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10.騒動の結末

ー/ー



 翌日はキャンパスチームの巡回だったので、ホクトが夜まで居残っていた。
 ホクトは自分から図々しい態度はとらないが、居れば必ずシノさんが夕食に招くし、ホクトが夕餉に招かれると必ずエビセンもそこに参加してくるようになっていて、更に今はエビセンがコッチに来てしまうと、一人で部屋にいたくないコグマまでくっついてくる。

 キャンパスチームの三人は(だれ)も幽霊に動じてないし、体力にも自信ありげな体育会系の若者揃いだし、何があっても対処出来るだろう。
 そう期待していた。
 期待通りに三人は、八時から十二時までの間、一時間ごとに階段を上から下まで見回ってくれた。

 だが、何事も起きなかった。

 そしてとうとう今夜は、マエストロチームの巡回当番になってしまった。
 シノさんの家のリビングで夕食後のコーヒーを飲みながら、俺は心の底から、どうして前日のチームの時に出てくれないんだ幽霊!! と思っていた。
 たぶんコグマも思ってるだろう。

「んじゃケイちゃん、そろそろ見回ってくら〜」

 と言ってシノさんが立ち上がった時、俺もコグマも処刑台に連れて行かれる死刑囚みたいになっていた。
 すると俺らの使ったカップを盆に集めていた敬一クンが、ふと思い出したように言った。

「そういえば兄さん、昨日俺達が巡回した時、二階の踊り場のところでゴキブリが出ました」
「うええええ!」
「大丈夫、それは海老坂が退治しました。でもまた出るかもしれないから、驚いて階段踏み外したりしないように気をつけて」

 今の今まで鼻歌まじりだったシノさんが、急に尻込みをしてしゃがみ込む。

「うええええ! ヤダヤダヤダ! 行きたくなーい!」
「兄さん、大丈夫だから。ほら、多聞さんに殺虫剤持ってもらいますから」
「ううう…、じゃあレン、オマエ先頭行け! そんでGが出たら、速攻でぶっ殺せ! コグマは俺の(まえ)で、G避けの盾になっとれ!」

 そう言って、俺とコグマを(まえ)に押し出した。

 幽霊は鼻で笑い飛ばせるシノさんだが、虫類全般には非常に弱く、特にゴキブリは "ゴキブリ" と口に出すのも避けてるし、絵に描いてあるのすら怖気て逃げる。
 だから殺虫剤もボトルの絵を嫌がって、自分では絶対に持たないし、使えないのだ。

 悪気のない敬一クンのお陰で、マエストロチームは最悪のフォーメーションとなり、俺らはそれぞれの理由でおっかなビックリ部屋を出た。
 そして五階から下へ()りて()ったのだが、何しろガクブルになってるので、膝なんかもうカクカクで、階段を数段()りるだけでも死にそうだった。

 だけど俺は、階段を()り始めた途端にまたしても、先日と同じ違和感を覚えてしまったのだ。
 ココロの中で「ナイナイナイ! アリエナイ!」と唱えていても、無意識のうちに目がエレベーターシャフトの中を確かめてしまい、四階にボックスが止まっていることを再確認してしまう。
 更に、カクカクの膝でそろそろと五階と四階の間の踊り場まで()りてきたところで、四階の踊り場になんだか判らない、白っぽいモノがスゥ〜と動いているのを見てしまった。
 瞬間、俺は悲鳴も出せず、凍りついて動けなくなった。

「なんだっ、Gか! 早く殺るんじゃーっ!!」

 言いながらシノさんが、たぶんコグマの背中をド突き飛ばしたのだろう。
 ムッキムキで俺の倍ほど幅広でデカいコグマに全力でのしかかられ、手に殺虫剤の缶とハエ叩きを握っていた俺はエレベーターシャフトの金属枠すら掴むことが出来ずに、重力に引っ張られた。

