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環(1)

ー/ー



 白光の月は十六夜を過ぎ、昨晩よりも影が濃くなった。
 墨染(すみぞめ)の空には、星々が数多(あまた)の輝きを散りばめている。よさりの森は四つ足や(むし)の声でかまびすしい。白日では汗ばむくらいの穏やかさだが、逢魔(おうま)が時より、月冴えの名残が嵩じる。
 今は夜陰(やいん)にて、はっきりとは見えないが、山桜が淡い色で(つぼみ)を膨らませており、朝には開くだろうか。
 たまきは、去年の今頃は屋敷の(かたわ)らで、家の者や近隣の住人たちと、お花見に興じたことを思い出す。ちょっと贅沢(ぜいたく)をして、お抹茶やお茶菓子を(たしな)んだものだ。男衆は、お酒を飲んでへべれけになっていた。何物にも代えがたい、ささやかだけれど幸せな時間だった。
 それがどうだ。
 歩き通しで、足の裏は既に血豆だらけ。ここ数日、体を拭いてすらいなく、全身が汗と土にまみれている。己の汚臭の漂いが鼻をつく。体中が痛い。寒い。お腹すいた、母さま。
「眠れない?」
 若い女の声がする。
 たまきは、その方向へ大きな瞳を向ける。正直、この人が嫌いだ。
「……いえ」
 やせ我慢をして、くるまっている(むしろ)の中で寝返りを打つが、震えを隠せなかった。
 ただでさえ、拝殿(はいでん)の木の床へ茣蓙(ござ)と筵一枚で横になっているうえ、夜の冷え込みは余計に辛い。
 ていうか、え、普通、こっちへいらっしゃいって、声かけない?
 女は「つむぎ」と、訳あって幼名で呼ばれているが、二十二歳の大人である。たまきに声をかけた後も、黙々と草鞋(わらじ)を編むことに集中していた。別段、心配したわけではないらしい。
 たまきは十歳で、三人のおちびちゃんたちに比べれば全然お姉さんなのだが、でもじゅうぶん子供なんです、と主張したい。
 こらえきれず、筵ごと、つむぎの(そば)へ行く。なるべく足音を立てないようにするが、朽ちかけの床が(きし)む音は隠せない。
 つむぎが、たまきを見据える。
 拝殿の御扉(みとびら)から差し込む月光のもと、充血した三白眼の赤い目が妖しく映え、まるでシマヘビのようだと環は(ひる)んだ。懐剣(かいけん)で髪を落としたらしい、ざんばら頭も相まって、怪異じみている。
「寒いか」
 うんとたまきは(うなず)く。
「くっついて寝れば少しはましだから。風邪でもひかれたら大変なんだから」
 ぶっきらぼうな口調に、ああやっぱりこの人苦手だなあと思う。
 つむぎは、巾着から黒い丸玉を取り出し、食べな、とたまきに渡す。うう、まずい。
 しかし空腹の体の命令で、咀嚼(そしゃく)をやめられない。噛めば噛むほど、形容しがたい味が口に広がる。
 ごくりと飲み込んでから、ふと「でも、つむぎさまは、先だってから何もお口になさられていないのでは?」と尋ねる。
「忘れるようにしてるんだからいちいち言わない」
 つむぎは冷たく吐き捨て、たまきは、心配してるのに酷いと口をへの字にした。
 冷たい隙間風が入ってきて、筵の中でさらに丸くなる。
 つむぎの周りには、三人の幼子が体を寄せるように寝ていた。三歳の女児はもえぎ、四歳の女児はあまね、六歳の男児はよなげだ。そこだけ藁床(わらどこ)を敷き、つむぎと乳母たちが己のうわっぱりをかけ、ぬくとくしてもらっている。
 移動の時以外、不思議なことに幼児たちは、愛想のないつむぎの(そば)をくっついて離れない。頼りにすべき人を()ぎ分ける、幼子特有の直感か。
 つむぎは職人然として草鞋を編む。たまきは、そもそもなんでこの人の身分で、草鞋なんて作れるんだろう、と(いぶか)しんだ。
 不意に、拝殿のすぐ外から、見回りの武士の、野太い咳払いと甲冑(かっちゅう)(こす)れる音がした。
 たまきは、びくんと体をすくませる。
 女子供を守るはずの護衛の武士たちは、日増しに、傲慢(ごうまん)な態度を隠さないようになってきていた。
 いよいよ本日に至っては、女たちに食事の準備だけをさせておいて、終えるや否や飯場から追い出し、男たちの食べ残ししか与えなかった。
「守ってやっているのだから、そこはご容赦いただきたい。いざ戦うのは我々なのですから。糧食にも限りがございまして……」
 などと屁理屈をこねて、もはや敬意も尽きているとみえる。
 女たちを見る目も、ねっとりと肌へからみつくようになってきていて、たまきも先だってお尻を触られた。
 今、この拝殿を警護しているのは信頼のおける男たちのはずだが、いや、傲慢な不届き者だって、ちょっと前まで皆、忠臣だったのでは?
