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第四十二話 お馬鹿さん丸出しな宣言

ー/ー



 十二時を過ぎた昼時。誰もが清々しさを感じるほど、雲一つ無い澄み渡る青空が広がっていた。午後には30℃近くまで上がるらしい外の世界は日差しに照らされていっそ輝いて見える。

 だと言うのに、その室内には濁った冷たい空気が(おり)のように停滞していた。
 扉を開けた瞬間から感じる重たさ。真っ白な壁とリノリウムの床は相変わらず無機質に外の光を反射しているが、それがこの病室の空気感と明らかに食い違っていて驚く程に居心地が悪い。
 看護師の櫻井は小さく嘆息し、その空気を作っている部屋の主へと向かって歩き出した。

「また食べてない…………」

 サイドテーブルに置かれた手付かずの食事を見て心配そうに呟いた櫻井は次いで、その食事を前にしてベッドに横になった少女――片桐咲季(かたぎりさき)に視線を移した。

「………」

 返事は無い。
 布団に(くる)まっていて咲季の姿は見えないが、間違いなく沈んだ表情をしているんだろう。見るからに落ち込んでいた。
 いや、心に穴が空いていたと言った方が妥当かも知れない。
 それ程にいつもの明るい彼女の姿からはかけ離れていて、櫻井は恐怖さえ抱いていた。今の咲季は、このままテレビの電源が落ちるようにぱったりと死んでしまいそうな雰囲気があった。

「昨日も、一食も食べてないよね。身体に障るよ」
「…………うん」

 二度目の問いかけに、今度は布団の中からくぐもった返事が来る。
 返事をする元気はある事に安堵し、櫻井は会話を続ける。

「美味しくないのは分かるけどさ。病院食だし」
「うん」
「なんなら内緒でコンビニ弁当でも買ってきてあげよっか?オネーサンに任せな。どんなのがいい?魚メイン?それとも肉?」
「うん」

 返ってくるのは気の抜けた感情の無い返事だけ。
 櫻井は額に指を添えるようにして大きくため息をつき、

「「うん」じゃなくって……もう!」

 布団を引っペがした。
 咲季は枕に顔を埋めてピクリとも動かない。
 腰まで伸びた髪が糸のようにベッドに広がっているが、そこにいつもの艶は無かった。

「食べなかったらやつれちゃうよ!お兄ちゃんが来た時にそんなゲッソリした顔見せる気!?」

 冗談交じりにぷりぷりと怒ってみせる櫻井だが、咲季の反応はやはり薄かった。
 枕に顔を埋めたまま表情を見せずに呟く。

「お兄ちゃん、もう、来ないから」
「なんでさ」

 勢いで言ってみた櫻井だったが、咲季の言葉に頷かざるを得なかった。
 スマートフォンも電話番号もメッセージアプリのIDも変わっていて、住んでいる場所まで変わっている。おまけに咲季は面会謝絶。
 ここまで執拗に秋春に会うことを妨害されてはそう思うのも仕方が無い。
 最初、このような状況になった時はもしかしたら咲季が病院を抜け出してでも秋春を探しに行くのではないかと思っていたが、そんな心の勢いは湧く前に潰されてしまったのだろう。

 こんなに落ち込んでいるのはおそらく、秋春が〝咲季ともう二度と会わないように〟という両親の言いつけに素直に従ってしまったからだ。
 もちろん秋春の本意では無いだろうし、その時の秋春の精神状態がまともでは無かったという事も起因している。それは咲季も分かっているだろう。しかしそれでも秋春が咲季に会わないという選択をしてしまった事実は彼女の心に少なからず傷を付け、その切り口からじわじわと血が流れ出るように彼女の気力を奪っていった。

