二日目の営業も、嵐のような忙しさだった。
朝から夕方までドアベルは鳴り止まず、店内は熱気に包まれ、シャーロットとルカは目の回るような時間を過ごした。
でもそれは心地よい疲れを運んでくる。
「いやぁ、今日もすごかったですね!」
最後のお客を見送り、ルカが額の汗を拭いながら笑った。その顔は疲労に染まっているが、充実感で輝いている。
「本当ね。でも、あなたのおかげで何とか乗り切れたわ」
シャーロットは優しく微笑んだ。
窓の外を見れば、夕陽が町を橙色に染め始めている。石畳が黄金に輝き、どこか遠くで家に帰る子供たちの笑い声が聞こえる。
平和で、温かい、ローゼンブルクの夕暮れ。
「さて、ルカ君。皿洗い、悪いけどお願いできる?」
「もちろんです! 弟子として当然ですから!」
ルカは袖をまくり上げ、意気揚々と流し台に向かった。一枚一枚、まるで宝物を扱うように丁寧に洗っていく。その真剣な横顔に、シャーロットは温かいものを感じた。
カウンターに座り、帳簿を広げる。
羽ペンを手に取り、今日の売り上げを記入していく。数字を追いながらも、シャーロットの心はどこか上の空だった。
――そう言えば。
ふと、手が止まる。
――昨日、あの人が来たのも、ちょうどこの時間だった。
心臓が、小さく跳ねる。
まさか、という期待と、でも、という不安が入り混じる中、チラリと窓の外に目をやると――――。
「あら」
思わず、口元が緩んだ。
街灯の下、昨日と同じ場所に、同じようにフードを被った大きな影が立っているではないか。
店の中を覗き込むように、でも入るのをためらうように、じっとたたずんでいる。
「ふふっ」
シャーロットは小さく笑い声を漏らした。
なんて可愛らしいのだろう。あんなに大きな体なのに、まるで初めてお店に入る子供のよう。
タタタッと軽やかな足音を立てて、扉へと駆けた。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けた瞬間、男の体がビクリと震える。
「お待ちしてましたわ」
シャーロットの眩しい笑顔に男は少し固まった。
「お、おぉ……」
フードの奥から、戸惑ったような声が漏れる。
「来るって……言ったからな……」
ぶっきらぼうな言葉。でも、シャーロットにはその奥にある照れが手に取るように分かった。
「嬉しいです。さぁどうぞ!」
優しく男を店内へと導く。
昨日と同じ、一番奥の席。男は慣れた様子でそこに腰を下ろした。
「今日も、オムライス?」
シャーロットは後ろ手を組み、すこし下から覗き込むようにして、フードの奥の表情を伺う。
その仕草の可愛らしさにあてられたように、男は思わず視線を逸らした。
「お、おぉ……任せる……」
低い声が、かすかに震えている。
「ふふっ!」
シャーロットは嬉しそうに微笑むと、くるりと振り返った。スカートがふわりと広がる。
「ルカ君! オムライス一丁!」
明るい声が厨房に響く。
「え? オ、オムライスですか?」
皿を洗っていたルカが、泡だらけの手で振り返った。目を白黒させている。
「チキンライスを炒め直すところだけお願い」
シャーロットはウインクした。
「オムレツは私がやるわ」
「わ、わかりました!」
ルカは慌てて手を拭き、フライパンを手に取った。緊張で手が震えているが、目は真剣そのもの。
シャーロットはその様子を温かく見守りながら、自分も準備を始めた。
卵を割る。
かき混ぜる。
フライパンにバターを落とす。
いつもの手順。でも、これには特別な気持ちが込められている。
――あの人のために。
なぜだろう。昨日会ったばかりの、名前も知らない人なのに。
でも、この料理で少しでも幸せになってもらいたいと、心から思う。
「よし、できました!」
ルカが誇らしげにチキンライスを差し出す。
「上出来よ」
シャーロットは微笑んで、それを受け取った。
そして――魔法が始まる。
卵がフライパンの上で踊り、ふわふわのドレスを纏う。チキンライスを優しく包み込み、とろけるチーズが金色の糸を紡ぐ。
仕上げのケチャップは、今日は特別な模様を描いた。
スマイルマーク。
ちょっとゆがんでしまったけど、でも確かにうれしそうな顔――――。
「お待たせしました」
皿を置いた瞬間、男の肩が小さく震えた。
スマイルマークに驚いたのだろうか――――?
