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第4回

ー/ー



 シャナは感応した最初から破天荒で、他の者たちと違い、自分に『操主(そうしゅ)』と呼ぶことを許さなかった。

「やめてよね、その他人行儀なとこ。いくら敬称だからって、わざわざ距離をつくる必要なんかないじゃない。これから一生付き合っていくんだから」

 拗ねたように先を歩く足を速め、決して顔を見せようとせずにシャナはかつてそう言った。

「大体ね、ひとと同じ呼び方してなんで平気なのよ。嬉しいわけないじゃない。絶対間違ってるわよ、そういうのって。あたしを何だと思ってるわけ?」

 ぶつぶつ不満をつぶやいている。

 他の呼び方をしてはいけないという決まりはないが、感応した魔断は自身の(あるじ)となった者を『操主』と呼ぶのは慣例で、人も魔断も全員何の疑問も持たずそれを受け入れている。

 なぜなら、魅魎のように人にない力を持つものである以上、人が魔断を魅魎と同一視し、警戒心を抱くのは当たり前だからだ。

 幼いころから幻聖宮で魔断とふれ合ってきた退魔師たちはそうでもないが、宮から一歩外に出れば、魔断は人でないもの、人にない力を持つものとして奇異の目で見られることになる。
 彼らを安心させるためにも、魔断はあくまで人に仕える物だということを常に示し続けなくてはならない。

 それとして一番単純で明快なものが呼び名だというわけだ。

 呼び名は目に見えない鎖、首輪として、周囲の人々にどちらが主か、その主従関係を理解させ、安堵させる。

 だがシャナは、それ――他の退魔師たちと同じであること――が気にくわないようだった。 

「……でも、あなたがわたしの主人なのは間違いないのですから、やはりけじめはつけないと、他の方たちの手前――」

 凍稀は彼女がなぜこんなに不満を持っているのか理解できないまま、とにかくいつもの彼女に戻ってもらおうと言葉を選び選び返答を試みたが、それは反対にシャナの怒りに火を注ぐ結果となってしまったようだった。

「だから、他人がどうして関係あるのっ! 互いをどう呼ぶかなんて、あたしとあなただけの問題でしょ!」

 ぱっと振り向き、怒り心頭といった顔で胸に指を突きつけてくる。

 たかが呼び方じゃないか。この程度のことに、どうしてこの方はこうまで気を高ぶらせたりするのだろう?
 その意図がまるで分からず、とまどってばかりいた。あのころ。

「……では、どうお呼びすれば、あなたに満足していただけるのでしょうか……」

 何がそんなに気に障ったのか分からないが、どう見ても自分の用いた言葉で腹を立てている彼女に恐縮し、とにもかくにもそう弁明をする。
 彼女の希望に沿うようにすればきっと機嫌を直して、いつもの彼女に戻ってくれるに違いないと。

 誠心誠意、用いる言業1つ1つに気を配って告げたはずなのに。やはり理解できないまま、返事は返すものではなかった。

 みごと大的はずしをしたらしく、気を直すどころか、彼女はついにたまりかねたようにじだんだを踏んで、こう言ってきたのである。

「それっくらい、自分で考えなさいよ! さもないとわたし、一生あなたに呼ばれても返事なんかしてあげないし、口もきいてあげないんだからっ!」

 どちらが欠けても意味をなさない、神によって定められた一対として感応を果たし、ともに王命を受けてこの町で退魔の役についている限りそんなことができるはずもないのに……真剣に言う彼女があまりに可愛らしくて、つい、失笑してしまった。

 それを見たシャナはますます顔を真っ赤に染めて、

「ばか凍稀! もう知らないっ!!」

 と叫ぶなり、ぷいっと前を向いて早足で歩きだした。

「待ってください、操主」

 聞こえなかったはずはないのに無視を決めこんですたすた歩くところからみて、どうやら早くも宣言を決行しているらしい。

「シフェルアーナ・ルサイテ・フィディゼギナルさま?」

 フルネームで呼んでみても反応はない。

「ファタル・シフェルアーナ」

 女性の尊称をつけても駄目だ。

 それからしばらくの間、彼女に気に入ってもらえる呼び方を探して大陸中、ありあらゆる国の尊称を使い、彼女を呼んだが、彼女はがんとしてそのどれにも妥協してくれようとはしなかった。

 ちらとも凍稀のほうを見ようともせず、口も開かない。部屋のドアを叩いても無反応。


 本当は、最初からうすうす気付いていたのだ、彼女がどう呼んでもらいたがっているか。
 今まで、だれ1人としてそう呼ぶことを許さなかった呼称。なんとなく、彼女はそれを使うことを自分に期待しているのだということを、心のどこかで感じていた。

