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第9話_白兎亭

ー/ー



中心部の喧騒から離れるにつれ、
人々の笑い声が徐々に薄れ、代わりに風の音と靴音だけが響き始めた。

路地はまるで蛇のようにうねり、進むたびに空が狭まっていく。
壁面に埋め込まれた青白い照明が次第にまばらになり、
代わりに煤けた看板やひび割れた壁が目立ち始めた。

「あの……ほんとにこんなところにお店があるんですか?」
燈は声を潜める。
光の届かない通路の奥――何かがこちらを覗いているような錯覚に、
無意識に管理人の袖をつまんだ。

「あるんだよ、これが。うまい店ってのは隠れてるもんなんだ」
管理人は余裕の笑みを浮かべ、迷いなく進む。

やがて行き止まり。
狭い路地の突き当たりに、一枚の古びた引き戸があった。

「ふふ……ここだ」
管理人は満足げに口角を上げ、ゆっくりと近づいていく。

燈も恐る恐る後を追う。

すりガラス越しに、柔らかな灯が揺れていた。
外の冷たい闇とは対照的に、その光は懐かしい家のように温かい。
木製の看板には、かすれた白い筆文字で「白兎亭」と書かれている。
よく見れば、兎の耳のような装飾が小さく彫り込まれていた。

そして、次の瞬間――
風に乗って、香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐる。
それは油の香りでも、香辛料の刺激でもなく、
心をほどくような、優しい匂いだった。

(……この匂い、なんだか懐かしい)
思わず胸が熱くなり、燈は小さく唾を飲み込んだ。

引き戸を開けると、カランと鈴の音が短く鳴った。
中はカウンター席と、木製のテーブル、それに一升瓶のケースを組み合わせた手作りの椅子が並んでいた。
いわゆる小さな飲み屋のような雰囲気だが、ざわめきは一切なく、店内には誰の気配もない。
ただ、空気だけはほんのりと温かい。

管理人はため息をひとつつき、眉をしかめた。
「相変わらずやる気が感じられんな……おいイナバ!!」

声が店内に響く。
しかし返事はない。
空腹と苛立ちが混ざったような表情で、管理人は舌打ちした。

「ったく、あいつはまた……」
どかどかと厨房へ続く扉に歩み寄る。

「ちょ、ちょっと!勝手に入っちゃだめですよ!」
燈が慌てて制止するが、彼女は聞く耳を持たなかった。

「いいんだよ!どうせあいつは――」
勢いよく扉を開く。

すると、石畳の床の上に何かが転がっていた。
黒いエプロンには白うさぎのワンポイントが刺繍されており、胸は規則正しく上下している。
どうやら、その人物はすやすやと眠っているらしい。

「……ほらな」
管理人は呆れたように言い、ゆっくりと近づく。

(え……なに、この人……?)
燈は目を凝らす。
頭の上には、ふわふわとした耳が二つ――まるでうさぎのように、寝息に合わせてぴょこぴょこと動いている。

(う、うさ耳!?しかも動いてる……!)

管理人は無言でその耳をつま先で容赦なく踏みつけた。
「仕事しろクソウサギ」

「ふぇっ……!?ぴぃぎゃあああああああ痛い、痛いってぇ!」

甲高い悲鳴が上がり、耳がぴんと跳ねた。

彼女――イナバは勢いよく飛び起き、
ひっくり返ったままの姿勢でじたばたと足をばたつかせながら、管理人の足を必死に押しのけようとする。

「や、やめて下さいお客様ぁ!!それは食べ物ではありませんぅぅ!」

「ようやく起きたな」
管理人は満足げに足をどけると、腕を組んで見下ろす。

イナバは涙目で耳を押さえながら立ち上がる。
「かわいいうさぎにこんなことするなんて……一体どこの――」

管理人の顔を見た瞬間、動きが止まった。

「って…………つきちゃんだぁー!!」
そのまま突進し、管理人の胸に思いきり飛び込む。
受け止めた管理人は、仕方なさそうにため息をつきながら、背中を軽くポンポンと叩いた。

「久しぶりだな。……あと、ちゃん付けはやめろ」

燈はぽかんと口を開けたまま、その光景を見ていた。
(この人……本当に、うさぎ……なの?いや、うさぎの人?)