 十とはいえ、大人たちをよく見ている。
「……ここも覗かれている気がする」と、たまきは不安になって、思わずつむぎの顔を見上げた。
 草鞋を編む手を止め、首から下げている三本の六合釘(くにくぎ)で、自分の手の甲をがしがし刺していた。痛そう。
 六合釘とは──木造建築が主流の六合(りくごう)国で古くから使われてきた、軟鉄製の四角錐(しかくすい)の釘だ。二寸(約6センチ)ほどのそれを三本束ね、紐へ通した祈りの五十九珠と繋げて首にかけるのが、()教信者の証だ。
 この奇行は、ヰ教の教えなのだろうか。
 いや、眠気を醒ましているのか。
 つむぎは、ヰ教の三本釘で我を取り戻し、赤い目で闇の先を()めつける。
 たまきは、改めてこの変人ぶりがちょっと無理――でも、命を削ってまで守ってくれていることは、否が応でも分からされた。と同時に強烈な眠気が押し寄せてきて、やがてまどろみの中に捉えられた。


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 白光の月は十六夜を過ぎ、昨晩よりも影が濃くなった。
 |墨染《すみぞめ》の空には、星々が|数多《あまた》の輝きを散りばめている。よさりの森は四つ足や蟲《むし》の声でかまびすしい。白日では汗ばむくらいの穏やかさだが、|逢魔《おうま》が時より、月冴えの名残が嵩じる。
 今は|夜陰《やいん》にて、はっきりとは見えないが、山桜が淡い色で|蕾《つぼみ》を膨らませており、朝には開くだろうか。
 たまきは、去年の今頃は屋敷の|傍《かたわ》らで、家の者や近隣の住人たちと、お花見に興じたことを思い出す。ちょっと|贅沢《ぜいたく》をして、お抹茶やお茶菓子を|嗜《たしな》んだものだ。男衆は、お酒を飲んでへべれけになっていた。何物にも代えがたい、ささやかだけれど幸せな時間だった。
 それがどうだ。
 歩き通しで、足の裏は既に血豆だらけ。ここ数日、体を拭いてすらいなく、全身が汗と土にまみれている。己の汚臭の漂いが鼻をつく。体中が痛い。寒い。お腹すいた、母さま。
「眠れない?」
 若い女の声がする。
 たまきは、その方向へ大きな瞳を向ける。正直、この人が嫌いだ。
「……いえ」
 やせ我慢をして、くるまっている|筵《むしろ》の中で寝返りを打つが、震えを隠せなかった。
 ただでさえ、|拝殿《はいでん》の木の床へ|茣蓙《ござ》と筵一枚で横になっているうえ、夜の冷え込みは余計に辛い。
 ていうか、え、普通、こっちへいらっしゃいって、声かけない?
