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ー/ー まったく、つまらない毎日だ。
大学生にでもなれば、もっと華やかな日々を送れるものだと思っていた。だが実際、そんなことはなかった。毎朝電車で一時間以上もかけて通学して、退屈な講義を何時間も聞かされて帰るだけ。いくらかテンションの上がる瞬間があるとすれば、学校帰りに寄ったパチンコ屋で大勝ちしたときくらい。それだってたいていは負けるから、つまりは毎日ほとんどの時間を俺は退屈とともに過ごしている。
はあ、やれやれ。これじゃ何のために大学生になったのかわからない。勉強をするため? は。そんなつもりで大学に入ってくるやつなんているわけねえだろ。大学ってのは気の合う仲間と授業をサボって遊んだり、とびきり可愛い彼女を作ったりして毎日楽しく過ごす場所だ。それがなんだ。入学してからもう一年が経つっていうのに、可愛い彼女どころか気の合う友人の一人もできやしない。いったい何が原因なんだ。俺の人間性に問題があるとはとても思えないし。
とにかく俺は、そんな調子で日々を陰陰滅滅とした気持ちで過ごしていた。このままあと三年もこの刑務所みたいな場所で暮らすのか。マジでやってられない。そう思ってた。
――昨日までは。
クク……。ばかでかい講義室のいちばん後ろの席で、俺は口から洩れそうになる笑い声を堪えるのに必死だ。同じ列の反対側に座っている女二人が、さっきから俺の様子を訝しそうにちらちら見ては何事か囁き合っている。
ふん。いまに見てろ。今日から俺の大学生活はその様相をがらっと変えることになる。バッグの中に忍ばせた、「こいつ」の力によって――。
俺がこいつを手にしたのは昨日のことだ。俺は母親に頼まれ、実家の物置小屋の整理を手伝っていた。昨日は日曜で大学は休みだった。休日にそんなことをやらされるなんて馬鹿げている。だがそんな日に限って父親はどこかに外出していた。まったく、どいつもこいつも俺の邪魔ばかりしてくる。
そうして貴重な休日をせっせと棒に振っていたところ、俺は物置小屋の奥でこいつを発見した。最初、それが何だかわからなかった。母親に訊いても首を横に振るばかりだった。しばらくして外出から帰ってきた父親に訊いてみると、
「ああ。それ、タイプライターだ」
「タイプライター?」
断っておくが、俺はタイプライターを知らなかったわけじゃない。目の前にある物体がそれと思えなかっただけだ。俺の想像するタイプライターは、黒くて、手前にパソコンのキーボードみたいな文字盤が付いていて、それを使って直接紙に文字を印字していく、ワープロソフトの起源みたいな機械だ。だけど物置小屋で見つけたそれは、想像していたタイプライターとは明らかに形が異なっていた。父親にそれを訴えると、
「和文タイプライターだからな」
と言われた。
和文。たしかに、いわゆるQWERTY配列の文字盤は付いていないものの、代わりにひらがなとカタカナ、それに様々な漢字がびっしりと並んだ表みたいなものが取り付けられている。ではこれがこのタイプライターの文字盤ということなのだろうか。一見してそうとは気づきにくい。どう見たって、指で打鍵していくには小さすぎるからだ。
「これ、どうやって使うんだ?」
「いやあ、使い方までは。それ、じいさんのだし、実際に使ってるとこ見たことないからなあ」
あっそう、と返事をして、俺はタイプライターを小屋の奥に戻そうとした。実際に使ってみようと思うほどには興味を抱けていなかった。しかし父親はそうしようとする俺を呼び止め、言った。
「それ、よかったらお前にやるよ」
「は? 俺に? どうして?」
「大学生だし、レポートとかで文章を書く機会も多いだろう。たまにそういうレトロなものを使って書いてみるのも、気分転換になっていいんじゃないか?」
「はあ」
いらねえ。正直、そう思った。たしかにレポートの課題はちょくちょく出るが、そんなもの、いつもネットで見つけた誰かの文章の丸写しだ。ただコピペするだけならタイプライターなんていらない。なんなら、キーボードすらいらない。
