21. 約束の時間

ー/ー



 二日目の営業も、嵐のような忙しさだった。

 朝から夕方までドアベルは鳴り止まず、店内は熱気に包まれ、シャーロットとルカは目の回るような時間を過ごした。

 でもそれは心地よい疲れを運んでくる。

「いやぁ、今日もすごかったですね!」

 最後のお客を見送り、ルカが額の汗を拭いながら笑った。その顔は疲労に染まっているが、充実感で輝いている。

「本当ね。でも、あなたのおかげで何とか乗り切れたわ」

 シャーロットは優しく微笑んだ。

 窓の外を見れば、夕陽が町を橙色に染め始めている。石畳が黄金に輝き、どこか遠くで家に帰る子供たちの笑い声が聞こえる。

 平和で、温かい、ローゼンブルクの夕暮れ。

「さて、ルカ君。皿洗い、悪いけどお願いできる?」

「もちろんです! 弟子として当然ですから!」

 ルカは袖をまくり上げ、意気揚々と流し台に向かった。一枚一枚、まるで宝物を扱うように丁寧に洗っていく。その真剣な横顔に、シャーロットは温かいものを感じた。

 カウンターに座り、帳簿を広げる。

 羽ペンを手に取り、今日の売り上げを記入していく。数字を追いながらも、シャーロットの心はどこか上の空だった。

 ――そう言えば。

 ふと、手が止まる。

 ――昨日、あの人が来たのも、ちょうどこの時間だった。

 心臓が、小さく跳ねる。

 まさか、という期待と、でも、という不安が入り混じる中、チラリと窓の外に目をやると――――。

「あら」

 思わず、口元が緩んだ。

 街灯の下、昨日と同じ場所に、同じようにフードを被った大きな影が立っているではないか。

 店の中を覗き込むように、でも入るのをためらうように、じっとたたずんでいる。

「ふふっ」

 シャーロットは小さく笑い声を漏らした。

 なんて可愛らしいのだろう。あんなに大きな体なのに、まるで初めてお店に入る子供のよう。

 タタタッと軽やかな足音を立てて、扉へと駆けた。

「いらっしゃいませ!」

 扉を開けた瞬間、男の体がビクリと震える。

「お待ちしてましたわ」

 シャーロットの眩しい笑顔に男は少し固まった。

「お、おぉ……」

 フードの奥から、戸惑ったような声が漏れる。

「来るって……言ったからな……」

 ぶっきらぼうな言葉。でも、シャーロットにはその奥にある照れが手に取るように分かった。

「嬉しいです。さぁどうぞ!」

 優しく男を店内へと導く。

 昨日と同じ、一番奥の席。男は慣れた様子でそこに腰を下ろした。

「今日も、オムライス?」

 シャーロットは後ろ手を組み、すこし下から覗き込むようにして、フードの奥の表情を伺う。

 その仕草の可愛らしさにあてられたように、男は思わず視線を逸らした。

「お、おぉ……任せる……」

 低い声が、かすかに震えている。

「ふふっ!」

 シャーロットは嬉しそうに微笑むと、くるりと振り返った。スカートがふわりと広がる。

「ルカ君! オムライス一丁!」

 明るい声が厨房に響く。

「え? オ、オムライスですか?」

 皿を洗っていたルカが、泡だらけの手で振り返った。目を白黒させている。

「チキンライスを炒め直すところだけお願い」

 シャーロットはウインクした。

「オムレツは私がやるわ」

「わ、わかりました!」

 ルカは慌てて手を拭き、フライパンを手に取った。緊張で手が震えているが、目は真剣そのもの。

 シャーロットはその様子を温かく見守りながら、自分も準備を始めた。

 卵を割る。
 かき混ぜる。
 フライパンにバターを落とす。

 いつもの手順。でも、これには特別な気持ちが込められている。

 ――あの人のために。

 なぜだろう。昨日会ったばかりの、名前も知らない人なのに。

 でも、この料理で少しでも幸せになってもらいたいと、心から思う。

「よし、できました!」

 ルカが誇らしげにチキンライスを差し出す。

「上出来よ」

 シャーロットは微笑んで、それを受け取った。

 そして――魔法が始まる。

 卵がフライパンの上で踊り、ふわふわのドレスを纏う。チキンライスを優しく包み込み、とろけるチーズが金色の糸を紡ぐ。

 仕上げのケチャップは、今日は特別な模様を描いた。

 スマイルマーク。

 ちょっとゆがんでしまったけど、でも確かにうれしそうな顔――――。

「お待たせしました」

 皿を置いた瞬間、男の肩が小さく震えた。

 スマイルマークに驚いたのだろうか――――?













