藤城皐月は図書室での待ち合わせを失敗だと思った。今日は昨日とは打って変わって低学年の児童が大勢いる。静かすぎるのも会話の声が響いてしまうが、騒がしいのも落ち着かない。
だが、これなら普通に話をしていても図書委員に注意されることはないだろう。今週の当番の
野上実果子と
月映冴子はカウンターで忙しそうにちびっ子たちの相手をしている。
バケットハットを取った
入屋千智はセミロングの髪型が似合っていた。少し髪が伸びたからなのか、毛先を大きくワンカールさせている。
及川祐希も高校へ行く前にヘアアイロンを使って毛先を内巻きしたり、外ハネにしてりしてボブに動きをつけている。皐月のクラスではおしゃれ好きの
松井晴香が毎日髪型を変えて楽しんでいる。
「本を返すって言ってたよね。何の本を借りたの?」
「この本なんだけど……」
その本には『少年少女日本文学館』シリーズの第5巻『小僧の神様・一房の葡萄』で、志賀直哉、有島武郎、武者小路実篤という三人の白樺派の短編小説が収録されている。
これは
二橋絵梨花が読んでいた芥川龍之介の『トロッコ・鼻』を図書室へ探しに来た時に貸出中になっていた本だ。こんな文学書を読むのは
吉口千由紀のような読書好きの子だと思っていたので、借りていたのが五年生の千智だと知り、軽くショックを受けた。
皐月は千智に対する認識を新たにしなければならないと思った。ストリートファッションで身を固める千智はスポーツ少女のように見えるが、本当は文学少女でもあるのかもしれない。皐月は文学少女の千由紀だけでなく、千智とも文学の話ができそうで嬉しくなった。
「その本、面白かった?」
「う〜ん、面白いのもあった。面白いっていうより印象深かったって言った方がいいかもしれない」
慎重に言葉を選ぶ千智に皐月は才智の深さを感じた。五年生でありながら学力では千智に敵わないのに、最近目覚めた読書でも負けてしまいそうだ。そう思うと、千智に対してコンプレックスを感じないわけにはいかなくなる。
「そうだよね、エンタメじゃないもんね。俺の聞き方が悪かった。じゃあ、千智にとって最も印象深かった小説はどれだった?」
「んん……そうだね、志賀直哉の『城の崎にて』かな。いろいろ考えさせられて、何回も繰り返して読んだよ」
皐月は『城の崎にて』を読んだことがなかった。たぶん千由紀なら読んでいるだろう。こういう時に自分も読んだことがあると言えるようになりたいと思う。
絵梨花も千由紀も好きな話は何度でも繰り返して読むと言っていた。読み返すごとに理解が深まって面白くなるらしいが、千智は理解を深めるために何度も繰り返し同じ話を読んでいるようだ。
「いろいろ考えたって言ったけど、どんなことを考えたの?」
「……生と死、かな?」
「生と死!」
「いや、違う! そんな皮相的なことじゃなくて、なんていうかな……もうちょっと現在や未来の自分の身につまされるっていうか……」
千智は難しいことを言う。皐月は「皮相的」という言葉を日常会話で初めて耳にした。漢検の勉強をしていなければ千智の言う意味がわからなかったかもしれない。
千智は皐月との会話を重ねるにつれ、まるで皐月の知性を試しているかのように語彙のレベルを上げてきている。皐月は千智の賢さを知り、あえて小学生らしからぬ言葉を使うように背伸びをしてきたが、最近では千智についていくのがキツくなっている。
そんな千智が『城の崎にて』の中に言語化が難しい何かを見出した。
「この話を読むとね、先輩に会いたくなるの」
「えっ、そうなの? どういうこと?」
「教えてあげない」
「なんだよ、それ」
深刻な顔をしたかと思えば小悪魔のような顔をしてみせる。千智はそうして自分のことを値踏みしているのだろうか。
皐月はときどき、このように千智に翻弄されることがあるが、女子に弄ばれるのは嫌いではないが、自分がバカで底が浅い人間だと見抜かれてしまうかもしれない。
千智のかわいい顔を見ていて、皐月は初めて怖いと思った。いつか見切りをつけられて、自分から離れていってしまうのではないかという恐れを感じ始めた。