だがまあ、よく考えてみれば、亡くなった祖父のものだというのならそこそこの年代物だ。使わずとも、ネットオークションなんかで売ったらそれなりの値がつくのかもしれない。貰っておいて損はない。そう思い直した。
その夜、俺はそのタイプライターを部屋で一度使ってみることにした。売る前の動作確認は必要だ。使い方は事前にネットで調べた。どうやらこいつは直接指で打鍵するのではなく、先に付属のアームで表に並んでいる文字の中から打ちこみたい文字を選び、それからわきに付いているレバーを下げることで選んだ文字が紙に印字されていくという仕組みらしい。いわば、一文字ずつ紙に印鑑を押していくような感覚だろうか。慣れればそれなりに速く打てるようになるのだろうが、それでもどう考えたって手書きのほうが速い。オークションに出品したところで、こんなものを欲しがるやつなんているのだろうか。……まあ、骨董的価値はあるかもしれないし、とにかく動作確認だ。
さて、打つ内容はどうするか。何でもいいっちゃいいが、「ああああ」なんてクソつまらないものは打ちたくない。そう思っていると、ふいに膝の上に重さを感じた。見るといつのまにやら飼い猫のホッケが俺の膝の上に乗っている。ふむ、と俺は次のような文章を打ち込んでみた。
『飼い猫が突然、人の言葉を話しはじめた。』
ふふふ。さすがは俺。独創的で発想力あふれる文章だ。こんな文章を思いつけるやつなんて俺以外にいないんじゃないのか。まあ、とにかく動作に関しては問題ないようだ。俺は満足し、膝の上のホッケに声をかけた。
「おい、ホッケ、立ち上がるぞ。寝るならどこかよそへ行け」
「ええー? せっかくいい場所を見つけたのにぃ。もうちょっとここで寝ていたいよお」
もちろん、すぐには信じなかった。幻聴だと思った。直前に書いた文章の影響かもしれない。気のせいだとは思いつつも、確かめるために俺はもう一度ホッケに声をかけた。
「なあ、ホッケ」
「もー、なあにい? ひとが寝てるときは静かにしててもらいたいニャン」
そんな馬鹿な。俺は唖然とした。ホッケが、猫が人の言葉を喋っている。いかにも猫がしゃべっていますよというような、「ニャン」などという語尾までつけて。
「ほ、ホッケ……?」
「だあー、もううるさいなあ! 静かにしろって言ってんだろうが! 何度言やわかんだよ耳ついてねえのかよおめーはよお!」
ああもうだめだ、完全に喋ってる。しかもなんかすごい怒られてる。ホッケよ、お前って怒ると豹変するタイプだったんだな。今後はもっと接し方に気を付けるようにしよう。そんなことを思っていると、部屋のドアが叩かれる音がした。
「ちょっと、峻也。だれかと電話でもしてるの? もう遅いんだから、もうちょっと静かに話しなさいね」
母親の声だった。猫に怒られ、母親に注意される。ひどく惨めな気分だ。ごめんと返事をし、いや待てよ、と俺は再びタイプライターを操作した。
『母おやがおれにおこづかいをくれた』
焦って打ったから小学生が書いた文章みたいになってしまった。ドキドキしながら紙に印字された文字を見ていると、ふいに部屋のドアががちゃりと開いた。
「峻也、はいこれ、お小遣い」
母親は財布から一万円札を一枚取り出し、俺に寄越した。その瞬間、疑いは確信に変わった。
俺は、とんでもない道具を手にしてしまった――。
大学生にでもなれば、もっと華やかな日々を送れるものだと思っていた。だが実際、そんなことはなかった。毎朝電車で一時間以上もかけて通学して、退屈な講義を何時間も聞かされて帰るだけ。いくらかテンションの上がる瞬間があるとすれば、学校帰りに寄ったパチンコ屋で大勝ちしたときくらい。それだってたいていは負けるから、つまりは毎日ほとんどの時間を俺は退屈とともに過ごしている。
はあ、やれやれ。これじゃ何のために大学生になったのかわからない。勉強をするため? は。そんなつもりで大学に入ってくるやつなんているわけねえだろ。大学ってのは気の合う仲間と授業をサボって遊んだり、とびきり可愛い彼女を作ったりして毎日楽しく過ごす場所だ。それがなんだ。入学してからもう一年が経つっていうのに、可愛い彼女どころか気の合う友人の一人もできやしない。いったい何が原因なんだ。俺の人間性に問題があるとはとても思えないし。