 第一あとはもう、その呼び方しか残っていない。

「……お願いですから、どうか気を直してこちらを向いてください。そうやってあなたに拒絶されることがどれほどわたしをつらい気持ちにさせるか、あなたはご存知なのでしょう? ……シャナ」

 この我慢比べに負けたのは自分だ。きっと、シャナの方も同じくらい辛かったはずだから。

 彼女は、その呼び方に大いに満足したように、今まで見せたことのない極上の笑顔で彼を振り返った。

「そうよ、それでいいのっ」

 心から嬉しそうに笑って。
 その瞳に自分の姿を映してくれたときの喜びは、この身が減びる瞬間がきても忘れることはないだろう。
 シャナ。命よりも大切な、だれより愛しい女性の名。

 だが、彼女への思いが主への尊敬の念などではなく、もっと特種な、特別な感情であると気付いたのは、それからさらに数年を経たあとのことだった。

 なぜ彼女はいつまでも家庭を持とうとしないのだろうか?

 はじまりは、ふと浮かんだそんなたわいのない疑問だった。
 いつ死ぬかもしれない危険な役目についている者だからと尻込みする男がいたとしても、その迷いを蹴散らしでしまえるほど、彼女は美しいのに。
 それに、だからこそ退魔師もまた家庭を早く持とうとするものだ。

 愛する者を得、あたたかな家庭を築き、子を成す。人としてこの世に生まれた意味と満足感を得ることに、彼らは急ぐ。

 なのにシャナは自分に対し、そんな気持ちを抱いていると分かると、その者を決して側に寄せつけようとしなかった。常に自分を傍らに置いて、節度ある距離を保とうとする。その心に近付くことを許していたのは、彼女の魔断である自分のみ。

 もしかすると、そのせいで気付くのが遅れたのかもしれない。彼女を異性として愛していることに。彼女はあまりに自然に、横にいたので。

「あたしもよ」

 告白に、そう、誇らしげに応じてくれたとき。
 初めて彼女から何年も送られ続けていたサインの意味に気付くことができた。

 彼女の言葉や視練のひとつひとつを思い起こし、あれはこういう意味を持っていたのかもしれないと認識をあらためてゆく。そうしでようやく彼女がずっと長い間、自分に特別な想いをよせてくれていたことに気付けたとき。宰運にも、彼女を失うことなく腕の中におさめられていた。

 だが、何かに対して過ちを行った場合、報復は逮からずやってくるものだ。

 幸せに目を閉ざしていたことへの罰は、その短さという形でやってきた。

 あまりに短かすぎた至福の時間。
 感応し、誓約を交わしてから5年もの間だれよりも近くにいながら、シャナを抱きしめ、恋人同士のみが口にすることを許される言葉をささやきあえた甘い日々は、わずか2ヵ月という日数すら埋められなかった。

 喰われたのだ。
 あの魅妖・(いざなぎ)に、シャナは殺された。

 シャナ。

 それは、今となっては心を切り刻む名前だった。
 何度口にしてももう二度と、応えは返らない。
 声が枯れるまで呼び続けようとも、決して「なあに? 凍稀」と呼び返してはもらえない。

 残酷な、愛しい名前……。



「……………っ……」

 抱いた腕に爪を立て、眠る男に悟られないよう波立った胸を無理やり押し殺してちぎれるような息をこぼす。
 取り返しのつかない喪失感という暗黒の恐怖がぱっくりとその穴を開き、凍稀の体をがらんどうに変える。
 血も肉も、心まで、凍りつくようなしびれる寒さが、凍稀の全身を支配していた。

 こうなるのが分かっていたから、ずっと、思い出すまいとしていたのに。

 痛いのは、傷なんかじゃない。彼女を失った魂だ。
 あんなに、この命賭けて護ると何度も誓ったのに。現実はどうだ。肝心なときに彼女を護りきれず、自分なんかが1人、愚かにもこうして生き残ってしまっている。

 憎悪の黒火に焦がされ続ける胸。そこには今も、仰向けになったシャナの姿があった。
 無造作に両腕を投げ出し、両のひざを立て、白く浮き上がった膚に幾筋も血の糸を走らせ……開かれたまま闇を見つめる瞳と唇が、彼女の死を、言葉などよりも明確に伝えていた。

 愛する者を護りきれなかった口惜しさが、永遠に消えない後悔となって全身に裏切り者の刻印を刻む。

 必ず殺してやる、魅妖め。
 シャナを無能と嘲け、自分から引き離し、目の前でなぶり殺した。

 絶対に殺してやる……!