「これから来るかもしれないでしょ?」
「………………」

 なんとか元気づけたくて希望的な言葉を投げかけても、やはり返ってくる反応は薄い。
 だが数秒経ってふと、独白のような小さい声がポツリと聞こえた。

「お兄ちゃん、喜んでるんじゃないかな」
「うん?」

 どうしたものかと頭を抱えていた櫻井は咲季の言葉を聞いてその背中へ顔を向ける。
 咲季は相変わらずの姿勢のまま動かないが会話をしようという気にはなったようだ。

「私にほとんど毎日会いに来てくれてさ、負担だったんじゃないのかなって。本当は友達と遊んだり、バイトしたり、自由な時間が欲しかったんだよ」
「咲季ちゃん?」

 ネガティブな発言に櫻井は眉を寄せた。花が咲いたような明るさを地で行く咲季の発言とは思えない。

「今頃きっと、大学の友達と夏休みどうしようかって、海とかバーベキューとかの計画立てて、楽しんでるの」
「いやいや!そんな事……」

 秋春はそんなに薄情ではないだろうと反論しようとした所で、言葉が遮られる。

「そうだったらいいなぁ」
「えっ?」
「辛い事なんて全部忘れて、楽しい思い出で塗り潰して、それで、笑って欲しい。せめてそうであってくれれば、私は報われる」

 ぎゅ、と枕を強く抱くような音。

「満足して死ねるよ」

 恥ずかしげにはにかんでいそうな、震えた声色だった。
 いや、違う。おそらくこれは、泣いているのだ。泣いているのに、無理に笑っている。
 悲しみが、辛さが伝わってくる。
 見ていられなかった。

「バカ。そんなわけないでしょ」

 だから櫻井はベッドに腰掛け、咲季の頭を優しく叩いてから撫でた。

「口を開けば咲季。一言目二言目には咲季のド級のシスコンが、咲季ちゃん()っぽいて笑えるかっての」

 きっと秋春も苦しいに違いない。
 苦しくて動けないでいるのだ。今までの秋春を見てきて、櫻井はそう確信していた。家族の中で誰よりも咲季のお見舞いに来ていた。誰よりも多く咲季と話して、笑顔をくれていた。
 そんな彼が咲季に会えなくて嬉しいなんて思うはずがない。

「だから大丈夫。片桐君はきっと帰ってくるよ」
「……」

 咲季は身動(みじろ)ぎしただけで答えない。
 楽観的な戯言だとでも思っているのか、それともただ耳を通り過ぎただけか。
 櫻井もそれ以上は何も言及せず、自身の仕事へと戻る。
 事務的に血圧や脈拍を測って、異常がない事を確認しながら、思うのはやはり今回の騒動についてだった。

 今回の件は櫻井が引き金になったと言っても差し支えが無いほど、彼女が強く関わっていた。
 咲季を遊園地に誘えと秋春に言ったのは櫻井なのだ。看護師という立場で非常識にもそれを先導したのも彼女。
 だから咲季と秋春がこうやって引き剥がされてしまった事に、大きな負い目を感じていた。

 ――なんとかしなきゃよね。

 櫻井は心の内で決意を滾らせた。


 # # #

 夜の帳が下り、静けさが覆い尽くす住宅街の中。ブロック塀に囲まれたアパート一つ分ほどの敷地にある墓地。そこにひっそりと菊池の墓石があった。
 端の方の目立たない位置にあるそれは、他の墓石に比べると少し真新しい。
 その前には瑞々しく色付いた色とりどりの花が添えてある。視線を横にずらすと、駄菓子屋で売っているような袋入りのチョコレートも置いてあった。

 置いているのが誰なのか、すぐに分かった。
 暗がりの中に紛れるような真っ黒な髪を持った女が墓の前で手を合わせている。赤坂さんだ。
 雄二(ゆうじん)に菊池の墓石の場所を聞いておいて良かった。今この人の連絡先を記録したスマホは無いからな。探す手間が省けた。

「霞ちゃんの家に挨拶してきたみたいね」

 俺の足音に気付いてか、ゆっくりと立ち上がった赤坂さんは俺へと顔を向けて言った。
 頬にはらりとかかった横髪を優雅な手つきで()ける。やはり、何度見ても画面の向こうから出てきたように完璧な仕草だ。

「ああ。日記返しにな。菊池の弟……雄仁にも会った」
「雄仁君いい子だったでしょ」
「殴られるかと思ったのに、ありがとうって感謝されたよ」
「雄仁君らしいわね」

 微笑ましげに手を口に添える。
 いつも感じる腹立たしさはそこに無く、ただ単純に見惚れそうな仕草だなと思った。少し違和感。

「あんたが言った、俺が悪く無かったっていうのも、どういう意味か理解した」

 赤坂さんは「そう」と感情の読めない微笑みを浮かべている。相変わらず何を考えているのか不明だ。だが、以前とは決定的に何かが欠けているように感じた。
 それはなんだと考えて、しかしすぐにその疑問は解消された。
 多分欠けているのは、恨み。
 どういう経緯か、どういう話を聞いたのかは知らないが、菊池が死んだ原因は俺にあると赤坂さんは考えていた。俺への嫌がらせの動機はそこにあったんだ。
 だから、赤坂さんから感じる嫌な空気感が少し薄れているのだろう。

