第1話:冷めた夕食と温かい声(前編)
ー/ー カチ、カチ、と壁時計の針が刻む音が、いつもより大きく響く。
森野悠希は、テーブルに並んだ二つの皿を眺めていた。
一つにはこんがりと焼けたグラタンが、もう一つには彩り豊かなサラダが盛り付けられている。部屋には、夕食の準備をしていた時の香ばしいチーズの匂いがまだほんのりと残っていて、それだけで心が温かくなるようだった。
「よし、完璧!」
西暦2200年、地球と宇宙を繋ぐ巨大建造物「軌道エレベーター」のコンシェルジュとして働く悠希にとって、恋人である高遠陽樹と過ごすこの時間が、何よりも大切だった。
彼が仕事から帰ってきて、大好きな彼の帰りを待つ時間。料理をしながら、今日あった出来事をどう話そうか考える時間も、ユウキにとっては何よりも幸せな時間だった。その何気ない日常が、彼がそばにいることの何よりの証だった。
しかし、約束の時間を過ぎても、陽樹は帰ってこない。
手の中に握られたスマートフォンが、小さく震えた。
『ごめん、今日も少し遅くなる』
簡潔なメッセージ。それが、陽樹から送られてきた全てだった。
悠希は指先で画面をなぞり、もう一度、何度も見返してしまう。
「…既読になってる」
独り言のように呟く。陽樹が軌道エレベーターの運行管理者としてどれほど忙しいのかも、心配をかけたくないという彼の性格も、隣で見てきたからよく分かっている。それでも、期待で弾んでいた胸が、ほんの少しずつ萎んでいくのを感じていた。
「大丈夫、きっとすぐ帰ってくるから」
そう自分に言い聞かせて、悠希は立ち上がり、グラタンをオーブンに戻した。
グラタン皿はもう冷たくなっていた。
もう一度温め直せば、アツアツの美味しい状態で食べられる。そう信じていた。オーブンのタイマーをセットする。
ピッ、という軽快な音が、悠希の心に小さな希望の光を灯した。
外はもうすっかり日が暮れている。
窓の外に広がる高層ビルの群れは、まるで夜空に浮かぶ星々のようだった。
その光の一つ一つが、無数の人々の営みを映し出している。軌道エレベーターの地上駅は、その中でも一際大きな光の柱となって、夜空へと真っすぐに伸びている。地上駅の展望台で働くユウキは、毎日その光の柱を見上げていた。
「アキくんは、あの光の中にいるのかな…」
何万もの人の夢を乗せて、ただ一つの光を守っているのだろうか。そう思うと、胸の奥が少しだけ、締め付けられるような気がした。
もう一度時計を見る。約束の時間を、とっくに過ぎている。
悠希は、メッセージアプリを閉じて、今度は通話アプリを開いた。
コール音が、ただむなしく響くだけで、陽樹は電話に出ない。
もう一度、そしてもう一度。
三度目のコールが、自動的に留守番電話サービスに切り替わったとき、悠希は絶望的な気持ちになった。
「…アキくん、大丈夫かな…」
電話口に話しかけようとしたが、声が出なかった。
不安な気持ちがこみ上げてきて、喉の奥が震える。彼に余計な心配をかけたくない。ただ、元気な声を聞かせてあげたいだけなのに。
でも、いま電話をして、もし彼が忙しくて手が離せない状況だったら、それは彼の重荷になるのではないだろうか。
一瞬の葛藤の後、悠希は息を吸い込み、声を振り絞った。
「もしもし、アキくん?…あのね、今日、グラタン作ったんだ。アキくんが一番好きな、チーズがたっぷりの…」
言葉が途切れ途切れになる。泣きそうになるのを必死でこらえた。
「えっとね、今日の仕事で、すごく面白いことがあったんだ。宇宙に自分の名前を刻みたいって言ってた観光客がいてね…」
悠希は、今日あった出来事を語り始めた。少しでもアキを励ませたらいいな、という想いを込めて。自分の一言で、彼の心を少しでも軽くできたら、という願いを込めて。
話し終えて、録音ボタンを押す。自分の声が、少し震えていたような気がした。
これで良かっただろうか。
『ごめん』というメッセージを一つだけ送ってきたアキに、こんな長々と話しかけて、迷惑ではなかっただろうか。
不安が頭の中を駆け巡る。それでも、悠希は彼からの返信を待つことにした。
遠い記憶の中の彼の笑顔を思い出し、悠希は小さくため息をついた。
明日は、きっと早く帰ってきてくれるだろう。
そう自分に言い聞かせながら、悠希は彼の帰りを待ち続けた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