 この世を構成する、ありあらゆるものにかけて誓い、戻ってきた。

 「おまえが伝えてくれた情報は、全て王のもとへ送った。あとは王都から派遣されてくる退魔師たちに任せたほうがいい」そう言って止めようとする良識派の正しさは十分分かっている。
 「操主を亡くしたおまえ1人が戻って何になる!?」「闇の傷の浄化もまだだろう! 魅魎を呼び寄せるだけだ!」と怒鳴った仲間たちの正しさも。

 何人も操主を見送った魔断として、気持ちは分かると言って、慰めようとしてくる。
 だが違う。一緒であるはずがない。操主を失った彼らの苦しみと、操主と愛する者の両方を失った自分の苦しみが同じであるはずがないのだ。

 操主を失った痛みであるなら、堪えられた憎しみかもしれない。あるいは。次世の退魔師のために生きなくてはならないという、この世に魔断として生まれた存在意義を尊重し、他の者たちと同じようになんとしても堪えただろう。
 けれど、心が死んでしまってはもはや生きることは無意殊だった。

 半分なんかじゃない、全てだった、彼女は。この身に宿る魂そのものだったシャナ。魂のない抜け殻だけが残って、一体どうなるというのか。

 おそらく明日――正確にはあと数刻で、自分は死ぬことになるだろう。魔断は退魔師といてこそ本力を発揮できる存在。操主のいない魔断が魅妖に勝てる見込みは髪一筋分もない。
 たとえ個でもある程度の力を導くことができるとはいえ、そんなもの、魅妖の本力に比べれば微々たるものだ。

 そんなことは分かっている。分かっているのだ。
 けれど……。

 男の眠りの深さを確信して、岩壁に背を預ける。そっと詰めていた息を解いた瞬間に熱いものが目尻を流れて手の甲にしたたった。

 もう、どうでもよかった。

 さらなる悲劇を招きかねない、危険な個人行動など魔断には到底許されない、これは明らかな自殺行為であるということも。魔断として誕生した、神より課せられた義務も。目の前にいる、この魔断のことも。
 何もかも、今は考えることすら煩わしい。