 凪いでいた空気が堰をきったように流れて、俺達二人の髪をさらりと掬った。
 俺は赤坂さんの隣に並んでしゃがみ、墓石に向かって手を合わせる。
 どれだけ経ったか、目を閉じていた俺は目を開き、立ち上がった。
 そして、まだ俺の隣に立ったままの赤坂さんへ、

「なあ、菊池は……辛くなかったのかな」

 今なら偽りの無い言葉で話してくれる気がする。問いかけた。

「自分を傷つけてまで金稼いで家族を守って。あいつ自身は、幸せだったって思うか?」
「辛くないわけないじゃない。霞ちゃんは正道から外れた事が嫌いだったもの」

 口角を下げ、菊池の墓を横目に見ながら、赤坂さんは続ける。

「けど、それでも、霞ちゃんには大事な物があった。心を殺してでも守りたいものが。アキ君にもあるでしょう?」

 視線がこちらへ射抜くように向けられた。
 守りたいもの……、咲季の顔が浮かぶ。
 守るなんて柄じゃないけど。
 無言で肯定すると、

「じゃあやるべき事は分かってるわよね」
「…………」

 そう繋げて来るか。
 けど、その話を赤坂さんの方から話してくれるのは都合が良かった。

 赤坂さんが俺の横を抜けて墓地の出口まで歩いていく。その後を追いながら、

「あんたは母さんと父さんへの未練を捨てて咲季を優先しろって言いたいんだろ」

 家族でありたい。愛情が欲しい。俺が昔から抱いていた願い。
 それを赤坂さんは捨てろと言っている。
 優先順位を間違えるな、咲季の事だけ考えろ。そういう事だろう。なぜそんなアドバイスみたいな事をするのかは不明だが。
 赤坂さんは「分かってるじゃない」と言わんばかりに笑った。

「その通りだと思うよ。あんたの言ってる事は間違いじゃない。だから、今はあんたの言う通りにする」

 ピタリと赤坂さんの歩みが出口で止まる。

「今は?」
「ああ。父さんと母さんとの関係を完全に断ち切るなんて出来ない。せいぜいもがいてみる」

 長い髪をたなびかせて振り向いた彼女の顔は、心なしか怒っているように見えた。

「まさかとは思うけれど、おじさんとおばさんに希望でも抱いているのかしら?あのねアキ君、それは虐待されてた子供が陥る考えよ。〝もしかしたら変わってくれるかも知れない〟そうやって虐待なんてする親に期待しても、何も良い事なんて無いわ。悪循環でしかない。分かってるの?」

 そうなのかも知れない。
 期待して裏切られて、その連続なのかも知れない。
 だけど、

「咲季が言ってたんだよ。俺が笑ってるから咲季も笑えるって。じゃあ俺がいつまでも辛気臭い顔してたらあいつも笑えないだろ?でも俺は、きっぱり母さん達の事を切り捨てて笑えない。少なくとも今の俺には無理だ。だったらこれからも母さん達の事を考えていくしかないだろ」
「絶対に後悔する。絶対よ」
「そうかもな。けど、自分が幸せじゃなければ、周りの奴を幸せになんて出来ないんだ」

 菊池や、菊池の家族がそうだったように。

「優し過ぎよ。そんな考え方じゃ絶対幸せになんてなれない。苦しみ続けるだけよ」
「随分と心配してくれるんだな」
「いけない?」
「あんたに言われると気味が悪い」
「酷いわね」

 日頃の行いだろ。
 いつものように皮肉混じりの軽口を言ってやろうとして、口が止まる。

 とん、と。

 赤坂さんの頭が俺の胸に当てられた。

「…………本当にアキ君は……凄いよ」

 (すが)りつくようにシャツを握られる。
 突然の出来事。
 これが普通の女の子ならテンパってあたふたとしたかも知れないが、これは赤坂さんなのだ。どういう意図なのか分からない。
 湧き上がった感情は恐怖。

