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愛別会

ー/ー



 正徳元年。私は十九を迎えていた。
 翠藍様が逝かれて一年が過ぎ、冬の気配が杉の梢を震わせはじめた頃、奥の院の行は、いっそう静まり返っていた。

 喪失の熱だけが、なお胸の奥でくすぶっていた。
 季節は巡れど、あの灯だけは沈黙を保っていた。
 覚明様の眼差しと、高野で出会った僧たちの気配がなければ、きっと心はどこかで折れていただろう。

 紅葉が石畳に散り、灯籠の光が霧に滲んだ夜だった。
 御廟橋の手前に立っていた。
 笠を外し、草履を脱ぎ、数珠をひとつだけ鳴らす。
 その一音に、奥の院の沈黙が、深く応えた。
 月は雲の奥に沈み、参道は白い霧に覆われていた。
 冷たい気配が頬を刺し、吐く息だけが灯籠の下でほどけた。
 そのとき――
 聖域が、ごくかすかに揺れた。風でもなく、地鳴りでもない。
 世界の縁がひとつ踏み越えられたような、静かな震えだった。

 杉の影の間に、白いものが揺れた。
 足が止まり、目が自然にその奥を探った。

 霧の向こうに、ひとつの影が立っていた。

 螢雪だった。

 衣の裾が揺れているのに、そこに重さがなかった。
 息の音もしない。ただ、目だけが、生きていた。
 その目を見た瞬間、胸のどこかが冷たく裂けた。
 思考よりも先に、ひとつの感覚だけが落ちた。
 埋まらぬ空白が、もうひとつ重なったような感覚だった。

 螢雪は、何も言わずに立っていた。
 懐かしさとも、呼びかけの途上ともつかぬ揺らぎが、瞳の底に滲んでいた。
 震える手で数珠を握りしめ、喉の奥でひとつの名を探した。

「……螢雪」

 その一音が霧に触れた瞬間、螢雪の姿は、音も残さず、霧と同じ密度にほどけて消えた。
 残ったのは、沈黙と霧だけだった。
 杉の影が揺れ、灯籠の光が細く滲んだ。

 膝が崩れ、石畳に手をついた。
 冷えた地面の硬さだけが、指先に静かに積もっていった。
 そこに立っていたはずの姿が、もうどこにもなかった。

 何が起きたのか、どこで途切れたのか──
 そのすべては霧の奥に沈んだままだった。
 ただ、ひとつの結末だけが、揺らぎもせず、そこに残っていた。

 その夜ののち、螢雪の姿は、毎晩のように現れた。

 言葉も持たず、ただ立っていた。
 口元に、笑みとも影ともつかないものを浮かべて。
 私は手を伸ばし、名を呼ぼうとした。
 声が形になるその直前に、螢雪は霧へ戻った。
 音も影も置かずに。
 沈黙を選んだ夜もあった。
 名も呼ばず、祈りも言葉にせず、ただ息だけを置いた。
 それでも、気づけば姿はなかった。

 語っても消え、黙しても消えた。
 その消失だけが、夜ごと、静かに積もっていった。

 灯籠の灯が揺れ、その陰に覚明様の姿があった。
 いつからそこにおられたのか分からなかったが、その眼差しは、私の痛みを逸らさずに受け止めていた。

「彼は……己が死んだことすら忘れて、彷徨っているのだろうね」

 声は、夜気よりも静かに落ちた。

「言葉は、ときに刃になる。まずは器を先に──数珠の呼吸を、彼に渡しなさい。声は、そのあとで良い」

 あまりにも淡々と告げられた“死”という音が、胸の奥で、何かがひっそりと割れた。
 痛みは叫びにならず、ただ静かに沈んでいった。
 息を吸うたびに、そのひびが胸の内側でわずかに軋んだ。

「……螢雪は……本当に、逝ったのですか」

 声は霧に触れながら、かろうじて形を保っていた。
 言葉を足そうとした瞬間、胸の底で何かが崩れ、声は途切れた。
 霧が喉の奥に溜まるようで、言葉はそこで止まった。
 覚明様は、いつもの柔らかな笑みを静かに消し、師のまなざしで私を見据えた。

