五話 ……ダイ……スケさん
ー/ー 灰色の空間からベルフェゴールの声が響いた。
ウィオリナは混乱と驚愕に喘ぐも、一瞬で警戒態勢をとり、油断なく鋭く光らせた陽色の瞳を周囲に走らせる。
<天血獣>を纏い、両手首から血を放出して血のヴァイオリンと血の弓を素早く創り出し、構える。
「……」
呼吸も心臓の音すらも響かない。冷や汗も垂れない。僅かな音すらも聞き逃さないためにウィオリナが体の全てを制御しているのだ。
耳が痛くなるほどの静寂だけがその灰色の空間を支配する。
『殺すのは清々しただろう』
「ッ」
だから、その声はウィオリナの心に強く響いた。
その声はベルフェゴールの声ではない。女の、少女の声。信念がある美しい声。そのはずだった声。
「それはッ!!!!!」
その声を主を見た瞬間、ウィオリナが怒る。いや、それは怒りというよりも忌避に近いのだろう。
どちらにしろ、ウィオリナは顔を鬼のように歪め、その声の主――ウィオリナの貌をした灰色の悪魔へ向かって駆ける。
狼を纏う血のワンピースから無数の血糸が放出され、灰色のウィオリナへ奔る。
『暴虐の次は怒りか。いいぜぇ。もっと怠惰になれ』
「黙れ、ですッッ!!」
まるであらゆる欲や悪を凝縮したように表情を歪めて嗤った灰色のウィオリナは、合わせ鏡のように<天血獣>を纏い血糸を放出する。
ウィオリナが放出した血糸とぶつかり、絡み合い、消滅した。
ウィオリナは止まらない。
瞬く一瞬で、灰色のウィオリナの懐に入り込み、薄く血の刃を纏わせた血のヴァイオリンを振り上げる。
『いいぞ。もっとやれ』
「ッ!」
振り上げた血のヴァイオリンは、灰色のウィオリナ心臓から首の根本までを切り上げる。
灰色の血を吹き出した灰色のウィオリナは、しかしながらニィッと嗤う。邪悪な気を振りまく。
自分の貌で嗤われ、邪悪な気を振りまかれる。これ以上の忌避があるか。
恐怖と怒り……訳も分からない強い感情に押し流され、ウィオリナは無抵抗の灰色のウィオリナを血のヴァイオリンや血の弓で斬って刺して殺そうとする。
だがしかし、傷は増え、灰色の血が大量に散っているにも関わらず、灰色のウィオリナは益々嗤う。愉快と言わんばかりだった。
そして逆に、反撃もされていないのにも関わらず、ウィオリナの表情は徐々に苦痛に歪んでいた。
(苦しいです! 圧倒しているのに、斃せるのに! アイツを斬れば斬るほどッ)
実際に攻撃が反転しているわけでもない。
しかし、灰色のウィオリナ斬れば斬るほど、灰色のウィオリナが血を流せば流すほど、ウィオリナの心が悲鳴を上げていく。
そう、まるで自傷だ。自分で自分を否定する。とても苦しい現状。
ウィオリナは肉体的な痛みに強い。血力による痛覚操作もだが、復讐心でドーピングしていた時の感覚が残っており、自分自身の体そのものにはあまり執着がなかったのもある。
けど、だからこそ、精神的な苦痛、多大な負荷に弱い。
血闘封術師の時は、デジールへの復讐心がそれを埋めていた。信念があっても、仲間の信頼があっても、ウィオリナの根本には復讐心があった。確固たる支えだった。
しかし、今、それはない。
だから、強靭な支えを失ったウィオリナはその精神的な負荷を真っ向からねじ伏せられない。
惰性だけで耐えているのだ。
そして、ウィオリナの心に掛かる苦痛がある一定に達した時。
『ハハ。ハハハハハ! ようやく終わったぜ! これでサボれるッ!』
「ッッッッ!!??」
灰色のウィオリナが灰色ではなくなった。
ウィオリナと本当の意味で瓜二つ。彩を宿していた。
同時に、灰色のウィオリナが放っていた邪悪な気が抜け落ちた。
それは、ウィオリナのコピー。もう一人のウィオリナ。
ベルフェゴールは司る怠惰とは別に、普通に面倒くさがりだ。戦うのも面倒だし、何かするのも面倒。
