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番外編二 告白 ―― ナセル ――

ー/ー



 いつもの寺カフェでいつもの白真弓をぱくつく惠美と槇子。惠美にとっては辛い思い出も残されている場所だが、それ以上にここでの槇子の笑顔が一番好きだった。

 思い出したように槇子が口にする。餡子を口の端につけたまま。惠美はいつも思うのだが、一体どうやったらあんな所に餡子が付くのだろう。

「紗子姉さんもうお仕事してるんだって」

 紗子は多喜を亡くして以来病気がちだったが、惠美や槇子に自身の過去を吐露してからはそれもようやく落ち着きつつあった。

 惠美は何のためらいもなく槇子に付いた餡子を指ですくって口にした。

「もう、子供みたい。でもそれほんとによかった。よかったよ」

 槇子の報告に心底安どのため息を吐く惠美。

「多喜ちゃん亡くなってからずっともぬけの殻だったから、やっとこれで一歩前進かな」

「どんなお仕事?」

「昔取った杵柄で喫茶店で働いているらしい。もう始めて何か月かな?」

「じゃあその多喜のお母さんの喫茶店行ってみない?」

「あ、それいい!」

「なので、今からその喫茶店がどこか思い出してくださいね?」

「あ、ああー、うん、それじゃあね…… うんググろうと思います。」

「えぇ…」

「すぐわかるからすぐ」

「ググるなら私の方が早いし」

「その両手で入力できるのすごいよねえ」

「これが20代の手さばきってもんですよ。ほら店名思い出して?」

 小首を傾げる槇子。

「為せば成る?」

「は?」

 逆方向に小首を傾げる槇子。

「茄子?」

「はあぁ?」

 天井に目をやる槇子。

「いや、なる?」

「何言ってんですかこの人」

 意味不明の言葉に心底呆れた声が出る惠美。

「ナセル!」

 指を鳴らして得意顔になる槇子。だが指から音はしない。

「いやー、30過ぎると記憶領野の衰えも激しいですなあ」

 苦笑いと嫌味の混じった笑顔を見せる惠美。

「何かって言うと30過ぎ30過ぎってもう…… あ、あった? あら、すごい近い。」

「ひとっ走りもいらないくらい」

「じゃあ行ってみよ!」

「うんっ!」


「いらっしゃいませ。あらよくここが分かったのね。お二人ともお久しぶり」

 カウンター席の八席程度の他はテーブル席が何席もない小さな喫茶店。暖房の効き具合も湿度もちょうどいい塩梅でほっとする空気が満ちている。最後に会った時から大きく雰囲気が変わった紗子は、まるで別人のようににこやかに二人を迎えてくれた。ことのほか表情が穏やかになった。耐え難い苦悩と苦痛に胸を刺され続けていたあの頃とは見違えるようだ。

 ところが、ほっとしない要素が一名。カウンター席の奥、紗子に最も近い席に座している。適当に束ねた太くて艶のある黒い髪。ちょっと大きめの黒縁眼鏡。皮肉っぽい口元。やや吊り上がった目。彼女はまるで二人が現れるのを知っていたかのように、笑顔とも冷やかし顔ともつかないからかうような表情を浮かべ、いかにも喫茶店の店員っぽい声真似をする。