カチ、カチ、と壁時計の針が刻む音が、いつもより大きく響く。
森野悠希《もりのゆうき》は、テーブルに並んだ二つの皿を眺めていた。
一つにはこんがりと焼けたグラタンが、もう一つには彩り豊かなサラダが盛り付けられている。部屋には、夕食の準備をしていた時の香ばしいチーズの匂いがまだほんのりと残っていて、それだけで心が温かくなるようだった。
「よし、完璧!」
西暦2200年、地球と宇宙を繋ぐ巨大建造物「軌道エレベーター」のコンシェルジュとして働く悠希にとって、恋人である高遠陽樹《たかとおはるき》と過ごすこの時間が、何よりも大切だった。
彼が仕事から帰ってきて、大好きな彼の帰りを待つ時間。料理をしながら、今日あった出来事をどう話そうか考える時間も、ユウキにとっては何よりも幸せな時間だった。その何気ない日常が、彼がそばにいることの何よりの証だった。
しかし、約束の時間を過ぎても、陽樹は帰ってこない。
手の中に握られたスマートフォンが、小さく震えた。
『ごめん、今日も少し遅くなる』
簡潔なメッセージ。それが、陽樹から送られてきた全てだった。
悠希は指先で画面をなぞり、もう一度、何度も見返してしまう。
「…既読になってる」
独り言のように呟く。陽樹が軌道エレベーターの運行管理者としてどれほど忙しいのかも、心配をかけたくないという彼の性格も、隣で見てきたからよく分かっている。それでも、期待で弾んでいた胸が、ほんの少しずつ萎んでいくのを感じていた。
「大丈夫、きっとすぐ帰ってくるから」
そう自分に言い聞かせて、悠希は立ち上がり、グラタンをオーブンに戻した。
グラタン皿はもう冷たくなっていた。
もう一度温め直せば、アツアツの美味しい状態で食べられる。そう信じていた。オーブンのタイマーをセットする。
ピッ、という軽快な音が、悠希の心に小さな希望の光を灯した。
外はもうすっかり日が暮れている。
窓の外に広がる高層ビルの群れは、まるで夜空に浮かぶ星々のようだった。
その光の一つ一つが、無数の人々の営みを映し出している。軌道エレベーターの地上駅は、その中でも一際大きな光の柱となって、夜空へと真っすぐに伸びている。地上駅の展望台で働くユウキは、毎日その光の柱を見上げていた。
「アキくんは、あの光の中にいるのかな…」
何万もの人の夢を乗せて、ただ一つの光を守っているのだろうか。そう思うと、胸の奥が少しだけ、締め付けられるような気がした。
もう一度時計を見る。約束の時間を、とっくに過ぎている。
悠希は、メッセージアプリを閉じて、今度は通話アプリを開いた。
コール音が、ただむなしく響くだけで、陽樹は電話に出ない。
もう一度、そしてもう一度。
三度目のコールが、自動的に留守番電話サービスに切り替わったとき、悠希は絶望的な気持ちになった。
「…アキくん、大丈夫かな…」
電話口に話しかけようとしたが、声が出なかった。
不安な気持ちがこみ上げてきて、喉の奥が震える。彼に余計な心配をかけたくない。ただ、元気な声を聞かせてあげたいだけなのに。
でも、いま電話をして、もし彼が忙しくて手が離せない状況だったら、それは彼の重荷になるのではないだろうか。
一瞬の葛藤の後、悠希は息を吸い込み、声を振り絞った。
「もしもし、アキくん?…あのね、今日、グラタン作ったんだ。アキくんが一番好きな、チーズがたっぷりの…」
言葉が途切れ途切れになる。泣きそうになるのを必死でこらえた。
「えっとね、今日の仕事で、すごく面白いことがあったんだ。宇宙に自分の名前を刻みたいって言ってた観光客がいてね…」
悠希は、今日あった出来事を語り始めた。少しでもアキを励ませたらいいな、という想いを込めて。自分の一言で、彼の心を少しでも軽くできたら、という願いを込めて。
話し終えて、録音ボタンを押す。自分の声が、少し震えていたような気がした。
これで良かっただろうか。
『ごめん』というメッセージを一つだけ送ってきたアキに、こんな長々と話しかけて、迷惑ではなかっただろうか。
不安が頭の中を駆け巡る。それでも、悠希は彼からの返信を待つことにした。
遠い記憶の中の彼の笑顔を思い出し、悠希は小さくため息をついた。
明日は、きっと早く帰ってきてくれるだろう。
そう自分に言い聞かせながら、悠希は彼の帰りを待ち続けた。