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1

ー/ー



「いっぺん助かった命なのに、もったいねぇ」
涙ぐみながらそうこぼすと、老人は海に向かい、そっと手を合わせた。浜辺に駆けつけた数人の男達も彼に倣う。
その足元には、見覚えのあるサンダルが、脱ぎ揃えられていた。
西日に照らされた水面がキラキラと輝く、晩夏の夕暮れのこと…。


二ヶ月前…。

「大変だ!」
小さな離島に一件だけある駐在所にベテラン漁師の源一が駆け込んできた。
「駐在!野球なんて見てる場合じゃねぇ!」
「何?源さん、そんな血相変えて。今から長嶋が打つ番なんだ…後じゃ駄目?」
「駄目に決まってっだろ!浜辺に打ち上がったんだよ…死体が!」
「死体!?」
源一の言葉に勢いよく椅子から立ち上がると、駐在は一緒に野球観戦していた診療所の医師・春田を促し、駐在所を飛び出した。
生ぬるく湿った夜風が彼の全身を包み込む。
つけっぱなしのテレビから流れる後楽園球場の歓声に後ろ髪を引かれつつも、それを振りほどくかのように、駐在は浜に向かって懸命に駆けていった。

一行が到着すると、顔なじみの漁師たち数人が何かを取り囲むように立っていた。
「おーい!駐在連れて来たぞ!」
源一の声に一同が振り返り、左右へはけた。
男たちが取り囲んでいた場所には、全裸の青年がぐたりと横たわり、源一の息子である一馬が心臓マッサージを施していた。
「一馬さん、その人…生きてるのかい?」
「まだ微かに息してる!」
汗だくで心臓マッサージを続けながら、一馬が答えた。
「代わります!」
駐在が言いかけたところで、全裸の青年が目をカッと見開いた。勢いよく上半身を起こし、辺りを見回す。咄嗟のことで受け身が取れず、馬乗りになっていた一馬はバランスを崩し、尻もちをついた。
一同が各々に感嘆の声を上げる中、一番の功労者であるはずの一馬ひとり、
「痛ってぇ…」
と苦悶の表情で尻をさすっている。
「さぁ、さぁ。みんなで、協力して…ウチに、連れてって」
巨体を揺らしながら遅れて到着してきた春田が息も絶え絶えにそう言うと、男たちは手際よく青年を診療所まで運んだ。
「意識あるみたいだし、俺はぁ…ちょっとここで休んでから戻るわ」
「おめぇは、俺より十もわけぇのに…なっさけねぇ」
そう言って鼻で笑うと、源一は浜辺にへたり込む春田の肩をぽんと叩いて悠然とその場を後にした。
「どうぞ、ごゆっくり」
軽く頭を下げ、駐在も源一について診療所へと向かった。


「どうだ、落ち着いたか?」
診療所のベッドに腰掛けて、出されたお茶を訝しげに眺める青年に源一が声を掛けた。
彼はもう全裸ではなく、春田に借りたシャツとズボンを着ていた。恰幅のいい春田の服を着たその姿は、お下がりを着させられた子どものようだ。
「茶、飲めや」
源一に促され、恐る恐る口をつけると、青年は顔をくしゃくしゃにして少し含んだ茶をペッペッと床に吐き出した。
「こらこら!汚すなよ」
そう言うと春田は部屋の隅に立て掛けられていたモップで床を丁寧に拭き始めた。
「全く…おめぇは昔っから綺麗好きなんだから」
「病院は、衛生面キチンとしなきゃなんねぇの。どこぞの漁師とは違うもんでねぇ」
「何だと、コノヤロー!」
「まぁまぁ、ケンカはこれくらいにして」
駐在が二人に割って入った。
「ほんとよぉ。可哀想に、怯えてるじゃない」
春田の妻・陽子の発言を受け、一同が青年を見やる。彼はベッドの上で膝を抱えてブルブルと震えていた。
「大丈夫よ。この人たちは『トムジェリ』みたいなもんだから」
「とむじぇり…」
青年は無表情でそう呟いた。
「ほら、知ってるでしょ?『トムとジェリー』って猫とネズミの漫画」
彼は首を傾げた。
「もしかして…」
そう呟くと春田が尋ねた。
「お前さん、名前…わかるか?」
青年は左右にかぶりを振った。
「こりゃ…記憶喪失かもしんねぇ」


