屋敷の外には、山賊どもを捕まえようと目を血走らせる男たち。屋敷の内には、山賊と謗られながらも義を掲げる男たち。
(どうしたらいい)
それは、三頭領を引き渡すか引き渡すまいかという問ではなかった。
にたにたと笑う県尉の顔を塀の外に見たその時から、いや、あるいはもっと前から、史進の腹はとうに決まっていたのだ。
(どうしたら俺たちは逃げられる)
めまぐるしく頭の中をかきまぜ答えを見つけようにも、焦燥と憤怒が邪魔をする。
「……史進よ」
どうにもならずに梯子にしがみついて息を殺す史進の背後から、静かな声が訴える。
「俺たちを、捕らえに来たんだな」
振り向けば、朱武が曖昧な笑みを口尻に乗せ目を細めている。その後ろでは陳達と楊春が、こちらも悲しげな、それでいて清々しいような顔を並べている。
「史進、お前は俺たちと違って潔白の身だ。俺たちをかばって身に破滅を招くことなどあってはならん。さあ、はやく俺たちを縛って奴らの前に突き出してくれ」
「朱武、あんたって人は、神機軍師のくせに何も分かっちゃいない。俺があの日、どんな気持ちであんたらを助けたと思ってる!」
汗ばみ始めた額を拭い、蓬髪をぞんざいに払いのけ、史進は唇を舐めた。
「盃を交わしたのを忘れたか? 俺の生死は、あんたらとともにあるんだ」
見ていろ、と音にならぬ声で呟き、史進はゆっくりと梯子を上る。塀から顔を出した瞬間、兵たちの目が一斉にこちらを向いた。
「これは都頭殿が二人も揃って、こんな中秋の宵にどうされました?」
「史の若旦那」
二人の都頭のうち、潰れ顔でもっさりと背の低い方が、慇懃に礼をする。
「こんな月の美しい夜でも、我らには務めがありましてね……お分かりでしょう、若旦那」
「へえ、そりゃ大変だ。うちなんかは気ままなもんですよ。今は、村の若いやつらと一緒に中秋の宴を開いていたところなんだが、どうです、景気づけに一献」
「ふざけるな!」
へらへらと嘯く若き庄屋の言葉に神経質そうな顔を歪ませたもう一人の都頭が、傍らに立つ李吉の背を押しながら声を荒げる。
「この李吉がすべて告げてくれたぞ。村の主ともあろうお前が、屋敷に山賊どもを招いて酒宴を開いているとな」
「貴様……!」
いつもへらへらと軽薄な男ではあったが、彼の狩った獣を買い付け、小遣いまでやっていたのは、この己ではなかったか。
「父さんも俺もお前にひどい仕打ちをしたこともないのに、なぜ濡れ衣を着せようとする!」
「いやですよぅ、若旦那、俺は何も知らなかったんだってば。ちょいと山に入って獣を探していたら、王四の爺が林の中でのんきに寝てたのさ。俺はあいつの持ってた文を拾って、衙門の前でちょっと読んでただけなんですから、勘弁してくださいよぉ」
「王四の文?」
その言葉に史進は、目の前の危機をも一時忘れた。
あの日、少華山に宴の誘いを持って行かせたその帰り、王四は夜もとっぷり更けたころに帰ってきた。浴びるほどに酒を飲まされて。
返書はもらったかと聞けば、酔って間違いを起こしてはいけないからもらわなかったと、確かに言ったのだ。
「嘘だ……嘘を言ってるんだ、お前は」
「嘘? だったらあの爺を呼んで聞いてみてくださいよぅ。あいつと俺と、どっちが正しい人間か」
掠れ声の呟きすら拾った地獄耳の李吉が、獲物を前にした獣のように笑った。
「王四……王四、どこにいる! 誰か、王四を呼べ。引きずってでも連れてこい!」
