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第3回

ー/ー



●苦  難

 あの体で、一体どこにこれだけの力が残っていたのか……いや、まさにこのとき、この一太刀のためだけに温存していたのだろう、そう思えるほど力強く、とても重傷を負っているとは思えない敏捷さで寝台を踏み台に、ルチアは宙の冰巳へ向けて跳んだ。

「失せろ! 魘魅!!」
「くっ……!
 わが闇に属する内なる闇よ! 今その眠りより目覚め、己が牙をもてその肉体を千々に引き裂け!」

 ルチアの咆哮と冰巳の言霊が重なる。
 魅魎と退魔師の勝敗が決するのは一瞬だ。その一瞬に軍配が上がるのが魔断剣・赤朧牙を握るルチアであると確信したセオドアは、歓喜の笑みを浮かべる。

「やばいな……」

 ぽつり、渋面でつぶやくエセルに、そちらへと目を向けたその一刹那。

「ぐあっ」

 魔断剣を取りこぼしたルチアの体が、エセルの懸念を現実としたように全身を埋めつくした傷という傷から血を噴き出して、地へとたたきつけられた。
 冰巳の言霊に呼応した闇の傷が、内部から彼を引き裂いたのだ。

 ルチアの繰り出した一撃は、なぜか右肩を裂いただけに終わっていた。

「あ、あ……」
「セオドア?」

 一方で、目前、血にまみれて横たわるルチアの姿に強い既視感を受けたセオドアの頭に鋭い痛みが走る。
 夢の光景――あの白い空間が小さく見える。豆粒ほどの人影。死んでしまった男を抱いて泣く女がいる。彼女は――――――

「セオドア? おいっ」
「あれ……あれは…………矢、だ」
「――は? 何だって?」
「俺の……」

 両手で顔を覆い、夢うつつにセオドアはつぶやく。その目は何かを捉えているようだ。何か、彼女だけにしか見えないものに彼女の意識が集中していると気付いたエセルは、正気を取り戻させようと彼女の両手首をつかみ、顔から引き剥がした。

「セオドア! 俺が分かるか!?」
「……エ、セル……?」
「そうだ。そしてあれが分かるな?」

 エセルが指し示した光景に、セオドアは一瞬で現実に立ち返る。
 ルチアは、2人からそう離れていない砂地の上に大量の血を吐いて横たわっていた。

「操主!」

 ルチアの手からはじき飛ばされ砂地に突き刺さっていた赤朧牙が刀身としての姿を解き、人型へと変じる。朱廻は半狂乱で血だまりの中、動かない主の元へ走り寄った。

 抱き起こしたルチアに辛うじて息があるのを確かめた朱廻の張り詰めていた面がほっと安堵に緩む。だがルチアに意識はなく、これ以上闘えそうになかった。

 殺させるものか!

 ルチアの頭を片膝に乗せて、朱廻の手は、砂地に半ば埋もれていた己の破魔剣を抜く。

 この命にかえても、操主は守ってみせる!

 固い決意で冰巳をにらみ上げる。けれども冰巳はいつまでも攻撃してこようとはしなかった。それどころではないというように背を丸め、爪を立てて自分の体をかき抱き、苦しそうにわなないている。

「あぁ……っあ、ああぁ……っ」

 力なく呻く。目尻が切れて血が流れるほど見開いた目は、何も映していなかった。

 右肩に受けた傷をかきむしり、冰巳はどうやら『痛み』を感じているらしい。
 憑依体ではあり得ない、と考える一方で、閃きのようにセオドアは理解した。

 ルチアが仕掛けたのが、ただ単純に冰巳を断つためでなく、彼女の体内に自身の気を流入させるためだったとすれば。
 ただひとえに、魘魅をあの体から憑離させること、そのために切りこんだのだとすれば、あり得る。

 聞いたことがある。人の体に憑依した魅魎を追い出すには、退魔師の高めた気を直接送りこむのが有効だと。
 その証拠のように、薄いガラスが粉々に砕けるような音とともに、彼女の力によって形成されているこの空間と現実空間を区切った障壁は、均衡を保てずに崩れてゆく。

「さ、漣さま! わがきみ、お助けください! あなたさまの忠実なる下僕たるわたくしめに、どうか今一度のお力添えを……!」

 宙を仰ぎ、あえぎながら請う冰巳の懇願は、しかし叶わなかったようだ。むしろ、今まで受けていた助力さえも打ち切られ、見放されたのか、冰巳の体を包んでいた黒い瘴気は急速に薄れゆき、その身からはがれ落ちてゆく。