「うわーーーーー!!」
「しぬーーーーー!!」

 またもや美観のカケラもない男の悲鳴二重奏となって、五階と四階の間にある踊り場から四階のホールまでのコンクリ階段を、ドドッと雪崩落ちた。
 そこらじゅうをメッチャぶつけまくり、コグマに潰されて息も出来ない。
 がしかし、人間そんなことじゃ死にも気絶もしなくって、ただ死ぬほど痛かっただけだ。
 そして呻きながら目を上げると、なんと白っぽいオバケがすぐ目の(まえ)に立っている。

「ぎゃーーーーー!! 出たーーーーー!!」

 コグマに潰されて息も出来ないはずなのに、それはもう火事場のナントカで、俺は声の限りに叫んでいた。

「一体何の騒ぎだね! このアパートの住人は、どうして皆叫んでばかりいるのかね!」

 俺の悲鳴をビシっと遮り、軍人みたいな命令口調の知らない声に叱り飛ばされた。

「あれ〜、セイちゃん? いつの間に戻ってたんだ?」

 急に通常モードに戻ったシノさんの声に、俺は恐る恐る瞼を開いた。
 目のマエには、白っぽいスラックスを履いた足があり、その上には腰に手を当てたウルトラマンポーズの見知らぬ男が、俺を見下ろしながら睨み付けている。

「まだ、戻ってはいない。それよりも、なぜ階段の上から人間が二人も雪崩れ落ちてきたのか、説明をしてもらいたい」
「ユーレーが出るってコイツらがゆーから、自警してたんだヨ」

 シノさんはガクブルになって丸まってるコグマと、同じくらいガクブルになって潰れている俺を見て、それから正面の真っ白な詰襟を着た、海軍の将校みたいな男に視線を当てた。

「どーやら、ユーレーの正体見たり…ってオチだな」

 そう言って、ニヒヒと笑った。

§

 騒ぎを聞きつけて部屋から出てきたエビセンと、シノさんが呼んできた敬一クン、それに謎の高飛車将校の手を借りて、俺とコグマは五階のペントハウスに戻った。
 そこらじゅうぶつけまくって、痣だらけだ。

「それで兄さん、こちらは?」

 ダイニングのデッカいテーブルの上座【?】でふんぞり返っている謎の高飛車将校は、いかにもそんな質問をされるのが心外だって感じでチラッと敬一クンを見る。

「ありゃ? ケイちゃんはセイちゃんに会ったコト無かったっけか? こちらは白砂聖一(しろたえせいいち)さん、レンのフロアのお隣さんだよ」
「シロタエさんですか…。はじめまして」

 フルネームを聞いたところで、敬一クンが不思議そうな顔をしていたのも無理はない。
 なぜならシロタエ氏は、詰襟の服装も白っぽいが本人の髪も真っ白な上に肌色も白く、そもそもどう見ても日本人じゃない顔立ちで、目玉なんかガラス玉みたいなスカイブルーなのだ。
 態度は軍人みたいだが、気配がしないというか、動きが異様に静かでコンクリの階段を、硬そうなヒールの付いた革靴で登っている時ですら殆ど足音が聞こえないほどだったから、暗闇の中にこの人物がいたら、幽霊に見えても仕方が無いと思う…。
 だが鋼の精神力を持つコックローチ・ストライカーのエビセンには、そんな言い(わけ)は通用しなかった。

「ヘタレビビリぐま! 何が幽霊だっ、普通に生きてる人間じゃねーか!」

 とうとう俺もコグマもエビセンの年功序列の枠からおン出されて、人格の境界線すらなくなっている。
 二人とも口を開いて何かを言う(まえ)に、腰抜けは黙っとれ! の一言で一蹴された。

「そんでセイちゃん、戻って来てンのに、戻ってナイってどーいう意味?」
「着替えを取りに来ていただけだ。既に何度か来ている」

 参考までにシロタエ氏が着替えを取りに戻った日にちを訊ねると、幽霊の目撃日にピタリと一致した。

「セイちゃんちのおとっつぁん、ソッチューだっけ? 死んだんか?」
「兄さん、そんな言い(かた)は失礼…」
「いいや、いっそ死んでくれればこんなにこじれなかったんだが、あいにく生きている。半身不随で滑舌が悪くなったのに、中身は相変わらず元のままだ」