「彼の死を、君はすでに知っている。ただ……その形を見ることを、心が拒んでいるだけだ」

 その声は叱責でも慰めでもなく、ただ、事実だけをそこに置く響きだった。

「だが、導く者が目を逸らしてはならない。君は、もうその立場にある。彼は何故、君の許へ辿り着くと考える?」

 問われ、私は視線を石畳に落とした。

「……魂がこの世を彷徨うのは、命の終わりに残された想いが、まだ果たされぬ故だと……そのように、教わりました」

 言葉は、自分の内から拾い上げていくような、遅い速度だった。

「ならば……終わりの際に、私を思ったのでしょう。その念が、魂をここへ誘ったのだと」

 覚明様は静かに頷かれた。
 肯定ではなく、ただ事実の灯を置く仕草だった。

「君が言葉を紡ぐ前に彼が消えるのは、君自身が、その事実に触れることを恐れているからだ」
 声は静かで、責めも慰めも含んでいなかった。
 ただ、覆いをはがすように淡々としていた。

「その恐れが、言葉を閉ざし、時を繰り返させている。導く者が目を逸らせば、魂は迷い続ける。死した魂も、生きる我らと同じく、永遠ではない。縛られたまま同じ夜を歩かせてはならない」

 わずかに、覚明様のまなざしが深く沈んだ。

「……君がすべきことが、分かるね?」

 言葉は探せなかった。
 胸の内で、わずかな風がきしんだ。

 覚明様は、私の沈黙に重ねるように続けられた。

「本来であれば、あのような魂は、この聖域まで辿り着くことなど、できはしない。空海様がそれをお許しになっている。――そういうことだよ」

 一度だけ、静かな間が落ちた。

「良宵くんの祈りで、導いてやりなさい。そのための御慈悲だと、私は思う」

 その声音には、わずかな温度があった。
 突き放さず、寄り添いもせず、ただ“道”の方向だけを示す温度。

「彼は……君の誓願の基盤となった存在だったのだろうね。君がここまで歩めたのは、彼という灯があったからだ」

 言葉は淡く、しかし胸の奥を正確に射抜いた。

「だからこそ――縛られる前に、決めるんだよ、良宵くん」

 名前だけが、最後に静かに置かれた。
 それは命じる声ではなく、選ぶべき一点を示す声だった。

 空海様の聖域に、螢雪の魂が立っている。
 本来ならありえない光景が、確かにそこにあった。
 それが試練であることは、頭では理解できた。
 ――けれど、心だけが、どこにも動かなかった。

 螢雪は、生を離れてなお、私を頼って来た。
 その魂を彼岸へ送ることが導きなのか、それとも、私が彼を手放す行いなのか。
 そのどちらともつかぬ問いだけが、霧の底に沈んだまま、形を結ばなかった。

 私は、ゆっくりと首を振った。
 声にはならず、わずかな息だけが漏れた。それが覚明様に届いたのかどうかは、分からなかった。
 視界の端で、涙がひとつ滲んだ。
 言葉より先に、痛みだけが落ちた。