とにかく俺は、そんな調子で日々を陰陰滅滅とした気持ちで過ごしていた。このままあと三年もこの刑務所みたいな場所で暮らすのか。マジでやってられない。そう思ってた。
――昨日までは。
クク……。ばかでかい講義室のいちばん後ろの席で、俺は口から洩れそうになる笑い声を堪えるのに必死だ。同じ列の反対側に座っている女二人が、さっきから俺の様子を訝しそうにちらちら見ては何事か囁き合っている。
ふん。いまに見てろ。今日から俺の大学生活はその様相をがらっと変えることになる。バッグの中に忍ばせた、「こいつ」の力によって――。
俺がこいつを手にしたのは昨日のことだ。俺は母親に頼まれ、実家の物置小屋の整理を手伝っていた。昨日は日曜で大学は休みだった。休日にそんなことをやらされるなんて馬鹿げている。だがそんな日に限って父親はどこかに外出していた。まったく、どいつもこいつも俺の邪魔ばかりしてくる。
そうして貴重な休日をせっせと棒に振っていたところ、俺は物置小屋の奥でこいつを発見した。最初、それが何だかわからなかった。母親に訊いても首を横に振るばかりだった。しばらくして外出から帰ってきた父親に訊いてみると、
「ああ。それ、タイプライターだ」
「タイプライター?」
断っておくが、俺はタイプライターを知らなかったわけじゃない。目の前にある物体がそれと思えなかっただけだ。俺の想像するタイプライターは、黒くて、手前にパソコンのキーボードみたいな文字盤が付いていて、それを使って直接紙に文字を印字していく、ワープロソフトの起源みたいな機械だ。だけど物置小屋で見つけたそれは、想像していたタイプライターとは明らかに形が異なっていた。父親にそれを訴えると、
「和文タイプライターだからな」
と言われた。
和文。たしかに、いわゆるQWERTY配列の文字盤は付いていないものの、代わりにひらがなとカタカナ、それに様々な漢字がびっしりと並んだ表みたいなものが取り付けられている。ではこれがこのタイプライターの文字盤ということなのだろうか。一見してそうとは気づきにくい。どう見たって、指で打鍵していくには小さすぎるからだ。
「これ、どうやって使うんだ?」
「いやあ、使い方までは。それ、じいさんのだし、実際に使ってるとこ見たことないからなあ」
あっそう、と返事をして、俺はタイプライターを小屋の奥に戻そうとした。実際に使ってみようと思うほどには興味を抱けていなかった。しかし父親はそうしようとする俺を呼び止め、言った。
「それ、よかったらお前にやるよ」
「は? 俺に? どうして?」
「大学生だし、レポートとかで文章を書く機会も多いだろう。たまにそういうレトロなものを使って書いてみるのも、気分転換になっていいんじゃないか?」
「はあ」
いらねえ。正直、そう思った。たしかにレポートの課題はちょくちょく出るが、そんなもの、いつもネットで見つけた誰かの文章の丸写しだ。ただコピペするだけならタイプライターなんていらない。なんなら、キーボードすらいらない。
だがまあ、よく考えてみれば、亡くなった祖父のものだというのならそこそこの年代物だ。使わずとも、ネットオークションなんかで売ったらそれなりの値がつくのかもしれない。貰っておいて損はない。そう思い直した。
その夜、俺はそのタイプライターを部屋で一度使ってみることにした。売る前の動作確認は必要だ。使い方は事前にネットで調べた。どうやらこいつは直接指で打鍵するのではなく、先に付属のアームで表に並んでいる文字の中から打ちこみたい文字を選び、それからわきに付いているレバーを下げることで選んだ文字が紙に印字されていくという仕組みらしい。いわば、一文字ずつ紙に印鑑を押していくような感覚だろうか。慣れればそれなりに速く打てるようになるのだろうが、それでもどう考えたって手書きのほうが速い。オークションに出品したところで、こんなものを欲しがるやつなんているのだろうか。……まあ、骨董的価値はあるかもしれないし、とにかく動作確認だ。
