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第1回

ー/ー



 雨が降ってきた。

 窓にポツポツあたっている。間隔はそう短くなくて、ともすれば見間違いと思い直しそうだけれど、確かに降っている。
 壁の時計はちょうど6時。由鷹(ゆたか)が来るまであと1時間をきっていた。
 降水確率80%とテレビが告げていたから安心していたのに、昼を回っても厚く雲が広がっているだけで一向に降らないから心配していたのだが、どうやら間に合ったみたいだ。これでひと安心。

 今日は降ってもらわないと困る。すべての始まりだったあの日――4月1日。ちょうど半年前のあの日から、ひそかに私は由鷹と別れるのは雨の日と決めていた。

 私と由鷹の別れに雨はかかせない。なぜなら、私たちの間に起きたことすべてが雨の中でだったからだ。
 雨で始まった出来事は、雨で幕を閉じるのがふさわしい。ちぎれたフィルム同士をつぎ合わせるように、いつか、この半年も数ある雨の記憶にまぎれて消えてゆくだろうから。

 そう、始まりのあの日も雨が降っていた。



 それまでは春らしく暖かな日が続いていたというのに、突然真冬並に冷えこんだ日。さらに追いうちをかけるように、昼すぎから予定外の雨が降り出した。
 これみよがしに迎えの電話をかける同僚たちで列のできたロビーを抜け、折りたたみの置き傘を開くと外へ出る。

 あいにく私にはこんな日に車で迎えに来てくれるような知り合いはいない。この状態で29にもなるとある程度悟りがつくというか……あせりも嫉妬も起きない。送りを期待できる男の同僚もさらさらいない――いつものこと。そんなことに気を回すよりも、明日の日曜の天気のほうが私には気がかりだった。

 そろそろ部屋の衣替えをしなくてはいけないし、春服ももう少しほしい。新規入社の子たち用のマニュアルも早く完成させないといけないし……。
 何をするにしても、こんな雨では気が滅入る。
 すっかり灰色に染まった空を見上げ、白いため息を吐きながら通りすぎようとした駅近くの踏み切り。

 突然私の傘に由鷹が飛びこんできた。

 「電車を降りたら雨が降ってて。構内でずっと雨宿りしてたんだけど、どうもやみそうにないから」そう言って。
 喫茶店に入るにも持ち合わせがなかったらしい。上着のポケットからは歩くたびに帰りのバス代分という小銭のすれあう音がしていた。
 「傘に入れてもらうお礼」と、強引に傘の柄を奪われる。「濡れるよ」と言って抱き寄せられた肩。

 そんな図々しさを許したのは、由鷹の外面の美しさからだ。

 初めて会ったのだ、内面など知りようもない。
 おそらく180を越えている背丈、痩せた体。袖ロから覗き見えた手首は私より白く、男にしては細かった。鼻先までおりた前髪も軽くて、見苦しさは感じない。
 すっきり通った鼻筋、整った唇。涼し気な目許はくっきり二重で、よく光を吸いこむ明るい色をしていた。

 明るい茶色の髪と長いまつ毛……もしかすると何代か前に西欧の血が入っているのかもしれない。形造るひとつひとつは日本製なのだが、そうして完成された彼自身はどこか、異国的なものだった。
 中性的、とも言える。

 中でも、目だ。眼差し。
 蠱惑的に見つめ、そして挑発的に誘う。
 抗いがたい眼差し。

 出会ってわずか2時間後、由鷹は私のベッドで安らかな寝息をたてていた。

 窓を打つ外の雨はさらに激しさを増していた。ここからはす向かいにあるバス停に来るバスを待つまでの間、濡れないようにちゃんとした傘を貸してあげようとしただけのはずなのに。

 どちらが誘ったかなど、考えたくもない。
 受け入れたのは自分……。

 羽根枕を抱きこみ、隣で眠る美しい由鷹の天使のような寝顔を見下ろして、私は早くも悔やんでいた。こうなってしまったことを。

 このときすでに予想はできていたのだ。まだ学生だと言っていた、どう見積もっても7つは下の由鷹。社会人同士でならともなく……いや、そうであってもうまくいったという話は聞いたことがないのに、その上、由鷹は社会人(大人)ですらない。