ただ、仲の良い男女を見ると腹が立ち、女の方を誘惑し、不義させる。伝承の通りでもあり、実際そういう悪魔なのだ。
しかし、それ以外では動くことなどない。地獄にある宮殿にずっと引きこもっているだけ。天獄界の七王の中で、唯一、神になることをどうでもいいと思っていたのだ。
今回、引きこもっていた宮殿から出てきたのは、ただただサタンに連れ出されたからだ。力関係ではサタンに敵わず、歯向かうのも面倒だから出てきただけなのだ。
だが、もう一度言うがベルフェゴールは極度の面倒くさがりなのだ。そして怠惰を司っている。
仕事をサボる。けれど、仕事は完成してほしいから誰かにして欲しい。他の物事全てにおいてもそうだ。
自分は何もしたくない。だけど結果だけが欲しい。もしくは誰が代わりにやってほしい。
怠惰に付随するそんな思考はほぼ全ての人間が大なり小なり抱いているもの。
故に、ベルフェゴールは自分とほぼ同等の力と魂魄を持った代わりの存在を創り出すことができる。超高性能な分身体とも言うべきか。
偽物創造である。
最初にウィオリナが殺したベルフェゴールはそいつだ。今までの灰色のウィオリナもそれ。
そして今の偽物のウィオリナは、ベルフェゴールすら宿っていない。自分の体を媒介に創り出した、もう一人のウィオリナなのだ。
自分以外の偽物も創造できるのだ。
サタンからベルフェゴールに与えられた命令は、ただ一つ。ウィオリナの足止めをすることだけ。
だから、ベルフェゴールはウィオリナをコピーした。自分と戦って勝てる者はおらず、ただ永遠に千日手を繰り返すだけ。
ベルフェゴールは晴れて、戦うことそのものもサボる事ができる。偽物のウィオリナに全てを任せればそれで済むのだから。
まさに、怠惰。
「ッッッァアア、ですッ!!」
『ッッッァアア、ですッ!!』
力、技術、思考。ほぼ全てがウィオリナと同等。戦いの中で成長する成長速度も殆ど同等。
そしてそれは大皇日女から与えられたはずの祈力や“天眼”すらも同等なのだ。
だから、ベルフェゴールは堕ちる空間等々といった搦め手を使い、ウィオリナをコピーするまでの時間を稼いでいたのだが……
「わたしなら、邪魔するな、ですッッ!」
『わたしなら、戦うな、ですッッ!』
ウィオリナが<血糸電裂>で電撃を放てば、それを予測していた偽物のウィオリナが血の槍を創り出し、避雷針として電撃を逸らす。
その思考をウィオリナ自身が物凄く理解しているから、ウィオリナは容易く次の連撃に移る。
しかし、偽物のウィオリナも本物のウィオリナの思考を熟知している。同じようにウィオリナの思考の先を読み、連撃を仕掛ける。
自分と戦っているからこそ、呼吸する暇もない接戦。
血糸が舞い、鮮血が散り、紅が奔る。
血闘封術師最強で、神封じすらも為したウィオリナだ。
その本人同士の戦いは、隔絶としたものとなる。天獄界の王の一人であるベルフェゴールですらも、その戦いの間に入れないだろう。
互いに<天血獣>を纏っているため、その速度は高みの見物をしているベルフェゴールですらも目で追えないほど速くなっている。
音速を超えていることにより発生する衝撃波が交じり合い、巨大な嵐を巻き起こしている。
互いに血糸を放ちすぎたせいで、空間には粒子状の鮮血が浮かび、それはまるで血の霧となっている。そこで呼吸をすれば、同時に吸い込んだ血の霧が増幅され、体内から血の針や槍が突き出ることだろう。
互いに“天封”を用いた<血糸封楔>を何度も放ちぶつけ合っているせいで、封印の力が力場として空間に存在するようになった。
ベルフェゴールがそこ足を踏み入れれば、完全とはいかないものの、ほぼ封印されてしまうだろう。
むしろ、ウィオリナや偽物のウィオリナがその封印の力場に飲まれていないほうが不思議だ。
つまるところ、ベルフェゴールの恐ろしいところは、格上の相手すらも自らが戦うことなく斃せること。
