白光の月は十六夜を過ぎ、昨晩よりも影が濃くなった。
墨染の空には、星々が数多の輝きを散りばめている。よさりの森は四つ足や蟲の声でかまびすしい。白日では汗ばむくらいの穏やかさだが、逢魔が時より、月冴えの名残が嵩じる。
今は夜陰にて、はっきりとは見えないが、山桜が淡い色で蕾を膨らませており、朝には開くだろうか。
たまきは、去年の今頃は屋敷の傍らで、家の者や近隣の住人たちと、お花見に興じたことを思い出す。ちょっと贅沢をして、お抹茶やお茶菓子を嗜んだものだ。男衆は、お酒を飲んでへべれけになっていた。何物にも代えがたい、ささやかだけれど幸せな時間だった。
それがどうだ。
歩き通しで、足の裏は既に血豆だらけ。ここ数日、体を拭いてすらいなく、全身が汗と土にまみれている。己の汚臭の漂いが鼻をつく。体中が痛い。寒い。お腹すいた、母さま。
「眠れない?」
若い女の声がする。
たまきは、その方向へ大きな瞳を向ける。正直、この人が嫌いだ。
「……いえ」
やせ我慢をして、くるまっている筵の中で寝返りを打つが、震えを隠せなかった。
ただでさえ、拝殿の木の床へ茣蓙と筵一枚で横になっているうえ、夜の冷え込みは余計に辛い。
ていうか、え、普通、こっちへいらっしゃいって、声かけない?
女は「つむぎ」と、訳あって幼名で呼ばれているが、二十二歳の大人である。たまきに声をかけた後も、黙々と草鞋を編むことに集中していた。別段、心配したわけではないらしい。
たまきは十歳で、三人のおちびちゃんたちに比べれば全然お姉さんなのだが、でもじゅうぶん子供なんです、と主張したい。
こらえきれず、筵ごと、つむぎの傍へ行く。なるべく足音を立てないようにするが、朽ちかけの床が軋む音は隠せない。
つむぎが、たまきを見据える。
拝殿の御扉から差し込む月光のもと、充血した三白眼の赤い目が妖しく映え、まるでシマヘビのようだと環は怯んだ。懐剣で髪を落としたらしい、ざんばら頭も相まって、怪異じみている。
「寒いか」
うんとたまきは頷く。
「くっついて寝れば少しはましだから。風邪でもひかれたら大変なんだから」
ぶっきらぼうな口調に、ああやっぱりこの人苦手だなあと思う。
つむぎは、巾着から黒い丸玉を取り出し、食べな、とたまきに渡す。うう、まずい。
しかし空腹の体の命令で、咀嚼をやめられない。噛めば噛むほど、形容しがたい味が口に広がる。
ごくりと飲み込んでから、ふと「でも、つむぎさまは、先だってから何もお口になさられていないのでは?」と尋ねる。
「忘れるようにしてるんだからいちいち言わない」
つむぎは冷たく吐き捨て、たまきは、心配してるのに酷いと口をへの字にした。
冷たい隙間風が入ってきて、筵の中でさらに丸くなる。
つむぎの周りには、三人の幼子が体を寄せるように寝ていた。三歳の女児はもえぎ、四歳の女児はあまね、六歳の男児はよなげだ。そこだけ藁床を敷き、つむぎと乳母たちが己のうわっぱりをかけ、ぬくとくしてもらっている。
移動の時以外、不思議なことに幼児たちは、愛想のないつむぎの傍をくっついて離れない。頼りにすべき人を嗅ぎ分ける、幼子特有の直感か。
つむぎは職人然として草鞋を編む。たまきは、そもそもなんでこの人の身分で、草鞋なんて作れるんだろう、と訝しんだ。
不意に、拝殿のすぐ外から、見回りの武士の、野太い咳払いと甲冑の擦れる音がした。
たまきは、びくんと体をすくませる。
女子供を守るはずの護衛の武士たちは、日増しに、傲慢な態度を隠さないようになってきていた。
いよいよ本日に至っては、女たちに食事の準備だけをさせておいて、終えるや否や飯場から追い出し、男たちの食べ残ししか与えなかった。
「守ってやっているのだから、そこはご容赦いただきたい。いざ戦うのは我々なのですから。糧食にも限りがございまして……」
などと屁理屈をこねて、もはや敬意も尽きているとみえる。
女たちを見る目も、ねっとりと肌へからみつくようになってきていて、たまきも先だってお尻を触られた。
今、この拝殿を警護しているのは信頼のおける男たちのはずだが、いや、傲慢な不届き者だって、ちょっと前まで皆、忠臣だったのでは?
十とはいえ、大人たちをよく見ている。
「……ここも覗かれている気がする」と、たまきは不安になって、思わずつむぎの顔を見上げた。
草鞋を編む手を止め、首から下げている三本の六合釘で、自分の手の甲をがしがし刺していた。痛そう。
六合釘とは──木造建築が主流の六合国で古くから使われてきた、軟鉄製の四角錐の釘だ。二寸(約6センチ)ほどのそれを三本束ね、紐へ通した祈りの五十九珠と繋げて首にかけるのが、ヰ教信者の証だ。
この奇行は、ヰ教の教えなのだろうか。
いや、眠気を醒ましているのか。
つむぎは、ヰ教の三本釘で我を取り戻し、赤い目で闇の先を睨めつける。
たまきは、改めてこの変人ぶりがちょっと無理――でも、命を削ってまで守ってくれていることは、否が応でも分からされた。と同時に強烈な眠気が押し寄せてきて、やがてまどろみの中に捉えられた。