「っ、なんの真似だよ」
「あ」

 反射的に振り払って、墓の出口から出てすぐ横の道路の脇にまで後退った。

 強い風が俺と赤坂さんの間を隔てるように横へ流れる。
 辺りの木々が枝を大きく揺らし、葉と枝を擦り合わせて大きな音を立てた。

 赤坂さんは数瞬、呆然とした表情で固まっていたが、すぐにいつものハリボテの笑みを貼り付けて小首を傾げ、

「ドキドキしたかしら?」

 なんて挑発的に上目遣い。

「違う意味でね」
「どういう意味?」
「恐怖」
「酷いわね」

 酷いのは普段のあんただよ。

「ホントこういう……何するか分からないからあんたと会うのは嫌なんだ」
「ふふふ」

 上品に笑ってんじゃねぇ。
 多分雰囲気から察して、からかいの延長だったのだろう。
 それだけでは無い気もしたが、少なくとも、で接して欲しいという意思が伝わってきていた。
 だから俺も今抱きついてきた理由が何なのか深追いはしない。
 したところで赤坂さんは答える気も無いだろうし、正直今はそれどころじゃない。
 赤坂さん風に言うなら優先順位というやつだ。
 頬を両手で叩いて気持ちを切り替える。

「ともかく、咲季も母さん達もどっちも取る。今は咲季優先だけど」
「ふぅん?そんなお馬鹿さん丸出しな宣言をわざわざ私に伝えに来たの?」

 不機嫌そうな口調で赤坂さん。

「別に闇雲に信じるとかじゃないぞ。あの人達との溝が決定的になった二つの出来事をなりふり構わず、誤解だって証明しようってだけだ。俺のために、咲季のためにな」

 今までは「過ぎた話を何度も掘り返して必死に弁明するのは格好悪い」とか「どうせ信じてくれない」とか色々考えてしまって自ら本気で弁明しようなんて思わなかった。
 けど、それじゃ駄目だから。
 俺は変わらないといけない。自分の幸せのためにも全力を尽くさないといけないって思ったんだ。
 だから――