 シノさんの直球すぎる問いを敬一クンが窘めるスキもなく、シロタエ氏はシノさんを上回るバットのど真ん中で、返事を打ち返した。

「あ〜、なまじ生き残られてちゃ、そりゃこじれるわな〜」
「だが、跡継ぎのことはいくら話し合ったところで解決はしない。最後の温情で介護施設への入居の手続きだけは済ませてやる約束なので、数日後にはこちらに戻る予定だ」
「跡継ぎ?」

 自分も父親の期待を裏切って、東京の大学に進学した敬一クンにしてみれば、そこは気になるワードなのだろう。

「クソジジイは、カソリックの神父だ。私が(あと)を継ぐことを希望している」

 宗教関連で鍛えられてきたと言われたら、やたらに響く声とか、今時は学生でもあんまり見かけない詰襟とか、所作がやたら静かな理由とかに、変に納得してしまう。

「くそ…なんですか?」
「クソジジイ。父のことだ」

 シロタエ氏の返答に、敬一クンは殊更ビックリしたような顔をしている。

「なぜ、そんな(ふう)に呼ぶんですか?」
「父と呼ぶのも腹立たしいからだ」
「なぜ、跡を継がないんですか?」
「私はキリスト教徒では無いのでね」
「父親が神父なのに、宗教が違うんですか?」

 するとシロタエ氏は、今までと全く同じ紋切り口調で言った。

「私はゲイだ」

 いきなりのカミングアウトに仰天した。
 でもこの仰天は、あんまりズケズケハッキリ言われたから仰天したのであって、シノさんに惚れてる俺が、ドン引き出来る筋合いじゃない。
 それに考えたらもっとたまげるべきなのは、この場にいるメンツはみんな、同じ嗜好だってことだ。
 唯一、同趣味を表明してない敬一クンは、どうやら単語の意味がよく解らないらしく、モノ問いたげな顔でコッチを見るので、目線が合わないよう慌てて顔を逸らした。
 ついでに、敬一クンの脇っ腹をエビセンが肘で突つきながら小声で「あとで教えてやっから」と言ったことも、俺は聞かなかったことにしておきたい。

「ティーンエイジの頃にゲイだとカミングアウトしたら、全寮制の神学校に入学させられた。その後は逃亡を図っては連れ戻されることを繰り返してきたが、色々手間も時間も掛けてようやく帰化の申請も通り、姓名も日本人名になり、改宗も済ませた。それを伝えるために連絡をしたところ、卒中で倒れたと言ってきた。そこで仏心を出したのが間違いだったのだが、一方的に家出をしたままなのも後味(あとあじ)が悪いように思い、顔を見せに戻ったのだが。半身不随になったことを利用して、私の同情を引き、介護をさせることで家に繋ぎ()め、意見の合わない性的嗜好を矯正させるための策略だと判明したので、きっぱりと親子の縁を切ると引導を渡してやった」
「おとっつぁん、背水の陣で敗北かぁ〜。ま、なんでも自分の思うとーりにしたかったら、それなりに伏線張って、アタマ下げる相手には、下げとかなきゃイカンって話だな」

 シノさんはニシシと笑ってるが、俺がシロタエ氏の父親だったら "コイツには言われたくない" と反論するだろう。

「ところで柊一。戻ったら話そうと思っていたのだが、実は頼みがある」
「なんじゃい?」
「此処に入居をする際に、いつかあの窯を使わせて欲しいと頼んだことを覚えているか?」
「おうよ。でもセイちゃん、直ぐはムリつってたじゃん」
「実は、父が倒れたとの連絡を受け、取る物も取り敢えず実家に戻ったのだが。先日、長期休暇の申請をしようと勤め先に連絡したところ、既に私は離職していると言われた」
「えっ? それって無断欠勤とかで? いや、でも、親が倒れたって話したんだよねぇ?」
前述(ぜんじゅつ)の通り、ジジイは私を跡継ぎにする気でいた。私が実家に戻ったタイミングで、弁護士らしき代理人を使って、勝手に離職手続きをされていた」
「それは酷い。でもそういう事情なら、職場の人事部に再雇用を願い出てみては? 上手くいかないようなら、役所やハローワークで対処の相談をするくらいのことは、手伝います」

