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第12話 成績と不満 -1/3- ①

ー/ー



四月十一日。
プラグとシオウが、朝、すごい距離を走って汗だくになったその日。

アルス達、候補生の午後の授業はなんと、今朝、プラグとシオウがやったという『飛翔駆け』だった。
引率はリゼラだけ、らしい。
「では、飛翔駆けの注意を説明します。皆、集まってー、注目!」

この場にはシオウ、プラグはいない。二人は『三倍鍛練』で訓練棟と言う所にいる。
二倍のアドニス、フィニーはいて、アドニスは真面目に聞き、フィニーは溜息を吐いている。
アルスは『飛翔駆け』はてっきりシオウ、プラグだけの特別メニューだと思っていたので、意外に思うと同時に嬉しく感じた。
こうして誰にも分け隔てなくやらせてくれるのは、この騎士団の良いところだと思う。
皆もそれは思ったようで嬉しそうにする男子もいた。

「えーとですね、これがクレナ湖です」
リゼラは地面に木で丸を描いた。……ざっくばらんなところが彼女らしい。

「で、宿舎がここ。私達はここ。今まで、私達はこの、西の森を走っていたけど、途中で別れ道があります。見た事あるかも。そこを曲がると、実はクレナ湖の外周に繋がっています。一周、何キロか分かる人いる?」
すると複数の声が『八十キロ?』と答えた。
「そう。八十キロ。実は隊士達は、結構気軽にこの距離を走ります。私もたまに走るわ」

リゼラの言葉にどよめきが起きる。
「と言ってもね、これは絡繰りがあって、ここで使うのが『飛翔駆け』なの。慣れると、かなり早く、しかも体力の消費も抑えられて長距離を走る事が可能です。それでも一度に八十キロはやっぱり時間が掛かるの。私でも、二、三時間かな。ぶっちゃけ、急いでも意味はないから、適当にしているんだけど、この一周を一時間から一時間半くらいで走っちゃう強者もいるわ」
リゼラの言葉に、皆がぽかんとした。

八十キロを一時間……。
全く実感が湧かないというか。
そもそも、どのくらい凄いのか分からなかった。

「あの……八十キロって、普通に走ると、どれくらい時間がかかるんですか?」
手を挙げたのは紅茶色の髪に、レモン色の瞳。フォンデだった。
彼は、ちょうどリゼラの近くにいた。
リゼラが苦笑する。
「ええとね、半分の四十キロで、よっぽど慣れた人で、三時間から四時間……ってところかしら。慣れない人は、途中で体力が尽きて、走るのは無理、ってなるわ。プレートの力は凄いのよ」
フォンデは「うわ……」と呟いた。そして、嫌な予感がする。
「ってまさか……」と言ったのは青髪のウォレスだ。

「えー、残念ながら、皆さんは、今日からしばらく、午後の鍛練はこれです」
リゼラの言葉に、皆が、うわああああ、と頭を抱えた。

「と言っても、大丈夫。実は今朝、シオウとプラグが先にこの道を走ってくれて――いや二人とも、本当に何も聞いてなかったと思うけど――ここまでっていう限界を、先輩達が相談して決めました。一緒に走ったクラリーナ先輩曰く、三十五キロ地点で折り返して、戻ってちょうど七十キロ……なんかゴメンネー、って距離になっちゃったけど、木に赤いリボンで印があるから、それが目標です」
リゼラの言葉に、男子達が目を丸くした。
「はぁ七十キロ!?」「嘘だろ!?」
「あの二人まじか!? 馬鹿じゃね!?」
「そんなの無理だって!」
と口々に言った。

女子達――この場にいるのは、戦闘クラスの、アルスと、ナージャ、リルカ、ペイト、伯爵令嬢カトリーヌ、男爵令嬢のリアンナ、平民のリタ、アイリーン、そして何故か入れられ泣きそうなキールの九名だが、皆、距離の実感が湧かずにぽかんとしている。
ちなみに他の女子は全て事務志望で、今は教室で授業を受けている。

するとアドニスが。怖々と言った。
「ちょっと、待って下さい、あの二人、どのくらいの時間で走ったんですか……?」
「五十分ね。言っとくけど、ぜっったいに、真似しちゃ駄目よ! 死ぬわよ!」
……二人が汗だくになっていたのは、皆が覚えている。
アルスも、そんなに大変だったのかな、と他人事のように思っていたが――。

「五十分……!? 七十キロを!? 走った!?」
「嘘だろ!? あいつら人間か!?」
と言う当たり前の感想が聞こえる。

「えー。うーん、まあ、そもそも、クラリーナさんは人外って言うか、ちょっと精霊の血が濃い人なの。まあ人でも慣れたら、それくらいの力は出せるんだけどね。あの二人の事は置いといて、私もコリントも、初めは全然駄目だったけど、初め走りきれなかった子達も、半年くらいで完走できてたから、地道にやればなんとかなるわ。私が今、二時間、三時間、とかなんだから、急ぐものじゃないってのは分かってもらえると思う」

リゼラは改めて『飛翔駆け』のやり方や、注意点を説明してくれた。

「目線は先に。障害物が無いか、あらかじめ何処を通るかは考えておいて。で、立ち止まる場合は手で後方に合図を。拳を握った後、指で何秒後、って示して、振ると何十秒後かに停止、っていうあれよ」
リゼラが言った。
ちなみに進むときは拳を握らず手を挙げる。他にも合図は色々あって、例えば右へ曲がるときは親指だけ立てて右を示し、左へ曲がるときは同じく親指を立てて左を示す。
「あ、そうそう、速く走っていて、転んだ場合は怪我をするから、間に合えば盾で防いで。小石とか、枝だとか、前の人が飛ばす場合があるから気を付けて。盾をずっと展開していると霊力を使うから、できれば風で弾いても良いんだけど、これは難しいから、今は無し。転んだらすぐ治療のプレートを使って良いわ。何度でも転んで、慣れる感じで」

