「私はもとは東京の生まれ。父が商売で失敗したため、両親とともに親戚を頼ってこの渭州へやってきたのですが、あいにくその親戚はすでに
南京応天府へと越していたのです。母は旅路で病にかかり、この街の宿で亡くなってしまい……父と二人、歌唄いをしながら暮らしていました」
だがある日、困窮する若い娘に目を付ける男が現れた。鎮関西の鄭大旦那と呼ばれる太った男に酒の席で見初められ、妾にならぬかと迫られたのだ。男が持ってきた証文に、記された額は三千貫――未だ恋すら知らぬ少女は、父のために涙をのむしかなかった。
「ですが、一月たっても、二月たっても、鄭の旦那様は一文もお金を支払ってくださらないのです。おまけに奥様が私のことを疎まれ、無理やり追い出した挙句、払われてもいない三千貫を返せと……父と私を宿屋に押し込め、毎日のように取り立てるのです」
癇癪を起こせばすぐに怒鳴り散らす魯達ですら、そのあまりにも惨い仕打ちに絶句した。卓の上で握り締めた拳が震えるのを、抑えきれない。
「もらってもいないお金を返すことはできませんし、おまけに宿代までむしり取られ……なので元のように歌唄いをして、わずかでもお金を稼いでいるのです。こちらの料亭には私たち父娘もお世話になっていて、宴席に呼んでもらうのですが、いただいたお金もほとんどは借金の返済にあてているので、手元にはほんのわずかしか……」
堪えきれぬ涙が、再び娘の頬を伝う。史進が奥歯をかみしめる音が聞こえた。
「この数日は、お客様もあまりお見えにならず、そうこうしているうちに借金の返済の期限も過ぎてしまい……この先いったいどうなることかと、父と二人で泣いていたのです。それが提轄様方の興を削いでしまったようで、どうか、お許しくださいませ」
「お前、名はなんと言う。どこの宿屋に泊まっているんだ? それに、その鎮関西の鄭旦那とやらは、どこに住んでいやがる」
閻魔すらも逃げ出すような魯達の低い声に、今度は父親のほうがおずおずと答える。
「私は金という姓でして、娘は名を翠蓮と申します。鄭の大旦那は、状元橋のたもとで肉屋をやっている方で、あだ名を鎮関西とおっしゃるんです。私たちは、この近くの東門の内側にある魯という宿屋に泊まっております」
「肉屋の鄭だと?」
再び卓をひっくり返さんばかりの勢いで立ち上がった魯達は、巨大な拳を手近な柱に叩きつけた。今度は店まで壊す気かと、給仕がそわそわこちらを窺っている。
「鄭の大旦那なんぞというからどこのお偉いさんかと思えば、畜生殺しの鄭の奴だったとは! あの性根の腐った豚野郎め、うちの経略使の若旦那のお情けで肉屋をやらせてもらっている分際で、こんな弱い者いじめをしていたのか!」
もはや我慢がならなかった。いや、すでに王進の身上話を史進が語っていた時から、とっくに我慢は限界を超えていた。理不尽も横暴も奸計も、もはや存在することが当たり前になってしまっていることが、腹立たしくて仕方がなかった。
「史進、李忠」
顔中の髭すら逆立たせて、魯達は二人の豪傑を振り返った。
「鄭の野郎をぶっとばしてくる。あんたらはここで待っててくれ」
「ま、待ってくれ、兄貴」
「そうだよ魯兄貴、いったん落ち着いて」
「なぜ止める!」
「今このまま鄭を成敗したら、この二人が仕返しされるだろう!」
すでに一つの獣の如く怒りを放っていた魯達だったが、至極まともな李忠の意見を聞き逃すほどに我を失ってはいなかった。
「ふむ、それもそうだな」
荒ぶる吐息を抑え込み、魯達は哀れな父娘に再び目を向ける。
「俺が、あんたたちの路銀を工面する。明日にでも、その金で東京へ帰るんだ」
「え……」
はらはらと魯達の様子を見守っていた翠蓮が、呆けたような声を漏らす。目を丸くしたその顔は、疲れ切った先ほどの様子より、ずっと幼く見えた。
「そ、それはもう、故郷へ帰ることができるなら、これほど幸せなことは……ですが、宿屋の主人が我々を見逃すとは思えません。やつもまた、鄭の大旦那から借金取りを命じられているのです」
「おやじ、そんなことを心配するんじゃない。俺にも考えってやつがある。あんたはかわいい娘を無事に故郷へ連れ帰ることだけ考えろ」
喜びと不安がないまぜになった顔をする金老人の肩を一つ、ばしりと叩き、魯達は己の懐を探った。あいにくと今日は持ち合わせが少ないが、五両ばかりは見つかった。
「さあ、受け取れ」
「あ、の……」
分厚い掌の上で鈍く輝く銀子と魯達の髭面を、翠蓮はためらうように交互に見つめた。
「提轄様、でも、こんな……私たち父娘は、どう御礼をすれば……」
「まったく煮え切らん娘だ、はやく受け取らんか」
己の手の半分の大きさもない翠蓮の手をぐい、とつかみ、魯達はその掌に強引に銀子を乗せた。
「今日はいろいろと入用があってな、手持ちが少ないんだ。よかったら、あんたたちからも出してやってくれないか? 明日には必ず返す」
「はは、水臭いじゃないか兄貴。返さなくても結構。さあ、どうぞ」
人の良い笑みを浮かべる史進が包みから取り出した十両を受け取り、今度は翠蓮の両手をつかんで掌の上に積み上げる。
「李忠、あんたにも頼みたい」
「ええ、まあ、いいですけどね」
懐からでてきた二両を睨みつけ、魯達は「けちなやつめ」と呟いた。十五両もあれば、東京までは帰れるだろう。突然降ってわいた銀子を前に茫然とする翠蓮がそれを落とさぬよう、魯達はその両手をしっかり握りこませた
「さあ、はやく宿に帰って、荷物をまとめろ。この銀子を奪われたりするんじゃないぞ。明日の朝、俺があんたたちを宿まで迎えに行って、必ず逃がしてやる。宿屋の畜生なんぞに止めさせはせん」
「て、提轄様、あなたさまこそ、私と翠蓮の生き神様。なんと御礼を申したら良いか……!」
「礼などいい。俺は、弱い者いじめをするやつが許せんだけだ」
「……提轄様」
「なんだ、まだぐずぐずと言うことが」
「あの、手を……」
気恥ずかしそうに呟く翠蓮の視線を追えば、魯達の手の中で翠蓮の小さな手がつぶれそうになっている。
「あいや、こいつはすまん! さあ、銀子を落とすなよ。俺たちは酒盛りの続きをするから、さっさと帰って明日の支度をするんだ」
「……はい」
ことり、と頷いた翠蓮は、父とともに銀子を布にくるむと、何度も何度も魯達に向かって頭を下げ、ようやく気が済んだところでくるりと背を向け、
「いつか東京にいらっしゃることがあったら、どうか宴席で唄わせてくださいね」
魯達が返事をする間も与えず、小走りに立ち去って行った。肩越しに零れたその微笑みに、もう涙はなかった。