「らっしゃせー」

「いやちょとまて何これ何これ」

 完全に虚を突かれた惠美。間違いなく全ての表情筋は硬直しているだろう。

「え、何? どうして? どうして? どういうこと? なんだかよくわからないんだけど」

 なぜ彼女がここにいるのか見当がつかない槇子。

「失敬だな卿らは。あたしは立派な客だよ。客。ね、マスター」

「はい、立派なお客様なのは間違いありません。お知り合いならこちらのカウンター席、ご一緒にどう?」

 紀恵の隣に誰が座るか惠美と槇子で一瞬譲り合う。

「おいおい、セクハラなんてしないから大丈夫。それに言葉でセクハラしたら席なんて関係ないしさ」

「結局するんじゃないですかっ!」

 本当にセクハラしかねないと思ったのか紀恵の隣には槇子が座る。

「二人してあたしの事をセクハラおやじ扱いしちゃってさ。失礼だと思わないマスター。私がそんな女に見える?ねえ?見える?」

「それは………くっんっ…」

 笑いをかみ殺す紗子が遂に耐え切れず変な声で小さく噴き出してしまう。

「ちぇー」

 ふくれっ面になって背もたれに身を預ける紀恵

「あ、そういえば今マスターって」

 紗子が口を開く前に紀恵が勝手に口を挟む

「そうなのよー。ここに働きについてすぐ。ホント優秀でさ」

「私今紗子姉さんと話してるんだから」

「あはい」

「確かに紀恵さんが言うように私が入ってすぐ当時のマスターがお辞めになって……それで今マスターをやらせていただいてるの」

 惠美も槇子も感心した表情で紗子を見上げる。

「へぇー」

「すごいですね」

「いえ、全然そんな事なくて」

 紗子が照れて謙遜すると同時に一人の女性が入って来た。

「ただいまあ」

 肩までの黒髪をふわふわさせた少し肉付きのよい女性で三十五、六と言ったところだろうか。

「おかえりなさい」

「おかーりー」

 少しふざけた顔で紀恵をからかうように声をかける女性。

「まあだいたの紀ちゃん。マスターにセクハラしないでよね」

「しないしないしない。あたしは紳士なんだから。ね」

 と惠美と槇子に同意を求める。

「いやいや」

「全然」

 被りを振る槇子と、即答で否定する惠美。

「ちぇー」

「あ、ごめんなさい。こちらのお客様は紀ちゃんのお知り合いなのかしら」

「マスターの親戚で槇子と言います、それとこちらは――」

 槇子は惠美の紹介に言いよどんだ。多喜の名を出すことがはばかれたのだ。

「こちらは惠美ちゃん。昔娘がお世話になっていたの」

 紗子が助け舟を出す。

「ああ」

 彼女も得心がいったようで軽くお辞儀をするとそれ以上は何も訊ねたりはしなかった。

「私はこちらでパートとして働いてる阿部と言います。よろしくお願いしますね」

 阿部はそのままカウンターまで入り持って帰って来ていたカップやお皿を洗い始めた。惠美が紀恵に疑問を投げかける。

「大体紀恵さん日曜の午後に茶店で寛ぐって意外ですよね」

「じゃ、意外性のない紀恵さんの日曜午後の寛ぎ方ってなに?惠美くん」

「自宅でDVD三昧…」

「あーっ、それイイ。その自堕落さもいい。が本当は茶店でこれなのだよ」

「タブレット? へえ、ああ読書ですか。『虚数』? 数学?」

「これ? スタニスワム・レムのね。SFって言うかフィクションって言うか。こう見えて読書が趣味なのだよ蓮実さんは。高尚だろう? タバコを(くゆ)らせながら日曜の午後を読書をして過ごす。これが知的な大人な女の文化的な寛ぎ方ってもんだよ諸君。わかるかね?」

「私がマスターになってから全席禁煙にしちゃったんですけれどね……」

「じゃあ紀恵禁煙したの?」

 ちょっと驚いた表情の槇子

「おどろいた」

 また感心したような顔の惠美。

「こんないい店そんなにないしな」

 ふふっと笑顔を滲ませる紀恵。

 コーヒーや紅茶を入れている紗子と阿部にはなにやら楽し気な笑顔が浮かんでいる。いや、惠美には親密過ぎると言うかいちゃいちゃというか、そんな気配すら漂う。

 白磁のかちゃりと言う音を立てて惠美と槇子の前にそれぞれ1杯のカップが置かれる。惠美には紅茶が、槇子にはコーヒーがそれぞれ注がれていた。

「あ、」

「ごめんなさいお姉さん、バカみたいな話しててすっかり注文を……」

「おいバカってあたしの事か?」

「いいのよ、これは今までのお礼。あの時は本当にありがとう。おかげで本当に助かりました。とても救われたんです。これからもよろしくお願いしますね」

 しばらく言いよどんだ後おずおずと口を開く。

「うん。それにやっぱりちゃんとしないといけないのよね」

 意を決したように二人に目を向ける紗子。

「もうお分かりかも知れないけれど私今阿部さんとお付き合いしているの。これからは私ともども阿部さん、佳世さんの事もよろしくね。もちろん当店も」

 紗子は顔を真っ赤にしながらも会釈し満面の笑顔で告白をした。それはあまりにも遅すぎたのかもしれない、かといって決して避けて通ることはできない告白と決意の表れなのだと惠美と槇子は思った。


