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第6回

ー/ー



 一片の感情もこめない、謝罪すら求めない言葉で、彼女は厳しく目の前に立つ女を責めているのだ。

「そうではないかとうすうす思ってはいましたが、やはりあなただったんですね。
 私は、確かにあなたを母であると認めてはおりませんでした。あなたは父の妻にふさわしくないと思っていましたわ。気付いていらしたのでしょう、はっきり私のロから聞かせてさしあげます。
 ですが、あなたも志尾家の名によって生きている者。まさかその名を汚すようなまねだけはするまいと思っていましたのに……」
「ちが……違うのよ、佳織さん。私は……私はただ……」

 これだけの事実をさらされながら、今さら何を言おうというのか。
 地位の崩壊を恐れ、墓から出た死人のようにおぼつかない足取りで、よろよろと佳織に歩み寄る。すがりつき、今にも慈悲を乞おうとでもするように、月光の下へ。

 その姿、顔を見たとき。

「……だれ!? そこにいるのは!?」

 窓の開く小さなきしみ音と、入ってきた微風に気付いたらしく、こちらへと目を向ける。

「だれかいるのね……!」

 確信したように強く言って、注意深く目を細めたそのときだ。
 彼女の気持ちを汲んでか、さあ……と月が、届く限りの部屋の内部を精いっぱいその光で照らし出した。

「……ひっっ」

 女は、こちらを正面に見て、とたん、まるで恐ろしいものを目にしたように顔を引き攣らせた。佳織を見たとき以上に青ざめ、これ以上ないほど目を見開き、唇を震わせてよろよろと後退する。

「高槻さん?」

 佳織が不思議そうに俺と、後退をはばんだ机に腰を押しつけた女を見比べる。

 ……俺は、このとき初めて自分が光の中へ、部屋の内へと歩み出ていることに気付いたのだが、だからといってあわてて闇に逃げこむどころか彼女から目をそらすこともできなかった。

 母さん。

 唇の先でつぶやく。
 それは、声にもならなかった。

「ひっ……ひいっ」

 母は俺の出現そのものに恐怖するようにあたふたと首を振り、すがれる何かを求めて壁に身をつけると闇雲に手を伸ばした。
 その肘が当たり、壁にかかっていた絵が揺れ、扉の側に置かれてあった棚の上の花瓶が落ちて割れる。

 待ってください。違うんです。
 そんな、あなたを驚かせるために来たんじゃないんです。
 あれから俺は、あの老人がだれであったのか知りました。そして今ではもう、あなたがどんな思いであの生活をしていて、あのとき何を求めたのか、全部分かっているつもりです。
 あのころの俺とあなたを養っていたものすべて、俺が不自由していないと思っていたもの全部が、どこから出ていたのかも……。

 だから、あなたを追いつめたくて来たわけじゃないんです。
 あなたの今の生活をおびやかすために来たのではなくて、ただ……ただ、俺は、あなたに――――――


「いやあっ!! 来ないでええっ!!」


 恐怖におののいた激しい拒絶の悲鳴が、たたきつけられる。
 あの土手にいたときからずっと頭から離れなかった言葉は、ぐるぐるぐるぐる頭の中を巡るばかりで、一向に外へ出てくれようとはしなかった。

 手を差し伸べるどころかまばたきすることすらできず、ただ立ち尽くす。

 そんな俺の前で本棚は崩れ、棚の上に並べられていた陶器類のことごとくが床に落ち、粉々に砕けていった。
 まるで、俺の中で同じように砕けてゆく何かが、砕けると同時に現実という音を得られたように。

 それを砕いているのは、まぎれもなく、俺の母。

 次々と砕かれてゆく、その行為に対して俺は何ひとつ口にできず、ただ、壊されてゆくのを見続けるだけだった。

「いやっ……! こっちへ、近づかないで……」

 母はひたすら、耐えがたい恐怖に狂った目をして俺を見ていた。俺の向ける視線におびえ、壁を伝い、俺からどうにかして逃れようと必死にもがいている。

 まるで、悪夢に追いたてられるように。

「どうかしたんですか? 秋子さん。そこにいらっしゃるんですか?」

 騒ぎを聞きつけて来たらしい。そんな言葉がして、ドアが引き開けられる。
 廊下の明かりを背に一歩中へ踏み入ったとたん、陶器の破片が散らばった部屋の惨状に目を(みは)った青年の足に、母は、まるで神を見るような目をして体裁も繕わずすがりついた。