梯子から飛び降り血相を変えて辺りを見回す主のただならぬ声に、使用人たちが屋敷の中をばたばたと駆け回る。そういえば、いつもは史進に困ったことが起これば必ず傍にいるはずの使用人頭は、屋敷の周りを兵たちが囲んだとたん、姿を消していた。
「だ、旦那さま」
ほどなくして、数人の使用人が、文字通り引きずるようにして王四を連れてきた。地面に体を投げ出され、ぜいぜいと咳込む王四の顔は、月よりなお白い。
「王四、教えてくれ」
膝をつき、最も信用していた使用人の痩せた肩をぐいと掴む。
「少華山に宴の誘いを持って行ったとき、お前は返書を受け取ったのか?」
「それは……」
老いた眼が、揺れながら朱武たちのほうを見る。朱武の表情からその感情をうかがい知ることはできなかったが、細い髭を震わせ、彼はゆっくりと頷いた。
「王殿、俺は確かに、史大郎への返書をあなたに託したはずだ」
「あ……だ、旦那さま……」
情の抜け落ちた顔で己を見つめる主の腕に、老いた使用人頭は必死でしがみつく。
「つい勧められるまま酒を飲み、返書のことを忘れてしまったのです。まさか李吉が拾うとは、私は」
「黙れ!」
かつて誰よりも信頼した男の痩せた胸倉を引っ掴んで地面にねじ伏せ、方便ばかりが達者な頬を何度も拳で殴りつけた。
「お前は言ったんだぞ、間違いを起こしてはいけないから返書はもらわなかったと! なぜ正直に失くしたと言わなかった! なぜ俺を追い詰めるような真似を!」
「史進、落ち着け! 今はあいつらをどうにかしなきゃ」
陳達と楊春に力づくで引きはがされ、ようやく史進は王四から目を逸らした。屋敷を取り囲む兵たちが強引に踏み込んで来ないのは、少華山の三頭領と史進の豪傑ぶりを聞き及んでいるからだろう。だが、もたもたしている猶予はない。
じんと痛む拳を握りしめ、空を仰ぐ。
延安でこの名月を見ているはずの人を、倣う時が来たのだろう。
「都頭殿!」
再び梯子を上った史進は、動揺を押し殺し、精一杯威厳のある顔をしてみせた。
「確かに、うちの使用人がへまをして返書を取られたようだ。だけど今宵の宴は、山賊どもを一網打尽にしようと俺が考えた罠だったのさ。だから、どうか少し待ってくれ。三頭領は酒に酔って、へべれけだ。今のうちに奴らを縄で縛って、あんたたちのとこに連れていくよ。賞金は、俺のものかい?」
肌蹴た着物からうっそりと覗く九匹の龍の刺青を、都頭たちがこわごわと見ているのがわかる。威勢よく屋敷を取り囲んではいるが、彼らには毛ほども豪胆さなど備わっていないのだ。
「若旦那、私たちはことを荒げる気はないんでね。あんたが山賊どもを連れてきてくれさえすれば、賞金を受け取らせてやろう」
「わかった、待っていろ」
するりと梯子を下り、史進はしたたる汗を腕で拭った。
「朱武、陳達、楊春……」
「史大郎よ、やるんだな?」
「ああ」
にやりとする陳達に一つ頷くと、史進は未だ地面に這いつくばる王四の首根っこを引っ掴み、三頭領を従えて、宴席を設けていた前庭へと引き返した。
「みんな、聞いてくれ!」
屋敷のあちこちで固唾をのんでいた使用人たちを呼び集め、手に馴染んだ三尖刀を掲げる。
「俺は今から、屋敷に火を放つ」
史進の放った突拍子もない言葉に、しかし、使用人たちは誰一人驚くことはなかった。
ただじっと、尽くし仕えた青年の挑戦的な眼光を一身に受けていた――首根っこを掴まれ、顔を痣だらけにした王四以外は。
「ぼ、坊ちゃん、何をなさるので……」
「はッ、今更なにが『坊ちゃん』だ。俺を裏切りやがったくせに」
王四の首筋に刀をあてる。未熟な己を親身に見守ってくれた男に刃を向ける日が来るなどと、いったい誰が想像できたろう?