                           ―― 完 ――


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 いつもの寺カフェでいつもの白真弓をぱくつく惠美と槇子。惠美にとっては辛い思い出も残されている場所だが、それ以上にここでの槇子の笑顔が一番好きだった。
 思い出したように槇子が口にする。餡子を口の端につけたまま。惠美はいつも思うのだが、一体どうやったらあんな所に餡子が付くのだろう。
「紗子姉さんもうお仕事してるんだって」
 紗子は多喜を亡くして以来病気がちだったが、惠美や槇子に自身の過去を吐露してからはそれもようやく落ち着きつつあった。
 惠美は何のためらいもなく槇子に付いた餡子を指ですくって口にした。
「もう、子供みたい。でもそれほんとによかった。よかったよ」
 槇子の報告に心底安どのため息を吐く惠美。
「多喜ちゃん亡くなってからずっともぬけの殻だったから、やっとこれで一歩前進かな」
「どんなお仕事?」
「昔取った杵柄で喫茶店で働いているらしい。もう始めて何か月かな?」
「じゃあその多喜のお母さんの喫茶店行ってみない?」
「あ、それいい!」
「なので、今からその喫茶店がどこか思い出してくださいね?」
「あ、ああー、うん、それじゃあね…… うんググろうと思います。」
「えぇ…」
「すぐわかるからすぐ」
「ググるなら私の方が早いし」
「その両手で入力できるのすごいよねえ」
「これが20代の手さばきってもんですよ。ほら店名思い出して?」
 小首を傾げる槇子。
「為せば成る?」
「は?」
 逆方向に小首を傾げる槇子。
「茄子?」
「はあぁ?」
 天井に目をやる槇子。
「いや、なる?」
「何言ってんですかこの人」
 意味不明の言葉に心底呆れた声が出る惠美。
「ナセル!」
 指を鳴らして得意顔になる槇子。だが指から音はしない。
「いやー、30過ぎると記憶領野の衰えも激しいですなあ」
 苦笑いと嫌味の混じった笑顔を見せる惠美。
「何かって言うと30過ぎ30過ぎってもう…… あ、あった? あら、すごい近い。」
「ひとっ走りもいらないくらい」
「じゃあ行ってみよ!」
「うんっ!」
「いらっしゃいませ。あらよくここが分かったのね。お二人ともお久しぶり」
 カウンター席の八席程度の他はテーブル席が何席もない小さな喫茶店。暖房の効き具合も湿度もちょうどいい塩梅でほっとする空気が満ちている。最後に会った時から大きく雰囲気が変わった紗子は、まるで別人のようににこやかに二人を迎えてくれた。ことのほか表情が穏やかになった。耐え難い苦悩と苦痛に胸を刺され続けていたあの頃とは見違えるようだ。
 ところが、ほっとしない要素が一名。カウンター席の奥、紗子に最も近い席に座している。適当に束ねた太くて艶のある黒い髪。ちょっと大きめの黒縁眼鏡。皮肉っぽい口元。やや吊り上がった目。彼女はまるで二人が現れるのを知っていたかのように、笑顔とも冷やかし顔ともつかないからかうような表情を浮かべ、いかにも喫茶店の店員っぽい声真似をする。
「らっしゃせー」
「いやちょとまて何これ何これ」
 完全に虚を突かれた惠美。間違いなく全ての表情筋は硬直しているだろう。
「え、何? どうして? どうして? どういうこと? なんだかよくわからないんだけど」
 なぜ彼女がここにいるのか見当がつかない槇子。
「失敬だな卿らは。あたしは立派な客だよ。客。ね、マスター」
「はい、立派なお客様なのは間違いありません。お知り合いならこちらのカウンター席、ご一緒にどう?」
 紀恵の隣に誰が座るか惠美と槇子で一瞬譲り合う。
「おいおい、セクハラなんてしないから大丈夫。それに言葉でセクハラしたら席なんて関係ないしさ」
「結局するんじゃないですかっ!」
 本当にセクハラしかねないと思ったのか紀恵の隣には槇子が座る。
「二人してあたしの事をセクハラおやじ扱いしちゃってさ。失礼だと思わないマスター。私がそんな女に見える?ねえ?見える?」
「それは………くっんっ…」