 光の粉末のような力の結晶がどこからともなくパラパラと降ってくる中、冰巳はついに絶叫してカナンの体から抜けた。

(のが)すかっ!」

 朱廻の繰り出した目の覚めるような一撃が、間隙(かんげき)へ潜りこむ寸前の冰巳の背を割る。
 凄まじい悲鳴が大気を揺るがし、朱廻の感じた手応えを確実なものと証明する、闇の黒い血が大量に宙より噴出して地に落ちた先から蒸発してゆく。

 間隙は一瞬で閉じ、もうどこからも彼女の妖気は感じられない。
 それを確認した朱廻は剣を投げ捨て、急ぎルチアの元へ戻った。

 意識を取り戻したルチアは、感覚の失われた右足を重荷のように引き擦りながら、地に横たわった少女の元へ行くと、そっと、その生を確かめるように前髪に触れ、震える声で彼女の名をつぶやいた。

「カナン……」

 涙に濡れた緑の瞳が、ゆっくりと開かれる。

「ごめんなさい……」

 また、あなたを、困らせてしまったわ……。

 力ないつぶやき。
 一言も聞き逃すまいと顔を寄せたルチアの顔に走る傷の痛々しさに、カナンは謝罪するように指を這わせる。

「あの館で……。もう、きっと、助からないと思って……。
 どんなことになっても、もう一度、あなたに逢いたかったの……」

 血の流れたほおに、そっと唇を寄せ。羽根のようなキスをすると、カナンは胸の大きなおもりが取れたように大きく静かに息を吐いて、ゆっくりと瞳を閉じた。

 いくら待っても彼女のまぶたは開かない。
 もう二度と、あの美しい緑の瞳は輝きを放つことはない。彼を見つめ、幸せそうに彼の名を呼び、朝日を浴びた花のように清らかなほほ笑みを浮かべることも……。

 遅すぎたのだ。すべてが。

 ここにあるのは、命の全てを魅魎に喰らいつくされた、虚ろな抜け殻のみ……。

「カナン……」

 信じられないと、ルチアの凍ったつぶやきが聞こえた。

「操主」

 朱廻から伸ばされたいたわりの手も振り払って、固めたこぶしを地に打ちつける。
 その中にこめられた思いは、冰巳への単純な怒りではなく、自身への怒り。人を救う力を持ちながら、愛する女性を助けるには無力だった自分への憤りだろう。