もうじき自分は死ぬのだから……。


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 シャナは感応した最初から破天荒で、他の者たちと違い、自分に『|操主《そうしゅ》』と呼ぶことを許さなかった。
「やめてよね、その他人行儀なとこ。いくら敬称だからって、わざわざ距離をつくる必要なんかないじゃない。これから一生付き合っていくんだから」
 拗ねたように先を歩く足を速め、決して顔を見せようとせずにシャナはかつてそう言った。
「大体ね、ひとと同じ呼び方してなんで平気なのよ。嬉しいわけないじゃない。絶対間違ってるわよ、そういうのって。あたしを何だと思ってるわけ?」
 ぶつぶつ不満をつぶやいている。
 他の呼び方をしてはいけないという決まりはないが、感応した魔断は自身の|主《あるじ》となった者を『操主』と呼ぶのは慣例で、人も魔断も全員何の疑問も持たずそれを受け入れている。
 なぜなら、魅魎のように人にない力を持つものである以上、人が魔断を魅魎と同一視し、警戒心を抱くのは当たり前だからだ。
 幼いころから幻聖宮で魔断とふれ合ってきた退魔師たちはそうでもないが、宮から一歩外に出れば、魔断は人でないもの、人にない力を持つものとして奇異の目で見られることになる。
 彼らを安心させるためにも、魔断はあくまで人に仕える物だということを常に示し続けなくてはならない。
 それとして一番単純で明快なものが呼び名だというわけだ。
 呼び名は目に見えない鎖、首輪として、周囲の人々にどちらが主か、その主従関係を理解させ、安堵させる。
 だがシャナは、それ――他の退魔師たちと同じであること――が気にくわないようだった。 
「……でも、あなたがわたしの主人なのは間違いないのですから、やはりけじめはつけないと、他の方たちの手前――」
 凍稀は彼女がなぜこんなに不満を持っているのか理解できないまま、とにかくいつもの彼女に戻ってもらおうと言葉を選び選び返答を試みたが、それは反対にシャナの怒りに火を注ぐ結果となってしまったようだった。
「だから、他人がどうして関係あるのっ! 互いをどう呼ぶかなんて、あたしとあなただけの問題でしょ!」
 ぱっと振り向き、怒り心頭といった顔で胸に指を突きつけてくる。
 たかが呼び方じゃないか。この程度のことに、どうしてこの方はこうまで気を高ぶらせたりするのだろう?
 その意図がまるで分からず、とまどってばかりいた。あのころ。
「……では、どうお呼びすれば、あなたに満足していただけるのでしょうか……」
 何がそんなに気に障ったのか分からないが、どう見ても自分の用いた言葉で腹を立てている彼女に恐縮し、とにもかくにもそう弁明をする。
 彼女の希望に沿うようにすればきっと機嫌を直して、いつもの彼女に戻ってくれるに違いないと。
 誠心誠意、用いる言業1つ1つに気を配って告げたはずなのに。やはり理解できないまま、返事は返すものではなかった。
 みごと大的はずしをしたらしく、気を直すどころか、彼女はついにたまりかねたようにじだんだを踏んで、こう言ってきたのである。
「それっくらい、自分で考えなさいよ! さもないとわたし、一生あなたに呼ばれても返事なんかしてあげないし、口もきいてあげないんだからっ!」
 どちらが欠けても意味をなさない、神によって定められた一対として感応を果たし、ともに王命を受けてこの町で退魔の役についている限りそんなことができるはずもないのに……真剣に言う彼女があまりに可愛らしくて、つい、失笑してしまった。
 それを見たシャナはますます顔を真っ赤に染めて、
「ばか凍稀! もう知らないっ!!」
 と叫ぶなり、ぷいっと前を向いて早足で歩きだした。
「待ってください、操主」
 聞こえなかったはずはないのに無視を決めこんですたすた歩くところからみて、どうやら早くも宣言を決行しているらしい。
「シフェルアーナ・ルサイテ・フィディゼギナルさま?」
 フルネームで呼んでみても反応はない。
「ファタル・シフェルアーナ」
 女性の尊称をつけても駄目だ。
 それからしばらくの間、彼女に気に入ってもらえる呼び方を探して大陸中、ありあらゆる国の尊称を使い、彼女を呼んだが、彼女はがんとしてそのどれにも妥協してくれようとはしなかった。
 ちらとも凍稀のほうを見ようともせず、口も開かない。部屋のドアを叩いても無反応。
 本当は、最初からうすうす気付いていたのだ、彼女がどう呼んでもらいたがっているか。
 今まで、だれ1人としてそう呼ぶことを許さなかった呼称。なんとなく、彼女はそれを使うことを自分に期待しているのだということを、心のどこかで感じていた。
 第一あとはもう、その呼び方しか残っていない。
「……お願いですから、どうか気を直してこちらを向いてください。そうやってあなたに拒絶されることがどれほどわたしをつらい気持ちにさせるか、あなたはご存知なのでしょう? ……シャナ」
 この我慢比べに負けたのは自分だ。きっと、シャナの方も同じくらい辛かったはずだから。
 彼女は、その呼び方に大いに満足したように、今まで見せたことのない極上の笑顔で彼を振り返った。
「そうよ、それでいいのっ」
 心から嬉しそうに笑って。
 その瞳に自分の姿を映してくれたときの喜びは、この身が減びる瞬間がきても忘れることはないだろう。
 シャナ。命よりも大切な、だれより愛しい女性の名。
 だが、彼女への思いが主への尊敬の念などではなく、もっと特種な、特別な感情であると気付いたのは、それからさらに数年を経たあとのことだった。