転ぶ、転ぶ……と、まるで転ぶように言われた。
飛翔駆けはやったことがあるので、そんなに、転ぶ気はしないのだが、確かにあの時は平地でやったし、距離も短かった。

「――って感じね。『飛翔駆け』は授業でやったから、感じは分かると思う。初めは常歩(なみあし)か、速歩(はやあし)で良いわ。それも初めから、速歩(はやあし)で飛ばすとバテるから、初めは『常歩(なみあし)』で半分走って、その後、折り返して、帰りに余裕があったら速歩(はやあし)にする、とかで十分よ」
リゼラの言葉に、アルスはなるほど、と思った。
確かに帰りなら、どんな道だったかも分かるしやりやすい。

「目標時間は、アドニスとフィニーは、片道一時間半で往復三時間。いけそうだったら、帰りに急いで二時間から二時間半を目指して。他の男子も、三時間……はちょっときつい目標だから、行き二時間、帰り二時間の合計四時間を目標にして。あ、時計はここから持って行って。ついでにこのプレートも」

リゼラが箱を指さした。何が入っているのか……と思ったが、懐中時計だったようだ。
一緒に、赤プレートも回って来た。
リゼラが一枚見せて説明する。
「こっちは『狼煙(のろし)』のプレートです。もう無理! ってなったらこれを使って下さい。ル・フィーラで。そうしたら、支援騎士が迎えに行きます。と言うか、もう森に行っていて、だいたい五キロごとに一人か二人、待機しているから、何かあったら相談して」
アルスにもプレートが回って来る。

「ちなみにこの狼煙(のろし)のプレートは、火の精霊の結晶から作られる物で、簡単に補充できるから、出し惜しみはしなくていいわ。要するに、今後の訓練でやばいな、ってなったらその都度、使う物よ。すぐ作れるし。安全第一で。このプレートは、皆のは色がついてない白い煙が出るけど、私が持ってるのは煙に赤い色がついています。始まりと、終了の合図としてね。煙の色の違いは、ゼクナ語でここに書いてあるわ」
リゼラが候補生達のプレートと、自分が持つプレートを比べて見せた。

絵柄はどちらも煙で全く同じだが、リゼラの物は上部の文字部分にゼクナ語で『狼煙』、下部には『赤煙』と書かれていた。
そしてアルス達、候補生のプレートは下部が『白煙』となっている。

「このプレートについて質問はある?」
リゼラが言うので、アルスは手を挙げ、当てられた。
「あの、その赤い紙って貼ったんですか?」
リゼラのプレートには、プレートに書かれた文字以外に、上の方に赤い紙が貼ってある。
「ああ、うん。これね。聞いて欲しかったわ。そうよ。いちいち読まないと色が分からないから、こうやって見分けるように貼ってあるの。糊で貼ってあるんだけど。プレートにインクで色を付けるのは、あんまり良くないから、やらないでね。やると怒られるわ。この糊は洗えば取れるし、剥がれにくいの。隊士は皆持ってるから、必要だったら誰かに借りて」
これはアルスもたまに感じるのだが、プレートには便利なのか不便なのか分からないところがあるようだ。しかしプレートの仕様は変えられないので、工夫して使っているのだろう。

「そんな訳で、習うより慣れろ! とりあえずやってみましょう。大丈夫、転んでも盾があるし、治療もある! 狼煙もあるから大丈夫! でも頭と目には気を付けて! 以上。あ、男子はそこでちょっと待ってて、女子、ちょっと来て」

女子九名はリゼラに呼ばれて、木の陰でこっそり会話した。
「……この中に、今日体調が悪い。って子はいる? つまり、女子特有のあれだけど」
リゼラの言葉に、平民のアイリーン――癖のある亜麻色の髪を高い位置で二つに結んだ、薄茶色の瞳の少女――が小さく手を挙げた。
「そう、無理しないで。この訓練、今日だけじゃ無いから、そう言うときは適当に流して、ゆっくり行くか、できるところまでで戻って来て。実はこの訓練、案外難しくて……毎回、脱落者が出まくるの……。特に多いのが足の骨折。上手く操作ができないと足に負担が掛かって折れるの。『治療』で治して走るんだけど、それも何回もだとあんまり良くなくて。これは今から説明するけどね。ぶっちゃけプラグとシオウは化け物よ。今年はどうかしら……」
アルスは骨折、と聞いて恐ろしくなった。

リゼラは輪から離れて、声を張り上げた。

「じゃあ最後の注意よ! 骨折の治療は二回まで! 二回折ったら、諦めて狼煙を上げて下さい! 上手く霊力が調整出来ないと、足がバキバキに折れます! そしたら医務室で治療です! ここに救護所も置くので安心して! 足全体を霊力で包むイメージでがんばって! じゃあ行きましょう!」

■ ■ ■

「プレートを起動して!」
リゼラの声に、皆が「ル・フィーラ!」と唱える。
そして走り出したのだが。
アルスは骨折、と聞いて怖かったのだが――。
先導はリゼラだ。

(いっそ、リゼラさんについていった方が良いかも)
アルスは以前、飛翔駆けの授業でプラグの走りを見ていたら上手く出来たことを思い出した。そのほか、シオウ、アドニス、あとはフィニーも上手かった。
たまに飛び跳ねて、数歩進んでまた跳ねて、というあの感じだ。
治療できると言っても足を折りたくは無いので、しっかりと霊力で覆う。

この感覚はプラグに聞いたら、風とか、好きな物でイメージすればいいと言っていた。
プラグは『風』を纏う感じ、と言っていた。
シオウは『炎』だと言っていたし、フィニーは『なんとなく光ってる感じ』と言っていた。アドニスは『水』だと言っていた。
アルスはお手本と言う事で、プラグの真似をしている。ウル=アアヤも風の精霊なので、合っている気がする。

しかしリゼラは、あっと言う間に速度を上げた。
「私は先に行くわ――!」
「ええっ」
手本が無くなり、アルスは焦った。そしてふと、これはゆっくり走るのも難しいのではないか、と思った。
以前、走った時にも思ったが、飛び跳ねると案外疲れる。襲歩(しゅうほ)の全速力は五分が限界。
そもそも速歩は、十分から二十分、長くても三十分までにしろと言われている。
(どうすればいいのかしら)

