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第1話 天使降臨

ー/ー



 天使というものをはじめて見た。

 天使はゆるふわのセミロング・ヘアーを色白の小顔にまとっていた。唇のピンクはつややかに輝いて、オレの心臓を光線でつらぬいた。
 柔らかくアーチを描くまゆの下、少し下がった目じりが整いすぎる顔を柔らかい印象にしている。

「――聞いてる? 孝二くん」

 天使の声は少しだけ鼻にかかり、裏声が四割含まれていた。ああ、パイプオルガンの伴奏が聞こえる。天上からの光がオレを呼んでいる――。

「孝二くんってば!」
「……はっ! 気を失うところだった」

 天国への階段を二段ばかり登りかけていたオレは、少しだけ語気を強めた天使に引き戻された。

「もう。集中して。大事な新人教育なんだから」
「すみません、先輩」

 天使の名前は「志田晴美」といった。今日からオレがはたらくP商事庶務課の女性社員だ。
 二年前に入社した晴美さんはオレの教育係をつとめることになった。

「先輩はやめて。なんだかすごく年上みたいに聞こえる。晴美でいいから」
「ええ? じゃあ、ハルさんで」
「……。なにかへんなイントネーションね? まあ、いいけど。それじゃあ、まずうちのグループについて説明するね?」

 指ほっそいなぁ……。業務マニュアルの詳細を必死に説明するハルPの指を一本ずつ鑑賞していると、教育時間は飛ぶように過ぎていった。

 オレの名前は後藤孝二。彼女いない歴二十二年の新人サラリーマン。趣味はハルP鑑賞です。

 ひとめぼれって実在するんですね。打撃力をともなうってことをはじめて知りました。

「はい、今日はこれでおしまい。五時になったら、孝二くんはデスクをかたづけて帰っていいよ」
「あの! ハ、ハルさんは残業ですか?」
「ううん。定時で帰るけど」
「じゃ、じゃあ、駅まで一緒にいきませんか?」
「別にいいけど? わたし、歩くの速いよ?」

 五時を告げるチャイムが鳴るとハルPは着替えるためにロッカーに向かった。とりあえずオレにはすることがない。スマホを取り出していじろうとすると――。

「後藤クン、後藤クン」

 庶務課の先輩男子AとBがイスを引き寄せ、オレをはさんですわった。

「あぶない。あぶないよ、後藤クン」
「かわいそうで見ていられないよ」

 二人の先輩は同情するように首を振っていった。

「あの、なんでしょう?」
「キミ、ケガするよ」
「命の危機もありうるよ」

 うちの会社は普通の商社だ。危険物は取り扱っていないし、アブナイ薬を売っているわけでもない。反社との取引ももちろんない。
 そんな職場で「命の危機」とは大げさな。

「志田さんだよ」
「晴美ちゃんだよ」
「ハルさんがどうかしましたか?」

 オレは嫌な予感がした。これは話に聞く「恋のさや当て」というやつじゃないか? オレとハルPとの仲を引き裂こうという悪の秘密結社。

「悪いことはいわない。ケガしないうちに身を引いた方がいい」
「信じられないだろうが、これはキミのためなんだ。この会社には鉄の掟が存在する」

『庶務課の天使にゃ手を出すな!』

 それが鉄の掟なのだという。
 冗談じゃない! そんな話、聞いてられるかっての!

「天使って、やっぱりハルさんのことですか?」
「それ以外に誰がいる。広辞苑を引けば『天使とは志田晴美のことである』と書いてあるはずだ」
「それってハルさんを自分たちで独占しようとか、ファンクラブを結成したとか、そういうイタイ話じゃないんですか?」

 先輩といえども恋の道に上下はない! 断じてないぞ!

