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約束

ー/ー



 ――ひと目あなたに会いたくて、長い長い坂を上る。
 
 賑やかな繁華街。誰も私に目を合わさない。
 視線を合わせようとしても、通り過ぎていくだけ。
 
 私、何か悪いことをしたのかしら。それとも変な格好をしているのかな?
 大きな交差点。信号が変わっても、隣に立つ人は私を見なかった。
 どうして私を無視するの?

 風が吹き抜け、髪が頬にかかる。その感触だけが確かだった。

 歩きながら思い出す。
 あの日のあなたの嬉しそうな顔。
「見つけたんだ、君にぴったりの詩集を」
 本を胸に抱いて、子どものように輝いていたあなた。
「君に読んでもらうために買ったんだよ。きっと気に入ってくれる」
「今度の土曜日、時間ある? 一緒に読もう」


 あなたの笑顔が、心に焼きついている。
 ひと目あなたに会いたくて。

 長い坂を上り切る。
 今日、約束を果たしに来たよ。
 遅刻してしまったけれど。
 ほら、見えた。馴染みのある家。
 窓から温かい光が漏れている。
 そっと覗き込むと、あなたがいた。あなたとあなたの家族の小さな黒猫。
 名前はクロエだったっけ。
 
 机の上に、小さな写真立て。
 その前に開かれた詩集。
 あなたは静かに声に出して読んでいた。
 
「『湖面を渡る風は、緑色をしていて歌のように軽やかだった』……君もこういう詩が好きだったよね」
 写真に向かって、悲しげに微笑む。
「一緒に読めたらよかったのに」
 
 ――写真に写っていたのは私。

 あなたと並んで笑ってる。
「ほら、ここにいるよ。ねぇ私、ここにいるんだよ!」
 でもあなたには聞こえない。
「君なら、この行をどう読むかな」
 指先でそっと文字をなぞるあなた。
 私も同じ文字を目で追った。
 同じ言葉を、同じ時に。
 
 あなたは振り返った。
 私の顔を見るように。
 でも視線は私を通り抜けて、空を見つめている。
 
 ふと、彼の足もとで小さな影が動いた。
 黒い猫。

 琥珀の瞳が私を見上げた。
 ネコは時々、何もないところをじっと見ていることがある。
 ああ、そうなんだ。
 
 あなたたちは、これを見ていたんだね。
 いつものように、何もない空間を見つめている。
 いいえ、何もなくない。
 ――私がいる。

 私は彼に微笑みかける。
 その微笑みが彼に届くことはもうないのだけれど。
「ずっと大好きだよ」
 私は彼に言葉を投げかける。
 その言葉が彼に届くことはもうないのだけれど。

 と、ふいに、黒いネコがにゃあ、と鳴いた。
 私をじっと見つめて。
 うん、そうだね。
 できることなら彼に伝えて。
 わたしは約束を果たしに来たよって。
 ずっとずっと大好きだよって。


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 ――ひと目あなたに会いたくて、長い長い坂を上る。
 賑やかな繁華街。誰も私に目を合わさない。
 視線を合わせようとしても、通り過ぎていくだけ。
 私、何か悪いことをしたのかしら。それとも変な格好をしているのかな?
 大きな交差点。信号が変わっても、隣に立つ人は私を見なかった。
 どうして私を無視するの?
 風が吹き抜け、髪が頬にかかる。その感触だけが確かだった。
 歩きながら思い出す。
 あの日のあなたの嬉しそうな顔。
「見つけたんだ、君にぴったりの詩集を」
 本を胸に抱いて、子どものように輝いていたあなた。
「君に読んでもらうために買ったんだよ。きっと気に入ってくれる」
「今度の土曜日、時間ある? 一緒に読もう」
 あなたの笑顔が、心に焼きついている。
 ひと目あなたに会いたくて。
 長い坂を上り切る。
 今日、約束を果たしに来たよ。
 遅刻してしまったけれど。
 ほら、見えた。馴染みのある家。
 窓から温かい光が漏れている。
 そっと覗き込むと、あなたがいた。あなたとあなたの家族の小さな黒猫。
 名前はクロエだったっけ。
 机の上に、小さな写真立て。
 その前に開かれた詩集。
 あなたは静かに声に出して読んでいた。
「『湖面を渡る風は、緑色をしていて歌のように軽やかだった』……君もこういう詩が好きだったよね」
 写真に向かって、悲しげに微笑む。
「一緒に読めたらよかったのに」
 ――写真に写っていたのは私。
 あなたと並んで笑ってる。
「ほら、ここにいるよ。ねぇ私、ここにいるんだよ!」
 でもあなたには聞こえない。
「君なら、この行をどう読むかな」
 指先でそっと文字をなぞるあなた。
 私も同じ文字を目で追った。
 同じ言葉を、同じ時に。
 あなたは振り返った。
 私の顔を見るように。
 でも視線は私を通り抜けて、空を見つめている。
 ふと、彼の足もとで小さな影が動いた。
 黒い猫。
 琥珀の瞳が私を見上げた。
 ネコは時々、何もないところをじっと見ていることがある。
 ああ、そうなんだ。
 あなたたちは、これを見ていたんだね。
 いつものように、何もない空間を見つめている。
 いいえ、何もなくない。
 ――私がいる。
 私は彼に微笑みかける。
 その微笑みが彼に届くことはもうないのだけれど。
「ずっと大好きだよ」
 私は彼に言葉を投げかける。
 その言葉が彼に届くことはもうないのだけれど。
 と、ふいに、黒いネコがにゃあ、と鳴いた。
 私をじっと見つめて。
 うん、そうだね。
 できることなら彼に伝えて。
 わたしは約束を果たしに来たよって。
 ずっとずっと大好きだよって。