 その気持ちが痛いほどよく分かって。セオドアは、熱くなった目を伏せた……。


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●苦  難
 あの体で、一体どこにこれだけの力が残っていたのか……いや、まさにこのとき、この一太刀のためだけに温存していたのだろう、そう思えるほど力強く、とても重傷を負っているとは思えない敏捷さで寝台を踏み台に、ルチアは宙の冰巳へ向けて跳んだ。
「失せろ! 魘魅!!」
「くっ……!
 わが闇に属する内なる闇よ! 今その眠りより目覚め、己が牙をもてその肉体を千々に引き裂け!」
 ルチアの咆哮と冰巳の言霊が重なる。
 魅魎と退魔師の勝敗が決するのは一瞬だ。その一瞬に軍配が上がるのが魔断剣・赤朧牙を握るルチアであると確信したセオドアは、歓喜の笑みを浮かべる。
「やばいな……」
 ぽつり、渋面でつぶやくエセルに、そちらへと目を向けたその一刹那。
「ぐあっ」
 魔断剣を取りこぼしたルチアの体が、エセルの懸念を現実としたように全身を埋めつくした傷という傷から血を噴き出して、地へとたたきつけられた。
 冰巳の言霊に呼応した闇の傷が、内部から彼を引き裂いたのだ。
 ルチアの繰り出した一撃は、なぜか右肩を裂いただけに終わっていた。
「あ、あ……」
「セオドア?」
 一方で、目前、血にまみれて横たわるルチアの姿に強い既視感を受けたセオドアの頭に鋭い痛みが走る。
 夢の光景――あの白い空間が小さく見える。豆粒ほどの人影。死んでしまった男を抱いて泣く女がいる。彼女は――――――
「セオドア? おいっ」
「あれ……あれは…………矢、だ」
「――は? 何だって?」
「俺の……」
 両手で顔を覆い、夢うつつにセオドアはつぶやく。その目は何かを捉えているようだ。何か、彼女だけにしか見えないものに彼女の意識が集中していると気付いたエセルは、正気を取り戻させようと彼女の両手首をつかみ、顔から引き剥がした。
「セオドア! 俺が分かるか!?」
「……エ、セル……?」
「そうだ。そしてあれが分かるな?」
 エセルが指し示した光景に、セオドアは一瞬で現実に立ち返る。
 ルチアは、2人からそう離れていない砂地の上に大量の血を吐いて横たわっていた。
「操主!」
 ルチアの手からはじき飛ばされ砂地に突き刺さっていた赤朧牙が刀身としての姿を解き、人型へと変じる。朱廻は半狂乱で血だまりの中、動かない主の元へ走り寄った。
 抱き起こしたルチアに辛うじて息があるのを確かめた朱廻の張り詰めていた面がほっと安堵に緩む。だがルチアに意識はなく、これ以上闘えそうになかった。
 殺させるものか!
 ルチアの頭を片膝に乗せて、朱廻の手は、砂地に半ば埋もれていた己の破魔剣を抜く。
 この命にかえても、操主は守ってみせる!
 固い決意で冰巳をにらみ上げる。けれども冰巳はいつまでも攻撃してこようとはしなかった。それどころではないというように背を丸め、爪を立てて自分の体をかき抱き、苦しそうにわなないている。
「あぁ……っあ、ああぁ……っ」
 力なく呻く。目尻が切れて血が流れるほど見開いた目は、何も映していなかった。
 右肩に受けた傷をかきむしり、冰巳はどうやら『痛み』を感じているらしい。
 憑依体ではあり得ない、と考える一方で、閃きのようにセオドアは理解した。
 ルチアが仕掛けたのが、ただ単純に冰巳を断つためでなく、彼女の体内に自身の気を流入させるためだったとすれば。
 ただひとえに、魘魅をあの体から憑離させること、そのために切りこんだのだとすれば、あり得る。
 聞いたことがある。人の体に憑依した魅魎を追い出すには、退魔師の高めた気を直接送りこむのが有効だと。
 その証拠のように、薄いガラスが粉々に砕けるような音とともに、彼女の力によって形成されているこの空間と現実空間を区切った障壁は、均衡を保てずに崩れてゆく。
「さ、漣さま! わがきみ、お助けください! あなたさまの忠実なる下僕たるわたくしめに、どうか今一度のお力添えを……!」
 宙を仰ぎ、あえぎながら請う冰巳の懇願は、しかし叶わなかったようだ。むしろ、今まで受けていた助力さえも打ち切られ、見放されたのか、冰巳の体を包んでいた黒い瘴気は急速に薄れゆき、その身からはがれ落ちてゆく。
 光の粉末のような力の結晶がどこからともなくパラパラと降ってくる中、冰巳はついに絶叫してカナンの体から抜けた。
「|逃《のが》すかっ!」
 朱廻の繰り出した目の覚めるような一撃が、|間隙《かんげき》へ潜りこむ寸前の冰巳の背を割る。
 凄まじい悲鳴が大気を揺るがし、朱廻の感じた手応えを確実なものと証明する、闇の黒い血が大量に宙より噴出して地に落ちた先から蒸発してゆく。
 間隙は一瞬で閉じ、もうどこからも彼女の妖気は感じられない。
 それを確認した朱廻は剣を投げ捨て、急ぎルチアの元へ戻った。
 意識を取り戻したルチアは、感覚の失われた右足を重荷のように引き擦りながら、地に横たわった少女の元へ行くと、そっと、その生を確かめるように前髪に触れ、震える声で彼女の名をつぶやいた。
「カナン……」
 涙に濡れた緑の瞳が、ゆっくりと開かれる。
「ごめんなさい……」
 また、あなたを、困らせてしまったわ……。
 力ないつぶやき。
 一言も聞き逃すまいと顔を寄せたルチアの顔に走る傷の痛々しさに、カナンは謝罪するように指を這わせる。
「あの館で……。もう、きっと、助からないと思って……。
 どんなことになっても、もう一度、あなたに逢いたかったの……」
 血の流れたほおに、そっと唇を寄せ。羽根のようなキスをすると、カナンは胸の大きなおもりが取れたように大きく静かに息を吐いて、ゆっくりと瞳を閉じた。
 いくら待っても彼女のまぶたは開かない。
 もう二度と、あの美しい緑の瞳は輝きを放つことはない。彼を見つめ、幸せそうに彼の名を呼び、朝日を浴びた花のように清らかなほほ笑みを浮かべることも……。
 遅すぎたのだ。すべてが。
 ここにあるのは、命の全てを魅魎に喰らいつくされた、虚ろな抜け殻のみ……。
「カナン……」
 信じられないと、ルチアの凍ったつぶやきが聞こえた。
「操主」
 朱廻から伸ばされたいたわりの手も振り払って、固めたこぶしを地に打ちつける。
 その中にこめられた思いは、冰巳への単純な怒りではなく、自身への怒り。人を救う力を持ちながら、愛する女性を助けるには無力だった自分への憤りだろう。
 その気持ちが痛いほどよく分かって。セオドアは、熱くなった目を伏せた……。