22. 我の名は

 男はゆっくりと、スプーンを手に取る。

 一口――――。

 フードの奥で、小さく息を呑む音がした。

 そして、昨日よりも落ち着いて、でも一口一口を大切に味わうように食べ始めた。

 シャーロットは、その様子をそっと見守った。

 ルカも、皿洗いの手を止めて、固唾を呑んで見つめている。

 やがて――――。

「……美味い」

 低い声が、静かに響いた。

 たった一言。

 でも、その言葉には昨日よりも深い何かが込められていた。

 シャーロットの頬が、薔薇色に染まる。

「ふふっ。良かった」

 窓の外では、夕陽が完全に沈もうとしている。


         ◇


 空になった皿を前に、ゼノヴィアスは放心したように座っていた。

 まるで、美しい夢から覚めたくない子供のように。

 シャーロットは、そっと空になったグラスを手に取った――――。

 グラスに注ぐ水の音が、静かな店内に心地よく響く。

「どうぞ」

 優しく差し出されたグラスを、ゼノヴィアスはぶっきらぼうに手に取った。冷たい水が喉を通り、ようやく現実に戻ってきたようだ。

「カフェは……、あまり行かれないんですか?」

 シャーロットが柔らかく尋ねる。

「こ、ここが……」

 ゼノヴィアスの声が震えた。

「初めて……だ」

 その告白に、シャーロットの目が優しく細められた。

「ふふっ、そうだったんですね」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「カフェって、いいところでしょう? これからカフェ巡りをされてもいいかもしれませんね」

 明るく提案するシャーロットだったが――――。

「わが国には……カフェなどない」

 低い声には、どこか寂しげな響きがあった。

「え?」

 シャーロットは目を丸くした。

「カフェが……ない?」

「そうだ」

 ゼノヴィアスは深くため息をついた。

「こんな洒落た文化など……我が国にはない。そういう……国なのだ」

 言葉の端々に、何か複雑な感情が滲んでいる。

「ふぅん……」

 シャーロットは首を傾げた。そして、無邪気に続けた。

「その国の王様は、何を考えているのでしょうね? こんな素敵な場所を作らないなんて……」

 ブッ――――。

 ゼノヴィアスが飲みかけていた水を吹き出しそうになった。

 ゴホッゴホッ!

 激しくむせる。

(まさに、その王が俺なのだが……)

 だが、そんなことは言えるはずもない。それにどんな言葉も自分への批判にしかならない。五百年の治世で、カフェなど興味すら持たなかった自分への。

「だ、大丈夫ですか?」

 シャーロットが心配そうに背中をさする。またしても、あの温かい手が。

「カ、カフェについて、ここで勉強させてもらおう……」

 苦し紛れにゼノヴィアスは呟いた。

「ふふっ、ぜひ!」

 シャーロットは満面の笑みを浮かべた。

「お国にも、カフェを広めてくださいね」

「あぁ……」

 ゼノヴィアスは苦笑した。

 魔王がカフェを作る。想像するだけで、部下たちの困惑した顔が目に浮かぶ。

 でも――――。

(悪くない、かもしれない)


     ◇


 やがて、ゼノヴィアスは立ち上がった。

 今日も金貨を置こうとして、先払いしたことを思い出し――ふと、足を止めた。

「お、お前……」

 振り返り、シャーロットを見つめる。

「何か欲しいものは、ないか?」

「シャーロットです」

「え……?」

 ゼノヴィアスは戸惑った。

「『お前』じゃなくて」

 シャーロットは少し頬を膨らませた。可愛らしい抗議の表情。

「私の名前は、シャーロット。覚えてくださいね?」

 その瞬間、ゼノヴィアスの時が止まった。

 シャーロット――――。

 その名前が、深く深くゼノヴィアスの心に刻まれる。

「シャ……シャーロット……」

 恐る恐る、その名を口にする。まるで、壊れやすい宝物を扱うように。

「いい……名だ」

 心からの賛辞だった。ありふれた名前、でもなぜか美しい響きが心にしみてくる。

「ありがとうございます」

 シャーロットは嬉しそうに微笑んだ。

 そして――――。

「お客さんは?」

「え?」

「お客さんのお名前ですよぉ」

 にっこりと笑いながら、シャーロットはゼノヴィアスを見上げる。

 ゼノヴィアスは困った。

 魔王ゼノヴィアス。その名を名乗れば、全てが終わる。この温かい時間も、この優しい笑顔も――――。

 だが、偽りの名を告げることもできない。偽名を騙るなど魔王としてのプライドが許さないのだ。



















23. 崩れゆく平穏

「わ、我は……」

 ゼノヴィアスは必死に考えた。そして――――。

「ゼ、ゼノと……呼ぶことを、許そう」

 精一杯の妥協案だった。本名の一部だけ。嘘ではない、が、真実でもない。

「はははっ!」

 シャーロットが明るく笑った。

「許されちゃった!」

 その無邪気な反応に、ゼノヴィアスは戸惑う。『許す』の何がまずかっただろうか――――?