いや、むしろ格上であればあるほど、超高位な戦闘を強いられる。実力が上がれば上がるほど、使う技術や力は洗練されていき、偽物が追いつけないほどの劇的な成長すらも望めなくなる。
斃されてしまう。
そして、そう、斃せるなのだ。斃せてしまうのだ。
戦い、戦い、戦い。
されど、互いに一歩も譲ることなく永遠に膠着状態が続くかと思われたそれは、
『終わりですッッッ!!!』
「がッ!?」
ウィオリナは偽物のウィオリナが放った血の弓の突きに首を貫かれたことによって終了した。
ウィオリナの動きが急に精彩を欠いたせいで、その血の弓の突きの回避に間に合わなかったのだ。
何故、ウィオリナの動きが精彩を欠いたか。理由は簡単だ。
ウィオリナと偽物のウィオリナには一つだけ違いがあったからだ。
それはベルフェゴールによるエネルギーの肩代わりがあるかないか。
偽物のウィオリナが消費する力は、ベルフェゴールの霊力によって代替される。
偽物のウィオリナの体力はもちろん、血力や祈力……その他諸々にいたるまで、底がない。限界がない。いくらでも消費できるのだ。
いや、ベルフェゴールの霊力が尽きれば終わりだが、尽きることは殆どないだろう。ベルフェゴールが怠惰という人間の誰しもがもつ感情を糧としているため、その霊力に限界はないと言っても過言ではない。
むしろだ。
天獄界の七王の中でベルフェゴールは最も霊力も保持しており、なおかつ供給量も最も多い。
二番目に多いのはマモンだ。もっとも、マモンは自分が一番多いと勘違いしているが。
怠惰はあらゆる感情に精通しているのだ。
七つの大罪においての怠惰は元々悲嘆と憂鬱がもととなっていると言われている。
しかし、怠惰そのもの、つまり怠けることすなわち、節制しておらず、耐えていないということに他ならない。『しない』ということ。
欲望に耐えていない。すなわち、怠惰。
怒りを抑えない。すなわち、怠惰。
嫉妬を抑えない。すなわち、怠惰。
努力しない。すなわち、怠惰。
考えない。すなわち、怠惰。
……エトセトラ。
つまるところ、怠惰は欲望以上に人と隣り合わせにある感情だ。
だから、エネルギーに限りのあるウィオリナでは、無尽蔵のエネルギー消費が可能な偽物のウィオリナに勝てない。
もう、ウィオリナの血力と祈力が尽きてしまった。
「……ぁ……こん……な」
<天血獣>が解け、倒れる。穴の空いた首から血を流す。
偽物のウィオリナが行使している治癒妨害を抵抗する力も残っておらず、ウィオリナの体が徐々に冷たくなっていく。
「……ダイ……スケさん」
視界は薄れ、意識は朧ぐ。
そんな中でウィオリナは大輔の事を想った。灰色の空間で考えていた、苦しみと哀しみの先を想った。
Φ
あの日。吸血鬼を斃すではなく、封印すると誓った日。
あの時、ウィオリナの復讐心は大きく変貌した。
いや、復讐心と信念が互いに互いを尊重するようになったのだ。
だからこそ、デジールを封印して復讐心が萎んだ時、信念だけがウィオリナの心を支配していた。占めた。
正しくありたい。優しくありたい。誇りを持ちたい。
ティーガンや仲間の血闘封術師と過ごし、助けた人々に感謝された事で生まれた単純な、されど明確ではない曖昧模糊な信念だけが闊歩するようになってしまった。
けど、それは、十七年間の人生の半分近くを復讐に捧げてきたウィオリナにとっ
て当たり前の事なのだろう。
まだまだ、ウィオリナの心は幼いのだ。それでいて、上っ面の精神だけは成熟しているように見えてる。
そんな矛盾を孕んでいた。
そんな矛盾を隠すためにウィオリナは天真爛漫に笑った。奥底の精神を育てることなく、上っ面だけを肥大化させていった。
……怠惰。
幼い心が初恋を正しく認識するのは難しい。そもそもそれが恋でない可能性の方が高い。
だから、ウィオリナはそれは恋でないと信じることにした。
