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(九)

ー/ー



 「大王――!」
 珍しく落ち着きのない足取りで大広間を歩き回っていた楊春が、ひゅう、と息を詰めるのが聞こえる。
 朱武もまた、手下たちの悲痛な声音の意味することを察し、唇の端を噛み締めた。
 「大王、大変です、二の大王が……陳達兄貴が、九紋龍の若造にとっ捕まりました!」
 白目を剥かんばかりの形相で寨に駆け込んできた子分が握る手綱の先には、どこか主の愛嬌ある面影を持つ白馬――その背には、無念そうに黙する鞍だけが乗っている。
 「捕まったって、どういうことだよ」 
 楊春の血色の悪い顔が、小刻みに震える松明の明かりににのっぺりと照らし出される。
 「それが、九紋龍史進は、いかにも世慣れない優男面に似合わぬ豪傑ぶりで……陳達兄貴も田舎の若造と不覚をとったのか、史進の振り回す三尖刀の太刀筋に翻弄されるばかり。最後には馬の上からぶん投げられ、史進の手下の手にかかってお縄に……! ああ、兄貴がお二人の大王の言うことを聞いていればっ……きっと史進は兄貴をただじゃおかない、このままじゃ兄貴は殺されてしまいます!」
 言葉にならない声を吐き出す楊春の背中を見つめながら、朱武は、己の思考が前に進まなくなったことを自覚した。
 「俺の言うことを聞かないからだ」
 蚊の鳴くような独白をようやく漏らすのがやっとだった。
 なぜあの時、もっときつく止めなかったのか――口では冷静に諭しながら、心では弟の背を押していたのだ。
 史進の豪傑ぶりは何度も聞いていたのに、陳達との力の差を分かっていたはずだったのに、それでも陳達が田舎の庄屋風情に負けるはずがないと信じ、どこかで史進を舐めてかかっていたのだ。
 『兄貴は一個も間違ったことなんかしてないんだ。兄貴を脅かすやつは、俺が懲らしめてやる!』
 若くして徐州(じょしゅう)の知州となったころの朱武は、清廉な役人としての勤めをまっとうしすぎたばかりに疎まれていた。そしてある日、役人仲間の罠にはめられ命を失いかけた。
 その窮地を救ってくれたのが、かつて朱武が冤罪を晴らしてやった女の弟であった、陳達だった。
 柳のような美女だった姉とは似ても似つかぬふてぶてしい図体の奥に、粗野だが義に満ち溢れた心を抱き、思慮にはとことん欠けるがその腕っ節だけは江湖の豪傑と名乗るにふさわしいやんちゃなやくざ者は、楊春と言う名の親友とともに朱武を兄と慕い、兄を助けるために落草を決めた。
 朱武の得意とするところは、多少通じた剣の道より、趣味が高じて身についた軍略知略。少華山に居を構え、一の大王の座にはついたが、陳達や楊春の武芸がなければここまで大きな寨を構え、好漢として名を轟かせることなどできなかっただろう。
 「だめだッ……だめだ!」
 陳達の点鋼槍がかけられていた壁に勢い良く拳を叩きつけた楊春は、長い黒髪を翻して手下たちを見回す。
 「達兄をみすみす死なせてたまるか! 俺たち全員で史家村に押し寄せて、達兄を助けるんだ。史進の野郎と、命懸けで戦おうじゃねえか」
 「待て、楊春!」
 常になく語気を荒げた楊春の、「命懸け」という言葉が耳に入った瞬間、停滞していた朱武の思考は再びうなりを上げ始めた。このままでは、二人の弟を失いかねない――それは朱武の命の、そしてこの寨自体の終焉をも意味していた。
 「止めてくれるなよ、兄貴。達兄はたった一人で挑んだから負けたんだ。俺の力と武兄の頭、それに手下たちがいれば、九紋龍なんて敵じゃない」
 「馬鹿なことを言うな。あれですら敵わなかったのに、弟分のお前が敵うと思うのか? いいか、お前もこの少華山の頭領だ。背負っているのは陳達の命だけじゃない。それにな、俺は陳達を助けに行くなと言っているわけじゃないんだ。だから少し、気を落ち着けろ」
 楊春は、開きかけた唇を、ぐ、と結んだ。細い目をさらに細めて俯くその顔には、朱武が陳達のことを諦めたわけではないという言葉への微かな安堵も浮かんでいるようだった。
 「悔しいことに、力で敵う相手ではないらしい。そうとなれば、頭を使って挑むしかあるまいよ」
 細い髭を神経質に弄いながら大広間を歩き回っていた朱武は、ふと、募る焦りに眉を顰める部下に問うた。
 「史進は、陳達たちと対峙した時、何と言っていた?」
 「はい、こともあろうに俺たちを、罪もない民を脅かし大罪を犯す山賊呼ばわり。とっ捕まえて衙門に突き出そうと、村中で相談していたところだと……。あの若造、衙門の腐りきった役人どもの言うことを鵜呑みにしているんだ」
 「なるほどな」
 少華山の三頭領と言えば、それなりに江湖に名を馳せた好漢と自負していたのだが、やはり世間知らずの田舎の若者にはただの盗人にしか思えぬらしい。ならば――
 「一つ、策を思い付いた」
 すがるような楊春の目を見つめ返し、朱武はゆっくり頷いた。