22. 我の名は
男はゆっくりと、スプーンを手に取る。
一口――――。
フードの奥で、小さく息を呑む音がした。
そして、昨日よりも落ち着いて、でも一口一口を大切に味わうように食べ始めた。
シャーロットは、その様子をそっと見守った。
ルカも、皿洗いの手を止めて、固唾を呑んで見つめている。
やがて――――。
「……美味い」
低い声が、静かに響いた。
たった一言。
でも、その言葉には昨日よりも深い何かが込められていた。
シャーロットの頬が、薔薇色に染まる。
「ふふっ。良かった」
窓の外では、夕陽が完全に沈もうとしている。
◇
空になった皿を前に、ゼノヴィアスは放心したように座っていた。
まるで、美しい夢から覚めたくない子供のように。
シャーロットは、そっと空になったグラスを手に取った――――。
グラスに注ぐ水の音が、静かな店内に心地よく響く。
「どうぞ」
優しく差し出されたグラスを、ゼノヴィアスはぶっきらぼうに手に取った。冷たい水が喉を通り、ようやく現実に戻ってきたようだ。
「カフェは……、あまり行かれないんですか?」
シャーロットが柔らかく尋ねる。
「こ、ここが……」
ゼノヴィアスの声が震えた。
「初めて……だ」
その告白に、シャーロットの目が優しく細められた。
「ふふっ、そうだったんですね」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「カフェって、いいところでしょう? これからカフェ巡りをされてもいいかもしれませんね」
明るく提案するシャーロットだったが――――。
「わが国には……カフェなどない」
低い声には、どこか寂しげな響きがあった。
「え?」
シャーロットは目を丸くした。
「カフェが……ない?」
「そうだ」
ゼノヴィアスは深くため息をついた。
「こんな洒落た文化など……我が国にはない。そういう……国なのだ」
言葉の端々に、何か複雑な感情が滲んでいる。
「ふぅん……」
シャーロットは首を傾げた。そして、無邪気に続けた。
「その国の王様は、何を考えているのでしょうね? こんな素敵な場所を作らないなんて……」
ブッ――――。
ゼノヴィアスが飲みかけていた水を吹き出しそうになった。
ゴホッゴホッ!
激しくむせる。
(まさに、その王が俺なのだが……)
だが、そんなことは言えるはずもない。それにどんな言葉も自分への批判にしかならない。五百年の治世で、カフェなど興味すら持たなかった自分への。
「だ、大丈夫ですか?」
シャーロットが心配そうに背中をさする。またしても、あの温かい手が。
「カ、カフェについて、ここで勉強させてもらおう……」
苦し紛れにゼノヴィアスは呟いた。
「ふふっ、ぜひ!」
シャーロットは満面の笑みを浮かべた。
「お国にも、カフェを広めてくださいね」
「あぁ……」
ゼノヴィアスは苦笑した。
魔王がカフェを作る。想像するだけで、部下たちの困惑した顔が目に浮かぶ。
でも――――。
(悪くない、かもしれない)
◇
やがて、ゼノヴィアスは立ち上がった。
今日も金貨を置こうとして、先払いしたことを思い出し――ふと、足を止めた。
「お、お前……」
振り返り、シャーロットを見つめる。
「何か欲しいものは、ないか?」
「シャーロットです」
「え……?」
ゼノヴィアスは戸惑った。
「『お前』じゃなくて」
シャーロットは少し頬を膨らませた。可愛らしい抗議の表情。
「私の名前は、シャーロット。覚えてくださいね?」
その瞬間、ゼノヴィアスの時が止まった。
シャーロット――――。
その名前が、深く深くゼノヴィアスの心に刻まれる。
「シャ……シャーロット……」
恐る恐る、その名を口にする。まるで、壊れやすい宝物を扱うように。
「いい……名だ」
心からの賛辞だった。ありふれた名前、でもなぜか美しい響きが心にしみてくる。
「ありがとうございます」
シャーロットは嬉しそうに微笑んだ。
そして――――。
「お客さんは?」
「え?」
「お客さんのお名前ですよぉ」
にっこりと笑いながら、シャーロットはゼノヴィアスを見上げる。
ゼノヴィアスは困った。
魔王ゼノヴィアス。その名を名乗れば、全てが終わる。この温かい時間も、この優しい笑顔も――――。
だが、偽りの名を告げることもできない。偽名を騙るなど魔王としてのプライドが許さないのだ。
23. 崩れゆく平穏
「わ、我は……」
ゼノヴィアスは必死に考えた。そして――――。
「ゼ、ゼノと……呼ぶことを、許そう」
精一杯の妥協案だった。本名の一部だけ。嘘ではない、が、真実でもない。
「はははっ!」
シャーロットが明るく笑った。
「許されちゃった!」
その無邪気な反応に、ゼノヴィアスは戸惑う。『許す』の何がまずかっただろうか――――?