「助けて、とおるさんっ!」


 それが限界だった。

 俺は弾かれるように踵を返して、外に走り出していた。
 その場から一刻も早く、遠ざかりたくて。

「待って、高槻さん……!」

 佳織の制止の声が背後からかすかに聞こえてきたが、足を止めることはできなかった。
 サーチライトが足元を照らし、直後、警察の笛の音が起きる。
 走り来る警官を振り切ろうと全力で茂みを走り抜け、何度も木の根や石につまついて、転びかけたりもしたけれど、足は止まってくれなかった。

 とにかく夢中で、入る際に使った木を登って壁に足かけ飛び越えたが、加減がきかずにうまく着地できずに地面を転がってしまう。(まったく、電流に引っかからなかったのは幸運としか言いようがない。あとで電流の存在を思い出したとき、さすがに苦笑いしかできなかった)

「融?」

 その、見るからにただ事ではない俺の様子に目を丸くして駆け寄ってきた和彦の手が、頬にできたすり傷へ伸びる。

「おまえっ、どうし――」
「いい! 触るな!」

 その手を無理矢理引き剥がす。

「それよりなんでおまえまだいるんだよ! 消えろって言っといただろう!」
「だって……」
「だってじゃない!」

 言い訳をしようとした和彦を頭から怒鳴りつけて強引に後ろへ乗せると、俺はすぐさまパイクを走らせた。
 鳴り響く警報機、空中を照らすサーチライト。背後の路地からは数台に渡るパトカーのサイレンが聞こえてくる。

「とっ、融? 融ってば! 危ないよ! 一体何があったんだよ!」

 ライトもつけないで一方通行を逆走し、狭まりかけた車間や赤信号の交差点に強引に突っこむ俺の無茶な運転に、必死にしがみついて訊いてくる。だけど俺は、今口を開いたらこうして逃げることも――それどころかもう二度と立つことさえできなくなりそうで、どうしても答えることはできずに唇を噛みしめていた。

 分かってた。分かってたはずじゃないか、融。分かっていただろ? あれは幼いおまえを捨てた女だ。息子より裕福な生活を選んだ女だ。会ったところで手を広げて笑顔で迎えてくれるわけがない。受け入れてくれるはずがないんだ! 一生かかったって!!

 ――ちくしょう!

 分かってなんかいなかったさ! 分かってたなんて嘘だ! そうだよ、どこかで思ってた! いつか……いつか俺を迎えに来て、連れて行ってくれる。

『待たせたわね、融。あの日、おまえを置いて行ってしまった母さんだけど、捨てたわけじゃなかったのよ。あの日から、おまえを思い出さない日は1日だってなかったわ。息子だもの。
 さあ迎えに来たのよ。一緒に来てちょうだい。あなたを抱きしめられるこの日を、ずっと待っていたわ』
『うん母さん。捨てたなんて、思ったことなんかなかったよ。だって、母さんが俺を忘れるなんてあり得ないもの。母さんだもの。絶対迎えに来てくれるって、信じてた』

 ……ばかな夢だ。そんなのはテレビや童話の中でだけ通用する、甘い夢。現実じゃあり得ない。
 俺は、捨てられたんだ。そんな日なんか一生来るわけないって分かってたくせに、調子よく、夢だけは見てたんだ。自分自身、嘘で(あざむ)いて。

 そうさ、いつまでも夢見ていたかったよ。嘘を信じたかった。だから俺は、俺からあんたを奪ったやつが何者か分かって、どこにいるのか分かっても、会いに行く気なんか全然起きなかった。
 あんたは俺のことなんか何とも思っちゃいないなんて……忘れて楽しく過ごしているなんて、そんなこと、知りたくない!
 あんたは望むものを手に入れたけど、きっと後悔してる。会いにくくて、こんなに年月が過ぎてしまったけど、俺を捨てたことをずっと悔いてて、きっといつか、絶対会いに来てくれるって、信じていたかったんだ!