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 「大王――!」
 珍しく落ち着きのない足取りで大広間を歩き回っていた楊春が、ひゅう、と息を詰めるのが聞こえる。
 朱武もまた、手下たちの悲痛な声音の意味することを察し、唇の端を噛み締めた。
 「大王、大変です、二の大王が……陳達兄貴が、九紋龍の若造にとっ捕まりました!」
 白目を剥かんばかりの形相で寨に駆け込んできた子分が握る手綱の先には、どこか主の愛嬌ある面影を持つ白馬――その背には、無念そうに黙する鞍だけが乗っている。
 「捕まったって、どういうことだよ」 
 楊春の血色の悪い顔が、小刻みに震える松明の明かりににのっぺりと照らし出される。
 「それが、九紋龍史進は、いかにも世慣れない優男面に似合わぬ豪傑ぶりで……陳達兄貴も田舎の若造と不覚をとったのか、史進の振り回す三尖刀の太刀筋に翻弄されるばかり。最後には馬の上からぶん投げられ、史進の手下の手にかかってお縄に……! ああ、兄貴がお二人の大王の言うことを聞いていればっ……きっと史進は兄貴をただじゃおかない、このままじゃ兄貴は殺されてしまいます!」
 言葉にならない声を吐き出す楊春の背中を見つめながら、朱武は、己の思考が前に進まなくなったことを自覚した。
 「俺の言うことを聞かないからだ」
 蚊の鳴くような独白をようやく漏らすのがやっとだった。
 なぜあの時、もっときつく止めなかったのか――口では冷静に諭しながら、心では弟の背を押していたのだ。
 史進の豪傑ぶりは何度も聞いていたのに、陳達との力の差を分かっていたはずだったのに、それでも陳達が田舎の庄屋風情に負けるはずがないと信じ、どこかで史進を舐めてかかっていたのだ。
 『兄貴は一個も間違ったことなんかしてないんだ。兄貴を脅かすやつは、俺が懲らしめてやる!』
 若くして|徐州《じょしゅう》の知州となったころの朱武は、清廉な役人としての勤めをまっとうしすぎたばかりに疎まれていた。そしてある日、役人仲間の罠にはめられ命を失いかけた。
 その窮地を救ってくれたのが、かつて朱武が冤罪を晴らしてやった女の弟であった、陳達だった。
 柳のような美女だった姉とは似ても似つかぬふてぶてしい図体の奥に、粗野だが義に満ち溢れた心を抱き、思慮にはとことん欠けるがその腕っ節だけは江湖の豪傑と名乗るにふさわしいやんちゃなやくざ者は、楊春と言う名の親友とともに朱武を兄と慕い、兄を助けるために落草を決めた。
 朱武の得意とするところは、多少通じた剣の道より、趣味が高じて身についた軍略知略。少華山に居を構え、一の大王の座にはついたが、陳達や楊春の武芸がなければここまで大きな寨を構え、好漢として名を轟かせることなどできなかっただろう。
 「だめだッ……だめだ!」
 陳達の点鋼槍がかけられていた壁に勢い良く拳を叩きつけた楊春は、長い黒髪を翻して手下たちを見回す。
 「達兄をみすみす死なせてたまるか! 俺たち全員で史家村に押し寄せて、達兄を助けるんだ。史進の野郎と、命懸けで戦おうじゃねえか」
 「待て、楊春!」
 常になく語気を荒げた楊春の、「命懸け」という言葉が耳に入った瞬間、停滞していた朱武の思考は再びうなりを上げ始めた。このままでは、二人の弟を失いかねない――それは朱武の命の、そしてこの寨自体の終焉をも意味していた。
 「止めてくれるなよ、兄貴。達兄はたった一人で挑んだから負けたんだ。俺の力と武兄の頭、それに手下たちがいれば、九紋龍なんて敵じゃない」
 「馬鹿なことを言うな。あれですら敵わなかったのに、弟分のお前が敵うと思うのか? いいか、お前もこの少華山の頭領だ。背負っているのは陳達の命だけじゃない。それにな、俺は陳達を助けに行くなと言っているわけじゃないんだ。だから少し、気を落ち着けろ」
 楊春は、開きかけた唇を、ぐ、と結んだ。細い目をさらに細めて俯くその顔には、朱武が陳達のことを諦めたわけではないという言葉への微かな安堵も浮かんでいるようだった。
 「悔しいことに、力で敵う相手ではないらしい。そうとなれば、頭を使って挑むしかあるまいよ」
 細い髭を神経質に弄いながら大広間を歩き回っていた朱武は、ふと、募る焦りに眉を顰める部下に問うた。
 「史進は、陳達たちと対峙した時、何と言っていた?」
 「はい、こともあろうに俺たちを、罪もない民を脅かし大罪を犯す山賊呼ばわり。とっ捕まえて衙門に突き出そうと、村中で相談していたところだと……。あの若造、衙門の腐りきった役人どもの言うことを鵜呑みにしているんだ」
 「なるほどな」
 少華山の三頭領と言えば、それなりに江湖に名を馳せた好漢と自負していたのだが、やはり世間知らずの田舎の若者にはただの盗人にしか思えぬらしい。ならば――
 「一つ、策を思い付いた」
 すがるような楊春の目を見つめ返し、朱武はゆっくり頷いた。