「ゼノさん、今日もご来店ありがとうございます」
シャーロットはにっこりとほほ笑んだ。その笑顔が、なぜかゼノヴィアスの胸を締め付ける。
コホンッ!
咳払いしたゼノヴィアスは話を戻す。
「そ、それで、シャ、シャーロットに、欲しいものはないのか? 宝石とか……」
魔王城には、人間界では想像もつかないような宝物が山ほどある。こぶし大のダイヤモンドに、魔力で美しく輝く魔晶石――――。
「宝石なんて、いらないわ」
きっぱりとした拒絶に、ゼノヴィアスは驚いた。
え……?
「私はね」
シャーロットは店内を見回した。愛おしそうに、誇らしげに。
「この『ひだまりのフライパン』で、みんなの笑顔と触れ合える時間が好きなの」
夕暮れの光が、彼女を優しく染めている。
「エプロン姿に宝石なんて似合わないわ」
その言葉に、ゼノヴィアスは衝撃を受けた。
五百年の人生で、宝石を断った人間など初めてである。皆、富を、美を求めた。
だが、この少女は――――。
「だから」
シャーロットは悪戯っぽく微笑んだ。
「明日も来てくださいね? それが一番の贈り物です」
ゼノヴィアスの心臓が、大きく跳ねた。
「か、考えておこう……」
精一杯平静を装いながら、ゼノヴィアスは踵を返した。これ以上ここにいたら、何を口走るか分からない。
足早に扉へ向かう。
でも、心はもう決まっていた。
明日も、明後日も、その次も――――。
きっと来る。この温かい場所に。
◇
出ていくゼノヴィアスを見て、シャーロットはふと思い立った。
(そうだ、今日こそ)
昨日も気になっていたこと。あの人は一体どこへ帰るのか――――?
そっと扉を開け、外を覗く。
ゼノヴィアスは、数歩先を歩いていた。
次の瞬間――――。
ゼノヴィアスの姿が、すぅっとまるで霧のように薄れていく。
一瞬、振り返ったような気がした。フードの奥で、申し訳なさそうな微笑みが浮かんだような――――。
そして。
完全に、消えた。
「……え?」
シャーロットは目を擦る。
でも、そこには誰もいない。街灯に照らされた石畳があるだけ。
「ええ?」
狐につままれたような顔で、シャーロットは立ち尽くした。
魔法? いや、でも、そんな高度な転移魔法を使える人なんて――――。
「ゼノさん……一体、何者なの?」
夜風に問いかけても、答えは返ってこない。
あの人には、何か大きな秘密がある。
でも――――。
「まあ、いいか」
シャーロットは肩をすくめた。
秘密があっても、なくてもゼノは大切なお客様――――。
明日また、美味しいオムライスで笑顔になってもらえればいい。
きっと来てくれる。
そんな確信と共に、シャーロットは温かい店内へと戻っていった。
◇
それから数週間、ローゼンブルクには穏やかな時間が流れていた。
お昼前に開店し、夕陽と共に閉店する。その繰り返しの中で、『ひだまりのフライパン』は町の人々にとってなくてはならない場所になっていった。
子供たちの笑い声、商人たちの商談、恋人たちの甘い囁き――全てが、この小さなカフェに温かい彩りを添えていた。
しかし、運命の歯車は既に回り始めていた。
「なあ、聞いたか? 王都がひどいらしいぞ」
昼下がり、冒険者ギルドの男たちがテーブルを囲んで話していた。
「疫病だろ? もうダメかもしれんな」
「毎日何百人も死んでるって話だ」
「ローゼンブルクまで来ないといいんだが……」
通りかかったシャーロットの手から、皿が滑り落ちる――――。
パリィィィン!