「んぅ~相変わらず、色々とちっちゃくて可愛いよつきちゃん!!」
わざとらしく胸元に頬を擦りつける。

次の瞬間、鈍い音が響いた。

「だぁあああああ!頭が……三つに割れちゃうぅうう!」
イナバは床に崩れ落ち、頭を抱えて転げ回る。

「お前……きさらぎ送りにされたいのか?」
管理人はゴミを見るような目でため息をつき、低く呟く。

「あ、あの……この人は――」
後ろから、燈が恐る恐る声をかけた。

「……っと、すまない。おいイナバ、今日は新規の客を連れてきてやったから、しっかり挨拶しろ」
管理人は燈の背を軽く押し、紹介するように促した。

イナバは頭をさすりながら立ち上がり、目をぱちくりとさせた。
「新規……?」

そして燈を見つけると、瞬時に目を輝かせて駆け寄る。
「あぁ、君だね!名前は?名前はなんていうの!?」
勢いそのままに、両手で燈の腕をがっしりと掴む。

「あ、えっと……月宮、燈です」
押され気味に名乗ると、イナバは満面の笑みを浮かべた。

「おぉ!じゃあ『あかりん』だね!!」
その場で勝手にあだ名が制定された。

「えっ……あか、りん?」

「それじゃ、改めて!」
イナバは耳をぴょこんと立て、背筋を伸ばして宣言した。

「いらっしゃいませ!ようこそ『白兎亭』へ、僕が店主のイナバだ!」
声は澄んでいてよく通り、どこか胸を打つほど明るい。

冥府の街の片隅に、ほんの少し生の音が響いた瞬間だった。


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中心部の喧騒から離れるにつれ、
人々の笑い声が徐々に薄れ、代わりに風の音と靴音だけが響き始めた。
路地はまるで蛇のようにうねり、進むたびに空が狭まっていく。
壁面に埋め込まれた青白い照明が次第にまばらになり、
代わりに煤けた看板やひび割れた壁が目立ち始めた。
「あの……ほんとにこんなところにお店があるんですか?」
燈は声を潜める。
光の届かない通路の奥――何かがこちらを覗いているような錯覚に、
無意識に管理人の袖をつまんだ。
「あるんだよ、これが。うまい店ってのは隠れてるもんなんだ」
管理人は余裕の笑みを浮かべ、迷いなく進む。
やがて行き止まり。
狭い路地の突き当たりに、一枚の古びた引き戸があった。
「ふふ……ここだ」
管理人は満足げに口角を上げ、ゆっくりと近づいていく。
燈も恐る恐る後を追う。
すりガラス越しに、柔らかな灯が揺れていた。
外の冷たい闇とは対照的に、その光は懐かしい家のように温かい。
木製の看板には、かすれた白い筆文字で「白兎亭」と書かれている。
よく見れば、兎の耳のような装飾が小さく彫り込まれていた。
そして、次の瞬間――
風に乗って、香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐる。
それは油の香りでも、香辛料の刺激でもなく、
心をほどくような、優しい匂いだった。
(……この匂い、なんだか懐かしい)
思わず胸が熱くなり、燈は小さく唾を飲み込んだ。
引き戸を開けると、カランと鈴の音が短く鳴った。
中はカウンター席と、木製のテーブル、それに一升瓶のケースを組み合わせた手作りの椅子が並んでいた。
いわゆる小さな飲み屋のような雰囲気だが、ざわめきは一切なく、店内には誰の気配もない。
ただ、空気だけはほんのりと温かい。
管理人はため息をひとつつき、眉をしかめた。
「相変わらずやる気が感じられんな……おいイナバ!!」
