田中はゆっくりと廊下に踏み出した。
足音は異様に長く伸び、奥行きのわからない闇へと吸い込まれていく。
蛍光灯は不規則に点滅し、そのたびに壁や床に映る影の位置が揺らぎ、まるで誰かが後ろを歩いているかのように錯覚させた。
壁に沿って、等間隔に並ぶドア。
どれも金属製で、淡い緑色の塗装は所々剥げ、下地の銀色が不規則に浮かび上がっている。
その均質さこそが逆に恐ろしかった。
(……全部、同じにしか見えない……)
背筋を冷たいものが這い上がる。
田中は乾いた唇を舌で湿らせ、最も近いドアノブに手をかけた。
指先に突き刺さるような冷たさに思わず息が漏れる。
捻ると、静かな軋みが鼓膜をひどく圧迫してきた。
中は空虚な白い病室――
その中央には、錆びついたブランコが一基、天井から鎖で吊るされていた。
誰もいないはずなのに、かすかに揺れている。
金属の鎖が「ギ……ギ……」と小さく軋み、不快な音を響かせた。
まるで子どもの遊び声が今も残っているかのようで、田中は背筋を凍らせ、思わず後ずさる。
慌てて扉を閉めると、自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。
次のドアを開ける。
中は病室のはずなのに、床一面が細かい砂で覆われていた。
中央には半ば埋もれたカラフルな滑り台。
塗装は剥がれ、色は褪せ、ひび割れが走っている。
部屋の隅には点滴スタンドが倒れ、砂に半分飲み込まれていた。
田中は一歩足を踏み入れた。
靴底にザラリとした感触が伝わり、思わず肩を強張らせる。
消毒液の匂いに混じって、乾いた砂埃の匂いが鼻を突き、むせ返るような咳が出た。
さらに進む。
開いた先には、壁際に自動販売機がひとつ。
白い蛍光灯が中を照らし、商品が整然と並んでいる。
しかし、そのすべてが同じ黒い液体の入ったペットボトルだった。
ラベルには、様々な言語の文字が重なり合うように印字されており、解読はできない。
田中は恐る恐る近づく。
硬貨返却口を覗き込むと――そこには商品と同じであろう黒い液体が溜まっていた。
それはゆっくりと滴り落ち、床に広がり、奇妙な模様を形成している。
模様はまるで目のような形に見え、田中は反射的に飛び退いた。
「……ここは、病院じゃ……ないのか……」
呟きはかすれ、喉が強張る。
廊下に戻ると、背中に冷たい汗が伝っていた。
ドアを開けるたびに、世界が少しずつ歪んでいく。
形は病院――だが、中身は病院ではない。
理解してしまえば、戻れなくなる。
そんな直感が、田中の胸を強く締め付けた。