「ゼノさん、今日もご来店ありがとうございます」

 シャーロットはにっこりとほほ笑んだ。その笑顔が、なぜかゼノヴィアスの胸を締め付ける。

 コホンッ!

 咳払いしたゼノヴィアスは話を戻す。

「そ、それで、シャ、シャーロットに、欲しいものはないのか? 宝石とか……」

 魔王城には、人間界では想像もつかないような宝物が山ほどある。こぶし大のダイヤモンドに、魔力で美しく輝く魔晶石――――。

「宝石なんて、いらないわ」

 きっぱりとした拒絶に、ゼノヴィアスは驚いた。

 え……?

「私はね」

 シャーロットは店内を見回した。愛おしそうに、誇らしげに。

「この『ひだまりのフライパン』で、みんなの笑顔と触れ合える時間が好きなの」

 夕暮れの光が、彼女を優しく染めている。

「エプロン姿に宝石なんて似合わないわ」

 その言葉に、ゼノヴィアスは衝撃を受けた。

 五百年の人生で、宝石を断った人間など初めてである。皆、富を、美を求めた。

 だが、この少女は――――。

「だから」

 シャーロットは悪戯っぽく微笑んだ。

「明日も来てくださいね? それが一番の贈り物です」

 ゼノヴィアスの心臓が、大きく跳ねた。

「か、考えておこう……」

 精一杯平静を装いながら、ゼノヴィアスは踵を返した。これ以上ここにいたら、何を口走るか分からない。

 足早に扉へ向かう。

 でも、心はもう決まっていた。

 明日も、明後日も、その次も――――。

 きっと来る。この温かい場所に。


     ◇


 出ていくゼノヴィアスを見て、シャーロットはふと思い立った。

(そうだ、今日こそ)

 昨日も気になっていたこと。あの人は一体どこへ帰るのか――――?

 そっと扉を開け、外を覗く。

 ゼノヴィアスは、数歩先を歩いていた。

 次の瞬間――――。

 ゼノヴィアスの姿が、すぅっとまるで霧のように薄れていく。

 一瞬、振り返ったような気がした。フードの奥で、申し訳なさそうな微笑みが浮かんだような――――。

 そして。

 完全に、消えた。

「……え?」

 シャーロットは目を擦る。

 でも、そこには誰もいない。街灯に照らされた石畳があるだけ。

「ええ?」

 狐につままれたような顔で、シャーロットは立ち尽くした。

 魔法? いや、でも、そんな高度な転移魔法を使える人なんて――――。

「ゼノさん……一体、何者なの?」

 夜風に問いかけても、答えは返ってこない。

 あの人には、何か大きな秘密がある。

 でも――――。

「まあ、いいか」

 シャーロットは肩をすくめた。

 秘密があっても、なくてもゼノは大切なお客様――――。

 明日また、美味しいオムライスで笑顔になってもらえればいい。

 きっと来てくれる。

 そんな確信と共に、シャーロットは温かい店内へと戻っていった。


         ◇


 それから数週間、ローゼンブルクには穏やかな時間が流れていた。

 お昼前に開店し、夕陽と共に閉店する。その繰り返しの中で、『ひだまりのフライパン』は町の人々にとってなくてはならない場所になっていった。

 子供たちの笑い声、商人たちの商談、恋人たちの甘い囁き――全てが、この小さなカフェに温かい彩りを添えていた。

 しかし、運命の歯車は既に回り始めていた。

「なあ、聞いたか? 王都がひどいらしいぞ」

 昼下がり、冒険者ギルドの男たちがテーブルを囲んで話していた。

「疫病だろ? もうダメかもしれんな」

「毎日何百人も死んでるって話だ」

「ローゼンブルクまで来ないといいんだが……」

 通りかかったシャーロットの手から、皿が滑り落ちる――――。

 パリィィィン!