 未だ現実の不合理さを知らぬ敬一クンは、腹を立てているようだ。

「大丈夫さ、ケイちゃん! セイちゃんにはもっといい就職先があんだから!」
「え?」
「セイちゃんはパティシエなんだぜ! 最初に部屋見に来た時、俺は丁度、窯に火を入れてキッシュ焼いてたんだ。そしたらセイちゃんが、窯をちっと使わせて欲しいちゅーから、そこで一緒にランチの準備したのさ。セイちゃんは部屋も窯もカフェも、み〜んな気に入ってくれて、今の職場には義理があるから直ぐには辞められねェけど、片が付いたらマエストロ神楽坂でパティシエやりたいって言ってくれてんだ。セイちゃんのアップルパイ、絶品なんだぜ!」
「柊一のキッシュも絶品だ。それに、あの窯は実に素晴らしい。私は自分の店を持つのが夢だったが、あの窯を見てしまったら、店を持つことよりもあの窯でパイを焼くことの(ほう)に、魅力を感じている。ジジイの振る舞いは業腹だが、結果的に全てリセットとなったのは好都合だ。心機一転して、ここで仕事をしたいと思っている」
「やったぁ! セイちゃん()るの手ぐすね引いて待ってたんだぜ! あ、給料のこととかは、ケイちゃんと相談してくれな。営業はセイちゃんがしたい日にしてくれりゃいいからサッ!」

