いて見えた。
しばらく上昇したのちに、ホウキが空中で止まる。
つないだ右手に強い力がこめられ、モチコは身体ごと引き上げられた。
幸いモチコは背も小さく小柄だったので、難なくホウキの上に持ち上げて乗せられる。
ホウキの上に、魔女と二人乗りをしている格好になった。
「危ないところだったね。怪我はない?」
魔女がモチコに尋ねた。
「……あ、はい。大丈夫です。とりあえず生きてます」
急展開が続いて頭の中が混乱していたが、モチコは何とか答えた。
ホウキの前にいる魔女は、長い黒髪のテールを振ってモチコの方に振り返る。
凛々しさを湛えた、美しい微笑み。
「ミライアだ。よろしく」
そう名乗った魔女の瞳は、尽きぬ情熱と意志の強さを感じさせるような、赤い色だった。
「ミライアさん、助けて頂きありがとうございました」
「お安い御用だ。ただ――」
ミライアは続ける。
「本来なら君を早く帰してあげたいところだけど、いまは急いでいてね。ちょっと付き合ってもらうよ」
ミライアはふたたび前を向き、ホウキの上でやや前傾姿勢を取った。
「私の身体にしっかりつかまっていてくれ」
「え?」
モチコが気の抜けた返事をした次の瞬間、ホウキは矢が放たれるように、急スピードで前へ動き出す。
「うわおぉおおお!?」
あまりの速さに、ホウキの上で身体がのけ反り、リンボーダンスになる。
が、何とか持ち直して、前にいるミライアにしがみついた。
ふたりを乗せたホウキは、黄金色の尾を引きながら夜空を翔けていく。
台風の夜のドキドキは、まだしばらく続きそうだった。
――この出会いが、モチコの運命を大きく変えることになるなんて。
このときはまだ、知るよしも無かったのだ。
モチコは胸が高鳴るのを感じながら、白い砂浜の波打ち際に立っていた。
海の向こうの夕焼けを眺める。
これから台風が来るというのに、空は穏やかだった。
「嵐の前の静けさ、だ」
ひとりつぶやいたモチコは、少し弾んだ息を整えようと深呼吸する。
海から吹いてくる風は生ぬるく湿っていて、潮の香りを運んできた。
「日が沈むまでは、台風もこなさそうだし」
予報では台風が上陸するまで、まだ時間がある。
しばらくは、ここにいても大丈夫だろうと判断した。
穏やかな潮風がモチコの首筋を通り、ボブカットに揃えた毛先を揺らして吹き抜けていく。
風に揺れる白い髪は、夕日に照らされ、サラサラと透明な銀色に輝いていた。
本格的な夏が来る直前のこの季節は、一年で最も日の沈む時間が遅い。
黒ぶちメガネの奥にある青い瞳が、ようやく沈もうとしている夕日を見つめていた。
台風が近づくなか、モチコは仕事のあとにまっすぐ家へは帰らず、急いでこの砂浜へやってきた。
それは、あるものを見るためだ。
「そろそろかな?」
モチコは砂浜の先にある小さな島へ視線をうつす。
砂浜からほど近い海に浮かんだ島は、陸地と橋でつながっている。
島のいちばん高いところには、灯台が建っていた。
この灯台は、船が安全に航海をするために建てられたものでもあるが、もうひとつ重要な役割がある。
台風を観測する、気象台としての役割だ。
台風の通り道となっているこの街では、常に台風を観測し、対策をすることが必要不可欠だった。
ときには猛烈な雨や風の力を弱めるために、台風と戦わなくてはならない場合もある。
魔法技術が発達しているこの街では、台風と戦うのは空を飛ぶ魔女たちの仕事だ。
びゅう、と少し重たい風が吹いた。
モチコの着ている白いブラウスの襟がはためき、水色のロングスカートが太腿までめくり上がる。
「うわ!」
慌ててスカートを手で押さえたが、台風の近づく海辺には、モチコ以外だれもいない。
もう多少めくれても気にしないことにして、スカートを暴れさせたまま空を眺めた。
モチコがこの場所にいる理由。
それは、台風の空に、魔女が飛ぶところを見るためだ。
とくに、夜空を翔ける魔女を見るのが好きだった。
ホウキが飛ぶ軌跡に沿って流れる、彗星のような光の尾。
あれは何度見ても美しい。
ずっと憧れていた『魔女になって空を飛びたい』という夢。
その幼い頃からの夢が破れてしまった今でも、こうして夜空を飛ぶ魔女を見ることだけは好きだった。
キンコン、カーン――。
そのとき、鐘のような音が、街中の屋根を震わせるように鳴り響いた。
街のあちこちに設置されている魔導拡声器から出る音だ。
鐘のような音に続いて、透き通った女性の声が聞こえてきた。
「――台風が接近しています。ただいまより、タイフーンシグナル・ナンバー4を発令します」
台風警告信号とは、台風が来たときの避難警報にあたるものだ。
台風の脅威度に応じて、シグナルは1から9までのレベルがある。
9に近いほど脅威度は高く、このシグナルに応じて、避難方法などが決められている。
台風の多いこの街で、人間が生きていくための知恵といえるだろう。
「――繰り返します。タイフーンシグナル・ナンバー4を発令します。規則に従い、すみやかに行動してください」
シグナル4は、中レベルの台風といったところだ。
すべての市民は屋内への避難が義務づけられ、商店なども一斉にクローズとなる。
そして、魔女は台風へ向けて出撃するのだ。
シグナル発令のアナウンスが終わると同時に、街は避難する人々で慌ただしくなった。