 ……本当に、嘘だなんて……夢だったなんて……。


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 一片の感情もこめない、謝罪すら求めない言葉で、彼女は厳しく目の前に立つ女を責めているのだ。
「そうではないかとうすうす思ってはいましたが、やはりあなただったんですね。
 私は、確かにあなたを母であると認めてはおりませんでした。あなたは父の妻にふさわしくないと思っていましたわ。気付いていらしたのでしょう、はっきり私のロから聞かせてさしあげます。
 ですが、あなたも志尾家の名によって生きている者。まさかその名を汚すようなまねだけはするまいと思っていましたのに……」
「ちが……違うのよ、佳織さん。私は……私はただ……」
 これだけの事実をさらされながら、今さら何を言おうというのか。
 地位の崩壊を恐れ、墓から出た死人のようにおぼつかない足取りで、よろよろと佳織に歩み寄る。すがりつき、今にも慈悲を乞おうとでもするように、月光の下へ。
 その姿、顔を見たとき。
「……だれ!? そこにいるのは!?」
 窓の開く小さなきしみ音と、入ってきた微風に気付いたらしく、こちらへと目を向ける。
「だれかいるのね……!」
 確信したように強く言って、注意深く目を細めたそのときだ。
 彼女の気持ちを汲んでか、さあ……と月が、届く限りの部屋の内部を精いっぱいその光で照らし出した。
「……ひっっ」
 女は、こちらを正面に見て、とたん、まるで恐ろしいものを目にしたように顔を引き攣らせた。佳織を見たとき以上に青ざめ、これ以上ないほど目を見開き、唇を震わせてよろよろと後退する。
「高槻さん?」
 佳織が不思議そうに俺と、後退をはばんだ机に腰を押しつけた女を見比べる。
 ……俺は、このとき初めて自分が光の中へ、部屋の内へと歩み出ていることに気付いたのだが、だからといってあわてて闇に逃げこむどころか彼女から目をそらすこともできなかった。
 母さん。
 唇の先でつぶやく。
 それは、声にもならなかった。
「ひっ……ひいっ」
 母は俺の出現そのものに恐怖するようにあたふたと首を振り、すがれる何かを求めて壁に身をつけると闇雲に手を伸ばした。
 その肘が当たり、壁にかかっていた絵が揺れ、扉の側に置かれてあった棚の上の花瓶が落ちて割れる。
 待ってください。違うんです。
 そんな、あなたを驚かせるために来たんじゃないんです。
 あれから俺は、あの老人がだれであったのか知りました。そして今ではもう、あなたがどんな思いであの生活をしていて、あのとき何を求めたのか、全部分かっているつもりです。
 あのころの俺とあなたを養っていたものすべて、俺が不自由していないと思っていたもの全部が、どこから出ていたのかも……。
 だから、あなたを追いつめたくて来たわけじゃないんです。
 あなたの今の生活をおびやかすために来たのではなくて、ただ……ただ、俺は、あなたに――――――
「いやあっ!! 来ないでええっ!!」
 恐怖におののいた激しい拒絶の悲鳴が、たたきつけられる。
 あの土手にいたときからずっと頭から離れなかった言葉は、ぐるぐるぐるぐる頭の中を巡るばかりで、一向に外へ出てくれようとはしなかった。
 手を差し伸べるどころかまばたきすることすらできず、ただ立ち尽くす。
 そんな俺の前で本棚は崩れ、棚の上に並べられていた陶器類のことごとくが床に落ち、粉々に砕けていった。
 まるで、俺の中で同じように砕けてゆく何かが、砕けると同時に現実という音を得られたように。
 それを砕いているのは、まぎれもなく、俺の母。
 次々と砕かれてゆく、その行為に対して俺は何ひとつ口にできず、ただ、壊されてゆくのを見続けるだけだった。
「いやっ……! こっちへ、近づかないで……」
 母はひたすら、耐えがたい恐怖に狂った目をして俺を見ていた。俺の向ける視線におびえ、壁を伝い、俺からどうにかして逃れようと必死にもがいている。
 まるで、悪夢に追いたてられるように。
「どうかしたんですか? 秋子さん。そこにいらっしゃるんですか?」