アルスは、アドニスとフィニーがまだ近くにいたので聞いてみた。
同じ二倍のフィニーが戸惑っているので、アドニスが少しゆっくりしているのだ。
「アドニス、ちょっといい?」
「はい?」
「聞きたいんだけど。これって、初めてで完走できる物なの? さっき、骨折って言われたけど。やったことある? 走るの、二、三十分くらいにしろって習った気がしない?」
リゼラにつられて、先に行った男子も沢山いる。半分くらいだろうか。いつのまにか、アドニス達は後ろの方にいた。一応、プレートは使っている物の、普通に走るより、少し速いくらいの速さだ。
するとアドニスが頷いた。
「その通りです。人間が長く走るには、コツがいります。この半分の距離はやったことがありますけど、長く走る場合は、余程しっかり、足を守って下さい。あとは靴です。実は、靴が壊れるのが圧倒的に多い。靴を壊すと足が壊れます。皆さんに言っていいんでしょうか?」
アドニスは迷っている様子で、アルスは大いに焦った。
「それは言いましょうよ! 皆、ちょっと聞いてよ、アドニスが、靴にも注意だって! 靴が壊れたら駄目だって! 足もしっかり守って、だって!」
アルスは声を張り上げた。
前方の男子が振り返って、ああ、と言った。
「そっか、そうだよな!」「ありがとなー! やってみる!」
と言う声が聞こえる。

「しばらく一緒のペースでいい? やり方を見させて欲しいの。遅かったらごめんね」
アルスの言葉に、アドニスが頷いた。
「ええ、ちょうどフィニー君に教えようと思っていたところです。人らしく、長く走る方法を。リゼラさんは行ってしまいましたが……ここは厳しいですね」
アドニスは苦笑している。
「でも、平等だわ。一応。やることだけはね……一応」
アルスは答えた。前を走っているので、表情は見えないが、アドニスが笑った気がした。
「では説明します」
アドニスの周囲にはウォレス、イアンチカ、そのほか数名がいて、皆、走りながら彼の言葉に耳を傾けている。アドニスはプラグ、シオウに次いで優秀で、元々プレートの知識があるので頼りになるのだ。

「じつは足と同じくらい、大事なのは呼吸です。精霊の血がたくさん入っていそうなプラグ君、シオウ君、あとフィニー君のように特殊な方意外は、必ず途中でバテます。そもそも、足を速く動かすと体温が上がりますから、肺や心臓にも負担が掛かります。霊脈の感覚は分かりますよね? 胸が温かくなる感じ」
「ええ、分かるわ!」
アルスは答えた。

「あの二人が七十キロを五十分というのは――意識しているかは分からないですが、人間だとしたら、霊力で霊脈を守り、なおかつ、心肺機能、血液の循環も強化していたはずです。その上で、さらに調整し、霊力で下半身を守り、できれば一緒に靴まで守る。更に、できることなら、なるべく、足や心臓に負担の掛からない走り方を見つける――とそんな感じで教わりました。短距離はそこまででもないのですが、長距離走は、かなり高度な技術です。走り方は個人の自由なんですが、速く長く、例えば襲歩で走る場合は、大きく飛ぶと空気抵抗があるので、あまりに速いと、普通に、地面を走る感じになるそうです」

アドニスの言葉は、意外というか、全く知らない事だったので、アルスは唸った。
「そういうのは、言っておいてほしいわよね!」
「実際やって、慣れて行く、というのがこの騎士団のやり方のようです。確かに、僕も理論は知っていましたが、実際やるのは初めてですから。という感じで、良かったですか?」
アドニスが振り返った。

「ええ、ありがとう! 先に行って良いわ! やってみる」
アルスは答えたが、ウォレスは「ええっ、わかったの!?」と言った。
「ではフィニー君、できますか?」
「えっと、うん、できてるみたい。どこも苦しくないし。靴もいい。行こっか」
フィニーはさらりと言って、アドニスを見た。
「さすが」
アドニスが笑って、時計を取り出す。

「じゃあ僕達は、しばらくペースを上げてみます。バテるようなら緩めて、とりあえず、行きは二時間以内、帰り一時間から半くらいで……骨折しないように。まあ骨折は二回までは良いようですから。折り返し地点でペースを調整します」
「わかった。ついていくけどいい?」
フィニーはもうアドニス任せにするようだ。
「ええ、いいですよ。では、ご無事で」
アドニスが行って、二人は走りに集中した。
すると小石が飛んで来た。

「あ、そう言えば、小石! 盾を出すのかしら?」
するとウォレスが。
「あ、それ、兄ちゃんが、出さなくてもいけるって言ってた。そういや、言ってた。その時だけ、自分の周りに盾っていうか風の流れを作る感じで。盾って感じだと難しいから、そのまま飛翔の操作の延長で? みたいな事言ってた」
「風の流れね……ゼラトなら上手そうよね。ああ、でも、もう見えないわ」
ゼラトは先を進んでいる。
「あんまり喋ると、虫が口に入って困るってのも言ってたな」
「う……確かにそうよね……」
アルスは言いながら、少し慣れて来たかも、と思った。
言われたとおりに霊脈を意識して、呼吸を整えているのだが、アルスは、肺や心臓、血管、足、靴、風で全てを包んでも――弾いても……霊力が余るほどある。

自分の霊力を自覚したのは、これが初めてかもしれない。
(私って、本当に、王族だったのね……)
王族は強い霊力を持つ、とか、精霊使いの適性がある、と言われているのだが。今まで意識したことは無かった。

一応、『霊力』は、霊力調整の授業で『解析』のプレートを使って見たのだが、いまいち、はっきりしなかった。確かに目で見えたが、光の強さは皆、同じくらいで、プラグとアルスと、他の子達もほとんど差はなくて、結局何が違うのだろう? と思ったのだ。
その時はプラグに『光の違いは『見る』感覚に慣れないと分からないから。アルスなら、そのうち良く見えるようになるよ』と苦笑気味に言われたのだが……もしかして、今、『解析』使って、自分や周りを見たら、違うのかもしれない。