「で、だ。これを踏まえて、あんたに頼みたい事がある」















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 十二時を過ぎた昼時。誰もが清々しさを感じるほど、雲一つ無い澄み渡る青空が広がっていた。午後には30℃近くまで上がるらしい外の世界は日差しに照らされていっそ輝いて見える。
 だと言うのに、その室内には濁った冷たい空気が澱《おり》のように停滞していた。
 扉を開けた瞬間から感じる重たさ。真っ白な壁とリノリウムの床は相変わらず無機質に外の光を反射しているが、それがこの病室の空気感と明らかに食い違っていて驚く程に居心地が悪い。
 看護師の櫻井は小さく嘆息し、その空気を作っている部屋の主へと向かって歩き出した。
「また食べてない…………」
 サイドテーブルに置かれた手付かずの食事を見て心配そうに呟いた櫻井は次いで、その食事を前にしてベッドに横になった少女――片桐咲季《かたぎりさき》に視線を移した。
「………」
 返事は無い。
 布団に包《くる》まっていて咲季の姿は見えないが、間違いなく沈んだ表情をしているんだろう。見るからに落ち込んでいた。
 いや、心に穴が空いていたと言った方が妥当かも知れない。
 それ程にいつもの明るい彼女の姿からはかけ離れていて、櫻井は恐怖さえ抱いていた。今の咲季は、このままテレビの電源が落ちるようにぱったりと死んでしまいそうな雰囲気があった。
「昨日も、一食も食べてないよね。身体に障るよ」
「…………うん」
 二度目の問いかけに、今度は布団の中からくぐもった返事が来る。
 返事をする元気はある事に安堵し、櫻井は会話を続ける。
「美味しくないのは分かるけどさ。病院食だし」
「うん」
「なんなら内緒でコンビニ弁当でも買ってきてあげよっか?オネーサンに任せな。どんなのがいい?魚メイン?それとも肉?」
「うん」
 返ってくるのは気の抜けた感情の無い返事だけ。
 櫻井は額に指を添えるようにして大きくため息をつき、
「「うん」じゃなくって……もう!」
 布団を引っペがした。
 咲季は枕に顔を埋めてピクリとも動かない。
 腰まで伸びた髪が糸のようにベッドに広がっているが、そこにいつもの艶は無かった。
「食べなかったらやつれちゃうよ!お兄ちゃんが来た時にそんなゲッソリした顔見せる気!?」
 冗談交じりにぷりぷりと怒ってみせる櫻井だが、咲季の反応はやはり薄かった。
 枕に顔を埋めたまま表情を見せずに呟く。
「お兄ちゃん、もう、来ないから」
「なんでさ」
 勢いで言ってみた櫻井だったが、咲季の言葉に頷かざるを得なかった。
 スマートフォンも電話番号もメッセージアプリのIDも変わっていて、住んでいる場所まで変わっている。おまけに咲季は面会謝絶。
 ここまで執拗に秋春に会うことを妨害されてはそう思うのも仕方が無い。
 最初、このような状況になった時はもしかしたら咲季が病院を抜け出してでも秋春を探しに行くのではないかと思っていたが、そんな心の勢いは湧く前に潰されてしまったのだろう。
 こんなに落ち込んでいるのはおそらく、秋春が〝咲季ともう二度と会わないように〟という両親の言いつけに素直に従ってしまったからだ。
 もちろん秋春の本意では無いだろうし、その時の秋春の精神状態がまともでは無かったという事も起因している。それは咲季も分かっているだろう。しかしそれでも秋春が咲季に会わないという選択をしてしまった事実は彼女の心に少なからず傷を付け、その切り口からじわじわと血が流れ出るように彼女の気力を奪っていった。
「これから来るかもしれないでしょ?」
「………………」
 なんとか元気づけたくて希望的な言葉を投げかけても、やはり返ってくる反応は薄い。
 だが数秒経ってふと、独白のような小さい声がポツリと聞こえた。
「お兄ちゃん、喜んでるんじゃないかな」
「うん?」
 どうしたものかと頭を抱えていた櫻井は咲季の言葉を聞いてその背中へ顔を向ける。
 咲季は相変わらずの姿勢のまま動かないが会話をしようという気にはなったようだ。
「私にほとんど毎日会いに来てくれてさ、負担だったんじゃないのかなって。本当は友達と遊んだり、バイトしたり、自由な時間が欲しかったんだよ」
「咲季ちゃん?」
 ネガティブな発言に櫻井は眉を寄せた。花が咲いたような明るさを地で行く咲季の発言とは思えない。
「今頃きっと、大学の友達と夏休みどうしようかって、海とかバーベキューとかの計画立てて、楽しんでるの」
「いやいや!そんな事……」
 秋春はそんなに薄情ではないだろうと反論しようとした所で、言葉が遮られる。
「そうだったらいいなぁ」