「……猶予を、賜りたく存じます。もう少しだけ……」
 それは祈りではなく、願いでもなかった。
 ただ一つの魂に向けて、差し出せる限りの誠だけがあった。

 覚明様は何も言わず、静かに、私の肩へ手を置かれた。
 その沈黙は、祈りより深く、痛みよりもやわらかく、胸の奥に、静かな刃のように沈んだ。

* * *
 季節がひとつ過ぎた頃、消失の重さは、もはや痛みと呼べないものになっていた。
 ただ薄く沈み、胸の底で形のない影となった。

 高野の修行にも、終わりの気配があった。
 その気配は、風より静かに、心の奥へ触れた。

 螢雪は、いまも霧のように現れては、霧へ消える。
 その繰り返しのどこかで、私は──静かに、ひとつの答えへ傾き始めていた。

 理由は、どこにも置けなかった。
 言葉にすれば嘘になるような、名のない傾きだった。

 ただ、その夜の月は冴えていた。

 八月十五日。二十を迎える夜。
 雲の切れ間からこぼれた月光が、静かに足元を照らした。
 影が細く伸びた。
 確かな輪郭だった。

 数珠を握る手に、決意という名はなかった。
 それでも、心は、あるひとつの方向へと向いていた。

「……固まったのだね」

 背から届いた覚明様の声に、私はただ、ひとつ頷いた。

 その頷きは、別れではなく、導くために必要な、静かな峻さだけを抱いていた。

* * *

 御廟橋の手前に立っていた。
 風はなく、霧だけが静かに流れていた。

 瞼を伏せ、数珠を指先に置いた。
 決意という名を持たぬまま、胸の奥に沈んでいた。

 時が来るのを、ただ待った。

 ――その夜の螢雪は、いつもと少し違っていた。

 白装束は裂け、ところどころに、かすかな血の跡が滲んでいた。
 顔は疲れ果て、目の縁には乾きかけた涙の線が残っていた。

 そして、螢雪の魂は、初めて言葉を持った。

「……りょうしょう……」

 名を呼ぶたび、声の輪郭がほぐれていった。
 言葉の縁だけが欠け、記憶の片方だけが残っているようだった。

「……寺を……出た……
 信楽様にも……叢海様にも……
 すまぬことをした……はずなのだが……」

 “はず”という一語だけが、やけに鮮明だった。

「……お前を……追った……
 ただ……それだけは……
 覚えている……」

 螢雪の視線は、記憶と現実のあいだをゆらいだ。

「山を……歩いて……
 いつ……だったか……
 足が……どこかで……沈んだ……
 暗かった……
 ……あれは……崖……だったのか……?」

 言葉は、落ちるたびに霧へ吸われていく。

「……痛みが……あった……
 何かが……噛んだ……ようで……
 でも……」

 螢雪はそこで、ふと言葉を止めた。
 “痛み”だけが、生前のまま残っているようだった。

「……良宵……
 お前の名だけが……浮かんだ……
 それで……歩いた……
 どこを……どう歩いたのか……分からない……
 気づけば……この場所に……いた……」

 ほんの少し笑った。
 その笑みには、温度がなかった。

「情けないよ、良宵。
 でも……もう一度……会いたかった……
 お前が……こんなにも……懐かしい」

 笑みは、薄い風に裂かれるように消えた。
 涙がひとすじ落ちたが、霧に触れた途端に跡を失った。

「なぁ……良宵……
 駄目な兄弟子だが……
 こんな俺でも……お前と……共に修行ができると思うか?」

 その問いが落ちた瞬間、胸の奥でひとつ、音のない軋みが生まれた。
 数珠を握る指に、細いひびが入ったようだった。

 螢雪は、自分がどこで途切れたのかを知らなかった。
 ただ、私と共に修行を望むという、その一点だけを抱いて立っていた。

 その姿を見たとき、胸の内で別の声が静かに立ち上がった。

 ――ならば、私の歩みが、螢雪をここまで連れてきたのか。

 寺を離れるとき、私は振り返らなかった。
 伸びかけた螢雪の手から目を逸らし、己の道だけを選んだ。
 その選択が、螢雪の背をどこへ押しやったのか。ようやく、その輪郭が淡く浮かびはじめた。

 もし、あのとき一歩でも戻れていたなら——そんな思いがひとつ、静かに沈んだ。

 螢雪は涙を拭おうともせず、弱く笑った。

「あぁ、良宵……我が同門の兄弟よ。俺達はまた、共に修行ができるのだ……あの頃のように……」

 冬の息吹が参道を包み、灯籠の光がひとつだけ影を伸ばした。

 祈りを下ろすことができなかった。
 数珠を握りしめたまま、ただ、微かな笑みだけを返した。
 螢雪は、それを答えと受け取った。
 安心しきった子どものような目で私を見つめた。
 その夜、祈りはなお空を切り、螢雪の魂には届かなかった。

 ……もし、あの夜へ戻れるのなら、私は迷いなく、螢雪を彼岸へ送っただろう。

 秋。
 高野山での最後の夜。
 空海様の御廟を背に、私は橋の前に立った。
 月光が揺らぎ、夜の帳が細く裂けた。
 影がひとすじ、前へ伸びる。
 私は静かに目を開き、その先を見据えた。