「う、裏切ったわけじゃない! 全部李吉が悪いんだ」
「こんな重大なことで俺に嘘をついた、それだけで十分な裏切りだ。お前が正直に返書を失くしたと言っていれば、手の打ちようもあったものを、畜生め!」
徐々に刀が食い込み、痩せた首筋を血が流れる。
「私を、こ、殺すのか……今まで散々世話をしてやったのに」
「史進、お前が信頼している使用人だと思って今まで言わなかったがよう」
躊躇いを見抜いたか、陳達が常にない険しい顔で唸った。
「子分どもの話では、そいつは俺たちがお前にと贈った銀子から、かなりの額を抜いていたそうだぜ。俺たちがそいつのためにと別に銀子を渡していたのにだ。おまけに、少華山との行き来で稼いだ銭で、お前を捨てて商売をするとも話していたらしい。それでもまだ、生かしておくか?」
すうと息を吸いこみ、刀を握る手に力をこめた。もはや目の前にいるのは、幼いころからかわいがってくれた男ではない――ただの薄汚い恩知らずにかけてやる温情など、もはやありはしなかった。
「王四、お前のせいで、今日俺は故郷を追われる。最期に言い残すことがあれば聞いてやるぞ」
「……史大郎」
怒りに刺青まで赤くする主を見上げる狡猾な瞳は、もはや覚悟を決めたか、ひどく冷めきっていた。
「最期の忠告と思って聞け、若造。お前は自分を嫌う者が存在することなど想像もしないまま、能天気に育ちすぎた。過ぎた信用は、いつかこうして自分に返ってくるぞ!」
愉快気なのか悔し気なのか判別も付かぬ笑い声を道連れに、王四の首は弧を描いて草むらに消えていった。
「……今から屋敷に火を放ち、周りを囲んでいる兵どもを突破する」
裏切者の残滓を刀から振り払い、史進は再びその言葉を口にした。
「俺について来る気のある者は、武器をとれ。だけど、無理に従えと言うつもりはない。命を大事にしたいなら、今日から新しい道を歩むといい。ここで、お別れだ」
使用人たち一人一人の顔を見渡す。庄屋としての才も威厳もなかったが、父と同じくらい、彼ら一人一人を大切にしてきた自負はあった。
「旦那様、俺たちは王四とは違います」
「そうだ。若旦那が行くとおっしゃるなら、どこまででもお供します!」
「三頭領と若旦那に武器を用意するんだ!」
過ぎた信用は、己に返る――それが真実だとするのなら、まさに彼らの言葉こそ、史進が抱いた信頼への返答だった。
「先陣は、俺が切る。朱武と楊春は中央で子分とこいつらを率いて、女たちを守ってくれ。陳達、あんたはしんがりを頼む」
「任せろよ!」
史進と三頭領は、それぞれ使用人たちが用意した鎧に身を固め、己の武器を手に取った。女たちには金目のものだけをまとめさせ、男たちには屋敷の四方の藁小屋に火をつけさせる。
「……父さん」
最後に、史進自ら松明を手に取り、母屋の前に立つ。
火の手があがったのを見た兵たちが色めきたつ気配を感じながらも、史進はしばし、生まれ育った屋敷を見上げた。
「俺はきっと、逃げ続けるよ。この国は広いから、色々、見て回ろうと思ってる」
この屋敷で父の子として生を受け、幸福な少年時代を過ごし、義に生きる好漢たちに出会った。
「でも……いつになるかはわからないけど、きっといつか、帰ってくるからな」
ばちばちと小さな音を立てていた火は、少しも経たぬうちに大きな炎となり屋敷を飲み込んでいく。
「行くぞ!」
その炎を受けて煌めく三尖刀を掲げ、気合い一声、史進は表門の扉を蹴り開けた。
「し、史進が来たぞ! 逃がすな、賊とひとまとめに捕らえるんだ!」
兵たちを鼓舞する県尉の声が震えきっていたのも、仕方のないことだったろう。
九紋龍史進は、ひとつの嵐だった。
畑仕事で出来上がったとは到底思えぬ均整のとれた肉体を満月の宵に踊らせ、眼光鋭い山寨の好漢たちを従えて駆け抜ける、暴風だった。
その勢いにたじろぐ兵たちを薙ぎ倒し、赤子の首をひねるように命を奪う史進たちの足元には、はやくも死体の山と血の海が広がっていた。
「李吉!」
腰を抜かし動けずにいる卑怯な小男の首は、返り血を浴びた史進の顔を一瞥する間もなく胴と離れ離れになった。
その後ろでは、体面も何もかなぐり捨てて一目散に逃げだした二人の都頭が、陳達の点鋼槍と楊春の刀の餌食になっていた。
「待て、逃げるな!」
ただ一人県尉だけは、先の威勢もどこへやら、これは勝ち目もあるはずなしと、颯のように馬を駆って逃げていく。
「あんな腰抜け役人のもとで威張り散らして良民をいじめるとは、兵の風上にもおけない野郎どもめ。まだ善悪が分からんというのなら、この九紋龍史進がお前たちの体に叩き込んでやる」
命からがら逃げていく兵たちの背を眺め、史進は白い歯をこぼした。もはや己を邪魔する者はどこにもいない。
「痛快だ! 今宵はなんて佳い夜だ」
眩しいほどに輝く満月に向かい、史進は吼えた。蓬髪を夜風に揺らし両腕を突き上げるその姿を目にした者はきっと、そこに一匹の龍を見出したことだろう。