「あれが蛇憑き姫か……おお、こわ」
そんな声が聞こえて、雫は小さくため息をついた。
艶やかな黒髪に、細面の顔、自然に朱の入ったような薄い唇。少し低いがまっすぐな鼻梁と、長いまつげの少し大きめの瞳。
誰が見てもまず美人だと褒めそやすであろう少女が受けるのは、賞賛ではなく陰口だった。
蛇憑きの姫。
二年余り前から、雫はそう呼ばれている。
理由は簡単で、文字通り蛇妖にその身を狙われているからだ。
雫の家である久遠院家は二年余り前、土地の開墾を行うためにある山を削りだす工事を行った。
その際に、その地にあった塚を壊してしまったらしい。
そしてその塚は、人々が信仰を寄せるためのものではなく――古い蛇妖が、数百年にわたり封じられていたものだったのだ。
解き放たれた蛇妖は日を置いて力を取り戻し、雫の家に現れ、雫以外の者をことごとく殺した。
そして宣言したのである。
『汝、十五に満つる年になるまでに婿を取ると良い。さすれば、その婿を我が食らう。だが、婿がいないのなら、我が汝を娶る。どちらを選ぶか、好きにすると良い』
以後、雫はその蛇に憑かれた姫として、『蛇憑きの姫』と呼ばれているのだ。
最初こそ、両親祖父母を一気に失い混乱していたが、やがて自分が置かれた状況を理解するに至り、さらに絶望することになる。
蛇はつまり、自分が生き残りたければ生贄を差し出せ、と言ってのけたのだ。
言い換えれば、その男を殺せば助けてくれる、と。
そしてこの噂はあっという間に近隣に広まり、当然だが雫の婿になるという人間は一人もいなかった。
当然だろう。
確実に殺されると分かっているのに、そんなものに飛び込む者はいない。
今回も、武芸に名高い少し遠国の者に、婿になってもらえないかと頼みに行った帰りである。
だが、すげなく断られた。
雫の家である久遠院家の領地はさほど広くないとはいえ、銀山を有し、野の実りも豊富な上、山と海に囲まれて守るに易く攻めるに難い、いわば理想的な領地だ。
当然、本来であれば久遠院家と誼を通じたいと望む者は少なくはないのだが、かといって蛇妖に殺されると分かっていて来るものは、やはりいない。
「姫様、今回は残念でしたが、まだ希望は――」
「もういい
、八次。私は蛇に縊り殺される運命なのでしょう」
妖が女を娶る、というのは食い殺すとほぼ同義と云われている。
「しかし、姫様が失われれば、この地は……」
「八次。あなたがいます。まあ、色々誹りは受けるだろうけど」
八次、と呼ばれた男は、悔しそうにうつむいた。
久遠院家とは縁戚関係にある家からきた八次は、雫の世話役としてこの家に来た。そして、確かに雫がいなくなれば久遠院家を継承する可能性がある。
だが雫が蛇に殺されれば、一人生き残ったことに後ろ指指される可能性はある。
それは、八次としても歓迎しないことは、雫とてよくわかっていたが、かといってもう時間がなかった。
雫が十五となるまで、あと一月ほどしかないのだ。
これでどうにかなるとは、雫もさすがに思えない。
むしろ、今後八次が継承するにあたって、周囲への根回しをしておくべき時期になっている。
遠く、帝にまで支援を願い出たこともあったが、都の辺りは戦乱の気配があり、とてもではないがそのような支援は望めなかったのだ。
返ってきた
文にあったのは、要約すれば『自分達で何とかしろ』という事だった。
なまじ容姿に優れている雫は、それゆえに近隣でもよく知られており、結果、蛇憑きの姫というのは、初対面の者でも知っていることになってしまう。
家に仕える者も、雫の生誕日が近付くにつれ、少しずつ減っていった。
蛇に襲われて死にたくないという気持ちは分かるので、雫としても引き止めにくい。
それでも責任感のある者達は残っているが、雫は十五になる日には、全員に暇を出すつもりでいた。どうせ何をしても無駄なら、犠牲者は少ない方がいい。
「まだ希望は。こうなれば、どんな人間だろうと……ん?」
うつむいて歩いていた雫は、八次の声に顔を上げた。
正面に見えるのは雫の邸の門。
幅
二丈にもなる両開きの大門は、久遠院家の隆盛ぶりを示すものであったが、今は少しやつれて見えるのは、果たして気のせいか。
ただ、八次が訝しんだのはその門に対してではなく、その前にいる、男に対してだろう。
(誰……?)