声が店内に響く。
しかし返事はない。
空腹と苛立ちが混ざったような表情で、管理人は舌打ちした。
「ったく、あいつはまた……」
どかどかと厨房へ続く扉に歩み寄る。
「ちょ、ちょっと!勝手に入っちゃだめですよ!」
燈が慌てて制止するが、彼女は聞く耳を持たなかった。
「いいんだよ!どうせあいつは――」
勢いよく扉を開く。
すると、石畳の床の上に何かが転がっていた。
黒いエプロンには白うさぎのワンポイントが刺繍されており、胸は規則正しく上下している。
どうやら、その人物はすやすやと眠っているらしい。
「……ほらな」
管理人は呆れたように言い、ゆっくりと近づく。
(え……なに、この人……?)
燈は目を凝らす。
頭の上には、ふわふわとした耳が二つ――まるでうさぎのように、寝息に合わせてぴょこぴょこと動いている。
(う、うさ耳!?しかも動いてる……!)
管理人は無言でその耳をつま先で容赦なく踏みつけた。
「仕事しろクソウサギ」
「ふぇっ……!?ぴぃぎゃあああああああ痛い、痛いってぇ!」
甲高い悲鳴が上がり、耳がぴんと跳ねた。
彼女――イナバは勢いよく飛び起き、
ひっくり返ったままの姿勢でじたばたと足をばたつかせながら、管理人の足を必死に押しのけようとする。
「や、やめて下さいお客様ぁ!!それは食べ物ではありませんぅぅ!」
「ようやく起きたな」
管理人は満足げに足をどけると、腕を組んで見下ろす。
イナバは涙目で耳を押さえながら立ち上がる。
「かわいいうさぎにこんなことするなんて……一体どこの――」
管理人の顔を見た瞬間、動きが止まった。
「って…………つきちゃんだぁー!!」
そのまま突進し、管理人の胸に思いきり飛び込む。
受け止めた管理人は、仕方なさそうにため息をつきながら、背中を軽くポンポンと叩いた。
「久しぶりだな。……あと、ちゃん付けはやめろ」
燈はぽかんと口を開けたまま、その光景を見ていた。
(この人……本当に、うさぎ……なの?いや、うさぎの人?)
「んぅ~相変わらず、色々とちっちゃくて可愛いよつきちゃん!!」
わざとらしく胸元に頬を擦りつける。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
「だぁあああああ!頭が……三つに割れちゃうぅうう!」
イナバは床に崩れ落ち、頭を抱えて転げ回る。
「お前……きさらぎ送りにされたいのか?」
管理人はゴミを見るような目でため息をつき、低く呟く。
「あ、あの……この人は――」
後ろから、燈が恐る恐る声をかけた。
「……っと、すまない。おいイナバ、今日は新規の客を連れてきてやったから、しっかり挨拶しろ」
管理人は燈の背を軽く押し、紹介するように促した。
イナバは頭をさすりながら立ち上がり、目をぱちくりとさせた。
「新規……?」
そして燈を見つけると、瞬時に目を輝かせて駆け寄る。
「あぁ、君だね!名前は?名前はなんていうの!?」
勢いそのままに、両手で燈の腕をがっしりと掴む。
「あ、えっと……月宮、燈です」
押され気味に名乗ると、イナバは満面の笑みを浮かべた。
「おぉ!じゃあ『あかりん』だね!!」
その場で勝手にあだ名が制定された。
「えっ……あか、りん?」
「それじゃ、改めて!」
イナバは耳をぴょこんと立て、背筋を伸ばして宣言した。
「いらっしゃいませ!ようこそ『白兎亭』へ、僕が店主のイナバだ!」
声は澄んでいてよく通り、どこか胸を打つほど明るい。
冥府の街の片隅に、ほんの少し生の音が響いた瞬間だった。