「悪いけど、オレ、譲るつもりないっすよ!」
「違う。違うぞ、後藤クン」
「本当にキミのためなんだ」

『志田晴美に手を出した男には不幸が起こる』

 それが嘘偽りない事実なのだと、先輩AとBは語った。なおも頑なな態度を取るオレを前にして、先輩たちは実際に起きた不幸なできごとを挙げつのった。

 天使を家まで送ろうとすると、必ず遭難する。いや、スマホがあるでしょうとツッコむと、謎の電波障害でマップが見られなくなるのだという。気を取られている内に天使とはぐれ、見知らぬ路地をさまようことになる。駅にたどりつけず、夜が明けるまで歩きまわった男がいたそうだ。

 ちなみに、先輩Aの実話だった。

 飲み会で天使の隣に座ると、悪酔いして病院に担ぎ込まれる。酒に強くても、逆に弱くても関係ない。呼吸数と心拍数が異常に上がり、急性アルコール中毒を発症するのだ。下戸の場合は急激な下痢を催す。頭に血が上り、消化器系が機能不全になるらしい。

 先輩Bは、急性アルコール中毒と突発性下痢を同時に発症したそうだ。悲惨すぎるだろっ!

「初恋だろうと、火遊びだろうと、イケおじの不倫であろうと関係ない。天使は人の上に人を作らず」
「天使に触れるものすべては不幸でズンドコなのだよ」

「悪いことはいわない。庶務課の天使にゃ手を出すな!」

 先輩たちは血の涙を流す勢いでオレをいさめた。いわせておけば勝手なことを。
 オレは断固たる面持ちで拒絶した。

「いやです! これは天の配剤です。聞けば聞くほど、オレこそハルさんにふさわしい!」
「後藤クンのバカ! これだけいってもまだわからないか!」

 ばちーん!
 
 先輩Aががまんできずにオレの頬をたたいた。
 オレはたたかれた頬に手を当て、目を閉じて体をふるわせた。

「すまん! つい手が出てしまった」
「――いいえ。むしろありがとうございます」

 オレはうっすらと顔を赤く染めて答えた。
 
「お、おまえ、特殊性癖保持者かぁー!」

 そう。オレは英国秘密情報機関幹部の暗号名と同じ、アルファベット一文字で表示される特殊な性癖を保持していた。

『M』

 あらゆる苦難はオレにとって人生を彩るスパイスでしかない!

「いかん! いかんぞ! そういう特殊性癖保持者が純情可憐な天使に近づくなど!」
「マイノリティ尊重の世論を逆手に取る気か? なんとしたたかな!」

「孝二くん、お待たせ!」

 先輩A、Bが顔面蒼白になってふるえているところに、着替えを終わったハルPがやってきた。

「あ、ハルさん! それじゃあ帰りましょう」
「晴美ちゃん、やめるんだ! そ、そいつは……」
「やだなあ、先輩。個人情報を漏らしたら、パワハラでセクハラですよぉ? コンプラでガンプラ作っちゃいますよぉ?」
「ぐぬぬ……」
「あら、なんだか知らないけど三人で仲良さそうね。もう友だちになったの?」

 オレはすでに気づいていた。ハルPの「天使フィルター」は悪意あるフレーズを通さないのだ。彼女の前で悪口は悪口ではなく、毒舌はおちゃめトークに変換される。

 悪いな、先輩たち。オレはハルPと新たな地平に立つ!

「あれ、志田くん? もう帰り支度しちゃったの?」
「課長! なにかご用ですか?」

 拳を握りしめたオレの肩ごしに、課長がハルPを呼び止めた。

「営業から交際費の申請が束になってきてね。優先順位づけして返そうと思うんだが、ちょっと手伝ってくれないかなぁ」
「わかりました。一時間もあれば十分ですね」
「やあ、すまないね。助かるよ」

 課長、この野郎! 若い奥さんと可愛い双子が家で待ってるんじゃないのかよ? オレとハルPの恋路を邪魔するんじゃねえ!

「ごめんなさい、孝二くん。仕事ができちゃった。悪いけど一人で帰ってくれる?」
「……はい」

 オレは文句をぐっと飲みこんだ。残業を頼まれたのはハルPのせいじゃない。恨むなら課長を恨むべきだろう。
 恨んでやるとも。ハゲロ、中間管理職!