恋について考え抜く事を放棄した。
……怠惰。
ウィオリナは既に復讐に身を染めた。清らかとは言い難い。
けれど、単純で曖昧模糊な信念が心を占めてしまったせいで、自分は清らか……純心でなければならないと錯覚した。
だから、大輔に素直に想いを告げ、恋をしている杏に嫉妬した醜い心を否定するために、杏の行為を否定しようとした。
自分が悪いのではなく、杏が悪いことをしたから、黒い感情が湧きあがったのだと、思い込もうとした。
嫉妬と向き合う事を放棄した。
……怠惰。
祈力はもちろん、“天眼”、“天封”、血力の直接操作や、一部の生命干渉の血法に至るまで、その力は与えられた物である。
もちろん、与えられたからといって使いこなすのは別だ。習熟させるのは別である。けれど最初から最後まで、ウィオリナ自身が獲得したものではない。
自ら力を発現させる事はなかった。与えられた力だけの習熟に勤しんでいた。
……怠惰。
ああ、自分はこんなにも怠惰であったのだと。
ウィオリナは自分を責める。こんな事ではいけないと思う。今の自分を受け止めることもなく、愛することもなく、責め続ける。
それも怠惰。自制心すらも、違う側面から見れば怠惰となる。
(……もう嫌……です)
暗く沈みこむ意識の中、自身の怠惰を見たウィオリナは悲嘆にくれる。どうしようもない自分に哀しくなる。
怠惰な自分が嫌で、苦しくて、哀しくて。
大輔が好きだと自覚した自分が嫌で、杏に嫉妬してしまう自分が嫌で、借り物の力でここにいる自分が嫌で、成長しない自分が嫌で。
過去を消してしまいたいと思う自分が嫌で。普通の女の子でいたいと思った自分が嫌で。
嫌で、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で。
だから、仮面を被ろうとした。
そして、『死』へと導かれ――
(『汝よ、それは勝手が過ぎるぞ』)
暗闇の意識に傲岸不遜な声が響いた。
ウィオリナは混乱と驚愕に喘ぐも、一瞬で警戒態勢をとり、油断なく鋭く光らせた陽色の瞳を周囲に走らせる。
<天血獣>を纏い、両手首から血を放出して血のヴァイオリンと血の弓を素早く創り出し、構える。
「……」
呼吸も心臓の音すらも響かない。冷や汗も垂れない。僅かな音すらも聞き逃さないためにウィオリナが体の全てを制御しているのだ。
耳が痛くなるほどの静寂だけがその灰色の空間を支配する。
『殺すのは清々しただろう』
「ッ」
だから、その声はウィオリナの心に強く響いた。
その声はベルフェゴールの声ではない。女の、少女の声。信念がある美しい声。そのはずだった声。
「それはッ!!!!!」
その声を主を見た瞬間、ウィオリナが怒る。いや、それは怒りというよりも忌避に近いのだろう。
どちらにしろ、ウィオリナは顔を鬼のように歪め、その声の主――ウィオリナの貌をした灰色の悪魔へ向かって駆ける。
狼を纏う血のワンピースから無数の血糸が放出され、灰色のウィオリナへ奔る。
『暴虐の次は怒りか。いいぜぇ。もっと怠惰になれ』
「黙れ、ですッッ!!」
まるであらゆる欲や悪を凝縮したように表情を歪めて嗤った灰色のウィオリナは、合わせ鏡のように<天血獣>を纏い血糸を放出する。
ウィオリナが放出した血糸とぶつかり、絡み合い、消滅した。
ウィオリナは止まらない。
瞬く一瞬で、灰色のウィオリナの懐に入り込み、薄く血の刃を纏わせた血のヴァイオリンを振り上げる。
『いいぞ。もっとやれ』
「ッ!」
振り上げた血のヴァイオリンは、灰色のウィオリナ心臓から首の根本までを切り上げる。
灰色の血を吹き出した灰色のウィオリナは、しかしながらニィッと嗤う。邪悪な気を振りまく。
自分の貌で嗤われ、邪悪な気を振りまかれる。これ以上の忌避があるか。
恐怖と怒り……訳も分からない強い感情に押し流され、ウィオリナは無抵抗の灰色のウィオリナを血のヴァイオリンや血の弓で斬って刺して殺そうとする。
