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御影巫さま

ー/ー



 篠が澪姉さまの記憶を語る前に、どうしても、お伝えしておかねばならぬことがございます。
 胸の奥で、ときおり、灯がひとつ揺れます。油でも風でもない、名のない光。
 それは、おばあさまの昔語りとも、神書に残る文言とも違い、もっと静かで、もっと深く沈んだ揺らぎでした。
 ――おそらく、血脈に沈む影の記憶なのでしょう。
 灯は語れとは申さず、ただ欠けた月の夜になると、篠の内をそっと照らすだけでございました。
 語りとは祈りの形。
 祈りとは、魂を還すための道。
 その道を辿るには、まず血の底に眠る一番古い影を静かに見つめねばならぬ――そんな風に、灯は教えてくれるのです。

 瞼を閉じたとき、影が揺れる音を聞きました。
 影は本来、声など持たぬはず。それでも血の底では、微かな響きとなって震えました。
 長い沈黙ののちに、その残響は篠の耳へと届いたのです。

 ――それが、御影巫の始まりでございました。

 * * *
 古代の祈りは、今では誰も語りません。けれど、月のない夜、篠が息を潜めると、霊山の静寂は、ときおりひどく古い景色を滲ませるのです。

 ――祈りが裂けた夜がありました。

 誰の声でもありません。
 ただ、風と影が、その夜を篠に触れさせるのです。

 願いが満ちすぎたのか。祈りの器が細すぎたのか。あるいは、人が神へ求めすぎたのか。
 その夜、祈りは──ぱん、と、小さな悲鳴のように裂け、裂け目からこぼれた祈りの残滓が、三つの霊性となって地へ落ちました。

 ひとつは炎。
 ひとつは涙。
 ひとつは風。

 おばあさまは、その三つを「忌子三裂霊(いみこみつさきひ)」と呼んでおりました。
 篠には、真偽は分かりません。けれど、炎の揺らぎと、涙の影と、風の囁き――その三つが同時に胸を撫でていく感覚を、確かに覚えているのです。それは災厄ではなく、慈悲がどうしようもなく歪んでしまったかたちなのだと、おばあさまは言いました。

「三裂霊さまは恐ろしくないよ。皆の祈りが多すぎて、行き場をなくしただけなのだよ」

 その言葉の深さを、篠はまだ理解しきれません。ただ、時折――どこか遠くで泣いている気配だけが、胸の奥にふわりと触れるのです。それが誰の涙なのかは、分かりません。

 * * *

 三裂霊さまには、ひとりの姉君があったといいます。
 その方こそ、我らの血脈のはじまりの巫――御影巫(みかげふ)さま。

 おばあさまは、その名だけを教えてくれました。姿かたちを問うた折には、いつも静かに首を振られたのです。

「語ってはならぬよ。語れば影が揺らぎ、また祈りが裂けてしまう」

 語らぬことで守られた祈りがあり、語らぬことで断たれた血脈もありました。
 御影巫さまは、弟妹の魂を抱え持つ道を探すため、熊野霊山を離れ、風のように各地を巡り歩かれたと伝わります。

 家を持たず、祠に留まらず、ただ小さな祈りの灯だけを携え、穢れた霊を静め、
 いつか三裂霊を赦しの地へと導かんとした――そんな旅であったようです。

 おばあさまは、その祈りの果てを語りませんでした。語らねばならぬものでも、語ってよいものでもない、と。
 けれど篠は思うのです。御影巫さまは、怒りでも畏れでもなく、ただ赦すために歩まれた方だったのだと。
 その祈りの残響が、代々の血に微かに降り積もり、篠の胸にも、澪姉さまの背にも、風のように触れ続けてきたのでしょう。

 * * *

 影が揺れた夜、篠はふと、血の底に“ある旅路”の気配を感じました。それは、篠が見たはずのない遠い昔の景色――
 炎の影と、涙の気配と、風の囁き。
 その三つを伴い、ひとりの男が歩いてゆく影。
 まだ、神と人との境が曖昧だった頃。祈りが国の形を保っていた時代。

 熊野霊山の闇を抜け、大和の古い谷を渡り、比叡の霧の峰へ向かう。

 戦ではありませんでした。祓いでも、討伐でもない。ただ、「赦しの地へ連れてゆく」という静かな祈りだけが、その歩みに宿っていたのです。

 名は分かりません。けれど霊山の風は、その方を“古の英雄”と呼んでおりました。
 螢雪さまが歩んだ旅路とは、まるで逆向きの因果。
 ひとつの魂は、赦しの光を求めて歩み、ひとつの魂は、光を求めながらも遠ざかりました。
 進む道は違っておりましたのに、祈りの向きだけは、ひとつに重なっていたのでしょう。
 熊野霊山から比叡へ。
 比叡から、熊野霊山へ。
 呼ばれるように逆さへ流れ、それでも最後には、同じ山の影へと帰ってゆく。
 その旅路の交わりを、篠の血は、ただ静かに思い出すのです。
 それ以上のことは見えません。
 語れるほど鮮明ではなく、ただ胸を撫でて去る影の残像でした。
 篠には、それで十分でした。
 霊山の影が揺れるとき、篠は胸の奥に小さな灯が灯るのを感じます。
 温かいわけでも、悲しいわけでもなく、ただ静かにそこに在り続ける灯。
 それが御影巫さまの祈りなのか――篠には、まだ分かりません。
 けれど澪姉さまの魂を語る前に、この祈りの残り香だけは、どうしてもお伝えしておかねばならぬと、そう思ったのです。