「後藤クン。わかったかね。天命には逆らえないのだよ」
「帰り道はオレたちが同行してやろう。駅前のファミレスで語り合おうじゃないか」

 オレは先輩A、Bにドナドナされて、駅前に連れていかれた。たっぷり愚痴と説教を聞かされたオレは、一時間後にようやく解放されて家路に向かう電車に乗り込んだ。


次のエピソードへ進む 第2話 「ハルの歌」


みんなのリアクション

 天使というものをはじめて見た。
 天使はゆるふわのセミロング・ヘアーを色白の小顔にまとっていた。唇のピンクはつややかに輝いて、オレの心臓を光線でつらぬいた。
 柔らかくアーチを描くまゆの下、少し下がった目じりが整いすぎる顔を柔らかい印象にしている。
「――聞いてる? 孝二くん」
 天使の声は少しだけ鼻にかかり、裏声が四割含まれていた。ああ、パイプオルガンの伴奏が聞こえる。天上からの光がオレを呼んでいる――。
「孝二くんってば!」
「……はっ! 気を失うところだった」
 天国への階段を二段ばかり登りかけていたオレは、少しだけ語気を強めた天使に引き戻された。
「もう。集中して。大事な新人教育なんだから」
「すみません、先輩」
 天使の名前は「志田晴美」といった。今日からオレがはたらくP商事庶務課の女性社員だ。
 二年前に入社した晴美さんはオレの教育係をつとめることになった。
「先輩はやめて。なんだかすごく年上みたいに聞こえる。晴美でいいから」
「ええ? じゃあ、ハルさんで」
「……。なにかへんなイントネーションね? まあ、いいけど。それじゃあ、まずうちのグループについて説明するね?」
 指ほっそいなぁ……。業務マニュアルの詳細を必死に説明するハルPの指を一本ずつ鑑賞していると、教育時間は飛ぶように過ぎていった。
 オレの名前は後藤孝二。彼女いない歴二十二年の新人サラリーマン。趣味はハルP鑑賞です。
 ひとめぼれって実在するんですね。打撃力をともなうってことをはじめて知りました。
「はい、今日はこれでおしまい。五時になったら、孝二くんはデスクをかたづけて帰っていいよ」
「あの! ハ、ハルさんは残業ですか?」
「ううん。定時で帰るけど」
「じゃ、じゃあ、駅まで一緒にいきませんか?」
「別にいいけど? わたし、歩くの速いよ?」
 五時を告げるチャイムが鳴るとハルPは着替えるためにロッカーに向かった。とりあえずオレにはすることがない。スマホを取り出していじろうとすると――。
「後藤クン、後藤クン」
 庶務課の先輩男子AとBがイスを引き寄せ、オレをはさんですわった。
「あぶない。あぶないよ、後藤クン」
「かわいそうで見ていられないよ」
 二人の先輩は同情するように首を振っていった。
「あの、なんでしょう?」
「キミ、ケガするよ」
「命の危機もありうるよ」
 うちの会社は普通の商社だ。危険物は取り扱っていないし、アブナイ薬を売っているわけでもない。反社との取引ももちろんない。
 そんな職場で「命の危機」とは大げさな。
「志田さんだよ」
「晴美ちゃんだよ」
「ハルさんがどうかしましたか?」
 オレは嫌な予感がした。これは話に聞く「恋のさや当て」というやつじゃないか? オレとハルPとの仲を引き裂こうという悪の秘密結社。
「悪いことはいわない。ケガしないうちに身を引いた方がいい」
「信じられないだろうが、これはキミのためなんだ。この会社には鉄の掟が存在する」
『庶務課の天使にゃ手を出すな!』
 それが鉄の掟なのだという。
 冗談じゃない! そんな話、聞いてられるかっての!
「天使って、やっぱりハルさんのことですか?」
「それ以外に誰がいる。広辞苑を引けば『天使とは志田晴美のことである』と書いてあるはずだ」
「それってハルさんを自分たちで独占しようとか、ファンクラブを結成したとか、そういうイタイ話じゃないんですか?」
 先輩といえども恋の道に上下はない! 断じてないぞ!
「悪いけど、オレ、譲るつもりないっすよ!」
「違う。違うぞ、後藤クン」
「本当にキミのためなんだ」
『志田晴美に手を出した男には不幸が起こる』