さて、打つ内容はどうするか。何でもいいっちゃいいが、「ああああ」なんてクソつまらないものは打ちたくない。そう思っていると、ふいに膝の上に重さを感じた。見るといつのまにやら飼い猫のホッケが俺の膝の上に乗っている。ふむ、と俺は次のような文章を打ち込んでみた。
『飼い猫が突然、人の言葉を話しはじめた。』
ふふふ。さすがは俺。独創的で発想力あふれる文章だ。こんな文章を思いつけるやつなんて俺以外にいないんじゃないのか。まあ、とにかく動作に関しては問題ないようだ。俺は満足し、膝の上のホッケに声をかけた。
「おい、ホッケ、立ち上がるぞ。寝るならどこかよそへ行け」
「ええー? せっかくいい場所を見つけたのにぃ。もうちょっとここで寝ていたいよお」
もちろん、すぐには信じなかった。幻聴だと思った。直前に書いた文章の影響かもしれない。気のせいだとは思いつつも、確かめるために俺はもう一度ホッケに声をかけた。
「なあ、ホッケ」
「もー、なあにい? ひとが寝てるときは静かにしててもらいたいニャン」
そんな馬鹿な。俺は唖然とした。ホッケが、猫が人の言葉を喋っている。いかにも猫がしゃべっていますよというような、「ニャン」などという語尾までつけて。
「ほ、ホッケ……?」
「だあー、もううるさいなあ! 静かにしろって言ってんだろうが! 何度言やわかんだよ耳ついてねえのかよおめーはよお!」
ああもうだめだ、完全に喋ってる。しかもなんかすごい怒られてる。ホッケよ、お前って怒ると豹変するタイプだったんだな。今後はもっと接し方に気を付けるようにしよう。そんなことを思っていると、部屋のドアが叩かれる音がした。
「ちょっと、峻也。だれかと電話でもしてるの? もう遅いんだから、もうちょっと静かに話しなさいね」
母親の声だった。猫に怒られ、母親に注意される。ひどく惨めな気分だ。ごめんと返事をし、いや待てよ、と俺は再びタイプライターを操作した。
『母おやがおれにおこづかいをくれた』
焦って打ったから小学生が書いた文章みたいになってしまった。ドキドキしながら紙に印字された文字を見ていると、ふいに部屋のドアががちゃりと開いた。
「峻也、はいこれ、お小遣い」
母親は財布から一万円札を一枚取り出し、俺に寄越した。その瞬間、疑いは確信に変わった。
俺は、とんでもない道具を手にしてしまった――。
みんなのリアクション
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まったく、つまらない毎日だ。
大学生にでもなれば、もっと華やかな日々を送れるものだと思っていた。だが実際、そんなことはなかった。毎朝電車で一時間以上もかけて通学して、退屈な講義を何時間も聞かされて帰るだけ。いくらかテンションの上がる瞬間があるとすれば、学校帰りに寄ったパチンコ屋で大勝ちしたときくらい。それだってたいていは負けるから、つまりは毎日ほとんどの時間を俺は退屈とともに過ごしている。
はあ、やれやれ。これじゃ何のために大学生になったのかわからない。勉強をするため? は。そんなつもりで大学に入ってくるやつなんているわけねえだろ。大学ってのは気の合う仲間と授業をサボって遊んだり、とびきり可愛い彼女を作ったりして毎日楽しく過ごす場所だ。それがなんだ。入学してからもう一年が経つっていうのに、可愛い彼女どころか気の合う友人の一人もできやしない。いったい何が原因なんだ。俺の人間性に問題があるとはとても思えないし。
とにかく俺は、そんな調子で日々を陰陰滅滅とした気持ちで過ごしていた。このままあと三年もこの刑務所みたいな場所で暮らすのか。マジでやってられない。そう思ってた。
――昨日までは。
クク……。ばかでかい講義室のいちばん後ろの席で、俺は口から洩れそうになる笑い声を堪えるのに必死だ。同じ列の反対側に座っている女二人が、さっきから俺の様子を訝しそうにちらちら見ては何事か囁き合っている。
ふん。いまに見てろ。今日から俺の大学生活はその様相をがらっと変えることになる。バッグの中に忍ばせた、「こいつ」の力によって――。