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 正徳元年。私は十九を迎えていた。
 翠藍様が逝かれて一年が過ぎ、冬の気配が杉の梢を震わせはじめた頃、奥の院の行は、いっそう静まり返っていた。
 喪失の熱だけが、なお胸の奥でくすぶっていた。
 季節は巡れど、あの灯だけは沈黙を保っていた。
 覚明様の眼差しと、高野で出会った僧たちの気配がなければ、きっと心はどこかで折れていただろう。
 紅葉が石畳に散り、灯籠の光が霧に滲んだ夜だった。
 御廟橋の手前に立っていた。
 笠を外し、草履を脱ぎ、数珠をひとつだけ鳴らす。
 その一音に、奥の院の沈黙が、深く応えた。
 月は雲の奥に沈み、参道は白い霧に覆われていた。
 冷たい気配が頬を刺し、吐く息だけが灯籠の下でほどけた。
 そのとき――
 聖域が、ごくかすかに揺れた。風でもなく、地鳴りでもない。
 世界の縁がひとつ踏み越えられたような、静かな震えだった。
 杉の影の間に、白いものが揺れた。
 足が止まり、目が自然にその奥を探った。
 霧の向こうに、ひとつの影が立っていた。
 螢雪だった。
 衣の裾が揺れているのに、そこに重さがなかった。
 息の音もしない。ただ、目だけが、生きていた。
 その目を見た瞬間、胸のどこかが冷たく裂けた。
 思考よりも先に、ひとつの感覚だけが落ちた。
 埋まらぬ空白が、もうひとつ重なったような感覚だった。
 螢雪は、何も言わずに立っていた。
 懐かしさとも、呼びかけの途上ともつかぬ揺らぎが、瞳の底に滲んでいた。
 震える手で数珠を握りしめ、喉の奥でひとつの名を探した。
「……螢雪」
 その一音が霧に触れた瞬間、螢雪の姿は、音も残さず、霧と同じ密度にほどけて消えた。
 残ったのは、沈黙と霧だけだった。
 杉の影が揺れ、灯籠の光が細く滲んだ。
 膝が崩れ、石畳に手をついた。
 冷えた地面の硬さだけが、指先に静かに積もっていった。
 そこに立っていたはずの姿が、もうどこにもなかった。
 何が起きたのか、どこで途切れたのか──
 そのすべては霧の奥に沈んだままだった。
 ただ、ひとつの結末だけが、揺らぎもせず、そこに残っていた。
 その夜ののち、螢雪の姿は、毎晩のように現れた。
 言葉も持たず、ただ立っていた。
 口元に、笑みとも影ともつかないものを浮かべて。
 私は手を伸ばし、名を呼ぼうとした。
 声が形になるその直前に、螢雪は霧へ戻った。
 音も影も置かずに。
 沈黙を選んだ夜もあった。
 名も呼ばず、祈りも言葉にせず、ただ息だけを置いた。
 それでも、気づけば姿はなかった。
 語っても消え、黙しても消えた。
 その消失だけが、夜ごと、静かに積もっていった。
 灯籠の灯が揺れ、その陰に覚明様の姿があった。
 いつからそこにおられたのか分からなかったが、その眼差しは、私の痛みを逸らさずに受け止めていた。
「彼は……己が死んだことすら忘れて、彷徨っているのだろうね」
 声は、夜気よりも静かに落ちた。
「言葉は、ときに刃になる。まずは器を先に──数珠の呼吸を、彼に渡しなさい。声は、そのあとで良い」
 あまりにも淡々と告げられた“死”という音が、胸の奥で、何かがひっそりと割れた。
 痛みは叫びにならず、ただ静かに沈んでいった。
 息を吸うたびに、そのひびが胸の内側でわずかに軋んだ。
「……螢雪は……本当に、逝ったのですか」
 声は霧に触れながら、かろうじて形を保っていた。
 言葉を足そうとした瞬間、胸の底で何かが崩れ、声は途切れた。
 霧が喉の奥に溜まるようで、言葉はそこで止まった。
 覚明様は、いつもの柔らかな笑みを静かに消し、師のまなざしで私を見据えた。
「彼の死を、君はすでに知っている。ただ……その形を見ることを、心が拒んでいるだけだ」