 白い陶器が床で砕け散る音が、まるで彼女の心が割れる音のように店内に響いた。


















24. 不思議な花

「ほっ、本当ですか?!」

 震える声で、シャーロットは男たちに向き直る。

「王都で……疫病が広がっているんですか?」

「あ、ああ、そうらしい」

 シャーロットの勢いに押されながら、男の一人が答えた。

「俺の知り合いの商人が逃げてきたんだが、もう地獄絵図だって。死体を焼く煙で空が黒くなってるそうだ」

「そ、そんな……」

 シャーロットの顔から血の気が引いていく。

 ガクガクと膝が震え始めた。立っていられない。世界がぐるぐると回る――――。

 シャーロットはへなへなとその場に崩れ落ちた。

(私が……私がちゃんとしていれば……)

 胸が締め付けられる。息ができない。

(聖女に託したレシピはどうなったの? もっと詳しく説明すべきだった? 何か手違いが?)

 頭の中で、無数の「もしも」が渦巻く。

 でも――――。

(今更、何ができる?)

 自分はもはや辺境に引っ込んでしまったただのカフェ店主。王都まで何日もかかる。今から青カビの培養を始めても、『天使様の薬』ができるのは何か月も先。

 間に合わない。

 何も、できない。

 その残酷な現実が、シャーロットの心を打ちのめした。

「だ、大丈夫ですか!?」

 ルカが血相を変えて駆け寄ってくる。

「ご、ごめん……」

 シャーロットは震える手で額を押さえた。冷や汗が滲んでいる。

「ちょっと……上で休んでくる」

「えっ!? でも……」

「お願い、ルカ君」

 懇願するような目で見つめられ、ルカはうなずくしかなかった。

「わ、分かりました。お店は任せてください」

 シャーロットは、よろよろと階段を上っていく。

 その背中はいつもの輝きを失い、罪の重さに押し潰されそうになっていた。


       ◇


 夕方――――。

 シャーロットが階段を降りてきた時、その顔は別人のようにやつれていた。

 泣き腫らした目。青白い頬。震える唇。

「ごめん、大丈夫だった?」

 掠れた声で尋ねる。

「お店は何とか回しました」

 ルカが心配そうに答えた。

「でも、シャーロットさん……無理しないでください。顔色が……」

「大丈夫よ」

 シャーロットは無理に微笑んだ。だが、その笑顔は今にも崩れそうだった。

「ありがとう、ルカ君」

 震える手でエプロンの紐を結ぶ。いつもなら軽やかな動作が、今日は重い。

 何とか厨房に立ったが、心はどこか遠くにあった。

(私が救えたかもしれない命……)

 包丁を握る手が震える。

(私のせいで、今も誰かが……)

 涙がこぼれそうになる。必死にこらえる。

 やがて、陽が西に傾き始めた頃――――。

 チリン。

 聞き慣れたドアベルの音。

「いらっしゃい……」

 振り返ると、そこにはいつものフードの男――ゼノが立っていた。

 だが、今日は何か違う。

 手に、不思議な花を持っている。

 それは、この世のものとは思えない美しさだった。花弁が虹色に輝き、まるで宝石でできているかのよう。かすかに光を放ち、見る者の心を癒すような不思議な力を感じさせる。

「これを……」

 ゼノは少し照れたように、その花をシャーロットに差し出した。

「シャーロットに」

 シャーロットは震える手で、その花を受け取った。

「……ありがとう」

 でも、声に力がなく、いつもの輝くような笑顔もない様子にゼノは眉をひそめた。

「どうした? 顔色が悪いぞ」

「……何でもない」

 シャーロットは俯いた。

「どうぞ、おかけになって」

 花を花瓶に生けると、厨房に向かう。

 だが――――。

 手が震えて、卵がうまく割れない。
 フライパンの火加減を間違える。
 チーズを入れ忘れそうになる。

 出来上がったオムライスは、いつもより固く、形も歪んでいた。

「……ごめんなさい」

 皿を置きながら、シャーロットは謝る。

「今日は、うまくできなくて」

 ゼノは黙って一口食べた。

 確かに、いつもとは違う。でも――――。

「構わん」

 優しい声で言った。

「シャーロットが作ったものなら、何でも美味い」

 その言葉に、シャーロットの目に涙が滲んだ。

「何があった?」

 シャーロットはゼノの真剣な眼差しにキュッと口を結ぶ。

「俺で良ければ、相談に乗るぞ」

 シャーロットはぎゅっと目を閉じた。

 言いたい。

 この苦しみを、誰かに聞いてほしい。

 でも――――。

 彼に王都の惨状を話して、何になる?

 彼を巻き込んで、どうする?

 いろいろな思いがシャーロットの胸の中で渦巻く。

 シャーロットはふと、花瓶でほのかに光を放っている美しい花に目をやった。

 それはシャーロットを元気づけようとするかのように、静かに七色の光の微粒子を放っている。それはゼノのシャーロットへの想いを表しているかのようだった。

「あのね……ゼノさん……」

 シャーロットが重い口を開いたその時だった――――。

 ガァァァン!