 青年というよりは少年に思えるほど、由鷹の体は幼かった。腕も、足も、すべて。
 よくよく見れば、まだ完成しつくされていないようだ。
 だからこそ、こうなってしまったのかもしれない。しっかり男をしていたなら、玄関を開けようなどとは思わなかっただろう。

 ひと晩悔やんで、朝まで後悔して。明け方早くに部屋を出た。目を覚ました由鷹とベッドで正面から目をあわせられるほど、私は強くなかったからだ。
 鍵はスペアがあるから、出たあとポストへ戻しておいてほしい、との置き手紙をして。

 それで切れるはずだった。まともに話したのは駅からの数分間だけだが、ただの行きずりである自分の影を残すような愚かな者ではないとの見当はついていたし。
 だから、さながら熱にでもうかされていたような昨夜の恥ずべき行為を忘れようと、めいっぱい買い物をして戻った夜。見上げた部屋に明かりがついていたのを目にしたときの驚きは、言葉につくせなかった。

 「まだ雨だったから、出るのいやだったんだ」朝と変わらない姿でこともなげに笑って。「体、冷えてる。冷たいよ」と、あの魅惑的な眼差しで私をベッドに誘った。



 その日から由鷹は毎日のように私の部屋を訪れるようになった。仕事から帰ったときはいなくても、部屋にいた形跡があったこともある。
 いけない、これでは深みにはまるだけだ、笑い話にもならないと、何度思ったことだろう。甘い夢を見てもいいのだと素直に信じるには、私は歳を取りすぎていた。

 鍵を取り返し、もう来ないでと言えばいい。ドアの前に立っていようと決して中に入れず、無視して、スマホは着信拒否に――いや、番号を変えてしまえばいいのだと。

 幾度繰り返し考えても、どうしても行動にうつせなかった。

 ときおり見せる、前髪をかき上げる仕草。しかたないなとでも言いたげに梳いて、横から覗き込むように見てくる。
 あの目で見つめられると、いやとは言えなかった。いまいちという、彼の言葉に従って部屋の内装も変えた。床を貼り替え、窓辺に観葉植物を配置し、変えた壁の色にあわせて家具も新調して……入社してからずっと積み立てていた財形貯蓄は半分以下になったけれど、由鷹の満足気な笑顔が見られるならよかった。