 その声は叱責でも慰めでもなく、ただ、事実だけをそこに置く響きだった。
「だが、導く者が目を逸らしてはならない。君は、もうその立場にある。彼は何故、君の許へ辿り着くと考える?」
 問われ、私は視線を石畳に落とした。
「……魂がこの世を彷徨うのは、命の終わりに残された想いが、まだ果たされぬ故だと……そのように、教わりました」
 言葉は、自分の内から拾い上げていくような、遅い速度だった。
「ならば……終わりの際に、私を思ったのでしょう。その念が、魂をここへ誘ったのだと」
 覚明様は静かに頷かれた。
 肯定ではなく、ただ事実の灯を置く仕草だった。
「君が言葉を紡ぐ前に彼が消えるのは、君自身が、その事実に触れることを恐れているからだ」
 声は静かで、責めも慰めも含んでいなかった。
 ただ、覆いをはがすように淡々としていた。
「その恐れが、言葉を閉ざし、時を繰り返させている。導く者が目を逸らせば、魂は迷い続ける。死した魂も、生きる我らと同じく、永遠ではない。縛られたまま同じ夜を歩かせてはならない」
 わずかに、覚明様のまなざしが深く沈んだ。
「……君がすべきことが、分かるね?」
 言葉は探せなかった。
 胸の内で、わずかな風がきしんだ。
 覚明様は、私の沈黙に重ねるように続けられた。
「本来であれば、あのような魂は、この聖域まで辿り着くことなど、できはしない。空海様がそれをお許しになっている。――そういうことだよ」
 一度だけ、静かな間が落ちた。
「良宵くんの祈りで、導いてやりなさい。そのための御慈悲だと、私は思う」
 その声音には、わずかな温度があった。
 突き放さず、寄り添いもせず、ただ“道”の方向だけを示す温度。
「彼は……君の誓願の基盤となった存在だったのだろうね。君がここまで歩めたのは、彼という灯があったからだ」
 言葉は淡く、しかし胸の奥を正確に射抜いた。
「だからこそ――縛られる前に、決めるんだよ、良宵くん」
 名前だけが、最後に静かに置かれた。
 それは命じる声ではなく、選ぶべき一点を示す声だった。
 空海様の聖域に、螢雪の魂が立っている。
 本来ならありえない光景が、確かにそこにあった。
 それが試練であることは、頭では理解できた。
 ――けれど、心だけが、どこにも動かなかった。
 螢雪は、生を離れてなお、私を頼って来た。
 その魂を彼岸へ送ることが導きなのか、それとも、私が彼を手放す行いなのか。
 そのどちらともつかぬ問いだけが、霧の底に沈んだまま、形を結ばなかった。
 私は、ゆっくりと首を振った。
 声にはならず、わずかな息だけが漏れた。それが覚明様に届いたのかどうかは、分からなかった。
 視界の端で、涙がひとつ滲んだ。
 言葉より先に、痛みだけが落ちた。
「……猶予を、賜りたく存じます。もう少しだけ……」
 それは祈りではなく、願いでもなかった。
 ただ一つの魂に向けて、差し出せる限りの誠だけがあった。
 覚明様は何も言わず、静かに、私の肩へ手を置かれた。
 その沈黙は、祈りより深く、痛みよりもやわらかく、胸の奥に、静かな刃のように沈んだ。
* * *
 季節がひとつ過ぎた頃、消失の重さは、もはや痛みと呼べないものになっていた。
 ただ薄く沈み、胸の底で形のない影となった。
 高野の修行にも、終わりの気配があった。
 その気配は、風より静かに、心の奥へ触れた。
 螢雪は、いまも霧のように現れては、霧へ消える。
 その繰り返しのどこかで、私は──静かに、ひとつの答えへ傾き始めていた。
 理由は、どこにも置けなかった。
 言葉にすれば嘘になるような、名のない傾きだった。
 ただ、その夜の月は冴えていた。
 八月十五日。二十を迎える夜。
 雲の切れ間からこぼれた月光が、静かに足元を照らした。
 影が細く伸びた。
 確かな輪郭だった。