「ありがとう、私、自分のペースで、初めはゆっくり走るわ」
「ん、俺もそうする。アドニス達より、大分遅れるのはしょうがないから、とりあえず完走を目指す!」
ウォレスの言葉に、アルスは微笑んだ。ウォレスは育ちが良いというか、素直だし、ゼクナ語の勉強もとても頑張っているし……できれば彼みたいな人に、隊士になってほしいと思った。
その時、ウォレスが木の根につまずいた。
「ウワッ」
つまずいたウォレスは――なんと、宙に浮いた。
一瞬、ゆっくりに見え、すさまじい速さで地上から離れていく。
アルスは飛翔駆けの危険を理解した。
「ル・フィーラ!」
アルスは咄嗟に盾を取り出して、柔らかい幕を作って、ウォレスを包んだ。
「わぁあっ」
ウォレスが地面に叩き付けられる瞬間、盾を強化する。
しかしアルスは、すぐには止まれない。急に止まろうとすると、靴が――。その時思い出したのは、精霊剣の授業の後、散々やった受け身の自主訓練だ。
アルスはいっそ、と思って、風を纏ったまま、地面に転がった。

地面を五、六回転して、奇跡的に上手く行って衝撃はかなり吸収できた。どこも痛くない。
「ウォレス――大丈夫!?」
アルスは起き上がり、ウォレスに駆けよって確認する。ウォレスは地面に手を突いて、驚いていた。
「……びっくりした、ありがと、大丈夫……! っていうかお前は!? 大丈夫か!?」
「私は平気だわ。受け身の訓練、してて良かった……! なるほど、こういうことなのね、霊力って便利だわ」
「アルスが凄いんだよ……いやびっくりした、本当、ありがとう! 死ぬところだった! 器用なんだな。なんか、膜に包まれた気がしたけど」
「そうなの。盾で薄い膜を想像して、先に包んでおいたの。間に合うか分からなかったけど、膜を固くするのが間に合って良かったわ」
「おおおおお、すげぇええ!! さすが王女様だな!」
ウォレスが言って、その後「あ、ごめん、さすがアルスだな!」と爽やかに言い直した。
屈託がなさ過ぎて、アルスは思わず笑ってしまった。
「どっちでも良いわよ。さて、行きましょうか……でも思ったより危険ね……まさか浮くなんて」
「うん、これ結構難しい……気がする。アルス、先に行っていいよ。喋ると危ないし、なんか良い感じじゃないか?」
「そうかしら……でも、そうかも。分かったわ。完走、頑張りましょう。あなたは走れる?」
「余裕! でもまだコツが掴めなくてさ。ちょっとこの辺で、練習してからいく。霊脈とか、呼吸ってやつ?」
ウォレスが言ったので、アルスは本当に驚いた。
「貴方って凄いのね! そういうの、中々出来る事じゃ無いわ。いつも勉強してるし……」
するとウォレスが照れくさそうに笑った。
「いや、俺、出来ないのは分かってるからさ。そう言うときは、出来る方法でやればいいって、兄ちゃんが言ってた。よく分かんないけど、自分を大切にってさ」
アルスは瞬きをした。
「凄い人なのね。いえ、ウォレスが凄いのかしら。百点よ。じゃあ、行くけど、頑張って」
「ああ!」

アルスは走り出した。正直、ウォレスに何かをあげたい。
彼は思い返せば、もしかして……ほとんど毎日、早起きしているのでは無いか。
アドニスと同室になったとはいえ、そこまでする必要はないのに。

(私も無理しない程度に、頑張らないと)
しかし、アルスは自分の事がよく分からない。
勉強はできる方だし、鍛練も、やったら結構、身についていく。
霊力も、もしかしたら思ったより、豊富なのでは……?

(……少し、無理をしてみようかしら)
自分の霊力がどの程度あるのか。実感が湧かない。だったら試せばいいのだ。
幸い、倒れても、今日は初日。駄目だったら狼煙もあるし、途中に支援隊士もいる。

普通のアルスは、七十キロどころか、四十キロも走れない。走っても、たぶん十キロが限界だ。朝は五キロでやめているが、何回か、十キロなら走った事がある。
心地よい速さ、間に合いそうな速さ、体力が残りそうな速さ。
アドニスはしっかり、時間を決めていた。一旦、止まって、時計を取り出すと、既に二十分が経っていた。周囲に人はいない。

(今、どの辺りかしら。ここからだと……)
と思ってきょろきょろしている見ると、少し先に誰かいた。
「おーい、そこの子、大丈夫? 道はこっちだよ!」
隊服を着ている。どうやら手伝いの隊士のようだ。日除けなのかフードを被っていて、男性と言う事しか分からないが、初めて会う隊士だ。
「あっ、はい。大丈夫です、ここって今何キロですか?」
「ここはまだ、十キロ地点だよ」
「えっ。もうそんなに? 全然疲れてないのに……」
「あ、そうなんだ? じゃあ頑張って」
「はい、そうします。どうしようかな……一時間で、折り返しまで……いえ、ちょっと無理ね。今二十分だから、あと一時間半くらいで……二時間かしら。帰りも一時間半で、合計三時間半、目標で。うん、行ってみます」
「そう? 無理せず頑張ってね」
「はい!」
アルスは軽やかに駆け出した。

――体が軽い。

思い出すのは、プラグの見事な走りだ。
あんな風に、風のように走れたら。きっと気持ちが良いだろう。

(正面を見て……笑ってたわね)
アルスは思い出した。
そう言えば。プラグはプレートを使うとき、いつも楽しそうに見える。
アルスは必死で、できないと困る、と思ってやっていたが。もう少し『自分』を楽しんでもいいのかもしれない。

■ ■ ■

アルスは自分のペースで、無理をせずに二十キロまで来た。

そこまでの間に、レジナル、ポーヴィン、ビリー、ライネル、ダニエル、ヨアヒム、グレイブが膝を突いていたり、歩いていたりして、こんなに? と思ったら、急にそれより多くなってきた。
下位クラスの男子達のほとんどが、体力が限界、もう足が動かない、と言った様子で、倒れ込んで、呼吸を乱しているのだ。