白い陶器が床で砕け散る音が、まるで彼女の心が割れる音のように店内に響いた。
24. 不思議な花
「ほっ、本当ですか?!」
震える声で、シャーロットは男たちに向き直る。
「王都で……疫病が広がっているんですか?」
「あ、ああ、そうらしい」
シャーロットの勢いに押されながら、男の一人が答えた。
「俺の知り合いの商人が逃げてきたんだが、もう地獄絵図だって。死体を焼く煙で空が黒くなってるそうだ」
「そ、そんな……」
シャーロットの顔から血の気が引いていく。
ガクガクと膝が震え始めた。立っていられない。世界がぐるぐると回る――――。
シャーロットはへなへなとその場に崩れ落ちた。
(私が……私がちゃんとしていれば……)
胸が締め付けられる。息ができない。
(聖女に託したレシピはどうなったの? もっと詳しく説明すべきだった? 何か手違いが?)
頭の中で、無数の「もしも」が渦巻く。
でも――――。
(今更、何ができる?)
自分はもはや辺境に引っ込んでしまったただのカフェ店主。王都まで何日もかかる。今から青カビの培養を始めても、『天使様の薬』ができるのは何か月も先。
間に合わない。
何も、できない。
その残酷な現実が、シャーロットの心を打ちのめした。
「だ、大丈夫ですか!?」
ルカが血相を変えて駆け寄ってくる。
「ご、ごめん……」
シャーロットは震える手で額を押さえた。冷や汗が滲んでいる。
「ちょっと……上で休んでくる」
「えっ!? でも……」
「お願い、ルカ君」
懇願するような目で見つめられ、ルカはうなずくしかなかった。
「わ、分かりました。お店は任せてください」
シャーロットは、よろよろと階段を上っていく。
その背中はいつもの輝きを失い、罪の重さに押し潰されそうになっていた。
◇
夕方――――。
シャーロットが階段を降りてきた時、その顔は別人のようにやつれていた。
泣き腫らした目。青白い頬。震える唇。
「ごめん、大丈夫だった?」
掠れた声で尋ねる。
「お店は何とか回しました」
ルカが心配そうに答えた。
「でも、シャーロットさん……無理しないでください。顔色が……」
「大丈夫よ」
シャーロットは無理に微笑んだ。だが、その笑顔は今にも崩れそうだった。
「ありがとう、ルカ君」
震える手でエプロンの紐を結ぶ。いつもなら軽やかな動作が、今日は重い。
何とか厨房に立ったが、心はどこか遠くにあった。
(私が救えたかもしれない命……)
包丁を握る手が震える。
(私のせいで、今も誰かが……)
涙がこぼれそうになる。必死にこらえる。
やがて、陽が西に傾き始めた頃――――。
チリン。
聞き慣れたドアベルの音。
「いらっしゃい……」
振り返ると、そこにはいつものフードの男――ゼノが立っていた。
だが、今日は何か違う。
手に、不思議な花を持っている。
それは、この世のものとは思えない美しさだった。花弁が虹色に輝き、まるで宝石でできているかのよう。かすかに光を放ち、見る者の心を癒すような不思議な力を感じさせる。
「これを……」
ゼノは少し照れたように、その花をシャーロットに差し出した。
「シャーロットに」
シャーロットは震える手で、その花を受け取った。
「……ありがとう」
でも、声に力がなく、いつもの輝くような笑顔もない様子にゼノは眉をひそめた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「……何でもない」
シャーロットは俯いた。
「どうぞ、おかけになって」
花を花瓶に生けると、厨房に向かう。
だが――――。
手が震えて、卵がうまく割れない。
フライパンの火加減を間違える。
チーズを入れ忘れそうになる。
出来上がったオムライスは、いつもより固く、形も歪んでいた。
「……ごめんなさい」
皿を置きながら、シャーロットは謝る。
「今日は、うまくできなくて」
ゼノは黙って一口食べた。
確かに、いつもとは違う。でも――――。
「構わん」
優しい声で言った。
「シャーロットが作ったものなら、何でも美味い」
その言葉に、シャーロットの目に涙が滲んだ。
「何があった?」
シャーロットはゼノの真剣な眼差しにキュッと口を結ぶ。
「俺で良ければ、相談に乗るぞ」
シャーロットはぎゅっと目を閉じた。
言いたい。
この苦しみを、誰かに聞いてほしい。
でも――――。
彼に王都の惨状を話して、何になる?
彼を巻き込んで、どうする?
いろいろな思いがシャーロットの胸の中で渦巻く。
シャーロットはふと、花瓶でほのかに光を放っている美しい花に目をやった。
それはシャーロットを元気づけようとするかのように、静かに七色の光の微粒子を放っている。それはゼノのシャーロットへの想いを表しているかのようだった。
「あのね……ゼノさん……」
シャーロットが重い口を開いたその時だった――――。
ガァァァン!
扉が、まるで蹴破られたかのように激しく開いた。