見覚えはない。
無精ひげが見えて、髪もひどく乱れている。およそ身だしなみという点においては全くなっていない。年齢が分かりにくいが、いっても四十歳くらいか。
纏っている着物は紺色で一応乱れはないが、あまり上品なものではなさそうだ。
腰には刀を佩いていることから、武士ではあるのだろう。
士官の口でも探しに来た浪人だろうか。
戦乱の影響がまだあまりないこの地域では、少し珍しい。
武士が士官の口を求めるなら、戦乱の気配があり
、戦場での活躍が出来る中央へ行きそうなものだが。
「何者だ、ここは久遠院家のお邸。薄汚れた浪人がうろついていい場所ではないぞ」
「ああ……すみません。その、噂をお聞きして、雫姫という方を一目見たく……」
「無礼な!」
八次はそう言うと、刀を抜いて男に突き付けた。
八次は久遠院家の剣術指南役から、皆伝を言い渡された身。その技量は確かであり、抜刀から構えまで、一部の隙もない。
刀を突きつけられた男は、驚いたように少し下がるが――腰を抜かして転ぶかと思ったが、そうはならなかったらしい。
「申し訳ない。私はその、噂を聞いて、蛇妖退治の者を募るのではないかと思いまして……」
「貴様、妖切りか」
「はい。といっても、今まで小物しか相手にしたことはありませんが」
妖切り。
武士の中でも、妖を斬ることに特化した集団だ。
といっても、特別な術を使ったりするわけではない。
なので、専門の者といっても単に武芸者であることに変わりはなく、むしろ人を斬ることから逃げた者だと揶揄されることもある。
「申し出は嬉しく思いますが――私を狙う蛇妖は侍十人を一息で殺した大妖。到底どうにかなるものではありません。どうか、お引き取りを」
一人の妖切りで勝てるのであれば、苦労はない。
雫とて、無策でこの二年を過ごしていたわけではなく、蛇妖がいるという山に、周辺の国の支援を受けて討伐隊を差し向けたこともある。
だが、結果はむごいものだった。
焼けてぐずぐずになった武者たちの頭だけが、突然邸の庭に放り込まれてきたのである。
以後、周辺の国々は一切手を貸してくれなくなり、結局無為に二年が過ぎたのである。
「噂は聞いております。ですが、もう幾日もないと聞く。藁をもつかむではないですが、雇ってはもらえないでしょうか」
「貴様、結局俸禄口が欲しいだけか」
「いえ。……まあ、少しはありますかね。屋根といくらかの賄いさえいただけるなら、それで十分ですが」
その時、八次が突然刀を振るった。
男はそれに驚いたのか、全く身動きせず――男の羽織と下の着物が切り裂かれ、肌が露出する。
その、右胸にあるのは痛々しいほどの火傷の痕。
「貴様、咎人か」
言われてから、雫はもう一度男を見た。
よく見ると、火傷の中に何かの模様が見える。
確かそれは、罪を犯した者に対して捺す焼き印の痕だ。
つまりこの男は、いつかは分からないが、咎を犯した
罪人ということになる。
といっても、火傷も見た目は痛々しいがすでに傷としては塞がっていて、その火傷は明らかに焼き印を捺された後に負ったものだ。
となれば、相当に前の話ではあるだろうが――。
「はい、そうです。私は罪を犯した。ですから、雫姫をお守りするという徳を積むことで、少しでも赦されたいという願いもあるんですよ」
貴人を守ることは徳を積むことだという信仰が、特に民の間では広まっているのは知っている。
実際、それで恩赦を得た罪人も過去にいたというから、全くの
虚というわけでもない。
「……そなた、名は?」
「如月と申します。雫姫」
そう名乗った時、男は初めて顔を上げた。
無精ひげに乱れた髪で、年齢は判然としないが――見た目ほど年は行ってないような気がする。何より、声が若い。
「私のために、命を賭す覚悟があると?」
「はい」
如月と名乗った男は、全く逡巡せずにはっきりと言い切った。
わざわざここに来るということは、『蛇憑きの姫』のことも知っているはずで、その自分を守るということが、どれだけの危険を伴うかも、分かっているだろうにも関わらず、である。
「……では、私の夫となれるか?」
「姫様!?」
八次が驚いて振り返る。
雫姫の夫。つまり蛇憑きの姫の夫となるということは、つまり蛇妖に殺されるということを意味する。
蛇妖がどれだけ強大な存在であるかは、すでに近隣に知れ渡っているし、今でも領地でも近隣の国でもいくらでも話を聞くことは出来る。
つまり、これは『死ぬ覚悟があるのか』と聞いてるに等しい。
だが。
「それが必要であれば、そのように。しかし私のように卑しい身分の者がなってよいのかというところだけは、気になりますが」
そう言いながら、如月はしかし全く動じた様子がなかった。
この男は本気で、蛇妖と刃を交えることを覚悟していると確信でき――。
「よかろう。契りを結ぼう。今日より汝は、我が伴侶となる」
「姫様、い、いくら何でも!?」
「他に手はあるまい? それとも八次、お前が務めてくれるのか?」
「そ、それは……」
八次が返答に窮していると、雫は少しだけ表情を緩めた。
「いいの。それは無理だと分かっているから。……如月。そう呼んでいいか?」
「無論です。ああ、あと。役目も分かっていますから、これは仮初の契りであるとも理解しております。決して、指一本触れぬことをお約束します」
雫が言い出す前にそう言われてしまい、むしろ雫は呆気にとられた。
この男は、本当に雫の代わりに殺されるためにここに来たというのか。
「それは……そういうつもりだったけど、いいの?」
思わず言葉遣いが外向きではなくなってしまう。
だがそれに、如月はどこか温かみのある笑みを浮かべて、「もちろんです」と頷くのだった。