翌日の昼過ぎ、駐在が青年の様子を見に診療所を訪ねた。
青年は病院のベッドの上に座り、何をするでもなく空を見つめていた。
相変わらず、服はぶかぶかのままだ。
「梅雨開けたって、さっきニュースでやってた」
「はぁ…」
駐在の声掛けに、青年は虚ろな目のまま、所在無げに答えた。
「まぁ、ゆっくり休んで」
駐在はそっと病室を後にした。

「やっぱし、記憶喪失みてぇだ」
「じゃぁ、どうにかして身元特定しないと!」
応接室のソファに腰掛けていた駐在が決然とが立ち上がった。春田がその腕を掴み、引き止める。
「やめとけよ」
「いや、だって…」
「まぁ座りなって。いいか、人にはな、それぞれ事情ってもんがあんだよ」
「そうだよぉ」
陽子が駐在の隣に座って、大きなヤカンに入った麦茶をコップに入れながら、続ける。
「あんた今年からこっちに赴任してきたから知らないだろうけど、島じゃたまぁにこういうことあるのよぉ…麦茶、どうぞ」
駐在は軽く頭を下げた。
「あんなふうに流れ着く人のほとんどが、まぁ…訳ありでね?記憶喪失ってのも…演技ってことも、あるわけ」
「医者としては、ごんべえのあれは狂言とは思わんがな」
「ごんべえ?」
「今話題にしてる青年のことに決まってっだろ、馬鹿者が」
そう言うと春田は巨体を揺らしながら、ワハハと豪快に笑った。
「ほら、名前が無いと、ややっこしいでしょ。だから…」
名無しの権兵衛、というわけか。
駐在は出された麦茶を一気に飲み干した。
初夏の熱気に火照った駐在の体は隅々まで冷やされていった。

結局、駐在が春田夫妻に押し切られる形で“ごんべえ”について県警本部には報告せず、島でしばらく様子を見る、という結論に至った。


その夜、村長宅の広間でごんべえを歓迎する宴が催された。長机には海の幸・山の幸が所狭しと並んでいる。
その長机の真ん中にごんべえが身体を小さくして遠慮がちに座っていた。
服はしかし、サイズの合った白いTシャツとジーパンを着用していた。

「ごんべえ君の救命祝いと記憶の回復を願って、かんぱーい!」

村長の音頭で乾杯が終わると、長机を囲んでいた若者たちが、一斉にごんべえの周りになだれ込み、矢継ぎ早に質問を投げかけた。
「本当に何も覚えちゃいねぇの?」
「父ちゃん、母ちゃんの顔も?」
「好きなアイドルは?」
「方言…そうだ!方言とかは?」
「こらこら、お前たち!そんな一遍に質問したら、負担になって思い出せるもんも思い出せねぇだろうが!さぁ、戻った戻った」
ごんべえの斜向かいに座っていた春田が若者たちを制すると、彼らはぶつぶつと言葉にならない文句を言いながら、元いた場所にすごすごと戻っていった。
「悪かったなぁ。みんな良かれと思ってしたことだ。まぁ、気ぃ悪くせんでくれ」
春田の言葉に静かに頷くと、ごんべえは日本酒を一気に飲み干した。
「あれまぁ!お茶は渋くて飲めなかったのに、あんた…相当いける口だね!駐在さんとは大違い」
陽子がそう言うと、その場がどっと湧いた。
「下戸で悪かったですね!」
長机の一番端に座っていた駐在が声を張り上げて返事した。
「冗談よ!駐在さんに酔っ払われても困るしねぇ」
「あ、そう言えば」
駐在が、ごんべえに問いかけた。
「服、変えたんですね?」
「あ…えっと…これは…」
ごんべえがぎこちなく答えると、陽子が続きを引き受けた。
「今日、駐在さん帰った後に、うちの娘と洋品店まで買いに行ったの」
春田夫妻の娘、里子は島一番の美人で、同世代ということもあり、駐在も少なからず好意を抱いていた。
里子の名を聞いて、ごんべえの頬がぱぁっと桃色に染まるのを彼は見逃さなかった。
駐在の中で、彼自身よく分からない何かがフツフツと沸き起こった。胸の当たりが酒でも飲んだかのようにカッと熱くなる。
「駐在さん!」
呼ばれて振り返ると、そこには里子の姿があった。
「ジュース飲む?」
「あ、お願いします」
駐在が答えると里子は持っていたオレンジジュースの瓶を栓抜きで開けて、トクトクと空のコップに注いで彼に差し出し、隣に座った。
「私もお酒は苦手。島の人たちも悪気があって言ってるわけじゃないから、気にしないで。ほら、みんな海の男だから荒っぽくて」
「でも、最初にけしかけたのは、君のお母さんだよ」
「まぁ、ここいらは女の方が強いから」
彼女の言葉を受けて二人で笑った。
「それにしても、ごんべえさんって不思議な人よねぇ」
里子が声をひそめ話し始めた。自然と二人の顔が近くなる。
「服と一緒に靴も買おうって言ったんだけどさ、どうにも窮屈だって。診療所のサンダルが気に入ったみたいでずっとそれ履いてんの」
そう言って控えめに笑うと、話を続けた。
「それにね、暇そうにしてたからさ、私、本を貸してあげたのよ。松本清張」
「あぁ、あれはいいよね」
流行りの作家らしいが駐在は読んだことがなく、適当に答えた。
「そう!面白くて時間なんてあっという間に解けてくから、手持ち無沙汰のごんべえさんには丁度いいかなって思って。でもね、上下逆さまに読むんだもん。私、気の毒だけど大笑いしちゃって」
「それも記憶喪失のせい?」
「どうかなぁ。父ちゃんによると、元々字が読めないのかもって。育ちのせいか、病気かは、わかんないみたい」
「ふーん」
そう言って駐在がごんべえの方を見ると、相変わらず水でも飲むかのように、顔色一つ変えず、すいすいと日本酒を飲んでいた。
「酒ばっか飲んでねぇでよ、刺身も食えよ!」
源一が顔を真っ赤にしながら勧めるも、ごんべえは一向に魚には手をつけない。
「もしかして魚、嫌いか?」
「いや…嫌いではなくて。むしろ好きだから食べられない、というか…」
「何だおめぇ、魚の生まれ変わりか?」
「あ、だから裸だったのか!」
陽子がそう言うと、また宴がどっと盛り上がった。