だがしかし、傷は増え、灰色の血が大量に散っているにも関わらず、灰色のウィオリナは益々嗤う。愉快と言わんばかりだった。
そして逆に、反撃もされていないのにも関わらず、ウィオリナの表情は徐々に苦痛に歪んでいた。
(苦しいです! 圧倒しているのに、斃せるのに! アイツを斬れば斬るほどッ)
実際に攻撃が反転しているわけでもない。
しかし、灰色のウィオリナ斬れば斬るほど、灰色のウィオリナが血を流せば流すほど、ウィオリナの心が悲鳴を上げていく。
そう、まるで自傷だ。自分で自分を否定する。とても苦しい現状。
ウィオリナは肉体的な痛みに強い。血力による痛覚操作もだが、復讐心でドーピングしていた時の感覚が残っており、自分自身の体そのものにはあまり執着がなかったのもある。
けど、だからこそ、精神的な苦痛、多大な負荷に弱い。
血闘封術師の時は、デジールへの復讐心がそれを埋めていた。信念があっても、仲間の信頼があっても、ウィオリナの根本には復讐心があった。確固たる支えだった。
しかし、今、それはない。
だから、強靭な支えを失ったウィオリナはその精神的な負荷を真っ向からねじ伏せられない。
惰性だけで耐えているのだ。
そして、ウィオリナの心に掛かる苦痛がある一定に達した時。
『ハハ。ハハハハハ! ようやく終わったぜ! これでサボれるッ!』
「ッッッッ!!??」
灰色のウィオリナが灰色ではなくなった。
ウィオリナと本当の意味で瓜二つ。彩を宿していた。
同時に、灰色のウィオリナが放っていた邪悪な気が抜け落ちた。
それは、ウィオリナのコピー。もう一人のウィオリナ。
ベルフェゴールは司る怠惰とは別に、普通に面倒くさがりだ。戦うのも面倒だし、何かするのも面倒。
ただ、仲の良い男女を見ると腹が立ち、女の方を誘惑し、不義させる。伝承の通りでもあり、実際そういう悪魔なのだ。
しかし、それ以外では動くことなどない。地獄にある宮殿にずっと引きこもっているだけ。天獄界の七王の中で、唯一、神になることをどうでもいいと思っていたのだ。
今回、引きこもっていた宮殿から出てきたのは、ただただサタンに連れ出されたからだ。力関係ではサタンに敵わず、歯向かうのも面倒だから出てきただけなのだ。
だが、もう一度言うがベルフェゴールは極度の面倒くさがりなのだ。そして怠惰を司っている。
仕事をサボる。けれど、仕事は完成してほしいから誰かにして欲しい。他の物事全てにおいてもそうだ。
自分は何もしたくない。だけど結果だけが欲しい。もしくは誰が代わりにやってほしい。
怠惰に付随するそんな思考はほぼ全ての人間が大なり小なり抱いているもの。
故に、ベルフェゴールは自分とほぼ同等の力と魂魄を持った代わりの存在を創り出すことができる。超高性能な分身体とも言うべきか。
偽物創造である。
最初にウィオリナが殺したベルフェゴールはそいつだ。今までの灰色のウィオリナもそれ。
そして今の偽物のウィオリナは、ベルフェゴールすら宿っていない。自分の体を媒介に創り出した、もう一人のウィオリナなのだ。
自分以外の偽物も創造できるのだ。
サタンからベルフェゴールに与えられた命令は、ただ一つ。ウィオリナの足止めをすることだけ。
だから、ベルフェゴールはウィオリナをコピーした。自分と戦って勝てる者はおらず、ただ永遠に千日手を繰り返すだけ。
ベルフェゴールは晴れて、戦うことそのものもサボる事ができる。偽物のウィオリナに全てを任せればそれで済むのだから。
まさに、怠惰。
「ッッッァアア、ですッ!!」
『ッッッァアア、ですッ!!』
力、技術、思考。ほぼ全てがウィオリナと同等。戦いの中で成長する成長速度も殆ど同等。
そしてそれは大皇日女から与えられたはずの祈力や“天眼”すらも同等なのだ。