それにつれ、モチコの胸の高鳴りも大きくなる。
日は沈む寸前で、空はすでに藍色になりかけていた。
もうすぐ台風が来る。じきに雨も降り始めるだろう。
モチコもすみやかに帰宅しなければならない。
ただ、その前に、一目だけでも夜空を飛ぶ魔女を見たかった。
もう一度、空を見上げたモチコの瞳が、キラリと光るものを捉える。
それは、灯台の上のほうで星がまたたくように輝いたあと、黄金色の尾をもつ彗星のように、跡を残しながら空を翔けていった。
「黄金色の魔女だ……!」
モチコはその美しさに小さく感嘆の声をあげると、いっときのあいだ見とれていた。
問題が起きたのは、そのときだった。
ゴウ、と低い音がして、スカートがぶわりと広がるのが分かった。
すぐに強い風が来ると予感して身構えたが、衝撃は全くやってこない。
代わりに、砂浜を舐めるように迫ってきた突風が、突き上げるようにスカートの中を襲い、足をふわりとすくい上げた。
「――あっ」
次の瞬間、小さく叫んだ時には、モチコは空中にいた。
左右の足が地面から離れ、視界の上下左右が回転する。
体勢を整える間もなく、竜巻のような風が、あっという間にモチコを遥か上空へと持ち上げた。
ロングスカートが、風を思いっきり受けて膨らんだせいだ。
モチコの軽い身体は、猛烈な風によって、糸の切れた凧のように飛ばされてしまっていた。
上昇が止まり、今から落下が始まろうとする一瞬、モチコは視界の端に灯台を見た。
この街で最も高い場所にある灯台が、自分より下にあることに気づいて、状況を理解する。
――この高さから落ちたら、確実に死ぬ。
落下する感覚の中、モチコは自分でも意外なほど落ち着いて、色々なことを考えていた。
こういうのを走馬灯というのかもしれない。
――台風の夜にロングスカートを履いてはいけない。
――落ちたらつぶれて死ぬのか。海に落ちて、クラーケンの今夜のおかずになるのはやだな……。
いくつかの言葉が浮かんだあとで、最後に考えたのは、叶わなかった夢についてだった。
魔女になって空を飛びたいという夢。
頑張って働いて学費をためて魔法学校へ通ったこと。
結局才能が無くて魔女になれなかったこと。
空を飛べない自分が、最期にこうして空を飛んでいるのは、ちょっと皮肉だ。
この世界には、どれだけの数の夢があるんだろう。
そのうちいくつが叶い、いくつが消えていくのか。
――私は叶わなかった夢と一緒に、ここで消えるのだ。
ひとりごとのような思考を終えたモチコは、最期の瞬間を迎えるために、静かに目を閉じる。
すると、まぶたの裏に、金色の粉を振りまいたような光が見えた。
ちょっと早いけど、もう天国かな?
……と思ったりもしたが、その直後、明らかに現世からの声が響く。
「――手を出せ!」
まるで暗闇に差し込む一条の光のような、凛々しい声だった。
モチコは反射的に、右手を声のする方へ伸ばす。
宙をさまよった手は、次の瞬間、差し出されたもうひとつの手によって、しっかりと握られた。
「――上がるぞ! 手を離すな!」
ふたたび声が聞こえたのと同時に、モチコは落下から一転、上昇する感覚を味わう。
目を開くと、固く結ばれた右手の先に、ホウキに乗った魔女が見えた。
その魔女は、艶のある長い黒髪を、耳の下のあたりでふたつに結んでいた。
結んだテールの先が風になびいて、華やかに踊っている。
全身にまとった黄金色のオーラが黒髪に反射して、キラキラと輝いて見えた。
しばらく上昇したのちに、ホウキが空中で止まる。
つないだ右手に強い力がこめられ、モチコは身体ごと引き上げられた。
幸いモチコは背も小さく小柄だったので、難なくホウキの上に持ち上げて乗せられる。
ホウキの上に、魔女と二人乗りをしている格好になった。
「危ないところだったね。怪我はない?」
魔女がモチコに尋ねた。
「……あ、はい。大丈夫です。とりあえず生きてます」
急展開が続いて頭の中が混乱していたが、モチコは何とか答えた。
ホウキの前にいる魔女は、長い黒髪のテールを振ってモチコの方に振り返る。
凛々しさを湛えた、美しい微笑み。
「ミライアだ。よろしく」
そう名乗った魔女の瞳は、尽きぬ情熱と意志の強さを感じさせるような、赤い色だった。
「ミライアさん、助けて頂きありがとうございました」
「お安い御用だ。ただ――」
ミライアは続ける。
「本来なら君を早く帰してあげたいところだけど、いまは急いでいてね。ちょっと付き合ってもらうよ」
ミライアはふたたび前を向き、ホウキの上でやや前傾姿勢を取った。
「私の身体にしっかりつかまっていてくれ」
「え?」
モチコが気の抜けた返事をした次の瞬間、ホウキは矢が放たれるように、急スピードで前へ動き出す。
「うわおぉおおお!?」
あまりの速さに、ホウキの上で身体がのけ反り、リンボーダンスになる。
が、何とか持ち直して、前にいるミライアにしがみついた。
ふたりを乗せたホウキは、黄金色の尾を引きながら夜空を翔けていく。
台風の夜のドキドキは、まだしばらく続きそうだった。
――この出会いが、モチコの運命を大きく変えることになるなんて。
このときはまだ、知るよしも無かったのだ。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。