「字が読めなくて、魚が食べられず、酒はすいすい飲める…案外、君のお母さんの言う通りだったりして」
「嫌だわ、駐在さんったら」
そう言った里子に軽く叩かれた駐在の肩は、いつまでもじんじんと柔らかく疼いていた。


ただ世話になるだけでは申し訳ないと、ごんべえが自ら漁船に乗ることを申し出たのは、彼が漂着して一週間程たった頃だった。

「おめぇ、器用だなぁ」
源一がごんべえの鮮やかな網捌きに、ため息混じりに呟いた。
ごんべえは下を向いて頭を掻きながら、へへっと笑った。


「しっかし、今日は天気も悪くてあんまし見込みなかったけんど、思いがけず大漁んなったなぁ、親父」
漁から戻り、漁協の寄合所で仲間たちと仕事終わりの一杯に興じながら、一馬が感嘆の声を上げた。
「まぁ、珍しいことじゃねぇだよ。稀人乗せてるときゃ」
「何だい、マレビトって」
「突然よそから来た人のこった。昔から福を持って来るって言われててな、丁重に扱うと、いいことあんだよ」
「なんだよ、ごんべさんへのもてなしは親切心じゃなく、欲得尽くかぁ」
「いやいや、困ってる人に親切にせないかん、というただの言い伝えだ。ま、ええことしたらそれなりにええことが帰って来るっちゅう話だよ」
「そういや、ごんべさんは?」
「あぁ、ほつれた網直してやるって漁具倉庫だ。あいつは器用だから、ちょっと教えたらチャチャッとやっちまって。だから他のも直してもらうことにしただよ」
「もしかしたら、元々漁師だったのかもな」
「そだな。早く記憶が戻ったら、ええんだが…」
そう呟くと、源一は日本酒を一口含んだ。


ごんべえはひと月もせずに島の人たちとすっかり打ち解けた。積極的に漁や雑用を買って出る彼を島の人々も大変重宝がった。
ところが、記憶の方は一向に戻る気配がなかった。

そうこうしているうちに漂着から二ヶ月が過ぎた、ある日のこと…。

「ごんちゃん、山の上の神社にお参りしてみない?」
朝食時、そう誘ったのは里子だった。
「神社?」
「うん。海の神様を祀ってるの。ごんちゃん、漁の才能あるみたいだし、いっぺんお参りしてみたら?なんか思い出すかもしれんよ」
そう言うと、里子はいたずらっぽく笑った。
「神社…」
あまりピンと来ていないごんべえに
「それがいいわ!二人で行っといで!」
と陽子も勧めた。
春田はその様子を白米をかき込みながら、黙ってニコニコと眺めていた。