「えっ?」
「辛い事なんて全部忘れて、楽しい思い出で塗り潰して、それで、笑って欲しい。せめてそうであってくれれば、私は報われる」
 ぎゅ、と枕を強く抱くような音。
「満足して死ねるよ」
 恥ずかしげにはにかんでいそうな、震えた声色だった。
 いや、違う。おそらくこれは、泣いているのだ。泣いているのに、無理に笑っている。
 悲しみが、辛さが伝わってくる。
 見ていられなかった。
「バカ。そんなわけないでしょ」
 だから櫻井はベッドに腰掛け、咲季の頭を優しく叩いてから撫でた。
「口を開けば咲季。一言目二言目には咲季のド級のシスコンが、咲季ちゃん放《ほ》っぽいて笑えるかっての」
 きっと秋春も苦しいに違いない。
 苦しくて動けないでいるのだ。今までの秋春を見てきて、櫻井はそう確信していた。家族の中で誰よりも咲季のお見舞いに来ていた。誰よりも多く咲季と話して、笑顔をくれていた。
 そんな彼が咲季に会えなくて嬉しいなんて思うはずがない。
「だから大丈夫。片桐君はきっと帰ってくるよ」
「……」
 咲季は身動《みじろ》ぎしただけで答えない。
 楽観的な戯言だとでも思っているのか、それともただ耳を通り過ぎただけか。
 櫻井もそれ以上は何も言及せず、自身の仕事へと戻る。
 事務的に血圧や脈拍を測って、異常がない事を確認しながら、思うのはやはり今回の騒動についてだった。
 今回の件は櫻井が引き金になったと言っても差し支えが無いほど、彼女が強く関わっていた。
 咲季を遊園地に誘えと秋春に言ったのは櫻井なのだ。看護師という立場で非常識にもそれを先導したのも彼女。
 だから咲季と秋春がこうやって引き剥がされてしまった事に、大きな負い目を感じていた。
 ――なんとかしなきゃよね。
 櫻井は心の内で決意を滾らせた。
 # # #
 夜の帳が下り、静けさが覆い尽くす住宅街の中。ブロック塀に囲まれたアパート一つ分ほどの敷地にある墓地。そこにひっそりと菊池の墓石があった。
 端の方の目立たない位置にあるそれは、他の墓石に比べると少し真新しい。
 その前には瑞々しく色付いた色とりどりの花が添えてある。視線を横にずらすと、駄菓子屋で売っているような袋入りのチョコレートも置いてあった。
 置いているのが誰なのか、すぐに分かった。
 暗がりの中に紛れるような真っ黒な髪を持った女が墓の前で手を合わせている。赤坂さんだ。
 雄二《ゆうじん》に菊池の墓石の場所を聞いておいて良かった。今この人の連絡先を記録したスマホは無いからな。探す手間が省けた。
「霞ちゃんの家に挨拶してきたみたいね」
 俺の足音に気付いてか、ゆっくりと立ち上がった赤坂さんは俺へと顔を向けて言った。
 頬にはらりとかかった横髪を優雅な手つきで除《よ》ける。やはり、何度見ても画面の向こうから出てきたように完璧な仕草だ。
「ああ。日記返しにな。菊池の弟……雄仁にも会った」
「雄仁君いい子だったでしょ」
「殴られるかと思ったのに、ありがとうって感謝されたよ」
「雄仁君らしいわね」
 微笑ましげに手を口に添える。
 いつも感じる腹立たしさはそこに無く、ただ単純に見惚れそうな仕草だなと思った。少し違和感。
「あんたが言った、俺が悪く無かったっていうのも、どういう意味か理解した」
 赤坂さんは「そう」と感情の読めない微笑みを浮かべている。相変わらず何を考えているのか不明だ。だが、以前とは決定的に何かが欠けているように感じた。
 それはなんだと考えて、しかしすぐにその疑問は解消された。
 多分欠けているのは、恨み。
 どういう経緯か、どういう話を聞いたのかは知らないが、菊池が死んだ原因は俺にあると赤坂さんは考えていた。俺への嫌がらせの動機はそこにあったんだ。
 だから、赤坂さんから感じる嫌な空気感が少し薄れているのだろう。
 凪いでいた空気が堰をきったように流れて、俺達二人の髪をさらりと掬った。
 俺は赤坂さんの隣に並んでしゃがみ、墓石に向かって手を合わせる。
 どれだけ経ったか、目を閉じていた俺は目を開き、立ち上がった。
 そして、まだ俺の隣に立ったままの赤坂さんへ、
「なあ、菊池は……辛くなかったのかな」
 今なら偽りの無い言葉で話してくれる気がする。問いかけた。
「自分を傷つけてまで金稼いで家族を守って。あいつ自身は、幸せだったって思うか?」
「辛くないわけないじゃない。霞ちゃんは正道から外れた事が嫌いだったもの」
 口角を下げ、菊池の墓を横目に見ながら、赤坂さんは続ける。
「けど、それでも、霞ちゃんには大事な物があった。心を殺してでも守りたいものが。アキ君にもあるでしょう?」
 視線がこちらへ射抜くように向けられた。