 笑いをかみ殺す紗子が遂に耐え切れず変な声で小さく噴き出してしまう。
「ちぇー」
 ふくれっ面になって背もたれに身を預ける紀恵
「あ、そういえば今マスターって」
 紗子が口を開く前に紀恵が勝手に口を挟む
「そうなのよー。ここに働きについてすぐ。ホント優秀でさ」
「私今紗子姉さんと話してるんだから」
「あはい」
「確かに紀恵さんが言うように私が入ってすぐ当時のマスターがお辞めになって……それで今マスターをやらせていただいてるの」
 惠美も槇子も感心した表情で紗子を見上げる。
「へぇー」
「すごいですね」
「いえ、全然そんな事なくて」
 紗子が照れて謙遜すると同時に一人の女性が入って来た。
「ただいまあ」
 肩までの黒髪をふわふわさせた少し肉付きのよい女性で三十五、六と言ったところだろうか。
「おかえりなさい」
「おかーりー」
 少しふざけた顔で紀恵をからかうように声をかける女性。
「まあだいたの紀ちゃん。マスターにセクハラしないでよね」
「しないしないしない。あたしは紳士なんだから。ね」
 と惠美と槇子に同意を求める。
「いやいや」
「全然」
 被りを振る槇子と、即答で否定する惠美。
「ちぇー」
「あ、ごめんなさい。こちらのお客様は紀ちゃんのお知り合いなのかしら」
「マスターの親戚で槇子と言います、それとこちらは――」
 槇子は惠美の紹介に言いよどんだ。多喜の名を出すことがはばかれたのだ。
「こちらは惠美ちゃん。昔娘がお世話になっていたの」
 紗子が助け舟を出す。
「ああ」
 彼女も得心がいったようで軽くお辞儀をするとそれ以上は何も訊ねたりはしなかった。
「私はこちらでパートとして働いてる阿部と言います。よろしくお願いしますね」
 阿部はそのままカウンターまで入り持って帰って来ていたカップやお皿を洗い始めた。惠美が紀恵に疑問を投げかける。
「大体紀恵さん日曜の午後に茶店で寛ぐって意外ですよね」
「じゃ、意外性のない紀恵さんの日曜午後の寛ぎ方ってなに?惠美くん」
「自宅でDVD三昧…」
「あーっ、それイイ。その自堕落さもいい。が本当は茶店でこれなのだよ」
「タブレット? へえ、ああ読書ですか。『虚数』? 数学?」
「これ? スタニスワム・レムのね。SFって言うかフィクションって言うか。こう見えて読書が趣味なのだよ蓮実さんは。高尚だろう? タバコを燻《くゆ》らせながら日曜の午後を読書をして過ごす。これが知的な大人な女の文化的な寛ぎ方ってもんだよ諸君。わかるかね?」
「私がマスターになってから全席禁煙にしちゃったんですけれどね……」
「じゃあ紀恵禁煙したの?」
 ちょっと驚いた表情の槇子
「おどろいた」
 また感心したような顔の惠美。
「こんないい店そんなにないしな」
 ふふっと笑顔を滲ませる紀恵。
 コーヒーや紅茶を入れている紗子と阿部にはなにやら楽し気な笑顔が浮かんでいる。いや、惠美には親密過ぎると言うかいちゃいちゃというか、そんな気配すら漂う。
 白磁のかちゃりと言う音を立てて惠美と槇子の前にそれぞれ1杯のカップが置かれる。惠美には紅茶が、槇子にはコーヒーがそれぞれ注がれていた。
「あ、」
「ごめんなさいお姉さん、バカみたいな話しててすっかり注文を……」
「おいバカってあたしの事か?」
「いいのよ、これは今までのお礼。あの時は本当にありがとう。おかげで本当に助かりました。とても救われたんです。これからもよろしくお願いしますね」
 しばらく言いよどんだ後おずおずと口を開く。
「うん。それにやっぱりちゃんとしないといけないのよね」
 意を決したように二人に目を向ける紗子。
「もうお分かりかも知れないけれど私今阿部さんとお付き合いしているの。これからは私ともども阿部さん、佳世さんの事もよろしくね。もちろん当店も」
 紗子は顔を真っ赤にしながらも会釈し満面の笑顔で告白をした。それはあまりにも遅すぎたのかもしれない、かといって決して避けて通ることはできない告白と決意の表れなのだと惠美と槇子は思った。
                           ―― 完 ――