第6回
ー/ー
●退魔師
魘魅騒ぎで消滅してしまった天幕の代わりとしてあてがわれた新しい天幕は、大きさこそ以前の物より大きかったが、藍色の夜空に星と月をあしらっただけの、保護呪も織りこまれていない、ただ夜風を凌げるだけの物だった。
だが今さらそんなことを気にしたところで無駄なのはだれもが知っている。魘魅が来た。それはこの場所がとうに魅妖に知られていたことに外ならない。
普通ならここで混乱が起こり、ふさがれている水路を無理にもこじ開け、ほかの町へ逃げこもうという一団が詰めかけてもおかしくなかったが、さすがにエセルに暴かれた真意に後ろめたさが生じてか、おとなしく自分たちの天幕へと引きこもっている。
このとき、実はセオドアは密かに驚いていたのだが、あの娘の骸を抱いて号泣していた町の長が、まだしぶっていた男たちへの説得に手を貸してくれたこともあった。
『たしかに魅魎にここの場所が知られとるのははっきりした。だがな。それですぐわしらを狙わなかったということは、殺す気はないってことだ。あの魅魎を見ただろう? 朱廻さんが追い払ってくれた。大丈夫だ。もう不安がることはない。王都のえらい退魔師が助けに来てくださるまで、わしらはじっと待ってればいい』
ルチアの言葉を弁護するのがよりによってこの男とは、意外だった。
さすが町の長というべきか、公私混同を嫌うとみえて、ルチアを見る目は変わらず怒りに燃えていたが言葉の内容にまで私怨をこめようとはしない。だからこそ町の者たちの信用を得ているらしく、男たちもそれ以上表立って文句を口にしようとはしなくなった。
そして今、天幕の端で、セオドアは瞬きすらできずに目前の光景を凝視していた。
入り口近くであるここからは一番遠い、正面の奥に何重にも敷かれた敷物の上で黒い痒気が渦巻いている。
どす黒い、巨大なヘビだ。
町で食べさせられかけた物の内側を侵食していたものと同種のやつだが力は格段に違う。
その醜怪な容貌に相応した、恐ろしい瘴気が周囲の闇をさらに濃くし、そして敷物の上に横たわるルチアを穢していた。
なぜ自分にこんなものが視えるのか、不思議だった。
決して普通の人には視えない、せいぜいが不快と悪寒を感じるだけの、闇の側のうごめき。
退魔師ならば当然視えなくてはいけないものだが、はたしてこれほど視えているものか……それとも、こんなにはっきりと視えるのは、喰われている者の命が退魔師のせいなのか。
とにかく訓練の際、大気中に溜まっているたわいのないやつをいくつか視てきたが、これほどに視えたことはなかった。
その下でルチアの全身が、あの醜いヘビの腹部の一部に同化してしまっているように見える。
町で食べさせられかけたあの果物のように、侵食され、内側を喰い荒らされているのだ。だがその内力は、あのときのものとは格段に違う。
退魔師の魂を滋養とし、醜怪な容貌に相応した負の気が周囲の闇をさらに黒くし、生臭いケモノの臭いをまき散らしている。
ルチアの命をじわじわと侵し、食い尽くしたヘビは、やがて巣魂となり、妖鬼の群れが孵化する。
ルチアの魂はこの世界を漂泊するだけの負の魂、魄となり、永遠に死の安らぎは得られない。
本当なら、冰巳に裂かれたときに絶命していてもおかしくない傷だった。ここまでもっているのはひとえに彼が退魔師という、希有なる魂を持っているからこそである。
この世で命の価値はだれもが等しいが、その輝きは平等にはなり得ない。
退魔師という強い命の輝きを持つ者ならばこそ、なおさらのことだ。
だがそれは、あくまで早いか遅いかの違いである。
浄化されずふさがれないままの闇の傷は、ゆっくりと、確実に彼の魂までもむしばんでゆく。それをこうして前にしながら、自分には何もできないとは……!