後は女子で言えば、リタとアイリーン。立ち止まって話したが、アイリーンが体調を崩してもう無理そうなので諦めるという。狼煙を上げていた。リタも体力が限界だと言った。二人ともそもそも、戦闘クラスにいるものの、さほど体力はない。アイリーンは悲しそうにしていたし、リタは泣いていた。
「そうよね、ちょっときついわよね。無理しないで。でもここまで来たのは凄いわ!」
「アルスちゃんは大丈夫? もう男子達も、ほとんど諦めてるの」
リタが言った。
「なんとか。コツが掴めた気がするの。もうちょっと頑張るわ、せめて完走する」
アルスは答えた。
「……完走、頑張って!!」
リタの応援を受けて、アルスは走り出した。
アルスはその後も順調に、距離を稼いでいったのだが。
前方に見覚えのある、長い金髪巻き毛、一つ結びの後ろ姿が見えた。

「ナージャ? どうしたの?」
アルスはびっくりして立ち止まった。ナージャが、立ち止まっている。
しかし、ナージャは倒れていない。
「先程、足が折れて……治療したのですが、続行できるか、考えていました」
「アドニスの話は聞いた? そういえば、少し前にいたわよね?」
アルスは言った。
確かナージャはアドニスの斜め前にいて、彼の話を少し速度を落として聞いていた。
「ええ、少し前で聞いていました。でも難しくて。できないようです。アルス様は?」
「私は、何とかなりそう……かも。ナージャはどうするの?」
「治療はあと一回ありますが、迷ってしまって」
「体力はあるの。霊力は?」
「それはなんとか……靴も壊れていません。ただ、呼吸をする感覚が掴めないんです」
ナージャが眉を顰めている。
「じゃあ、あと五分休んで、もう一回、走ってみて、考えたら? 折り返しまであとちょっとだし……あ。そうだ! ウォレスがね、立ち止まって、呼吸の練習をしてから走っていたの。試しにやってみたらどう? まだ後ろにいると思うんだけど。完走が目標だって!」
アルスは思い出して伝えた。ウォレスはまだ見かけない。多分、アルスの後にいるのだろう。
ナージャがはっと顔を上げた。
「! ……そうですね、やってみます。アルス様、どうぞ、お先に行って下さい」
ナージャの言葉に、アルスは頷いた。

ナージャのすぐ先に、レンツィ、フォンデ、エミール。
普通、これくらい走れそうな上位クラスの男子もいた。
――アルスは不思議だった。

(これって、そんなに、難しい事なのかしら。やっぱりアドニスの言う事って、的確なのね。呼吸が大事って聞いてなかったら、私もああなっていたわ)

その時、アルスはもしかして。と思った。
――もしかして『もっと、誰かに聞け』と言うことでは無いだろうか?
「まさかね」
アルスは呟いた。とても優れた隊士達がいるのだから、さすがにそれはないだろう。

そして。折り返しの印が見えた。赤いリボンが結んである――と言うよりリゼラが立っている。
「リゼラさん!」
アルスは嬉しくなって、速度を落として立ち止まった。思わず飛びついて手を取る。

「え! アルス!?」
リゼラは驚いたようだった。

あまりに驚かれたので、アルスは逆に驚いてしまった。掴んだ手を引っ込める。
「あっ、えっと……フィニー達はもう来ましたか?」
アルスは尋ねた。リゼラは苦笑気味に頷いた。
「ええ、二十分くらい前にね。後は、ペイトとゼラト、アラーク達も、何とか行ったわ。この訓練、いつもこうなのよ。実は『飛翔駆け』って、慣れないと普通の倍くらい体力を使うの。完走できるだけで本当に凄いんだから。無理しなくてもいいけど……いけそうなら、最後十キロは思いっきり走ってみたら? 骨折に注意よ。ちなみに明日は、筋肉痛かも?」
「うわ、筋肉痛……はい。そうしてみます」
アルスは思いっきり苦笑いをした。その可能性を忘れていた。

アルスは駆け出した。
――そう言えば、プレートを発動したままだったが、霊力を上手く抑えられている。
飛ぶように軽やかに駆けながら――きらめく物に気が付いて。初めて、木々の合間を注視した。
それは水面で。見慣れた景色なのだが、この場所から見たことは無い。綺羅綺羅と輝き、とても新鮮だった。

(楽しいわ!)

景色は流れるように過ぎていく。途中何人も追い抜いた。
あと、十キロ。
この森を抜けて、いつもの道に戻り――開始地点に戻って終了だ。

(全力ね、私の全力って何? 私の可能性って何?)
アルスはいつも分からない。
何ができるのか。聖女の力は生まれ付きの物で、体力があるのも生まれ付き。わりと賢いのも生まれ付き。王族だって生まれ付きで、容姿だって生まれ付き。なんでも、余るほど、なんでもいっぱいあった。欲しい物なんて無い。
ただ、母がくれた、あの押し花が、もう一度、欲しかった。
何でもない、自由な暮らしが、一度でいいから欲しかった。

(お母さん……!)