大学生にでもなれば、もっと華やかな日々を送れるものだと思っていた。だが実際、そんなことはなかった。毎朝電車で一時間以上もかけて通学して、退屈な講義を何時間も聞かされて帰るだけ。いくらかテンションの上がる瞬間があるとすれば、学校帰りに寄ったパチンコ屋で大勝ちしたときくらい。それだってたいていは負けるから、つまりは毎日ほとんどの時間を俺は退屈とともに過ごしている。
はあ、やれやれ。これじゃ何のために大学生になったのかわからない。勉強をするため? は。そんなつもりで大学に入ってくるやつなんているわけねえだろ。大学ってのは気の合う仲間と授業をサボって遊んだり、とびきり可愛い彼女を作ったりして毎日楽しく過ごす場所だ。それがなんだ。入学してからもう一年が経つっていうのに、可愛い彼女どころか気の合う友人の一人もできやしない。いったい何が原因なんだ。俺の人間性に問題があるとはとても思えないし。
とにかく俺は、そんな調子で日々を陰陰滅滅とした気持ちで過ごしていた。このままあと三年もこの刑務所みたいな場所で暮らすのか。マジでやってられない。そう思ってた。
――昨日までは。
クク……。ばかでかい講義室のいちばん後ろの席で、俺は口から洩れそうになる笑い声を堪えるのに必死だ。同じ列の反対側に座っている女二人が、さっきから俺の様子を訝しそうにちらちら見ては何事か囁き合っている。
ふん。いまに見てろ。今日から俺の大学生活はその様相をがらっと変えることになる。バッグの中に忍ばせた、「こいつ」の力によって――。
俺がこいつを手にしたのは昨日のことだ。俺は母親に頼まれ、実家の物置小屋の整理を手伝っていた。昨日は日曜で大学は休みだった。休日にそんなことをやらされるなんて馬鹿げている。だがそんな日に限って父親はどこかに外出していた。まったく、どいつもこいつも俺の邪魔ばかりしてくる。
そうして貴重な休日をせっせと棒に振っていたところ、俺は物置小屋の奥でこいつを発見した。最初、それが何だかわからなかった。母親に訊いても首を横に振るばかりだった。しばらくして外出から帰ってきた父親に訊いてみると、
「ああ。それ、タイプライターだ」
「タイプライター?」
断っておくが、俺はタイプライターを知らなかったわけじゃない。目の前にある物体がそれと思えなかっただけだ。俺の想像するタイプライターは、黒くて、手前にパソコンのキーボードみたいな文字盤が付いていて、それを使って直接紙に文字を印字していく、ワープロソフトの起源みたいな機械だ。だけど物置小屋で見つけたそれは、想像していたタイプライターとは明らかに形が異なっていた。父親にそれを訴えると、
「和文タイプライターだからな」
と言われた。
和文。たしかに、いわゆるQWERTY配列の文字盤は付いていないものの、代わりにひらがなとカタカナ、それに様々な漢字がびっしりと並んだ表みたいなものが取り付けられている。ではこれがこのタイプライターの文字盤ということなのだろうか。一見してそうとは気づきにくい。どう見たって、指で打鍵していくには小さすぎるからだ。
「これ、どうやって使うんだ?」
「いやあ、使い方までは。それ、じいさんのだし、実際に使ってるとこ見たことないからなあ」
あっそう、と返事をして、俺はタイプライターを小屋の奥に戻そうとした。実際に使ってみようと思うほどには興味を抱けていなかった。しかし父親はそうしようとする俺を呼び止め、言った。
「それ、よかったらお前にやるよ」
「は? 俺に? どうして?」
「大学生だし、レポートとかで文章を書く機会も多いだろう。たまにそういうレトロなものを使って書いてみるのも、気分転換になっていいんじゃないか?」
「はあ」
いらねえ。正直、そう思った。たしかにレポートの課題はちょくちょく出るが、そんなもの、いつもネットで見つけた誰かの文章の丸写しだ。ただコピペするだけならタイプライターなんていらない。なんなら、キーボードすらいらない。
だがまあ、よく考えてみれば、亡くなった祖父のものだというのならそこそこの年代物だ。使わずとも、ネットオークションなんかで売ったらそれなりの値がつくのかもしれない。貰っておいて損はない。そう思い直した。