 扉が、まるで蹴破られたかのように激しく開いた。



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 二日目の営業も、嵐のような忙しさだった。
 朝から夕方までドアベルは鳴り止まず、店内は熱気に包まれ、シャーロットとルカは目の回るような時間を過ごした。
 でもそれは心地よい疲れを運んでくる。
「いやぁ、今日もすごかったですね!」
 最後のお客を見送り、ルカが額の汗を拭いながら笑った。その顔は疲労に染まっているが、充実感で輝いている。
「本当ね。でも、あなたのおかげで何とか乗り切れたわ」
 シャーロットは優しく微笑んだ。
 窓の外を見れば、夕陽が町を橙色に染め始めている。石畳が黄金に輝き、どこか遠くで家に帰る子供たちの笑い声が聞こえる。
 平和で、温かい、ローゼンブルクの夕暮れ。
「さて、ルカ君。皿洗い、悪いけどお願いできる?」
「もちろんです! 弟子として当然ですから!」
 ルカは袖をまくり上げ、意気揚々と流し台に向かった。一枚一枚、まるで宝物を扱うように丁寧に洗っていく。その真剣な横顔に、シャーロットは温かいものを感じた。
 カウンターに座り、帳簿を広げる。
 羽ペンを手に取り、今日の売り上げを記入していく。数字を追いながらも、シャーロットの心はどこか上の空だった。
 ――そう言えば。
 ふと、手が止まる。
 ――昨日、あの人が来たのも、ちょうどこの時間だった。
 心臓が、小さく跳ねる。
 まさか、という期待と、でも、という不安が入り混じる中、チラリと窓の外に目をやると――――。
「あら」
 思わず、口元が緩んだ。
 街灯の下、昨日と同じ場所に、同じようにフードを被った大きな影が立っているではないか。
 店の中を覗き込むように、でも入るのをためらうように、じっとたたずんでいる。
「ふふっ」
 シャーロットは小さく笑い声を漏らした。
 なんて可愛らしいのだろう。あんなに大きな体なのに、まるで初めてお店に入る子供のよう。
 タタタッと軽やかな足音を立てて、扉へと駆けた。
「いらっしゃいませ!」
 扉を開けた瞬間、男の体がビクリと震える。
「お待ちしてましたわ」
 シャーロットの眩しい笑顔に男は少し固まった。
「お、おぉ……」
 フードの奥から、戸惑ったような声が漏れる。
「来るって……言ったからな……」
 ぶっきらぼうな言葉。でも、シャーロットにはその奥にある照れが手に取るように分かった。
「嬉しいです。さぁどうぞ!」
 優しく男を店内へと導く。
 昨日と同じ、一番奥の席。男は慣れた様子でそこに腰を下ろした。
「今日も、オムライス?」
 シャーロットは後ろ手を組み、すこし下から覗き込むようにして、フードの奥の表情を伺う。
 その仕草の可愛らしさにあてられたように、男は思わず視線を逸らした。
「お、おぉ……任せる……」
 低い声が、かすかに震えている。
「ふふっ!」
 シャーロットは嬉しそうに微笑むと、くるりと振り返った。スカートがふわりと広がる。
「ルカ君! オムライス一丁!」
 明るい声が厨房に響く。
「え? オ、オムライスですか?」
 皿を洗っていたルカが、泡だらけの手で振り返った。目を白黒させている。
「チキンライスを炒め直すところだけお願い」
 シャーロットはウインクした。
「オムレツは私がやるわ」
「わ、わかりました!」
 ルカは慌てて手を拭き、フライパンを手に取った。緊張で手が震えているが、目は真剣そのもの。
 シャーロットはその様子を温かく見守りながら、自分も準備を始めた。
 卵を割る。
 かき混ぜる。
 フライパンにバターを落とす。
 いつもの手順。でも、これには特別な気持ちが込められている。
 ――あの人のために。
 なぜだろう。昨日会ったばかりの、名前も知らない人なのに。
 でも、この料理で少しでも幸せになってもらいたいと、心から思う。
「よし、できました!」
 ルカが誇らしげにチキンライスを差し出す。
「上出来よ」
 シャーロットは微笑んで、それを受け取った。
 そして――魔法が始まる。
 卵がフライパンの上で踊り、ふわふわのドレスを纏う。チキンライスを優しく包み込み、とろけるチーズが金色の糸を紡ぐ。
 仕上げのケチャップは、今日は特別な模様を描いた。
 スマイルマーク。
 ちょっとゆがんでしまったけど、でも確かにうれしそうな顔――――。
「お待たせしました」
 皿を置いた瞬間、男の肩が小さく震えた。
 スマイルマークに驚いたのだろうか――――?