アルスは全速力で、駆け抜けた。




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そもそも、どのくらい凄いのか分からなかった。
「あの……八十キロって、普通に走ると、どれくらい時間がかかるんですか?」
手を挙げたのは紅茶色の髪に、レモン色の瞳。フォンデだった。
彼は、ちょうどリゼラの近くにいた。
リゼラが苦笑する。
「ええとね、半分の四十キロで、よっぽど慣れた人で、三時間から四時間……ってところかしら。慣れない人は、途中で体力が尽きて、走るのは無理、ってなるわ。プレートの力は凄いのよ」
フォンデは「うわ……」と呟いた。そして、嫌な予感がする。
「ってまさか……」と言ったのは青髪のウォレスだ。
「えー、残念ながら、皆さんは、今日からしばらく、午後の鍛練はこれです」
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リゼラの言葉に、男子達が目を丸くした。
「はぁ七十キロ!?」「嘘だろ!?」
「あの二人まじか!? 馬鹿じゃね!?」
「そんなの無理だって!」
と口々に言った。
女子達――この場にいるのは、戦闘クラスの、アルスと、ナージャ、リルカ、ペイト、伯爵令嬢カトリーヌ、男爵令嬢のリアンナ、平民のリタ、アイリーン、そして何故か入れられ泣きそうなキールの九名だが、皆、距離の実感が湧かずにぽかんとしている。
ちなみに他の女子は全て事務志望で、今は教室で授業を受けている。
するとアドニスが。怖々と言った。
「ちょっと、待って下さい、あの二人、どのくらいの時間で走ったんですか……?」
「五十分ね。言っとくけど、ぜっったいに、真似しちゃ駄目よ! 死ぬわよ!」
……二人が汗だくになっていたのは、皆が覚えている。
アルスも、そんなに大変だったのかな、と他人事のように思っていたが――。
「五十分……!? 七十キロを!? 走った!?」
「嘘だろ!? あいつら人間か!?」
と言う当たり前の感想が聞こえる。
「えー。うーん、まあ、そもそも、クラリーナさんは人外って言うか、ちょっと精霊の血が濃い人なの。まあ人でも慣れたら、それくらいの力は出せるんだけどね。あの二人の事は置いといて、私もコリントも、初めは全然駄目だったけど、初め走りきれなかった子達も、半年くらいで完走できてたから、地道にやればなんとかなるわ。私が今、二時間、三時間、とかなんだから、急ぐものじゃないってのは分かってもらえると思う」
リゼラは改めて『飛翔駆け』のやり方や、注意点を説明してくれた。
「目線は先に。障害物が無いか、あらかじめ何処を通るかは考えておいて。で、立ち止まる場合は手で後方に合図を。拳を握った後、指で何秒後、って示して、振ると何十秒後かに停止、っていうあれよ」
リゼラが言った。
ちなみに進むときは拳を握らず手を挙げる。他にも合図は色々あって、例えば右へ曲がるときは親指だけ立てて右を示し、左へ曲がるときは同じく親指を立てて左を示す。
「あ、そうそう、速く走っていて、転んだ場合は怪我をするから、間に合えば盾で防いで。小石とか、枝だとか、前の人が飛ばす場合があるから気を付けて。盾をずっと展開していると霊力を使うから、できれば風で弾いても良いんだけど、これは難しいから、今は無し。転んだらすぐ治療のプレートを使って良いわ。何度でも転んで、慣れる感じで」
転ぶ、転ぶ……と、まるで転ぶように言われた。
飛翔駆けはやったことがあるので、そんなに、転ぶ気はしないのだが、確かにあの時は平地でやったし、距離も短かった。
「――って感じね。『飛翔駆け』は授業でやったから、感じは分かると思う。初めは常歩(なみあし)か、速歩(はやあし)で良いわ。それも初めから、速歩(はやあし)で飛ばすとバテるから、初めは『常歩(なみあし)』で半分走って、その後、折り返して、帰りに余裕があったら速歩(はやあし)にする、とかで十分よ」
リゼラの言葉に、アルスはなるほど、と思った。
確かに帰りなら、どんな道だったかも分かるしやりやすい。
「目標時間は、アドニスとフィニーは、片道一時間半で往復三時間。いけそうだったら、帰りに急いで二時間から二時間半を目指して。他の男子も、三時間……はちょっときつい目標だから、行き二時間、帰り二時間の合計四時間を目標にして。あ、時計はここから持って行って。ついでにこのプレートも」
リゼラが箱を指さした。何が入っているのか……と思ったが、懐中時計だったようだ。
一緒に、赤プレートも回って来た。
リゼラが一枚見せて説明する。
「こっちは『狼煙(のろし)』のプレートです。もう無理! ってなったらこれを使って下さい。ル・フィーラで。そうしたら、支援騎士が迎えに行きます。と言うか、もう森に行っていて、だいたい五キロごとに一人か二人、待機しているから、何かあったら相談して」
アルスにもプレートが回って来る。
「ちなみにこの狼煙(のろし)のプレートは、火の精霊の結晶から作られる物で、簡単に補充できるから、出し惜しみはしなくていいわ。要するに、今後の訓練でやばいな、ってなったらその都度、使う物よ。すぐ作れるし。安全第一で。このプレートは、皆のは色がついてない白い煙が出るけど、私が持ってるのは煙に赤い色がついています。始まりと、終了の合図としてね。煙の色の違いは、ゼクナ語でここに書いてあるわ」
リゼラが候補生達のプレートと、自分が持つプレートを比べて見せた。
絵柄はどちらも煙で全く同じだが、リゼラの物は上部の文字部分にゼクナ語で『狼煙』、下部には『赤煙』と書かれていた。
そしてアルス達、候補生のプレートは下部が『白煙』となっている。
「このプレートについて質問はある?」
リゼラが言うので、アルスは手を挙げ、当てられた。
「あの、その赤い紙って貼ったんですか?」
リゼラのプレートには、プレートに書かれた文字以外に、上の方に赤い紙が貼ってある。
「ああ、うん。これね。聞いて欲しかったわ。そうよ。いちいち読まないと色が分からないから、こうやって見分けるように貼ってあるの。糊で貼ってあるんだけど。プレートにインクで色を付けるのは、あんまり良くないから、やらないでね。やると怒られるわ。この糊は洗えば取れるし、剥がれにくいの。隊士は皆持ってるから、必要だったら誰かに借りて」