 御影巫さまの影は、篠の歩みにも、澪姉さまの生にも、静かに――確かに――続いておりますから。


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 篠が澪姉さまの記憶を語る前に、どうしても、お伝えしておかねばならぬことがございます。
 胸の奥で、ときおり、灯がひとつ揺れます。油でも風でもない、名のない光。
 それは、おばあさまの昔語りとも、神書に残る文言とも違い、もっと静かで、もっと深く沈んだ揺らぎでした。
 ――おそらく、血脈に沈む影の記憶なのでしょう。
 灯は語れとは申さず、ただ欠けた月の夜になると、篠の内をそっと照らすだけでございました。
 語りとは祈りの形。
 祈りとは、魂を還すための道。
 その道を辿るには、まず血の底に眠る一番古い影を静かに見つめねばならぬ――そんな風に、灯は教えてくれるのです。
 瞼を閉じたとき、影が揺れる音を聞きました。
 影は本来、声など持たぬはず。それでも血の底では、微かな響きとなって震えました。
 長い沈黙ののちに、その残響は篠の耳へと届いたのです。
 ――それが、御影巫の始まりでございました。
 * * *
 古代の祈りは、今では誰も語りません。けれど、月のない夜、篠が息を潜めると、霊山の静寂は、ときおりひどく古い景色を滲ませるのです。
 ――祈りが裂けた夜がありました。
 誰の声でもありません。
 ただ、風と影が、その夜を篠に触れさせるのです。
 願いが満ちすぎたのか。祈りの器が細すぎたのか。あるいは、人が神へ求めすぎたのか。
 その夜、祈りは──ぱん、と、小さな悲鳴のように裂け、裂け目からこぼれた祈りの残滓が、三つの霊性となって地へ落ちました。
 ひとつは炎。
 ひとつは涙。
 ひとつは風。
 おばあさまは、その三つを「|忌子三裂霊《いみこみつさきひ》」と呼んでおりました。
 篠には、真偽は分かりません。けれど、炎の揺らぎと、涙の影と、風の囁き――その三つが同時に胸を撫でていく感覚を、確かに覚えているのです。それは災厄ではなく、慈悲がどうしようもなく歪んでしまったかたちなのだと、おばあさまは言いました。
「三裂霊さまは恐ろしくないよ。皆の祈りが多すぎて、行き場をなくしただけなのだよ」
 その言葉の深さを、篠はまだ理解しきれません。ただ、時折――どこか遠くで泣いている気配だけが、胸の奥にふわりと触れるのです。それが誰の涙なのかは、分かりません。
 * * *
 三裂霊さまには、ひとりの姉君があったといいます。
 その方こそ、我らの血脈のはじまりの巫――|御影巫《みかげふ》さま。
 おばあさまは、その名だけを教えてくれました。姿かたちを問うた折には、いつも静かに首を振られたのです。
「語ってはならぬよ。語れば影が揺らぎ、また祈りが裂けてしまう」
 語らぬことで守られた祈りがあり、語らぬことで断たれた血脈もありました。
 御影巫さまは、弟妹の魂を抱え持つ道を探すため、熊野霊山を離れ、風のように各地を巡り歩かれたと伝わります。
 家を持たず、祠に留まらず、ただ小さな祈りの灯だけを携え、穢れた霊を静め、
 いつか三裂霊を赦しの地へと導かんとした――そんな旅であったようです。
 おばあさまは、その祈りの果てを語りませんでした。語らねばならぬものでも、語ってよいものでもない、と。
 けれど篠は思うのです。御影巫さまは、怒りでも畏れでもなく、ただ赦すために歩まれた方だったのだと。
 その祈りの残響が、代々の血に微かに降り積もり、篠の胸にも、澪姉さまの背にも、風のように触れ続けてきたのでしょう。
 * * *
 影が揺れた夜、篠はふと、血の底に“ある旅路”の気配を感じました。それは、篠が見たはずのない遠い昔の景色――
 炎の影と、涙の気配と、風の囁き。
 その三つを伴い、ひとりの男が歩いてゆく影。
 まだ、神と人との境が曖昧だった頃。祈りが国の形を保っていた時代。
 熊野霊山の闇を抜け、大和の古い谷を渡り、比叡の霧の峰へ向かう。
 戦ではありませんでした。祓いでも、討伐でもない。ただ、「赦しの地へ連れてゆく」という静かな祈りだけが、その歩みに宿っていたのです。
 名は分かりません。けれど霊山の風は、その方を“古の英雄”と呼んでおりました。
 螢雪さまが歩んだ旅路とは、まるで逆向きの因果。
 ひとつの魂は、赦しの光を求めて歩み、ひとつの魂は、光を求めながらも遠ざかりました。
 進む道は違っておりましたのに、祈りの向きだけは、ひとつに重なっていたのでしょう。
 熊野霊山から比叡へ。
 比叡から、熊野霊山へ。
 呼ばれるように逆さへ流れ、それでも最後には、同じ山の影へと帰ってゆく。
 その旅路の交わりを、篠の血は、ただ静かに思い出すのです。
 それ以上のことは見えません。
 語れるほど鮮明ではなく、ただ胸を撫でて去る影の残像でした。
 篠には、それで十分でした。
 霊山の影が揺れるとき、篠は胸の奥に小さな灯が灯るのを感じます。
 温かいわけでも、悲しいわけでもなく、ただ静かにそこに在り続ける灯。
 それが御影巫さまの祈りなのか――篠には、まだ分かりません。
 けれど澪姉さまの魂を語る前に、この祈りの残り香だけは、どうしてもお伝えしておかねばならぬと、そう思ったのです。
 御影巫さまの影は、篠の歩みにも、澪姉さまの生にも、静かに――確かに――続いておりますから。