22. 我の名は
 男はゆっくりと、スプーンを手に取る。
 一口――――。
 フードの奥で、小さく息を呑む音がした。
 そして、昨日よりも落ち着いて、でも一口一口を大切に味わうように食べ始めた。
 シャーロットは、その様子をそっと見守った。
 ルカも、皿洗いの手を止めて、固唾を呑んで見つめている。
 やがて――――。
「……美味い」
 低い声が、静かに響いた。
 たった一言。
 でも、その言葉には昨日よりも深い何かが込められていた。
 シャーロットの頬が、薔薇色に染まる。
「ふふっ。良かった」
 窓の外では、夕陽が完全に沈もうとしている。
         ◇
 空になった皿を前に、ゼノヴィアスは放心したように座っていた。
 まるで、美しい夢から覚めたくない子供のように。
 シャーロットは、そっと空になったグラスを手に取った――――。
 グラスに注ぐ水の音が、静かな店内に心地よく響く。
「どうぞ」
 優しく差し出されたグラスを、ゼノヴィアスはぶっきらぼうに手に取った。冷たい水が喉を通り、ようやく現実に戻ってきたようだ。
「カフェは……、あまり行かれないんですか?」
 シャーロットが柔らかく尋ねる。
「こ、ここが……」
 ゼノヴィアスの声が震えた。
「初めて……だ」
 その告白に、シャーロットの目が優しく細められた。
「ふふっ、そうだったんですね」
 彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「カフェって、いいところでしょう? これからカフェ巡りをされてもいいかもしれませんね」
 明るく提案するシャーロットだったが――――。
「わが国には……カフェなどない」
 低い声には、どこか寂しげな響きがあった。
「え?」
 シャーロットは目を丸くした。
「カフェが……ない?」
「そうだ」
 ゼノヴィアスは深くため息をついた。
「こんな洒落た文化など……我が国にはない。そういう……国なのだ」
 言葉の端々に、何か複雑な感情が滲んでいる。
「ふぅん……」
 シャーロットは首を傾げた。そして、無邪気に続けた。
「その国の王様は、何を考えているのでしょうね? こんな素敵な場所を作らないなんて……」
 ブッ――――。
 ゼノヴィアスが飲みかけていた水を吹き出しそうになった。
 ゴホッゴホッ!
 激しくむせる。
(まさに、その王が俺なのだが……)
 だが、そんなことは言えるはずもない。それにどんな言葉も自分への批判にしかならない。五百年の治世で、カフェなど興味すら持たなかった自分への。
「だ、大丈夫ですか?」
 シャーロットが心配そうに背中をさする。またしても、あの温かい手が。
「カ、カフェについて、ここで勉強させてもらおう……」
 苦し紛れにゼノヴィアスは呟いた。
「ふふっ、ぜひ!」
 シャーロットは満面の笑みを浮かべた。
「お国にも、カフェを広めてくださいね」
「あぁ……」
 ゼノヴィアスは苦笑した。
 魔王がカフェを作る。想像するだけで、部下たちの困惑した顔が目に浮かぶ。
 でも――――。
(悪くない、かもしれない)
     ◇
 やがて、ゼノヴィアスは立ち上がった。
 今日も金貨を置こうとして、先払いしたことを思い出し――ふと、足を止めた。
「お、お前……」
 振り返り、シャーロットを見つめる。
「何か欲しいものは、ないか?」
「シャーロットです」
「え……?」
 ゼノヴィアスは戸惑った。
「『お前』じゃなくて」
 シャーロットは少し頬を膨らませた。可愛らしい抗議の表情。
「私の名前は、シャーロット。覚えてくださいね?」
 その瞬間、ゼノヴィアスの時が止まった。
 シャーロット――――。
 その名前が、深く深くゼノヴィアスの心に刻まれる。
「シャ……シャーロット……」
 恐る恐る、その名を口にする。まるで、壊れやすい宝物を扱うように。
「いい……名だ」
 心からの賛辞だった。ありふれた名前、でもなぜか美しい響きが心にしみてくる。
「ありがとうございます」
 シャーロットは嬉しそうに微笑んだ。
 そして――――。
「お客さんは?」
「え?」
「お客さんのお名前ですよぉ」
 にっこりと笑いながら、シャーロットはゼノヴィアスを見上げる。
 ゼノヴィアスは困った。
 魔王ゼノヴィアス。その名を名乗れば、全てが終わる。この温かい時間も、この優しい笑顔も――――。
 だが、偽りの名を告げることもできない。偽名を騙るなど魔王としてのプライドが許さないのだ。
23. 崩れゆく平穏