これはアルスもたまに感じるのだが、プレートには便利なのか不便なのか分からないところがあるようだ。しかしプレートの仕様は変えられないので、工夫して使っているのだろう。
「そんな訳で、習うより慣れろ! とりあえずやってみましょう。大丈夫、転んでも盾があるし、治療もある! 狼煙もあるから大丈夫! でも頭と目には気を付けて! 以上。あ、男子はそこでちょっと待ってて、女子、ちょっと来て」
女子九名はリゼラに呼ばれて、木の陰でこっそり会話した。
「……この中に、今日体調が悪い。って子はいる? つまり、女子特有のあれだけど」
リゼラの言葉に、平民のアイリーン――癖のある亜麻色の髪を高い位置で二つに結んだ、薄茶色の瞳の少女――が小さく手を挙げた。
「そう、無理しないで。この訓練、今日だけじゃ無いから、そう言うときは適当に流して、ゆっくり行くか、できるところまでで戻って来て。実はこの訓練、案外難しくて……毎回、脱落者が出まくるの……。特に多いのが足の骨折。上手く操作ができないと足に負担が掛かって折れるの。『治療』で治して走るんだけど、それも何回もだとあんまり良くなくて。これは今から説明するけどね。ぶっちゃけプラグとシオウは化け物よ。今年はどうかしら……」
アルスは骨折、と聞いて恐ろしくなった。
リゼラは輪から離れて、声を張り上げた。
「じゃあ最後の注意よ! 骨折の治療は二回まで! 二回折ったら、諦めて狼煙を上げて下さい! 上手く霊力が調整出来ないと、足がバキバキに折れます! そしたら医務室で治療です! ここに救護所も置くので安心して! 足全体を霊力で包むイメージでがんばって! じゃあ行きましょう!」
■ ■ ■
「プレートを起動して!」
リゼラの声に、皆が「ル・フィーラ!」と唱える。
そして走り出したのだが。
アルスは骨折、と聞いて怖かったのだが――。
先導はリゼラだ。
(いっそ、リゼラさんについていった方が良いかも)
アルスは以前、飛翔駆けの授業でプラグの走りを見ていたら上手く出来たことを思い出した。そのほか、シオウ、アドニス、あとはフィニーも上手かった。
たまに飛び跳ねて、数歩進んでまた跳ねて、というあの感じだ。
治療できると言っても足を折りたくは無いので、しっかりと霊力で覆う。
この感覚はプラグに聞いたら、風とか、好きな物でイメージすればいいと言っていた。
プラグは『風』を纏う感じ、と言っていた。
シオウは『炎』だと言っていたし、フィニーは『なんとなく光ってる感じ』と言っていた。アドニスは『水』だと言っていた。
アルスはお手本と言う事で、プラグの真似をしている。ウル=アアヤも風の精霊なので、合っている気がする。
しかしリゼラは、あっと言う間に速度を上げた。
「私は先に行くわ――!」
「ええっ」
手本が無くなり、アルスは焦った。そしてふと、これはゆっくり走るのも難しいのではないか、と思った。
以前、走った時にも思ったが、飛び跳ねると案外疲れる。襲歩(しゅうほ)の全速力は五分が限界。
そもそも速歩は、十分から二十分、長くても三十分までにしろと言われている。
(どうすればいいのかしら)
アルスは、アドニスとフィニーがまだ近くにいたので聞いてみた。
同じ二倍のフィニーが戸惑っているので、アドニスが少しゆっくりしているのだ。
「アドニス、ちょっといい?」
「はい?」
「聞きたいんだけど。これって、初めてで完走できる物なの? さっき、骨折って言われたけど。やったことある? 走るの、二、三十分くらいにしろって習った気がしない?」
リゼラにつられて、先に行った男子も沢山いる。半分くらいだろうか。いつのまにか、アドニス達は後ろの方にいた。一応、プレートは使っている物の、普通に走るより、少し速いくらいの速さだ。
するとアドニスが頷いた。
「その通りです。人間が長く走るには、コツがいります。この半分の距離はやったことがありますけど、長く走る場合は、余程しっかり、足を守って下さい。あとは靴です。実は、靴が壊れるのが圧倒的に多い。靴を壊すと足が壊れます。皆さんに言っていいんでしょうか?」
アドニスは迷っている様子で、アルスは大いに焦った。
「それは言いましょうよ! 皆、ちょっと聞いてよ、アドニスが、靴にも注意だって! 靴が壊れたら駄目だって! 足もしっかり守って、だって!」
アルスは声を張り上げた。
前方の男子が振り返って、ああ、と言った。
「そっか、そうだよな!」「ありがとなー! やってみる!」
と言う声が聞こえる。
「しばらく一緒のペースでいい? やり方を見させて欲しいの。遅かったらごめんね」
アルスの言葉に、アドニスが頷いた。
「ええ、ちょうどフィニー君に教えようと思っていたところです。人らしく、長く走る方法を。リゼラさんは行ってしまいましたが……ここは厳しいですね」
アドニスは苦笑している。
「でも、平等だわ。一応。やることだけはね……一応」
アルスは答えた。前を走っているので、表情は見えないが、アドニスが笑った気がした。
「では説明します」
アドニスの周囲にはウォレス、イアンチカ、そのほか数名がいて、皆、走りながら彼の言葉に耳を傾けている。アドニスはプラグ、シオウに次いで優秀で、元々プレートの知識があるので頼りになるのだ。
「じつは足と同じくらい、大事なのは呼吸です。精霊の血がたくさん入っていそうなプラグ君、シオウ君、あとフィニー君のように特殊な方意外は、必ず途中でバテます。そもそも、足を速く動かすと体温が上がりますから、肺や心臓にも負担が掛かります。霊脈の感覚は分かりますよね? 胸が温かくなる感じ」
「ええ、分かるわ!」
アルスは答えた。
「あの二人が七十キロを五十分というのは――意識しているかは分からないですが、人間だとしたら、霊力で霊脈を守り、なおかつ、心肺機能、血液の循環も強化していたはずです。その上で、さらに調整し、霊力で下半身を守り、できれば一緒に靴まで守る。更に、できることなら、なるべく、足や心臓に負担の掛からない走り方を見つける――とそんな感じで教わりました。短距離はそこまででもないのですが、長距離走は、かなり高度な技術です。走り方は個人の自由なんですが、速く長く、例えば襲歩で走る場合は、大きく飛ぶと空気抵抗があるので、あまりに速いと、普通に、地面を走る感じになるそうです」