その夜、俺はそのタイプライターを部屋で一度使ってみることにした。売る前の動作確認は必要だ。使い方は事前にネットで調べた。どうやらこいつは直接指で打鍵するのではなく、先に付属のアームで表に並んでいる文字の中から打ちこみたい文字を選び、それからわきに付いているレバーを下げることで選んだ文字が紙に印字されていくという仕組みらしい。いわば、一文字ずつ紙に印鑑を押していくような感覚だろうか。慣れればそれなりに速く打てるようになるのだろうが、それでもどう考えたって手書きのほうが速い。オークションに出品したところで、こんなものを欲しがるやつなんているのだろうか。……まあ、骨董的価値はあるかもしれないし、とにかく動作確認だ。
さて、打つ内容はどうするか。何でもいいっちゃいいが、「ああああ」なんてクソつまらないものは打ちたくない。そう思っていると、ふいに膝の上に重さを感じた。見るといつのまにやら飼い猫のホッケが俺の膝の上に乗っている。ふむ、と俺は次のような文章を打ち込んでみた。
『飼い猫が突然、人の言葉を話しはじめた。』
ふふふ。さすがは俺。独創的で発想力あふれる文章だ。こんな文章を思いつけるやつなんて俺以外にいないんじゃないのか。まあ、とにかく動作に関しては問題ないようだ。俺は満足し、膝の上のホッケに声をかけた。
「おい、ホッケ、立ち上がるぞ。寝るならどこかよそへ行け」
「ええー? せっかくいい場所を見つけたのにぃ。もうちょっとここで寝ていたいよお」
もちろん、すぐには信じなかった。幻聴だと思った。直前に書いた文章の影響かもしれない。気のせいだとは思いつつも、確かめるために俺はもう一度ホッケに声をかけた。
「なあ、ホッケ」
「もー、なあにい? ひとが寝てるときは静かにしててもらいたいニャン」
そんな馬鹿な。俺は唖然とした。ホッケが、猫が人の言葉を喋っている。いかにも猫がしゃべっていますよというような、「ニャン」などという語尾までつけて。
「ほ、ホッケ……?」
「だあー、もううるさいなあ! 静かにしろって言ってんだろうが! 何度言やわかんだよ耳ついてねえのかよおめーはよお!」
ああもうだめだ、完全に喋ってる。しかもなんかすごい怒られてる。ホッケよ、お前って怒ると豹変するタイプだったんだな。今後はもっと接し方に気を付けるようにしよう。そんなことを思っていると、部屋のドアが叩かれる音がした。
「ちょっと、|峻也《たかや》。だれかと電話でもしてるの? もう遅いんだから、もうちょっと静かに話しなさいね」
母親の声だった。猫に怒られ、母親に注意される。ひどく惨めな気分だ。ごめんと返事をし、いや待てよ、と俺は再びタイプライターを操作した。
『母おやがおれにおこづかいをくれた』
焦って打ったから小学生が書いた文章みたいになってしまった。ドキドキしながら紙に印字された文字を見ていると、ふいに部屋のドアががちゃりと開いた。
「峻也、はいこれ、お小遣い」
母親は財布から一万円札を一枚取り出し、俺に寄越した。その瞬間、疑いは確信に変わった。
俺は、とんでもない道具を手にしてしまった――。
そうして貴重な休日をせっせと棒に振っていたところ、俺は物置小屋の奥でこいつを発見した。最初、それが何だかわからなかった。母親に訊いても首を横に振るばかりだった。しばらくして外出から帰ってきた父親に訊いてみると、
「ああ。それ、タイプライターだ」
「タイプライター?」
断っておくが、俺はタイプライターを知らなかったわけじゃない。目の前にある物体がそれと思えなかっただけだ。俺の想像するタイプライターは、黒くて、手前にパソコンのキーボードみたいな文字盤が付いていて、それを使って直接紙に文字を印字していく、ワープロソフトの起源みたいな機械だ。だけど物置小屋で見つけたそれは、想像していたタイプライターとは明らかに形が異なっていた。父親にそれを訴えると、
「和文タイプライターだからな」
と言われた。
和文。たしかに、いわゆるQWERTY配列の文字盤は付いていないものの、代わりにひらがなとカタカナ、それに様々な漢字がびっしりと並んだ表みたいなものが取り付けられている。ではこれがこのタイプライターの文字盤ということなのだろうか。一見してそうとは気づきにくい。どう見たって、指で打鍵していくには小さすぎるからだ。
「これ、どうやって使うんだ?」