だから、ベルフェゴールは堕ちる空間等々といった搦め手を使い、ウィオリナをコピーするまでの時間を稼いでいたのだが……
「わたしなら、邪魔するな、ですッッ!」
『わたしなら、戦うな、ですッッ!』
ウィオリナが<血糸電裂>で電撃を放てば、それを予測していた偽物のウィオリナが血の槍を創り出し、避雷針として電撃を逸らす。
その思考をウィオリナ自身が物凄く理解しているから、ウィオリナは容易く次の連撃に移る。
しかし、偽物のウィオリナも本物のウィオリナの思考を熟知している。同じようにウィオリナの思考の先を読み、連撃を仕掛ける。
自分と戦っているからこそ、呼吸する暇もない接戦。
血糸が舞い、鮮血が散り、紅が奔る。
血闘封術師最強で、神封じすらも為したウィオリナだ。
その本人同士の戦いは、隔絶としたものとなる。天獄界の王の一人であるベルフェゴールですらも、その戦いの間に入れないだろう。
互いに<天血獣>を纏っているため、その速度は高みの見物をしているベルフェゴールですらも目で追えないほど速くなっている。
音速を超えていることにより発生する衝撃波が交じり合い、巨大な嵐を巻き起こしている。
互いに血糸を放ちすぎたせいで、空間には粒子状の鮮血が浮かび、それはまるで血の霧となっている。そこで呼吸をすれば、同時に吸い込んだ血の霧が増幅され、体内から血の針や槍が突き出ることだろう。
互いに“天封”を用いた<血糸封楔>を何度も放ちぶつけ合っているせいで、封印の力が力場として空間に存在するようになった。
ベルフェゴールがそこ足を踏み入れれば、完全とはいかないものの、ほぼ封印されてしまうだろう。
むしろ、ウィオリナや偽物のウィオリナがその封印の力場に飲まれていないほうが不思議だ。
つまるところ、ベルフェゴールの恐ろしいところは、格上の相手すらも自らが戦うことなく斃せること。
いや、むしろ格上であればあるほど、超高位な戦闘を強いられる。実力が上がれば上がるほど、使う技術や力は洗練されていき、偽物が追いつけないほどの劇的な成長すらも望めなくなる。
斃されてしまう。
そして、そう、斃せるなのだ。斃せてしまうのだ。
戦い、戦い、戦い。
されど、互いに一歩も譲ることなく永遠に膠着状態が続くかと思われたそれは、
『終わりですッッッ!!!』
「がッ!?」
ウィオリナは偽物のウィオリナが放った血の弓の突きに首を貫かれたことによって終了した。
ウィオリナの動きが急に精彩を欠いたせいで、その血の弓の突きの回避に間に合わなかったのだ。
何故、ウィオリナの動きが精彩を欠いたか。理由は簡単だ。
ウィオリナと偽物のウィオリナには一つだけ違いがあったからだ。
それはベルフェゴールによるエネルギーの肩代わりがあるかないか。
偽物のウィオリナが消費する力は、ベルフェゴールの霊力によって代替される。
偽物のウィオリナの体力はもちろん、血力や祈力……その他諸々にいたるまで、底がない。限界がない。いくらでも消費できるのだ。
いや、ベルフェゴールの霊力が尽きれば終わりだが、尽きることは殆どないだろう。ベルフェゴールが怠惰という人間の誰しもがもつ感情を糧としているため、その霊力に限界はないと言っても過言ではない。
むしろだ。
天獄界の七王の中でベルフェゴールは最も霊力も保持しており、なおかつ供給量も最も多い。
二番目に多いのはマモンだ。もっとも、マモンは自分が一番多いと勘違いしているが。
怠惰はあらゆる感情に精通しているのだ。
七つの大罪においての怠惰は元々悲嘆と憂鬱がもととなっていると言われている。
しかし、怠惰そのもの、つまり怠けることすなわち、節制しておらず、耐えていないということに他ならない。『しない』ということ。
欲望に耐えていない。すなわち、怠惰。
怒りを抑えない。すなわち、怠惰。
嫉妬を抑えない。すなわち、怠惰。
努力しない。すなわち、怠惰。