(続く)


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「いっぺん助かった命なのに、もったいねぇ」
涙ぐみながらそうこぼすと、老人は海に向かい、そっと手を合わせた。浜辺に駆けつけた数人の男達も彼に倣う。
その足元には、見覚えのあるサンダルが、脱ぎ揃えられていた。
西日に照らされた水面がキラキラと輝く、晩夏の夕暮れのこと…。
二ヶ月前…。
「大変だ!」
小さな離島に一件だけある駐在所にベテラン漁師の源一が駆け込んできた。
「駐在!野球なんて見てる場合じゃねぇ!」
「何?源さん、そんな血相変えて。今から長嶋が打つ番なんだ…後じゃ駄目?」
「駄目に決まってっだろ!浜辺に打ち上がったんだよ…死体が!」
「死体!?」
源一の言葉に勢いよく椅子から立ち上がると、駐在は一緒に野球観戦していた診療所の医師・春田を促し、駐在所を飛び出した。
生ぬるく湿った夜風が彼の全身を包み込む。
つけっぱなしのテレビから流れる後楽園球場の歓声に後ろ髪を引かれつつも、それを振りほどくかのように、駐在は浜に向かって懸命に駆けていった。
一行が到着すると、顔なじみの漁師たち数人が何かを取り囲むように立っていた。
「おーい!駐在連れて来たぞ!」
源一の声に一同が振り返り、左右へはけた。
男たちが取り囲んでいた場所には、全裸の青年がぐたりと横たわり、源一の息子である一馬が心臓マッサージを施していた。
「一馬さん、その人…生きてるのかい?」
「まだ微かに息してる!」
汗だくで心臓マッサージを続けながら、一馬が答えた。
「代わります!」
駐在が言いかけたところで、全裸の青年が目をカッと見開いた。勢いよく上半身を起こし、辺りを見回す。咄嗟のことで受け身が取れず、馬乗りになっていた一馬はバランスを崩し、尻もちをついた。
一同が各々に感嘆の声を上げる中、一番の功労者であるはずの一馬ひとり、
「痛ってぇ…」
と苦悶の表情で尻をさすっている。
「さぁ、さぁ。みんなで、協力して…ウチに、連れてって」
巨体を揺らしながら遅れて到着してきた春田が息も絶え絶えにそう言うと、男たちは手際よく青年を診療所まで運んだ。
「意識あるみたいだし、俺はぁ…ちょっとここで休んでから戻るわ」
「おめぇは、俺より十もわけぇのに…なっさけねぇ」
そう言って鼻で笑うと、源一は浜辺にへたり込む春田の肩をぽんと叩いて悠然とその場を後にした。
「どうぞ、ごゆっくり」
軽く頭を下げ、駐在も源一について診療所へと向かった。
「どうだ、落ち着いたか?」
診療所のベッドに腰掛けて、出されたお茶を訝しげに眺める青年に源一が声を掛けた。
彼はもう全裸ではなく、春田に借りたシャツとズボンを着ていた。恰幅のいい春田の服を着たその姿は、お下がりを着させられた子どものようだ。
「茶、飲めや」
源一に促され、恐る恐る口をつけると、青年は顔をくしゃくしゃにして少し含んだ茶をペッペッと床に吐き出した。
「こらこら!汚すなよ」
そう言うと春田は部屋の隅に立て掛けられていたモップで床を丁寧に拭き始めた。
「全く…おめぇは昔っから綺麗好きなんだから」
「病院は、衛生面キチンとしなきゃなんねぇの。どこぞの漁師とは違うもんでねぇ」
「何だと、コノヤロー!」
「まぁまぁ、ケンカはこれくらいにして」
駐在が二人に割って入った。
「ほんとよぉ。可哀想に、怯えてるじゃない」
春田の妻・陽子の発言を受け、一同が青年を見やる。彼はベッドの上で膝を抱えてブルブルと震えていた。
「大丈夫よ。この人たちは『トムジェリ』みたいなもんだから」
「とむじぇり…」
青年は無表情でそう呟いた。
「ほら、知ってるでしょ?『トムとジェリー』って猫とネズミの漫画」
彼は首を傾げた。
「もしかして…」
そう呟くと春田が尋ねた。
「お前さん、名前…わかるか?」
青年は左右にかぶりを振った。
「こりゃ…記憶喪失かもしんねぇ」
翌日の昼過ぎ、駐在が青年の様子を見に診療所を訪ねた。