 守りたいもの……、咲季の顔が浮かぶ。
 守るなんて柄じゃないけど。
 無言で肯定すると、
「じゃあやるべき事は分かってるわよね」
「…………」
 そう繋げて来るか。
 けど、その話を赤坂さんの方から話してくれるのは都合が良かった。
 赤坂さんが俺の横を抜けて墓地の出口まで歩いていく。その後を追いながら、
「あんたは母さんと父さんへの未練を捨てて咲季を優先しろって言いたいんだろ」
 家族でありたい。愛情が欲しい。俺が昔から抱いていた願い。
 それを赤坂さんは捨てろと言っている。
 優先順位を間違えるな、咲季の事だけ考えろ。そういう事だろう。なぜそんなアドバイスみたいな事をするのかは不明だが。
 赤坂さんは「分かってるじゃない」と言わんばかりに笑った。
「その通りだと思うよ。あんたの言ってる事は間違いじゃない。だから、今はあんたの言う通りにする」
 ピタリと赤坂さんの歩みが出口で止まる。
「今は?」
「ああ。父さんと母さんとの関係を完全に断ち切るなんて出来ない。せいぜいもがいてみる」
 長い髪をたなびかせて振り向いた彼女の顔は、心なしか怒っているように見えた。
「まさかとは思うけれど、おじさんとおばさんに希望でも抱いているのかしら?あのねアキ君、それは虐待されてた子供が陥る考えよ。〝もしかしたら変わってくれるかも知れない〟そうやって虐待なんてする親に期待しても、何も良い事なんて無いわ。悪循環でしかない。分かってるの?」
 そうなのかも知れない。
 期待して裏切られて、その連続なのかも知れない。
 だけど、
「咲季が言ってたんだよ。俺が笑ってるから咲季も笑えるって。じゃあ俺がいつまでも辛気臭い顔してたらあいつも笑えないだろ?でも俺は、きっぱり母さん達の事を切り捨てて笑えない。少なくとも今の俺には無理だ。だったらこれからも母さん達の事を考えていくしかないだろ」
「絶対に後悔する。絶対よ」
「そうかもな。けど、自分が幸せじゃなければ、周りの奴を幸せになんて出来ないんだ」
 菊池や、菊池の家族がそうだったように。
「優し過ぎよ。そんな考え方じゃ絶対幸せになんてなれない。苦しみ続けるだけよ」
「随分と心配してくれるんだな」
「いけない?」
「あんたに言われると気味が悪い」
「酷いわね」
 日頃の行いだろ。
 いつものように皮肉混じりの軽口を言ってやろうとして、口が止まる。
 とん、と。
 赤坂さんの頭が俺の胸に当てられた。
「…………本当にアキ君は……凄いよ」
 縋《すが》りつくようにシャツを握られる。
 突然の出来事。
 これが普通の女の子ならテンパってあたふたとしたかも知れないが、これは赤坂さんなのだ。どういう意図なのか分からない。
 湧き上がった感情は恐怖。
「っ、なんの真似だよ」
「あ」
 反射的に振り払って、墓の出口から出てすぐ横の道路の脇にまで後退った。
 強い風が俺と赤坂さんの間を隔てるように横へ流れる。
 辺りの木々が枝を大きく揺らし、葉と枝を擦り合わせて大きな音を立てた。
 赤坂さんは数瞬、呆然とした表情で固まっていたが、すぐにいつものハリボテの笑みを貼り付けて小首を傾げ、
「ドキドキしたかしら?」
 なんて挑発的に上目遣い。
「違う意味でね」
「どういう意味?」
「恐怖」
「酷いわね」
 酷いのは普段のあんただよ。
「ホントこういう……何するか分からないからあんたと会うのは嫌なんだ」
「ふふふ」
 上品に笑ってんじゃねぇ。
 多分雰囲気から察して、からかいの延長だったのだろう。
 それだけでは無い気もしたが、少なくとも、《《そういうつもり》》で接して欲しいという意思が伝わってきていた。
 だから俺も今抱きついてきた理由が何なのか深追いはしない。
 したところで赤坂さんは答える気も無いだろうし、正直今はそれどころじゃない。
 赤坂さん風に言うなら優先順位というやつだ。
 頬を両手で叩いて気持ちを切り替える。
「ともかく、咲季も母さん達もどっちも取る。今は咲季優先だけど」
「ふぅん?そんなお馬鹿さん丸出しな宣言をわざわざ私に伝えに来たの?」
 不機嫌そうな口調で赤坂さん。
「別に闇雲に信じるとかじゃないぞ。あの人達との溝が決定的になった二つの出来事をなりふり構わず、誤解だって証明しようってだけだ。俺のために、咲季のためにな」
 今までは「過ぎた話を何度も掘り返して必死に弁明するのは格好悪い」とか「どうせ信じてくれない」とか色々考えてしまって自ら本気で弁明しようなんて思わなかった。
 けど、それじゃ駄目だから。
 俺は変わらないといけない。自分の幸せのためにも全力を尽くさないといけないって思ったんだ。
 だから――
「で、だ。これを踏まえて、あんたに頼みたい事がある」