 それが嘘偽りない事実なのだと、先輩AとBは語った。なおも頑なな態度を取るオレを前にして、先輩たちは実際に起きた不幸なできごとを挙げつのった。
 天使を家まで送ろうとすると、必ず遭難する。いや、スマホがあるでしょうとツッコむと、謎の電波障害でマップが見られなくなるのだという。気を取られている内に天使とはぐれ、見知らぬ路地をさまようことになる。駅にたどりつけず、夜が明けるまで歩きまわった男がいたそうだ。
 ちなみに、先輩Aの実話だった。
 飲み会で天使の隣に座ると、悪酔いして病院に担ぎ込まれる。酒に強くても、逆に弱くても関係ない。呼吸数と心拍数が異常に上がり、急性アルコール中毒を発症するのだ。下戸の場合は急激な下痢を催す。頭に血が上り、消化器系が機能不全になるらしい。
 先輩Bは、急性アルコール中毒と突発性下痢を同時に発症したそうだ。悲惨すぎるだろっ!
「初恋だろうと、火遊びだろうと、イケおじの不倫であろうと関係ない。天使は人の上に人を作らず」
「天使に触れるものすべては不幸でズンドコなのだよ」
「悪いことはいわない。庶務課の天使にゃ手を出すな!」
 先輩たちは血の涙を流す勢いでオレをいさめた。いわせておけば勝手なことを。
 オレは断固たる面持ちで拒絶した。
「いやです! これは天の配剤です。聞けば聞くほど、オレこそハルさんにふさわしい!」
「後藤クンのバカ! これだけいってもまだわからないか!」
 ばちーん!
 先輩Aががまんできずにオレの頬をたたいた。
 オレはたたかれた頬に手を当て、目を閉じて体をふるわせた。
「すまん! つい手が出てしまった」
「――いいえ。むしろありがとうございます」
 オレはうっすらと顔を赤く染めて答えた。
「お、おまえ、特殊性癖保持者かぁー!」
 そう。オレは英国秘密情報機関幹部の暗号名と同じ、アルファベット一文字で表示される特殊な性癖を保持していた。
『M』
 あらゆる苦難はオレにとって人生を彩るスパイスでしかない!
「いかん! いかんぞ! そういう特殊性癖保持者が純情可憐な天使に近づくなど!」
「マイノリティ尊重の世論を逆手に取る気か? なんとしたたかな!」
「孝二くん、お待たせ!」
 先輩A、Bが顔面蒼白になってふるえているところに、着替えを終わったハルPがやってきた。
「あ、ハルさん! それじゃあ帰りましょう」
「晴美ちゃん、やめるんだ! そ、そいつは……」
「やだなあ、先輩。個人情報を漏らしたら、パワハラでセクハラですよぉ? コンプラでガンプラ作っちゃいますよぉ?」
「ぐぬぬ……」
「あら、なんだか知らないけど三人で仲良さそうね。もう友だちになったの?」
 オレはすでに気づいていた。ハルPの「天使フィルター」は悪意あるフレーズを通さないのだ。彼女の前で悪口は悪口ではなく、毒舌はおちゃめトークに変換される。
 悪いな、先輩たち。オレはハルPと新たな地平に立つ!
「あれ、志田くん? もう帰り支度しちゃったの?」
「課長! なにかご用ですか?」
 拳を握りしめたオレの肩ごしに、課長がハルPを呼び止めた。
「営業から交際費の申請が束になってきてね。優先順位づけして返そうと思うんだが、ちょっと手伝ってくれないかなぁ」
「わかりました。一時間もあれば十分ですね」
「やあ、すまないね。助かるよ」
 課長、この野郎! 若い奥さんと可愛い双子が家で待ってるんじゃないのかよ? オレとハルPの恋路を邪魔するんじゃねえ!
「ごめんなさい、孝二くん。仕事ができちゃった。悪いけど一人で帰ってくれる?」
「……はい」
 オレは文句をぐっと飲みこんだ。残業を頼まれたのはハルPのせいじゃない。恨むなら課長を恨むべきだろう。
 恨んでやるとも。ハゲロ、中間管理職!
「後藤クン。わかったかね。天命には逆らえないのだよ」
「帰り道はオレたちが同行してやろう。駅前のファミレスで語り合おうじゃないか」
 オレは先輩A、Bにドナドナされて、駅前に連れていかれた。たっぷり愚痴と説教を聞かされたオレは、一時間後にようやく解放されて家路に向かう電車に乗り込んだ。