「わ、我は……」
 ゼノヴィアスは必死に考えた。そして――――。
「ゼ、ゼノと……呼ぶことを、許そう」
 精一杯の妥協案だった。本名の一部だけ。嘘ではない、が、真実でもない。
「はははっ!」
 シャーロットが明るく笑った。
「許されちゃった!」
 その無邪気な反応に、ゼノヴィアスは戸惑う。『許す』の何がまずかっただろうか――――?
「ゼノさん、今日もご来店ありがとうございます」
 シャーロットはにっこりとほほ笑んだ。その笑顔が、なぜかゼノヴィアスの胸を締め付ける。
 コホンッ!
 咳払いしたゼノヴィアスは話を戻す。
「そ、それで、シャ、シャーロットに、欲しいものはないのか? 宝石とか……」
 魔王城には、人間界では想像もつかないような宝物が山ほどある。こぶし大のダイヤモンドに、魔力で美しく輝く魔晶石――――。
「宝石なんて、いらないわ」
 きっぱりとした拒絶に、ゼノヴィアスは驚いた。
 え……?
「私はね」
 シャーロットは店内を見回した。愛おしそうに、誇らしげに。
「この『ひだまりのフライパン』で、みんなの笑顔と触れ合える時間が好きなの」
 夕暮れの光が、彼女を優しく染めている。
「エプロン姿に宝石なんて似合わないわ」
 その言葉に、ゼノヴィアスは衝撃を受けた。
 五百年の人生で、宝石を断った人間など初めてである。皆、富を、美を求めた。
 だが、この少女は――――。
「だから」
 シャーロットは悪戯っぽく微笑んだ。
「明日も来てくださいね? それが一番の贈り物です」
 ゼノヴィアスの心臓が、大きく跳ねた。
「か、考えておこう……」
 精一杯平静を装いながら、ゼノヴィアスは踵を返した。これ以上ここにいたら、何を口走るか分からない。
 足早に扉へ向かう。
 でも、心はもう決まっていた。
 明日も、明後日も、その次も――――。
 きっと来る。この温かい場所に。
     ◇
 出ていくゼノヴィアスを見て、シャーロットはふと思い立った。
(そうだ、今日こそ)
 昨日も気になっていたこと。あの人は一体どこへ帰るのか――――?
 そっと扉を開け、外を覗く。
 ゼノヴィアスは、数歩先を歩いていた。
 次の瞬間――――。
 ゼノヴィアスの姿が、すぅっとまるで霧のように薄れていく。
 一瞬、振り返ったような気がした。フードの奥で、申し訳なさそうな微笑みが浮かんだような――――。
 そして。
 完全に、消えた。
「……え?」
 シャーロットは目を擦る。
 でも、そこには誰もいない。街灯に照らされた石畳があるだけ。
「ええ?」
 狐につままれたような顔で、シャーロットは立ち尽くした。
 魔法? いや、でも、そんな高度な転移魔法を使える人なんて――――。
「ゼノさん……一体、何者なの?」
 夜風に問いかけても、答えは返ってこない。
 あの人には、何か大きな秘密がある。
 でも――――。
「まあ、いいか」
 シャーロットは肩をすくめた。
 秘密があっても、なくてもゼノは大切なお客様――――。
 明日また、美味しいオムライスで笑顔になってもらえればいい。
 きっと来てくれる。
 そんな確信と共に、シャーロットは温かい店内へと戻っていった。
         ◇
 それから数週間、ローゼンブルクには穏やかな時間が流れていた。
 お昼前に開店し、夕陽と共に閉店する。その繰り返しの中で、『ひだまりのフライパン』は町の人々にとってなくてはならない場所になっていった。
 子供たちの笑い声、商人たちの商談、恋人たちの甘い囁き――全てが、この小さなカフェに温かい彩りを添えていた。
 しかし、運命の歯車は既に回り始めていた。
「なあ、聞いたか? 王都がひどいらしいぞ」
 昼下がり、冒険者ギルドの男たちがテーブルを囲んで話していた。
「疫病だろ? もうダメかもしれんな」
「毎日何百人も死んでるって話だ」
「ローゼンブルクまで来ないといいんだが……」
 通りかかったシャーロットの手から、皿が滑り落ちる――――。
 パリィィィン!
 白い陶器が床で砕け散る音が、まるで彼女の心が割れる音のように店内に響いた。
24. 不思議な花
「ほっ、本当ですか?!」
 震える声で、シャーロットは男たちに向き直る。
「王都で……疫病が広がっているんですか?」
「あ、ああ、そうらしい」
 シャーロットの勢いに押されながら、男の一人が答えた。
「俺の知り合いの商人が逃げてきたんだが、もう地獄絵図だって。死体を焼く煙で空が黒くなってるそうだ」
「そ、そんな……」
 シャーロットの顔から血の気が引いていく。