 騒ぎを聞きつけて来たらしい。そんな言葉がして、ドアが引き開けられる。
 廊下の明かりを背に一歩中へ踏み入ったとたん、陶器の破片が散らばった部屋の惨状に目を|瞠《みは》った青年の足に、母は、まるで神を見るような目をして体裁も繕わずすがりついた。
「助けて、とおるさんっ!」
 それが限界だった。
 俺は弾かれるように踵を返して、外に走り出していた。
 その場から一刻も早く、遠ざかりたくて。
「待って、高槻さん……!」
 佳織の制止の声が背後からかすかに聞こえてきたが、足を止めることはできなかった。
 サーチライトが足元を照らし、直後、警察の笛の音が起きる。
 走り来る警官を振り切ろうと全力で茂みを走り抜け、何度も木の根や石につまついて、転びかけたりもしたけれど、足は止まってくれなかった。
 とにかく夢中で、入る際に使った木を登って壁に足かけ飛び越えたが、加減がきかずにうまく着地できずに地面を転がってしまう。(まったく、電流に引っかからなかったのは幸運としか言いようがない。あとで電流の存在を思い出したとき、さすがに苦笑いしかできなかった)
「融?」
 その、見るからにただ事ではない俺の様子に目を丸くして駆け寄ってきた和彦の手が、頬にできたすり傷へ伸びる。
「おまえっ、どうし――」
「いい! 触るな!」
 その手を無理矢理引き剥がす。
「それよりなんでおまえまだいるんだよ! 消えろって言っといただろう!」
「だって……」
「だってじゃない!」
 言い訳をしようとした和彦を頭から怒鳴りつけて強引に後ろへ乗せると、俺はすぐさまパイクを走らせた。
 鳴り響く警報機、空中を照らすサーチライト。背後の路地からは数台に渡るパトカーのサイレンが聞こえてくる。
「とっ、融? 融ってば! 危ないよ! 一体何があったんだよ!」
 ライトもつけないで一方通行を逆走し、狭まりかけた車間や赤信号の交差点に強引に突っこむ俺の無茶な運転に、必死にしがみついて訊いてくる。だけど俺は、今口を開いたらこうして逃げることも――それどころかもう二度と立つことさえできなくなりそうで、どうしても答えることはできずに唇を噛みしめていた。
 分かってた。分かってたはずじゃないか、融。分かっていただろ? あれは幼いおまえを捨てた女だ。息子より裕福な生活を選んだ女だ。会ったところで手を広げて笑顔で迎えてくれるわけがない。受け入れてくれるはずがないんだ! 一生かかったって!!
 ――ちくしょう!
 分かってなんかいなかったさ! 分かってたなんて嘘だ! そうだよ、どこかで思ってた! いつか……いつか俺を迎えに来て、連れて行ってくれる。
『待たせたわね、融。あの日、おまえを置いて行ってしまった母さんだけど、捨てたわけじゃなかったのよ。あの日から、おまえを思い出さない日は1日だってなかったわ。息子だもの。
 さあ迎えに来たのよ。一緒に来てちょうだい。あなたを抱きしめられるこの日を、ずっと待っていたわ』
『うん母さん。捨てたなんて、思ったことなんかなかったよ。だって、母さんが俺を忘れるなんてあり得ないもの。母さんだもの。絶対迎えに来てくれるって、信じてた』
 ……ばかな夢だ。そんなのはテレビや童話の中でだけ通用する、甘い夢。現実じゃあり得ない。
 俺は、捨てられたんだ。そんな日なんか一生来るわけないって分かってたくせに、調子よく、夢だけは見てたんだ。自分自身、嘘で|欺《あざむ》いて。
 そうさ、いつまでも夢見ていたかったよ。嘘を信じたかった。だから俺は、俺からあんたを奪ったやつが何者か分かって、どこにいるのか分かっても、会いに行く気なんか全然起きなかった。
 あんたは俺のことなんか何とも思っちゃいないなんて……忘れて楽しく過ごしているなんて、そんなこと、知りたくない!
 あんたは望むものを手に入れたけど、きっと後悔してる。会いにくくて、こんなに年月が過ぎてしまったけど、俺を捨てたことをずっと悔いてて、きっといつか、絶対会いに来てくれるって、信じていたかったんだ!
 ……本当に、嘘だなんて……夢だったなんて……。