「あれ? 帰ってたの?」
一階の居間で目を瞑って横になっていた
藤城皐月は、
及川祐希の言葉で現実の世界へ呼び戻された。
「ん……ただいま」
「遅くまで
真理ちゃんの家にいたんだね」
「そうかな……」
「小学生がこんなに遅くまで遊んでいたらダメでしょ」
「心配かけてごめんね。これからは気をつけるよ」
祐希は皐月が素直に謝るので、肩を透かされたみたいな顔をしていた。からかうような言い方をすれば、皐月は子供っぽく返してくると期待していた。
「皐月、なんか女の人の匂いがするね」
「真理ん家の匂いが移ったかな。友達ん家って
仄かに臭いよね」
「別に臭くないよ。いい匂いだなって。さっきパピヨンで真理ちゃんに会った時と同じ香りがする」
「祐希って鼻が利くんだ。犬みたいだな」
「うわ〜っ、犬とかひどくない?」
「俺、猫より犬が好きなんだ」
「私は猫派なの」
「祐希は性格が猫っぽいもんな」
「適当なこと言って……さっき私のこと犬みたいだって言ったくせに」
祐希は皐月と話をするのが好きになっていた。皐月のふざけた返しを聞きたくて、最近はやたらと話しかけている。皐月が彼氏と全然タイプが違うのも、新鮮で楽しい。
皐月のスマホに母の
小百合からビデオ通話がかかってきた。ようやくお座敷が終わったみたいだが、時刻はもう11時を過ぎていた。
「ごめんね〜。遅くなっちゃった」
「お仕事お疲れさま。大変だったね」
「今日はみんながいたからそんなに疲れなかったよ。
明日美は人気があるから、お客の相手が大変だったみたいね。私は全然だったけどね」
明日美と同じお座敷に呼ばれると、他の
芸妓は自然と明日美のヘルプのようになるらしい。そういうのを嫌がるのは他の芸妓組合の芸妓で、百合(小百合)や凛(凛子)は気楽でいいと、明日美のサポートに徹することにしている。
小百合が皐月の背後に写った祐希を見つけたようで、祐希の母の頼子に声をかけている。それにならって皐月も祐希を呼んで通話を代わった。頼子と祐希が遠慮がちに喋っているのを見て、小百合も皐月もそっとその場を離れた。
祐希と頼子が話し終わると、スマホが皐月に戻ってきた。小百合と皐月が話をしているところに、小百合の背後から明日美が画面を覗き込んできた。
いつもの明日美はこんなことをしてこないのに、今日は珍しいなと思っていると、小百合が明日美と通話を代わった。
「皐月、髪切ったんだ。よく似合ってるね。また検番に顔を見せにおいでよ」
母の前で明日美が皐月を誘ったことに驚いた。皐月は明日美と会うことに後ろめたさを感じているからだ。自分だけが明日美のことを異性として気にしていたことが恥ずかしくなった。
「わかった。また学校帰りにでも検番に寄るよ」
「あれ? もしかして髪にカラーしてる?」
「うん。ちょっとだけ。紫にね」
皐月はカラーした髪をつまんで、画面に大きく映した。
「格好いいじゃない。もっとちゃんと見てみたいな。また検番においで」
「ありがとう。明日美に格好いいなんて言ってもらえたら、俺、自惚れちゃうよ。バカだから」
「いいんだよ、それくらいで。いい男はみんな自分に自信を持ってるんだ。ね、百合姐さん」
小百合は画面の端で苦笑していた。
「明日美は小さな画面でも綺麗だね」
「ありがとう。なんだか今日は照れるな……」
祐希が背後から画面を覗き込んできた。明日美にも祐希の顔が見えているはずだが、明日美は祐希には何も反応せずに、小百合にスマホを戻した。
「皐月。今日は帰りが遅くなるから、明日の朝はパピヨンにでも行って、モーニングを食べてきなさい。」
「うん、わかった」
「祐希ちゃん。明日はお弁当を作ってあげられなくて、ごめんね。お昼は好きなものを買ってね」
「はい」
皐月と祐希は小百合にパピヨンから直接学校に行けと言われて、通話を終えた。
「明日美さんって本当に綺麗な人なんだね」
「そうだろ。でも実物はもっと綺麗だよ。俺は明日美が世界で一番いい女だと思ってる」
「千智ちゃんも美人だし、真理ちゃんは格好いいし、皐月のまわりってレベルの高い人ばかりだね」
「そして祐希が俺の前に現れた。祐希だって明日美や千智に全然負けていないよ」
「ちょっ……何言ってんの……」
「俺、風呂入ってくるね」
祐希の相手をしないで、皐月は部屋を出た。真理と一線を超え、明日美と話した後だと、高校生の祐希がやけに幼く見える。
皐月は自分も少し大人になったのかな、と思った。さっきまでは消したくないと思っていた真理の残り香を、今はもう洗い流してもいいかなと思い始めていた。