青年は病院のベッドの上に座り、何をするでもなく空を見つめていた。
相変わらず、服はぶかぶかのままだ。
「梅雨開けたって、さっきニュースでやってた」
「はぁ…」
駐在の声掛けに、青年は虚ろな目のまま、所在無げに答えた。
「まぁ、ゆっくり休んで」
駐在はそっと病室を後にした。
「やっぱし、記憶喪失みてぇだ」
「じゃぁ、どうにかして身元特定しないと!」
応接室のソファに腰掛けていた駐在が決然とが立ち上がった。春田がその腕を掴み、引き止める。
「やめとけよ」
「いや、だって…」
「まぁ座りなって。いいか、人にはな、それぞれ事情ってもんがあんだよ」
「そうだよぉ」
陽子が駐在の隣に座って、大きなヤカンに入った麦茶をコップに入れながら、続ける。
「あんた今年からこっちに赴任してきたから知らないだろうけど、島じゃたまぁにこういうことあるのよぉ…麦茶、どうぞ」
駐在は軽く頭を下げた。
「あんなふうに流れ着く人のほとんどが、まぁ…訳ありでね?記憶喪失ってのも…演技ってことも、あるわけ」
「医者としては、ごんべえのあれは狂言とは思わんがな」
「ごんべえ?」
「今話題にしてる青年のことに決まってっだろ、馬鹿者が」
そう言うと春田は巨体を揺らしながら、ワハハと豪快に笑った。
「ほら、名前が無いと、ややっこしいでしょ。だから…」
名無しの権兵衛、というわけか。
駐在は出された麦茶を一気に飲み干した。
初夏の熱気に火照った駐在の体は隅々まで冷やされていった。
結局、駐在が春田夫妻に押し切られる形で“ごんべえ”について県警本部には報告せず、島でしばらく様子を見る、という結論に至った。
その夜、村長宅の広間でごんべえを歓迎する宴が催された。長机には海の幸・山の幸が所狭しと並んでいる。
その長机の真ん中にごんべえが身体を小さくして遠慮がちに座っていた。
服はしかし、サイズの合った白いTシャツとジーパンを着用していた。
「ごんべえ君の救命祝いと記憶の回復を願って、かんぱーい!」
村長の音頭で乾杯が終わると、長机を囲んでいた若者たちが、一斉にごんべえの周りになだれ込み、矢継ぎ早に質問を投げかけた。
「本当に何も覚えちゃいねぇの?」
「父ちゃん、母ちゃんの顔も?」
「好きなアイドルは?」
「方言…そうだ!方言とかは?」
「こらこら、お前たち!そんな一遍に質問したら、負担になって思い出せるもんも思い出せねぇだろうが!さぁ、戻った戻った」
ごんべえの斜向かいに座っていた春田が若者たちを制すると、彼らはぶつぶつと言葉にならない文句を言いながら、元いた場所にすごすごと戻っていった。
「悪かったなぁ。みんな良かれと思ってしたことだ。まぁ、気ぃ悪くせんでくれ」
春田の言葉に静かに頷くと、ごんべえは日本酒を一気に飲み干した。
「あれまぁ!お茶は渋くて飲めなかったのに、あんた…相当いける口だね!駐在さんとは大違い」
陽子がそう言うと、その場がどっと湧いた。
「下戸で悪かったですね!」
長机の一番端に座っていた駐在が声を張り上げて返事した。
「冗談よ!駐在さんに酔っ払われても困るしねぇ」
「あ、そう言えば」
駐在が、ごんべえに問いかけた。
「服、変えたんですね?」
「あ…えっと…これは…」
ごんべえがぎこちなく答えると、陽子が続きを引き受けた。
「今日、駐在さん帰った後に、うちの娘と洋品店まで買いに行ったの」
春田夫妻の娘、里子は島一番の美人で、同世代ということもあり、駐在も少なからず好意を抱いていた。
里子の名を聞いて、ごんべえの頬がぱぁっと桃色に染まるのを彼は見逃さなかった。
駐在の中で、彼自身よく分からない何かがフツフツと沸き起こった。胸の当たりが酒でも飲んだかのようにカッと熱くなる。
「駐在さん!」
呼ばれて振り返ると、そこには里子の姿があった。
「ジュース飲む?」
「あ、お願いします」
駐在が答えると里子は持っていたオレンジジュースの瓶を栓抜きで開けて、トクトクと空のコップに注いで彼に差し出し、隣に座った。
「私もお酒は苦手。島の人たちも悪気があって言ってるわけじゃないから、気にしないで。ほら、みんな海の男だから荒っぽくて」