胸が痛んだ。これ以上ない、悲痛な思いが襲ってくる。酷い圧迫感で、呼吸も満足にできない。
そんな弱い思いを悟られたのか、ゆうるりと巨体をうねらせ、頭部らしきところにある4つの闇の瞳がセオドアの方を向いた。
何の感情も読み取れない――人には理解できない――爬虫類に一番近いと思われる意をこめて、おぞましい目が楕円に潰れる。
嘲りの嗤いのように見えて、そのおぞましさに気圧されて。つい後退ったセオドアの肩を、いつの間にか後ろにいたエセルが叩いた。
「出るか?」
気遣うように耳元でささやいたエセルの言葉に頷いて、天幕を抜ける。抜ける際に肩越しに見た朱廻は、意識を取り戻さないルチアの介護に夢中で、出て行く自分たちに気付いていないようだった。
布3枚を隔てた外は、もう大分明るかった。
陽が昇るにはまだ少し早いが、東と思われる空がほのかに青白く、夜の闇を撤退させた、すがすがしい空気が満ちている。
「結局徹夜だったな」
苦笑して大きく伸びをするエセルの隣で、セオドアはぎゅうぎゅうづめになっているくせに何も考えていない頭の中を、完全にカラにしようとかぶりを振った。
ここにきてからずっと、妙な力の干渉を受けている気がする。この出来事に刺激され、もしや自分の内なる力が強まったのかと内心苦々しく思ったときもあったが、どうやらそうではないらしい。操るどころかふり回されているような感じだ。
「どうかしたのか?」
朝の新鮮な空気を吸うわけでもなく、眉を寄せて額に縦じわを作り、考えこんでいるセオドアを見てエセルが訊く。
「……闇の毒気に少しあてられたようだ……」
そちらへは目もくれず、独り言のようにまるで愛想のかけらもない声で素っ気なく言う。そんなセオドアの頭を突然歩み寄ったエセルの手が、何を思ったかいきなり乱暴な仕草でがしがしがしっと掻き回した。
「なっ、何をするっ」
「まったく、らしくないなあ。ほらほら、目が死んでるぞ。少しは元気だせよ。今おまえが落ちこんだって仕方ないんだろ?」
ばっと飛び退いたセオドアに、エセルはあっけらかんとそう返した。
らしくないだと? おまえにどうしてわたしらしさが分かるというんだ。知り合ってまだたった3日だぞ? たった3日でわたしという人間が理解できたなどと、それじゃあまるでわたしは人間的に薄っぺらな、底の浅いやつのようじゃないか!
憤慨し、怒りの目で見ているというのに、エセルはにこにこ笑っている。
本当に怒らせたいのか、そうなら1発くらわしてやろうかとまで考えて、そしてセオドアは不意にエセルの本意を悟れたような気がして衝動を止めた。
ずっと黙している自分を見て、彼なりに気を入れ換えさせようとしてくれたのではないだろうか? 怒りによって、というのはいささか問題ありだとは思うが、その方法が一番手っ取り早いのは確かだ。
まいったな……人に気遣われるまで分からないなんて。
そうだな。いつもだったらこんなことぐらいでカッときて癇癪を起こしたりしないか。
呆れるだけで、相手にもせず適当にあしらっていただろう。それ以前に、こんな、逃げるようにルチアの天幕から出てくることも……。
その時点から気付かれてしまっていたのかもしれない。
先の一件で分かったことだが、あまり相手の思うことなど考えていそうにない、時も場も状況も考えない無頓着な発言をぽんぽんするくせに、どうもこういうことには敏感みたいだからな、こいつは。
そう考えて、エセルを真似するわけではないが、大きく深呼吸をする。そうしてあらためて天幕へ向かって歩き始めた。
「戻るのか?」
「わたしが逃げるわけにはいかないさ。当事者だからな」
肩越しに言ってくるセオドアに、いまだそこに立ったままのエセルは正解とご機嫌の顔を返した。
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