 アタマ下げるとか言っていた舌の根も乾かぬうちに、シノさんはまたしても、人生の当たりくじを引き当てたらしい。

「あの窯を使って、自由に仕事が出来るのならば、私も嬉しい」

 クセのある綺麗な笑顔を見合わせているシノさんとシロタエ氏は、全く似てないのに、同じ顔をしているように見えた。


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次のエピソードへ進む 11.ホクトとミナミ


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 翌日はキャンパスチームの巡回だったので、ホクトが夜まで居残っていた。
 ホクトは自分から図々しい態度はとらないが、居れば必ずシノさんが夕食に招くし、ホクトが夕餉に招かれると必ずエビセンもそこに参加してくるようになっていて、更に今はエビセンがコッチに来てしまうと、一人で部屋にいたくないコグマまでくっついてくる。
 キャンパスチームの三人は|誰《だれ》も幽霊に動じてないし、体力にも自信ありげな体育会系の若者揃いだし、何があっても対処出来るだろう。
 そう期待していた。
 期待通りに三人は、八時から十二時までの間、一時間ごとに階段を上から下まで見回ってくれた。
 だが、何事も起きなかった。
 そしてとうとう今夜は、マエストロチームの巡回当番になってしまった。
 シノさんの家のリビングで夕食後のコーヒーを飲みながら、俺は心の底から、どうして前日のチームの時に出てくれないんだ幽霊!! と思っていた。
 たぶんコグマも思ってるだろう。
「んじゃケイちゃん、そろそろ見回ってくら〜」
 と言ってシノさんが立ち上がった時、俺もコグマも処刑台に連れて行かれる死刑囚みたいになっていた。
 すると俺らの使ったカップを盆に集めていた敬一クンが、ふと思い出したように言った。
「そういえば兄さん、昨日俺達が巡回した時、二階の踊り場のところでゴキブリが出ました」
「うええええ!」
「大丈夫、それは海老坂が退治しました。でもまた出るかもしれないから、驚いて階段踏み外したりしないように気をつけて」
 今の今まで鼻歌まじりだったシノさんが、急に尻込みをしてしゃがみ込む。
「うええええ! ヤダヤダヤダ! 行きたくなーい!」
「兄さん、大丈夫だから。ほら、多聞さんに殺虫剤持ってもらいますから」
「ううう…、じゃあレン、オマエ先頭行け! そんでGが出たら、速攻でぶっ殺せ! コグマは俺の|前《まえ》で、G避けの盾になっとれ!」
 そう言って、俺とコグマを|前《まえ》に押し出した。
 幽霊は鼻で笑い飛ばせるシノさんだが、虫類全般には非常に弱く、特にゴキブリは "ゴキブリ" と口に出すのも避けてるし、絵に描いてあるのすら怖気て逃げる。
 だから殺虫剤もボトルの絵を嫌がって、自分では絶対に持たないし、使えないのだ。
 悪気のない敬一クンのお陰で、マエストロチームは最悪のフォーメーションとなり、俺らはそれぞれの理由でおっかなビックリ部屋を出た。
 そして五階から下へ|降《お》りて|行《い》ったのだが、何しろガクブルになってるので、膝なんかもうカクカクで、階段を数段|降《お》りるだけでも死にそうだった。
 だけど俺は、階段を|降《お》り始めた途端にまたしても、先日と同じ違和感を覚えてしまったのだ。
 ココロの中で「ナイナイナイ! アリエナイ!」と唱えていても、無意識のうちに目がエレベーターシャフトの中を確かめてしまい、四階にボックスが止まっていることを再確認してしまう。
 更に、カクカクの膝でそろそろと五階と四階の間の踊り場まで|降《お》りてきたところで、四階の踊り場になんだか判らない、白っぽいモノがスゥ〜と動いているのを見てしまった。
 瞬間、俺は悲鳴も出せず、凍りついて動けなくなった。
「なんだっ、Gか! 早く殺るんじゃーっ!!」
 言いながらシノさんが、たぶんコグマの背中をド突き飛ばしたのだろう。
 ムッキムキで俺の倍ほど幅広でデカいコグマに全力でのしかかられ、手に殺虫剤の缶とハエ叩きを握っていた俺はエレベーターシャフトの金属枠すら掴むことが出来ずに、重力に引っ張られた。
「うわーーーーー!!」
「しぬーーーーー!!」
 またもや美観のカケラもない男の悲鳴二重奏となって、五階と四階の間にある踊り場から四階のホールまでのコンクリ階段を、ドドッと雪崩落ちた。
 そこらじゅうをメッチャぶつけまくり、コグマに潰されて息も出来ない。