「でも、最初にけしかけたのは、君のお母さんだよ」
「まぁ、ここいらは女の方が強いから」
彼女の言葉を受けて二人で笑った。
「それにしても、ごんべえさんって不思議な人よねぇ」
里子が声をひそめ話し始めた。自然と二人の顔が近くなる。
「服と一緒に靴も買おうって言ったんだけどさ、どうにも窮屈だって。診療所のサンダルが気に入ったみたいでずっとそれ履いてんの」
そう言って控えめに笑うと、話を続けた。
「それにね、暇そうにしてたからさ、私、本を貸してあげたのよ。松本清張」
「あぁ、あれはいいよね」
流行りの作家らしいが駐在は読んだことがなく、適当に答えた。
「そう!面白くて時間なんてあっという間に解けてくから、手持ち無沙汰のごんべえさんには丁度いいかなって思って。でもね、上下逆さまに読むんだもん。私、気の毒だけど大笑いしちゃって」
「それも記憶喪失のせい?」
「どうかなぁ。父ちゃんによると、元々字が読めないのかもって。育ちのせいか、病気かは、わかんないみたい」
「ふーん」
そう言って駐在がごんべえの方を見ると、相変わらず水でも飲むかのように、顔色一つ変えず、すいすいと日本酒を飲んでいた。
「酒ばっか飲んでねぇでよ、刺身も食えよ!」
源一が顔を真っ赤にしながら勧めるも、ごんべえは一向に魚には手をつけない。
「もしかして魚、嫌いか?」
「いや…嫌いではなくて。むしろ好きだから食べられない、というか…」
「何だおめぇ、魚の生まれ変わりか?」
「あ、だから裸だったのか!」
陽子がそう言うと、また宴がどっと盛り上がった。
「字が読めなくて、魚が食べられず、酒はすいすい飲める…案外、君のお母さんの言う通りだったりして」
「嫌だわ、駐在さんったら」
そう言った里子に軽く叩かれた駐在の肩は、いつまでもじんじんと柔らかく疼いていた。
ただ世話になるだけでは申し訳ないと、ごんべえが自ら漁船に乗ることを申し出たのは、彼が漂着して一週間程たった頃だった。
「おめぇ、器用だなぁ」
源一がごんべえの鮮やかな網捌きに、ため息混じりに呟いた。
ごんべえは下を向いて頭を掻きながら、へへっと笑った。
「しっかし、今日は天気も悪くてあんまし見込みなかったけんど、思いがけず大漁んなったなぁ、親父」
漁から戻り、漁協の寄合所で仲間たちと仕事終わりの一杯に興じながら、一馬が感嘆の声を上げた。
「まぁ、珍しいことじゃねぇだよ。稀人乗せてるときゃ」
「何だい、マレビトって」
「突然よそから来た人のこった。昔から福を持って来るって言われててな、丁重に扱うと、いいことあんだよ」
「なんだよ、ごんべさんへのもてなしは親切心じゃなく、欲得尽くかぁ」
「いやいや、困ってる人に親切にせないかん、というただの言い伝えだ。ま、ええことしたらそれなりにええことが帰って来るっちゅう話だよ」
「そういや、ごんべさんは?」
「あぁ、ほつれた網直してやるって漁具倉庫だ。あいつは器用だから、ちょっと教えたらチャチャッとやっちまって。だから他のも直してもらうことにしただよ」
「もしかしたら、元々漁師だったのかもな」
「そだな。早く記憶が戻ったら、ええんだが…」
そう呟くと、源一は日本酒を一口含んだ。
ごんべえはひと月もせずに島の人たちとすっかり打ち解けた。積極的に漁や雑用を買って出る彼を島の人々も大変重宝がった。
ところが、記憶の方は一向に戻る気配がなかった。
そうこうしているうちに漂着から二ヶ月が過ぎた、ある日のこと…。
「ごんちゃん、山の上の神社にお参りしてみない?」
朝食時、そう誘ったのは里子だった。
「神社?」
「うん。海の神様を祀ってるの。ごんちゃん、漁の才能あるみたいだし、いっぺんお参りしてみたら?なんか思い出すかもしれんよ」
そう言うと、里子はいたずらっぽく笑った。
「神社…」
あまりピンと来ていないごんべえに
「それがいいわ!二人で行っといで!」
と陽子も勧めた。
春田はその様子を白米をかき込みながら、黙ってニコニコと眺めていた。
(続く)