 女は「つむぎ」と、訳あって幼名で呼ばれているが、二十二歳の大人である。たまきに声をかけた後も、黙々と|草鞋《わらじ》を編むことに集中していた。別段、心配したわけではないらしい。
 たまきは十歳で、三人のおちびちゃんたちに比べれば全然お姉さんなのだが、でもじゅうぶん子供なんです、と主張したい。
 こらえきれず、筵ごと、つむぎの|傍《そば》へ行く。なるべく足音を立てないようにするが、朽ちかけの床が|軋《きし》む音は隠せない。
 つむぎが、たまきを見据える。
 拝殿の|御扉《みとびら》から差し込む月光のもと、充血した三白眼の赤い目が妖しく映え、まるでシマヘビのようだと環は|怯《ひる》んだ。|懐剣《かいけん》で髪を落としたらしい、ざんばら頭も相まって、怪異じみている。
「寒いか」
 うんとたまきは|頷《うなず》く。
「くっついて寝れば少しはましだから。風邪でもひかれたら大変なんだから」
 ぶっきらぼうな口調に、ああやっぱりこの人苦手だなあと思う。
 つむぎは、巾着から黒い丸玉を取り出し、食べな、とたまきに渡す。うう、まずい。
 しかし空腹の体の命令で、|咀嚼《そしゃく》をやめられない。噛めば噛むほど、形容しがたい味が口に広がる。
 ごくりと飲み込んでから、ふと「でも、つむぎさまは、先だってから何もお口になさられていないのでは?」と尋ねる。
「忘れるようにしてるんだからいちいち言わない」
 つむぎは冷たく吐き捨て、たまきは、心配してるのに酷いと口をへの字にした。
 冷たい隙間風が入ってきて、筵の中でさらに丸くなる。
 つむぎの周りには、三人の幼子が体を寄せるように寝ていた。三歳の女児はもえぎ、四歳の女児はあまね、六歳の男児はよなげだ。そこだけ|藁床《わらどこ》を敷き、つむぎと乳母たちが己のうわっぱりをかけ、ぬくとくしてもらっている。
 移動の時以外、不思議なことに幼児たちは、愛想のないつむぎの|傍《そば》をくっついて離れない。頼りにすべき人を|嗅《か》ぎ分ける、幼子特有の直感か。
 つむぎは職人然として草鞋を編む。たまきは、そもそもなんでこの人の身分で、草鞋なんて作れるんだろう、と|訝《いぶか》しんだ。
 不意に、拝殿のすぐ外から、見回りの武士の、野太い咳払いと|甲冑《かっちゅう》の|擦《こす》れる音がした。
 たまきは、びくんと体をすくませる。
 女子供を守るはずの護衛の武士たちは、日増しに、|傲慢《ごうまん》な態度を隠さないようになってきていた。
 いよいよ本日に至っては、女たちに食事の準備だけをさせておいて、終えるや否や飯場から追い出し、男たちの食べ残ししか与えなかった。
「守ってやっているのだから、そこはご容赦いただきたい。いざ戦うのは我々なのですから。糧食にも限りがございまして……」
 などと屁理屈をこねて、もはや敬意も尽きているとみえる。
 女たちを見る目も、ねっとりと肌へからみつくようになってきていて、たまきも先だってお尻を触られた。
 今、この拝殿を警護しているのは信頼のおける男たちのはずだが、いや、傲慢な不届き者だって、ちょっと前まで皆、忠臣だったのでは?
 十とはいえ、大人たちをよく見ている。
「……ここも覗かれている気がする」と、たまきは不安になって、思わずつむぎの顔を見上げた。
 草鞋を編む手を止め、首から下げている三本の|六合釘《くにくぎ》で、自分の手の甲をがしがし刺していた。痛そう。
 六合釘とは──木造建築が主流の|六合《りくごう》国で古くから使われてきた、軟鉄製の|四角錐《しかくすい》の釘だ。二寸(約6センチ)ほどのそれを三本束ね、紐へ通した祈りの五十九珠と繋げて首にかけるのが、|ヰ《い》教信者の証だ。
 この奇行は、ヰ教の教えなのだろうか。
 いや、眠気を醒ましているのか。
 つむぎは、ヰ教の三本釘で我を取り戻し、赤い目で闇の先を|睨《ね》めつける。
 たまきは、改めてこの変人ぶりがちょっと無理――でも、命を削ってまで守ってくれていることは、否が応でも分からされた。と同時に強烈な眠気が押し寄せてきて、やがてまどろみの中に捉えられた。