 数珠を握る手に、決意という名はなかった。
 それでも、心は、あるひとつの方向へと向いていた。
「……固まったのだね」
 背から届いた覚明様の声に、私はただ、ひとつ頷いた。
 その頷きは、別れではなく、導くために必要な、静かな峻さだけを抱いていた。
* * *
 御廟橋の手前に立っていた。
 風はなく、霧だけが静かに流れていた。
 瞼を伏せ、数珠を指先に置いた。
 決意という名を持たぬまま、胸の奥に沈んでいた。
 時が来るのを、ただ待った。
 ――その夜の螢雪は、いつもと少し違っていた。
 白装束は裂け、ところどころに、かすかな血の跡が滲んでいた。
 顔は疲れ果て、目の縁には乾きかけた涙の線が残っていた。
 そして、螢雪の魂は、初めて言葉を持った。
「……りょうしょう……」
 名を呼ぶたび、声の輪郭がほぐれていった。
 言葉の縁だけが欠け、記憶の片方だけが残っているようだった。
「……寺を……出た……
 信楽様にも……叢海様にも……
 すまぬことをした……はずなのだが……」
 “はず”という一語だけが、やけに鮮明だった。
「……お前を……追った……
 ただ……それだけは……
 覚えている……」
 螢雪の視線は、記憶と現実のあいだをゆらいだ。
「山を……歩いて……
 いつ……だったか……
 足が……どこかで……沈んだ……
 暗かった……
 ……あれは……崖……だったのか……?」
 言葉は、落ちるたびに霧へ吸われていく。
「……痛みが……あった……
 何かが……噛んだ……ようで……
 でも……」
 螢雪はそこで、ふと言葉を止めた。
 “痛み”だけが、生前のまま残っているようだった。
「……良宵……
 お前の名だけが……浮かんだ……
 それで……歩いた……
 どこを……どう歩いたのか……分からない……
 気づけば……この場所に……いた……」
 ほんの少し笑った。
 その笑みには、温度がなかった。
「情けないよ、良宵。
 でも……もう一度……会いたかった……
 お前が……こんなにも……懐かしい」
 笑みは、薄い風に裂かれるように消えた。
 涙がひとすじ落ちたが、霧に触れた途端に跡を失った。
「なぁ……良宵……
 駄目な兄弟子だが……
 こんな俺でも……お前と……共に修行ができると思うか?」
 その問いが落ちた瞬間、胸の奥でひとつ、音のない軋みが生まれた。
 数珠を握る指に、細いひびが入ったようだった。
 螢雪は、自分がどこで途切れたのかを知らなかった。
 ただ、私と共に修行を望むという、その一点だけを抱いて立っていた。
 その姿を見たとき、胸の内で別の声が静かに立ち上がった。
 ――ならば、私の歩みが、螢雪をここまで連れてきたのか。
 寺を離れるとき、私は振り返らなかった。
 伸びかけた螢雪の手から目を逸らし、己の道だけを選んだ。
 その選択が、螢雪の背をどこへ押しやったのか。ようやく、その輪郭が淡く浮かびはじめた。
 もし、あのとき一歩でも戻れていたなら——そんな思いがひとつ、静かに沈んだ。
 螢雪は涙を拭おうともせず、弱く笑った。
「あぁ、良宵……我が同門の兄弟よ。俺達はまた、共に修行ができるのだ……あの頃のように……」
 冬の息吹が参道を包み、灯籠の光がひとつだけ影を伸ばした。
 祈りを下ろすことができなかった。
 数珠を握りしめたまま、ただ、微かな笑みだけを返した。
 螢雪は、それを答えと受け取った。
 安心しきった子どものような目で私を見つめた。
 その夜、祈りはなお空を切り、螢雪の魂には届かなかった。
 ……もし、あの夜へ戻れるのなら、私は迷いなく、螢雪を彼岸へ送っただろう。
 秋。
 高野山での最後の夜。
 空海様の御廟を背に、私は橋の前に立った。
 月光が揺らぎ、夜の帳が細く裂けた。
 影がひとすじ、前へ伸びる。
 私は静かに目を開き、その先を見据えた。