考えない。すなわち、怠惰。
……エトセトラ。
つまるところ、怠惰は欲望以上に人と隣り合わせにある感情だ。
だから、エネルギーに限りのあるウィオリナでは、無尽蔵のエネルギー消費が可能な偽物のウィオリナに勝てない。
もう、ウィオリナの血力と祈力が尽きてしまった。
「……ぁ……こん……な」
<天血獣>が解け、倒れる。穴の空いた首から血を流す。
偽物のウィオリナが行使している治癒妨害を抵抗する力も残っておらず、ウィオリナの体が徐々に冷たくなっていく。
「……ダイ……スケさん」
視界は薄れ、意識は朧ぐ。
そんな中でウィオリナは大輔の事を想った。灰色の空間で考えていた、苦しみと哀しみの先を想った。
Φ
あの日。吸血鬼を斃すではなく、封印すると誓った日。
あの時、ウィオリナの復讐心は大きく変貌した。
いや、復讐心と信念が互いに互いを尊重するようになったのだ。
だからこそ、デジールを封印して復讐心が萎んだ時、信念だけがウィオリナの心を支配していた。占めた。
正しくありたい。優しくありたい。誇りを持ちたい。
ティーガンや仲間の血闘封術師と過ごし、助けた人々に感謝された事で生まれた単純な、されど明確ではない曖昧模糊な信念だけが闊歩するようになってしまった。
けど、それは、十七年間の人生の半分近くを復讐に捧げてきたウィオリナにとっ
て当たり前の事なのだろう。
まだまだ、ウィオリナの心は幼いのだ。それでいて、上っ面の精神だけは成熟しているように見えてる。
そんな矛盾を孕んでいた。
そんな矛盾を隠すためにウィオリナは天真爛漫に笑った。奥底の精神を育てることなく、上っ面だけを肥大化させていった。
……怠惰。
幼い心が初恋を正しく認識するのは難しい。そもそもそれが恋でない可能性の方が高い。
だから、ウィオリナはそれは恋でないと信じることにした。
恋について考え抜く事を放棄した。
……怠惰。
ウィオリナは既に復讐に身を染めた。清らかとは言い難い。
けれど、単純で曖昧模糊な信念が心を占めてしまったせいで、自分は清らか……純心でなければならないと錯覚した。
だから、大輔に素直に想いを告げ、恋をしている杏に嫉妬した醜い心を否定するために、杏の行為を否定しようとした。
自分が悪いのではなく、杏が悪いことをしたから、黒い感情が湧きあがったのだと、思い込もうとした。
嫉妬と向き合う事を放棄した。
……怠惰。
祈力はもちろん、“天眼”、“天封”、血力の直接操作や、一部の生命干渉の血法に至るまで、その力は与えられた物である。
もちろん、与えられたからといって使いこなすのは別だ。習熟させるのは別である。けれど最初から最後まで、ウィオリナ自身が獲得したものではない。
自ら力を発現させる事はなかった。与えられた力だけの習熟に勤しんでいた。
……怠惰。
ああ、自分はこんなにも怠惰であったのだと。
ウィオリナは自分を責める。こんな事ではいけないと思う。今の自分を受け止めることもなく、愛することもなく、責め続ける。
それも怠惰。自制心すらも、違う側面から見れば怠惰となる。
(……もう嫌……です)
暗く沈みこむ意識の中、自身の怠惰を見たウィオリナは悲嘆にくれる。どうしようもない自分に哀しくなる。
怠惰な自分が嫌で、苦しくて、哀しくて。
大輔が好きだと自覚した自分が嫌で、杏に嫉妬してしまう自分が嫌で、借り物の力でここにいる自分が嫌で、成長しない自分が嫌で。
過去を消してしまいたいと思う自分が嫌で。普通の女の子でいたいと思った自分が嫌で。
嫌で、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で。
だから、仮面を被ろうとした。
そして、『死』へと導かれ――
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