 ガクガクと膝が震え始めた。立っていられない。世界がぐるぐると回る――――。
 シャーロットはへなへなとその場に崩れ落ちた。
(私が……私がちゃんとしていれば……)
 胸が締め付けられる。息ができない。
(聖女に託したレシピはどうなったの? もっと詳しく説明すべきだった? 何か手違いが?)
 頭の中で、無数の「もしも」が渦巻く。
 でも――――。
(今更、何ができる?)
 自分はもはや辺境に引っ込んでしまったただのカフェ店主。王都まで何日もかかる。今から青カビの培養を始めても、『天使様の薬』ができるのは何か月も先。
 間に合わない。
 何も、できない。
 その残酷な現実が、シャーロットの心を打ちのめした。
「だ、大丈夫ですか!?」
 ルカが血相を変えて駆け寄ってくる。
「ご、ごめん……」
 シャーロットは震える手で額を押さえた。冷や汗が滲んでいる。
「ちょっと……上で休んでくる」
「えっ!? でも……」
「お願い、ルカ君」
 懇願するような目で見つめられ、ルカはうなずくしかなかった。
「わ、分かりました。お店は任せてください」
 シャーロットは、よろよろと階段を上っていく。
 その背中はいつもの輝きを失い、罪の重さに押し潰されそうになっていた。
       ◇
 夕方――――。
 シャーロットが階段を降りてきた時、その顔は別人のようにやつれていた。
 泣き腫らした目。青白い頬。震える唇。
「ごめん、大丈夫だった?」
 掠れた声で尋ねる。
「お店は何とか回しました」
 ルカが心配そうに答えた。
「でも、シャーロットさん……無理しないでください。顔色が……」
「大丈夫よ」
 シャーロットは無理に微笑んだ。だが、その笑顔は今にも崩れそうだった。
「ありがとう、ルカ君」
 震える手でエプロンの紐を結ぶ。いつもなら軽やかな動作が、今日は重い。
 何とか厨房に立ったが、心はどこか遠くにあった。
(私が救えたかもしれない命……)
 包丁を握る手が震える。
(私のせいで、今も誰かが……)
 涙がこぼれそうになる。必死にこらえる。
 やがて、陽が西に傾き始めた頃――――。
 チリン。
 聞き慣れたドアベルの音。
「いらっしゃい……」
 振り返ると、そこにはいつものフードの男――ゼノが立っていた。
 だが、今日は何か違う。
 手に、不思議な花を持っている。
 それは、この世のものとは思えない美しさだった。花弁が虹色に輝き、まるで宝石でできているかのよう。かすかに光を放ち、見る者の心を癒すような不思議な力を感じさせる。
「これを……」
 ゼノは少し照れたように、その花をシャーロットに差し出した。
「シャーロットに」
 シャーロットは震える手で、その花を受け取った。
「……ありがとう」
 でも、声に力がなく、いつもの輝くような笑顔もない様子にゼノは眉をひそめた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「……何でもない」
 シャーロットは俯いた。
「どうぞ、おかけになって」
 花を花瓶に生けると、厨房に向かう。
 だが――――。
 手が震えて、卵がうまく割れない。
 フライパンの火加減を間違える。
 チーズを入れ忘れそうになる。
 出来上がったオムライスは、いつもより固く、形も歪んでいた。
「……ごめんなさい」
 皿を置きながら、シャーロットは謝る。
「今日は、うまくできなくて」
 ゼノは黙って一口食べた。
 確かに、いつもとは違う。でも――――。
「構わん」
 優しい声で言った。
「シャーロットが作ったものなら、何でも美味い」
 その言葉に、シャーロットの目に涙が滲んだ。
「何があった?」
 シャーロットはゼノの真剣な眼差しにキュッと口を結ぶ。
「俺で良ければ、相談に乗るぞ」
 シャーロットはぎゅっと目を閉じた。
 言いたい。
 この苦しみを、誰かに聞いてほしい。
 でも――――。
 彼に王都の惨状を話して、何になる?
 彼を巻き込んで、どうする?
 いろいろな思いがシャーロットの胸の中で渦巻く。
 シャーロットはふと、花瓶でほのかに光を放っている美しい花に目をやった。
 それはシャーロットを元気づけようとするかのように、静かに七色の光の微粒子を放っている。それはゼノのシャーロットへの想いを表しているかのようだった。
「あのね……ゼノさん……」
 シャーロットが重い口を開いたその時だった――――。
 ガァァァン!
 扉が、まるで蹴破られたかのように激しく開いた。