 がしかし、人間そんなことじゃ死にも気絶もしなくって、ただ死ぬほど痛かっただけだ。
 そして呻きながら目を上げると、なんと白っぽいオバケがすぐ目の|前《まえ》に立っている。
「ぎゃーーーーー!! 出たーーーーー!!」
 コグマに潰されて息も出来ないはずなのに、それはもう火事場のナントカで、俺は声の限りに叫んでいた。
「一体何の騒ぎだね! このアパートの住人は、どうして皆叫んでばかりいるのかね!」
 俺の悲鳴をビシっと遮り、軍人みたいな命令口調の知らない声に叱り飛ばされた。
「あれ〜、セイちゃん? いつの間に戻ってたんだ?」
 急に通常モードに戻ったシノさんの声に、俺は恐る恐る瞼を開いた。
 目のマエには、白っぽいスラックスを履いた足があり、その上には腰に手を当てたウルトラマンポーズの見知らぬ男が、俺を見下ろしながら睨み付けている。
「まだ、戻ってはいない。それよりも、なぜ階段の上から人間が二人も雪崩れ落ちてきたのか、説明をしてもらいたい」
「ユーレーが出るってコイツらがゆーから、自警してたんだヨ」
 シノさんはガクブルになって丸まってるコグマと、同じくらいガクブルになって潰れている俺を見て、それから正面の真っ白な詰襟を着た、海軍の将校みたいな男に視線を当てた。
「どーやら、ユーレーの正体見たり…ってオチだな」
 そう言って、ニヒヒと笑った。
§
 騒ぎを聞きつけて部屋から出てきたエビセンと、シノさんが呼んできた敬一クン、それに謎の高飛車将校の手を借りて、俺とコグマは五階のペントハウスに戻った。
 そこらじゅうぶつけまくって、痣だらけだ。
「それで兄さん、こちらは?」
 ダイニングのデッカいテーブルの上座【?】でふんぞり返っている謎の高飛車将校は、いかにもそんな質問をされるのが心外だって感じでチラッと敬一クンを見る。
「ありゃ? ケイちゃんはセイちゃんに会ったコト無かったっけか? こちらは|白砂聖一《しろたえせいいち》さん、レンのフロアのお隣さんだよ」
「シロタエさんですか…。はじめまして」
 フルネームを聞いたところで、敬一クンが不思議そうな顔をしていたのも無理はない。
 なぜならシロタエ氏は、詰襟の服装も白っぽいが本人の髪も真っ白な上に肌色も白く、そもそもどう見ても日本人じゃない顔立ちで、目玉なんかガラス玉みたいなスカイブルーなのだ。
 態度は軍人みたいだが、気配がしないというか、動きが異様に静かでコンクリの階段を、硬そうなヒールの付いた革靴で登っている時ですら殆ど足音が聞こえないほどだったから、暗闇の中にこの人物がいたら、幽霊に見えても仕方が無いと思う…。
 だが鋼の精神力を持つコックローチ・ストライカーのエビセンには、そんな言い|訳《わけ》は通用しなかった。
「ヘタレビビリぐま! 何が幽霊だっ、普通に生きてる人間じゃねーか!」
 とうとう俺もコグマもエビセンの年功序列の枠からおン出されて、人格の境界線すらなくなっている。
 二人とも口を開いて何かを言う|前《まえ》に、腰抜けは黙っとれ! の一言で一蹴された。
「そんでセイちゃん、戻って来てンのに、戻ってナイってどーいう意味?」
「着替えを取りに来ていただけだ。既に何度か来ている」
 参考までにシロタエ氏が着替えを取りに戻った日にちを訊ねると、幽霊の目撃日にピタリと一致した。
「セイちゃんちのおとっつぁん、ソッチューだっけ? 死んだんか?」
「兄さん、そんな言い|方《かた》は失礼…」
「いいや、いっそ死んでくれればこんなにこじれなかったんだが、あいにく生きている。半身不随で滑舌が悪くなったのに、中身は相変わらず元のままだ」
 シノさんの直球すぎる問いを敬一クンが窘めるスキもなく、シロタエ氏はシノさんを上回るバットのど真ん中で、返事を打ち返した。
「あ〜、なまじ生き残られてちゃ、そりゃこじれるわな〜」
「だが、跡継ぎのことはいくら話し合ったところで解決はしない。最後の温情で介護施設への入居の手続きだけは済ませてやる約束なので、数日後にはこちらに戻る予定だ」
「跡継ぎ?」
 自分も父親の期待を裏切って、東京の大学に進学した敬一クンにしてみれば、そこは気になるワードなのだろう。
「クソジジイは、カソリックの神父だ。私が|後《あと》を継ぐことを希望している」
 宗教関連で鍛えられてきたと言われたら、やたらに響く声とか、今時は学生でもあんまり見かけない詰襟とか、所作がやたら静かな理由とかに、変に納得してしまう。
「くそ…なんですか?」
「クソジジイ。父のことだ」
 シロタエ氏の返答に、敬一クンは殊更ビックリしたような顔をしている。