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魘魅騒ぎで消滅してしまった天幕の代わりとしてあてがわれた新しい天幕は、大きさこそ以前の物より大きかったが、藍色の夜空に星と月をあしらっただけの、保護呪も織りこまれていない、ただ夜風を凌げるだけの物だった。
だが今さらそんなことを気にしたところで無駄なのはだれもが知っている。魘魅が来た。それはこの場所がとうに魅妖に知られていたことに|外《ほか》ならない。
普通ならここで混乱が起こり、ふさがれている水路を無理にもこじ開け、ほかの町へ逃げこもうという一団が詰めかけてもおかしくなかったが、さすがにエセルに暴かれた真意に後ろめたさが生じてか、おとなしく自分たちの天幕へと引きこもっている。
このとき、実はセオドアは密かに驚いていたのだが、あの娘の骸を抱いて号泣していた町の長が、まだしぶっていた男たちへの説得に手を貸してくれたこともあった。
『たしかに魅魎にここの場所が知られとるのははっきりした。だがな。それですぐわしらを狙わなかったということは、殺す気はないってことだ。あの魅魎を見ただろう? 朱廻さんが追い払ってくれた。大丈夫だ。もう不安がることはない。王都のえらい退魔師が助けに来てくださるまで、わしらはじっと待ってればいい』
ルチアの言葉を弁護するのがよりによってこの男とは、意外だった。
さすが町の長というべきか、公私混同を嫌うとみえて、ルチアを見る目は変わらず怒りに燃えていたが言葉の内容にまで私怨をこめようとはしない。だからこそ町の者たちの信用を得ているらしく、男たちもそれ以上表立って文句を口にしようとはしなくなった。
そして今、天幕の端で、セオドアは瞬きすらできずに目前の光景を凝視していた。
入り口近くであるここからは一番遠い、正面の奥に何重にも敷かれた敷物の上で黒い痒気が渦巻いている。
どす黒い、巨大なヘビだ。
町で食べさせられかけた物の内側を侵食していたものと同種のやつだが力は格段に違う。
その醜怪な容貌に相応した、恐ろしい瘴気が周囲の闇をさらに濃くし、そして敷物の上に横たわるルチアを|穢《けが》していた。
なぜ自分にこんなものが|視《み》えるのか、不思議だった。
決して普通の人には視えない、せいぜいが不快と悪寒を感じるだけの、闇の側のうごめき。
退魔師ならば当然視えなくてはいけないものだが、はたしてこれほど視えているものか……それとも、こんなにはっきりと視えるのは、喰われている者の命が退魔師のせいなのか。
とにかく訓練の際、大気中に溜まっているたわいのないやつをいくつか視てきたが、これほどに視えたことはなかった。
その下でルチアの全身が、あの醜いヘビの腹部の一部に同化してしまっているように見える。
町で食べさせられかけたあの果物のように、侵食され、内側を喰い荒らされているのだ。だがその内力は、あのときのものとは格段に違う。
退魔師の魂を滋養とし、醜怪な|容貌《ようぼう》に相応した負の気が周囲の闇をさらに黒くし、生臭いケモノの臭いをまき散らしている。
ルチアの命をじわじわと|侵《おか》し、食い尽くしたヘビは、やがて|巣魂《すだま》となり、妖鬼の群れが孵化する。
ルチアの魂はこの世界を漂泊するだけの負の魂、|魄《はく》となり、永遠に死の安らぎは得られない。
本当なら、冰巳に裂かれたときに絶命していてもおかしくない傷だった。ここまでもっているのはひとえに彼が退魔師という、希有なる魂を持っているからこそである。
この世で命の価値はだれもが等しいが、その輝きは平等にはなり得ない。
退魔師という強い命の輝きを持つ者ならばこそ、なおさらのことだ。
だがそれは、あくまで早いか遅いかの違いである。
浄化されずふさがれないままの闇の傷は、ゆっくりと、確実に彼の魂までもむしばんでゆく。それをこうして前にしながら、自分には何もできないとは……!