「いやあ、使い方までは。それ、じいさんのだし、実際に使ってるとこ見たことないからなあ」
あっそう、と返事をして、俺はタイプライターを小屋の奥に戻そうとした。実際に使ってみようと思うほどには興味を抱けていなかった。しかし父親はそうしようとする俺を呼び止め、言った。
「それ、よかったらお前にやるよ」
「は? 俺に? どうして?」
「大学生だし、レポートとかで文章を書く機会も多いだろう。たまにそういうレトロなものを使って書いてみるのも、気分転換になっていいんじゃないか?」
「はあ」
いらねえ。正直、そう思った。たしかにレポートの課題はちょくちょく出るが、そんなもの、いつもネットで見つけた誰かの文章の丸写しだ。ただコピペするだけならタイプライターなんていらない。なんなら、キーボードすらいらない。
だがまあ、よく考えてみれば、亡くなった祖父のものだというのならそこそこの年代物だ。使わずとも、ネットオークションなんかで売ったらそれなりの値がつくのかもしれない。貰っておいて損はない。そう思い直した。
その夜、俺はそのタイプライターを部屋で一度使ってみることにした。売る前の動作確認は必要だ。使い方は事前にネットで調べた。どうやらこいつは直接指で打鍵するのではなく、先に付属のアームで表に並んでいる文字の中から打ちこみたい文字を選び、それからわきに付いているレバーを下げることで選んだ文字が紙に印字されていくという仕組みらしい。いわば、一文字ずつ紙に印鑑を押していくような感覚だろうか。慣れればそれなりに速く打てるようになるのだろうが、それでもどう考えたって手書きのほうが速い。オークションに出品したところで、こんなものを欲しがるやつなんているのだろうか。……まあ、骨董的価値はあるかもしれないし、とにかく動作確認だ。
さて、打つ内容はどうするか。何でもいいっちゃいいが、「ああああ」なんてクソつまらないものは打ちたくない。そう思っていると、ふいに膝の上に重さを感じた。見るといつのまにやら飼い猫のホッケが俺の膝の上に乗っている。ふむ、と俺は次のような文章を打ち込んでみた。
『飼い猫が突然、人の言葉を話しはじめた。』
ふふふ。さすがは俺。独創的で発想力あふれる文章だ。こんな文章を思いつけるやつなんて俺以外にいないんじゃないのか。まあ、とにかく動作に関しては問題ないようだ。俺は満足し、膝の上のホッケに声をかけた。
「おい、ホッケ、立ち上がるぞ。寝るならどこかよそへ行け」
「ええー? せっかくいい場所を見つけたのにぃ。もうちょっとここで寝ていたいよお」
もちろん、すぐには信じなかった。幻聴だと思った。直前に書いた文章の影響かもしれない。気のせいだとは思いつつも、確かめるために俺はもう一度ホッケに声をかけた。
「なあ、ホッケ」
「もー、なあにい? ひとが寝てるときは静かにしててもらいたいニャン」
そんな馬鹿な。俺は唖然とした。ホッケが、猫が人の言葉を喋っている。いかにも猫がしゃべっていますよというような、「ニャン」などという語尾までつけて。
「ほ、ホッケ……?」
「だあー、もううるさいなあ! 静かにしろって言ってんだろうが! 何度言やわかんだよ耳ついてねえのかよおめーはよお!」
ああもうだめだ、完全に喋ってる。しかもなんかすごい怒られてる。ホッケよ、お前って怒ると豹変するタイプだったんだな。今後はもっと接し方に気を付けるようにしよう。そんなことを思っていると、部屋のドアが叩かれる音がした。
「ちょっと、|峻也《たかや》。だれかと電話でもしてるの? もう遅いんだから、もうちょっと静かに話しなさいね」
母親の声だった。猫に怒られ、母親に注意される。ひどく惨めな気分だ。ごめんと返事をし、いや待てよ、と俺は再びタイプライターを操作した。
『母おやがおれにおこづかいをくれた』
焦って打ったから小学生が書いた文章みたいになってしまった。ドキドキしながら紙に印字された文字を見ていると、ふいに部屋のドアががちゃりと開いた。
「峻也、はいこれ、お小遣い」
母親は財布から一万円札を一枚取り出し、俺に寄越した。その瞬間、疑いは確信に変わった。
俺は、とんでもない道具を手にしてしまった――。