「なぜ、そんな|風《ふう》に呼ぶんですか?」
「父と呼ぶのも腹立たしいからだ」
「なぜ、跡を継がないんですか?」
「私はキリスト教徒では無いのでね」
「父親が神父なのに、宗教が違うんですか?」
 するとシロタエ氏は、今までと全く同じ紋切り口調で言った。
「私はゲイだ」
 いきなりのカミングアウトに仰天した。
 でもこの仰天は、あんまりズケズケハッキリ言われたから仰天したのであって、シノさんに惚れてる俺が、ドン引き出来る筋合いじゃない。
 それに考えたらもっとたまげるべきなのは、この場にいるメンツはみんな、同じ嗜好だってことだ。
 唯一、同趣味を表明してない敬一クンは、どうやら単語の意味がよく解らないらしく、モノ問いたげな顔でコッチを見るので、目線が合わないよう慌てて顔を逸らした。
 ついでに、敬一クンの脇っ腹をエビセンが肘で突つきながら小声で「あとで教えてやっから」と言ったことも、俺は聞かなかったことにしておきたい。
「ティーンエイジの頃にゲイだとカミングアウトしたら、全寮制の神学校に入学させられた。その後は逃亡を図っては連れ戻されることを繰り返してきたが、色々手間も時間も掛けてようやく帰化の申請も通り、姓名も日本人名になり、改宗も済ませた。それを伝えるために連絡をしたところ、卒中で倒れたと言ってきた。そこで仏心を出したのが間違いだったのだが、一方的に家出をしたままなのも|後味《あとあじ》が悪いように思い、顔を見せに戻ったのだが。半身不随になったことを利用して、私の同情を引き、介護をさせることで家に繋ぎ|止《と》め、意見の合わない性的嗜好を矯正させるための策略だと判明したので、きっぱりと親子の縁を切ると引導を渡してやった」
「おとっつぁん、背水の陣で敗北かぁ〜。ま、なんでも自分の思うとーりにしたかったら、それなりに伏線張って、アタマ下げる相手には、下げとかなきゃイカンって話だな」
 シノさんはニシシと笑ってるが、俺がシロタエ氏の父親だったら "コイツには言われたくない" と反論するだろう。
「ところで柊一。戻ったら話そうと思っていたのだが、実は頼みがある」
「なんじゃい?」
「此処に入居をする際に、いつかあの窯を使わせて欲しいと頼んだことを覚えているか?」
「おうよ。でもセイちゃん、直ぐはムリつってたじゃん」
「実は、父が倒れたとの連絡を受け、取る物も取り敢えず実家に戻ったのだが。先日、長期休暇の申請をしようと勤め先に連絡したところ、既に私は離職していると言われた」
「えっ? それって無断欠勤とかで? いや、でも、親が倒れたって話したんだよねぇ?」
「|前述《ぜんじゅつ》の通り、ジジイは私を跡継ぎにする気でいた。私が実家に戻ったタイミングで、弁護士らしき代理人を使って、勝手に離職手続きをされていた」
「それは酷い。でもそういう事情なら、職場の人事部に再雇用を願い出てみては? 上手くいかないようなら、役所やハローワークで対処の相談をするくらいのことは、手伝います」
 未だ現実の不合理さを知らぬ敬一クンは、腹を立てているようだ。
「大丈夫さ、ケイちゃん! セイちゃんにはもっといい就職先があんだから!」
「え?」
「セイちゃんはパティシエなんだぜ! 最初に部屋見に来た時、俺は丁度、窯に火を入れてキッシュ焼いてたんだ。そしたらセイちゃんが、窯をちっと使わせて欲しいちゅーから、そこで一緒にランチの準備したのさ。セイちゃんは部屋も窯もカフェも、み〜んな気に入ってくれて、今の職場には義理があるから直ぐには辞められねェけど、片が付いたらマエストロ神楽坂でパティシエやりたいって言ってくれてんだ。セイちゃんのアップルパイ、絶品なんだぜ!」
「柊一のキッシュも絶品だ。それに、あの窯は実に素晴らしい。私は自分の店を持つのが夢だったが、あの窯を見てしまったら、店を持つことよりもあの窯でパイを焼くことの|方《ほう》に、魅力を感じている。ジジイの振る舞いは業腹だが、結果的に全てリセットとなったのは好都合だ。心機一転して、ここで仕事をしたいと思っている」
「やったぁ! セイちゃん|来《く》るの手ぐすね引いて待ってたんだぜ! あ、給料のこととかは、ケイちゃんと相談してくれな。営業はセイちゃんがしたい日にしてくれりゃいいからサッ!」
 アタマ下げるとか言っていた舌の根も乾かぬうちに、シノさんはまたしても、人生の当たりくじを引き当てたらしい。
「あの窯を使って、自由に仕事が出来るのならば、私も嬉しい」
 クセのある綺麗な笑顔を見合わせているシノさんとシロタエ氏は、全く似てないのに、同じ顔をしているように見えた。