胸が痛んだ。これ以上ない、悲痛な思いが襲ってくる。酷い圧迫感で、呼吸も満足にできない。
そんな弱い思いを悟られたのか、ゆうるりと巨体をうねらせ、頭部らしきところにある4つの闇の瞳がセオドアの方を向いた。
何の感情も読み取れない――人には理解できない――爬虫類に一番近いと思われる意をこめて、おぞましい目が楕円に潰れる。
嘲りの嗤いのように見えて、そのおぞましさに気圧されて。つい|後退《あとずさ》ったセオドアの肩を、いつの間にか後ろにいたエセルが叩いた。
「出るか?」
気遣うように耳元でささやいたエセルの言葉に頷いて、天幕を抜ける。抜ける際に肩越しに見た朱廻は、意識を取り戻さないルチアの介護に夢中で、出て行く自分たちに気付いていないようだった。
布3枚を隔てた外は、もう大分明るかった。
陽が昇るにはまだ少し早いが、東と思われる空がほのかに青白く、夜の闇を撤退させた、すがすがしい空気が満ちている。
「結局徹夜だったな」
苦笑して大きく伸びをするエセルの隣で、セオドアはぎゅうぎゅうづめになっているくせに何も考えていない頭の中を、完全にカラにしようとかぶりを振った。
ここにきてからずっと、妙な力の干渉を受けている気がする。この出来事に刺激され、もしや自分の内なる力が強まったのかと内心苦々しく思ったときもあったが、どうやらそうではないらしい。操るどころかふり回されているような感じだ。
「どうかしたのか?」
朝の新鮮な空気を吸うわけでもなく、眉を寄せて額に縦じわを作り、考えこんでいるセオドアを見てエセルが訊く。
「……闇の毒気に少しあてられたようだ……」
そちらへは目もくれず、独り言のようにまるで愛想のかけらもない声で素っ気なく言う。そんなセオドアの頭を突然歩み寄ったエセルの手が、何を思ったかいきなり乱暴な仕草でがしがしがしっと掻き回した。
「なっ、何をするっ」
「まったく、らしくないなあ。ほらほら、目が死んでるぞ。少しは元気だせよ。今おまえが落ちこんだって仕方ないんだろ?」
ばっと飛び退いたセオドアに、エセルはあっけらかんとそう返した。
らしくないだと? おまえにどうしてわたしらしさが分かるというんだ。知り合ってまだたった3日だぞ? たった3日でわたしという人間が理解できたなどと、それじゃあまるでわたしは人間的に薄っぺらな、底の浅いやつのようじゃないか!
憤慨し、怒りの目で見ているというのに、エセルはにこにこ笑っている。
本当に怒らせたいのか、そうなら1発くらわしてやろうかとまで考えて、そしてセオドアは不意にエセルの本意を悟れたような気がして衝動を止めた。
ずっと黙している自分を見て、彼なりに気を入れ換えさせようとしてくれたのではないだろうか? 怒りによって、というのはいささか問題ありだとは思うが、その方法が一番手っ取り早いのは確かだ。
まいったな……人に気遣われるまで分からないなんて。
そうだな。いつもだったらこんなことぐらいでカッときて癇癪を起こしたりしないか。
呆れるだけで、相手にもせず適当にあしらっていただろう。それ以前に、こんな、逃げるようにルチアの天幕から出てくることも……。
その時点から気付かれてしまっていたのかもしれない。
先の一件で分かったことだが、あまり相手の思うことなど考えていそうにない、時も場も状況も考えない無頓着な発言をぽんぽんするくせに、どうもこういうことには敏感みたいだからな、こいつは。
そう考えて、エセルを真似するわけではないが、大きく深呼吸をする。そうしてあらためて天幕へ向かって歩き始めた。
「戻るのか?」
「わたしが逃げるわけにはいかないさ。当事者だからな」
肩越しに言ってくるセオドアに、いまだそこに立ったままのエセルは正解とご機嫌の顔を返した。