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 雨が降ってきた。
 窓にポツポツあたっている。間隔はそう短くなくて、ともすれば見間違いと思い直しそうだけれど、確かに降っている。
 壁の時計はちょうど6時。|由鷹《ゆたか》が来るまであと1時間をきっていた。
 降水確率80%とテレビが告げていたから安心していたのに、昼を回っても厚く雲が広がっているだけで一向に降らないから心配していたのだが、どうやら間に合ったみたいだ。これでひと安心。
 今日は降ってもらわないと困る。すべての始まりだったあの日――4月1日。ちょうど半年前のあの日から、ひそかに私は由鷹と別れるのは雨の日と決めていた。
 私と由鷹の別れに雨はかかせない。なぜなら、私たちの間に起きたことすべてが雨の中でだったからだ。
 雨で始まった出来事は、雨で幕を閉じるのがふさわしい。ちぎれたフィルム同士をつぎ合わせるように、いつか、この半年も数ある雨の記憶にまぎれて消えてゆくだろうから。
 そう、始まりのあの日も雨が降っていた。
 それまでは春らしく暖かな日が続いていたというのに、突然真冬並に冷えこんだ日。さらに追いうちをかけるように、昼すぎから予定外の雨が降り出した。
 これみよがしに迎えの電話をかける同僚たちで列のできたロビーを抜け、折りたたみの置き傘を開くと外へ出る。
 あいにく私にはこんな日に車で迎えに来てくれるような知り合いはいない。この状態で29にもなるとある程度悟りがつくというか……あせりも嫉妬も起きない。送りを期待できる男の同僚もさらさらいない――いつものこと。そんなことに気を回すよりも、明日の日曜の天気のほうが私には気がかりだった。
 そろそろ部屋の衣替えをしなくてはいけないし、春服ももう少しほしい。新規入社の子たち用のマニュアルも早く完成させないといけないし……。
 何をするにしても、こんな雨では気が滅入る。
 すっかり灰色に染まった空を見上げ、白いため息を吐きながら通りすぎようとした駅近くの踏み切り。
 突然私の傘に由鷹が飛びこんできた。
 「電車を降りたら雨が降ってて。構内でずっと雨宿りしてたんだけど、どうもやみそうにないから」そう言って。
 喫茶店に入るにも持ち合わせがなかったらしい。上着のポケットからは歩くたびに帰りのバス代分という小銭のすれあう音がしていた。
 「傘に入れてもらうお礼」と、強引に傘の柄を奪われる。「濡れるよ」と言って抱き寄せられた肩。
 そんな図々しさを許したのは、由鷹の外面の美しさからだ。
 初めて会ったのだ、内面など知りようもない。
 おそらく180を越えている背丈、痩せた体。袖ロから覗き見えた手首は私より白く、男にしては細かった。鼻先までおりた前髪も軽くて、見苦しさは感じない。
 すっきり通った鼻筋、整った唇。涼し気な目許はくっきり二重で、よく光を吸いこむ明るい色をしていた。
 明るい茶色の髪と長いまつ毛……もしかすると何代か前に西欧の血が入っているのかもしれない。形造るひとつひとつは日本製なのだが、そうして完成された彼自身はどこか、異国的なものだった。
 中性的、とも言える。
 中でも、目だ。眼差し。
 蠱惑的に見つめ、そして挑発的に誘う。
 抗いがたい眼差し。
 出会ってわずか2時間後、由鷹は私のベッドで安らかな寝息をたてていた。
 窓を打つ外の雨はさらに激しさを増していた。ここからはす向かいにあるバス停に来るバスを待つまでの間、濡れないようにちゃんとした傘を貸してあげようとしただけのはずなのに。
 どちらが誘ったかなど、考えたくもない。
 受け入れたのは自分……。
 羽根枕を抱きこみ、隣で眠る美しい由鷹の天使のような寝顔を見下ろして、私は早くも悔やんでいた。こうなってしまったことを。
 このときすでに予想はできていたのだ。まだ学生だと言っていた、どう見積もっても7つは下の由鷹。社会人同士でならともなく……いや、そうであってもうまくいったという話は聞いたことがないのに、その上、由鷹は|社会人《大人》ですらない。
 青年というよりは少年に思えるほど、由鷹の体は幼かった。腕も、足も、すべて。
 よくよく見れば、まだ完成しつくされていないようだ。
 だからこそ、こうなってしまったのかもしれない。しっかり男をしていたなら、玄関を開けようなどとは思わなかっただろう。
 ひと晩悔やんで、朝まで後悔して。明け方早くに部屋を出た。目を覚ました由鷹とベッドで正面から目をあわせられるほど、私は強くなかったからだ。
 鍵はスペアがあるから、出たあとポストへ戻しておいてほしい、との置き手紙をして。
 それで切れるはずだった。まともに話したのは駅からの数分間だけだが、ただの行きずりである自分の影を残すような愚かな者ではないとの見当はついていたし。
 だから、さながら熱にでもうかされていたような昨夜の恥ずべき行為を忘れようと、めいっぱい買い物をして戻った夜。見上げた部屋に明かりがついていたのを目にしたときの驚きは、言葉につくせなかった。
 「まだ雨だったから、出るのいやだったんだ」朝と変わらない姿でこともなげに笑って。「体、冷えてる。冷たいよ」と、あの魅惑的な眼差しで私をベッドに誘った。
 その日から由鷹は毎日のように私の部屋を訪れるようになった。仕事から帰ったときはいなくても、部屋にいた形跡があったこともある。
 いけない、これでは深みにはまるだけだ、笑い話にもならないと、何度思ったことだろう。甘い夢を見てもいいのだと素直に信じるには、私は歳を取りすぎていた。
 鍵を取り返し、もう来ないでと言えばいい。ドアの前に立っていようと決して中に入れず、無視して、スマホは着信拒否に――いや、番号を変えてしまえばいいのだと。
 幾度繰り返し考えても、どうしても行動にうつせなかった。
 ときおり見せる、前髪をかき上げる仕草。しかたないなとでも言いたげに梳いて、横から覗き込むように見てくる。
 あの目で見つめられると、いやとは言えなかった。いまいちという、彼の言葉に従って部屋の内装も変えた。床を貼り替え、窓辺に観葉植物を配置し、変えた壁の色にあわせて家具も新調して……入社してからずっと積み立てていた財形貯蓄は半分以下になったけれど、由鷹の満足気な笑顔が見られるならよかった。