 なぜ彼女はいつまでも家庭を持とうとしないのだろうか?
 はじまりは、ふと浮かんだそんなたわいのない疑問だった。
 いつ死ぬかもしれない危険な役目についている者だからと尻込みする男がいたとしても、その迷いを蹴散らしでしまえるほど、彼女は美しいのに。
 それに、だからこそ退魔師もまた家庭を早く持とうとするものだ。
 愛する者を得、あたたかな家庭を築き、子を成す。人としてこの世に生まれた意味と満足感を得ることに、彼らは急ぐ。
 なのにシャナは自分に対し、そんな気持ちを抱いていると分かると、その者を決して側に寄せつけようとしなかった。常に自分を傍らに置いて、節度ある距離を保とうとする。その心に近付くことを許していたのは、彼女の魔断である自分のみ。
 もしかすると、そのせいで気付くのが遅れたのかもしれない。彼女を異性として愛していることに。彼女はあまりに自然に、横にいたので。
「あたしもよ」
 告白に、そう、誇らしげに応じてくれたとき。
 初めて彼女から何年も送られ続けていたサインの意味に気付くことができた。
 彼女の言葉や視練のひとつひとつを思い起こし、あれはこういう意味を持っていたのかもしれないと認識をあらためてゆく。そうしでようやく彼女がずっと長い間、自分に特別な想いをよせてくれていたことに気付けたとき。宰運にも、彼女を失うことなく腕の中におさめられていた。
 だが、何かに対して過ちを行った場合、報復は逮からずやってくるものだ。
 幸せに目を閉ざしていたことへの罰は、その短さという形でやってきた。
 あまりに短かすぎた至福の時間。
 感応し、誓約を交わしてから5年もの間だれよりも近くにいながら、シャナを抱きしめ、恋人同士のみが口にすることを許される言葉をささやきあえた甘い日々は、わずか2ヵ月という日数すら埋められなかった。
 喰われたのだ。
 あの魅妖・|誘《いざなぎ》に、シャナは殺された。
 シャナ。
 それは、今となっては心を切り刻む名前だった。
 何度口にしてももう二度と、応えは返らない。
 声が枯れるまで呼び続けようとも、決して「なあに? 凍稀」と呼び返してはもらえない。
 残酷な、愛しい名前……。
「……………っ……」
 抱いた腕に爪を立て、眠る男に悟られないよう波立った胸を無理やり押し殺してちぎれるような息をこぼす。
 取り返しのつかない喪失感という暗黒の恐怖がぱっくりとその穴を開き、凍稀の体をがらんどうに変える。
 血も肉も、心まで、凍りつくようなしびれる寒さが、凍稀の全身を支配していた。
 こうなるのが分かっていたから、ずっと、思い出すまいとしていたのに。
 痛いのは、傷なんかじゃない。彼女を失った魂だ。
 あんなに、この命賭けて護ると何度も誓ったのに。現実はどうだ。肝心なときに彼女を護りきれず、自分なんかが1人、愚かにもこうして生き残ってしまっている。
 憎悪の黒火に焦がされ続ける胸。そこには今も、仰向けになったシャナの姿があった。
 無造作に両腕を投げ出し、両のひざを立て、白く浮き上がった膚に幾筋も血の糸を走らせ……開かれたまま闇を見つめる瞳と唇が、彼女の死を、言葉などよりも明確に伝えていた。
 愛する者を護りきれなかった口惜しさが、永遠に消えない後悔となって全身に裏切り者の刻印を刻む。
 必ず殺してやる、魅妖め。
 シャナを無能と嘲け、自分から引き離し、目の前でなぶり殺した。
 絶対に殺してやる……!
 この世を構成する、ありあらゆるものにかけて誓い、戻ってきた。
 「おまえが伝えてくれた情報は、全て王のもとへ送った。あとは王都から派遣されてくる退魔師たちに任せたほうがいい」そう言って止めようとする良識派の正しさは十分分かっている。
 「操主を亡くしたおまえ1人が戻って何になる!?」「闇の傷の浄化もまだだろう! 魅魎を呼び寄せるだけだ!」と怒鳴った仲間たちの正しさも。
 何人も操主を見送った魔断として、気持ちは分かると言って、慰めようとしてくる。
 だが違う。一緒であるはずがない。操主を失った彼らの苦しみと、操主と愛する者の両方を失った自分の苦しみが同じであるはずがないのだ。
 操主を失った痛みであるなら、堪えられた憎しみかもしれない。あるいは。次世の退魔師のために生きなくてはならないという、この世に魔断として生まれた存在意義を尊重し、他の者たちと同じようになんとしても堪えただろう。
 けれど、心が死んでしまってはもはや生きることは無意殊だった。
 半分なんかじゃない、全てだった、彼女は。この身に宿る魂そのものだったシャナ。魂のない抜け殻だけが残って、一体どうなるというのか。
 おそらく明日――正確にはあと数刻で、自分は死ぬことになるだろう。魔断は退魔師といてこそ本力を発揮できる存在。操主のいない魔断が魅妖に勝てる見込みは髪一筋分もない。
 たとえ個でもある程度の力を導くことができるとはいえ、そんなもの、魅妖の本力に比べれば微々たるものだ。
 そんなことは分かっている。分かっているのだ。
 けれど……。
 男の眠りの深さを確信して、岩壁に背を預ける。そっと詰めていた息を解いた瞬間に熱いものが目尻を流れて手の甲にしたたった。
 もう、どうでもよかった。
 さらなる悲劇を招きかねない、危険な個人行動など魔断には到底許されない、これは明らかな自殺行為であるということも。魔断として誕生した、神より課せられた義務も。目の前にいる、この魔断のことも。
 何もかも、今は考えることすら煩わしい。
もうじき自分は死ぬのだから……。