アドニスの言葉は、意外というか、全く知らない事だったので、アルスは唸った。
「そういうのは、言っておいてほしいわよね!」
「実際やって、慣れて行く、というのがこの騎士団のやり方のようです。確かに、僕も理論は知っていましたが、実際やるのは初めてですから。という感じで、良かったですか?」
アドニスが振り返った。
「ええ、ありがとう! 先に行って良いわ! やってみる」
アルスは答えたが、ウォレスは「ええっ、わかったの!?」と言った。
「ではフィニー君、できますか?」
「えっと、うん、できてるみたい。どこも苦しくないし。靴もいい。行こっか」
フィニーはさらりと言って、アドニスを見た。
「さすが」
アドニスが笑って、時計を取り出す。
「じゃあ僕達は、しばらくペースを上げてみます。バテるようなら緩めて、とりあえず、行きは二時間以内、帰り一時間から半くらいで……骨折しないように。まあ骨折は二回までは良いようですから。折り返し地点でペースを調整します」
「わかった。ついていくけどいい?」
フィニーはもうアドニス任せにするようだ。
「ええ、いいですよ。では、ご無事で」
アドニスが行って、二人は走りに集中した。
すると小石が飛んで来た。
「あ、そう言えば、小石! 盾を出すのかしら?」
するとウォレスが。
「あ、それ、兄ちゃんが、出さなくてもいけるって言ってた。そういや、言ってた。その時だけ、自分の周りに盾っていうか風の流れを作る感じで。盾って感じだと難しいから、そのまま飛翔の操作の延長で? みたいな事言ってた」
「風の流れね……ゼラトなら上手そうよね。ああ、でも、もう見えないわ」
ゼラトは先を進んでいる。
「あんまり喋ると、虫が口に入って困るってのも言ってたな」
「う……確かにそうよね……」
アルスは言いながら、少し慣れて来たかも、と思った。
言われたとおりに霊脈を意識して、呼吸を整えているのだが、アルスは、肺や心臓、血管、足、靴、風で全てを包んでも――弾いても……霊力が余るほどある。
自分の霊力を自覚したのは、これが初めてかもしれない。
(私って、本当に、王族だったのね……)
王族は強い霊力を持つ、とか、精霊使いの適性がある、と言われているのだが。今まで意識したことは無かった。
一応、『霊力』は、霊力調整の授業で『解析』のプレートを使って見たのだが、いまいち、はっきりしなかった。確かに目で見えたが、光の強さは皆、同じくらいで、プラグとアルスと、他の子達もほとんど差はなくて、結局何が違うのだろう? と思ったのだ。
その時はプラグに『光の違いは『見る』感覚に慣れないと分からないから。アルスなら、そのうち良く見えるようになるよ』と苦笑気味に言われたのだが……もしかして、今、『解析』使って、自分や周りを見たら、違うのかもしれない。
「ありがとう、私、自分のペースで、初めはゆっくり走るわ」
「ん、俺もそうする。アドニス達より、大分遅れるのはしょうがないから、とりあえず完走を目指す!」
ウォレスの言葉に、アルスは微笑んだ。ウォレスは育ちが良いというか、素直だし、ゼクナ語の勉強もとても頑張っているし……できれば彼みたいな人に、隊士になってほしいと思った。
その時、ウォレスが木の根につまずいた。
「ウワッ」
つまずいたウォレスは――なんと、宙に浮いた。
一瞬、ゆっくりに見え、すさまじい速さで地上から離れていく。
アルスは飛翔駆けの危険を理解した。
「ル・フィーラ!」
アルスは咄嗟に盾を取り出して、柔らかい幕を作って、ウォレスを包んだ。
「わぁあっ」
ウォレスが地面に叩き付けられる瞬間、盾を強化する。
しかしアルスは、すぐには止まれない。急に止まろうとすると、靴が――。その時思い出したのは、精霊剣の授業の後、散々やった受け身の自主訓練だ。
アルスはいっそ、と思って、風を纏ったまま、地面に転がった。
地面を五、六回転して、奇跡的に上手く行って衝撃はかなり吸収できた。どこも痛くない。
「ウォレス――大丈夫!?」
アルスは起き上がり、ウォレスに駆けよって確認する。ウォレスは地面に手を突いて、驚いていた。
「……びっくりした、ありがと、大丈夫……! っていうかお前は!? 大丈夫か!?」
「私は平気だわ。受け身の訓練、してて良かった……! なるほど、こういうことなのね、霊力って便利だわ」
「アルスが凄いんだよ……いやびっくりした、本当、ありがとう! 死ぬところだった! 器用なんだな。なんか、膜に包まれた気がしたけど」
「そうなの。盾で薄い膜を想像して、先に包んでおいたの。間に合うか分からなかったけど、膜を固くするのが間に合って良かったわ」
「おおおおお、すげぇええ!! さすが王女様だな!」
ウォレスが言って、その後「あ、ごめん、さすがアルスだな!」と爽やかに言い直した。
屈託がなさ過ぎて、アルスは思わず笑ってしまった。
「どっちでも良いわよ。さて、行きましょうか……でも思ったより危険ね……まさか浮くなんて」
「うん、これ結構難しい……気がする。アルス、先に行っていいよ。喋ると危ないし、なんか良い感じじゃないか?」
「そうかしら……でも、そうかも。分かったわ。完走、頑張りましょう。あなたは走れる?」
「余裕! でもまだコツが掴めなくてさ。ちょっとこの辺で、練習してからいく。霊脈とか、呼吸ってやつ?」
ウォレスが言ったので、アルスは本当に驚いた。
「貴方って凄いのね! そういうの、中々出来る事じゃ無いわ。いつも勉強してるし……」
するとウォレスが照れくさそうに笑った。
「いや、俺、出来ないのは分かってるからさ。そう言うときは、出来る方法でやればいいって、兄ちゃんが言ってた。よく分かんないけど、自分を大切にってさ」
アルスは瞬きをした。
「凄い人なのね。いえ、ウォレスが凄いのかしら。百点よ。じゃあ、行くけど、頑張って」
「ああ!」
アルスは走り出した。正直、ウォレスに何かをあげたい。
彼は思い返せば、もしかして……ほとんど毎日、早起きしているのでは無いか。
アドニスと同室になったとはいえ、そこまでする必要はないのに。
(私も無理しない程度に、頑張らないと)
しかし、アルスは自分の事がよく分からない。
勉強はできる方だし、鍛練も、やったら結構、身についていく。
霊力も、もしかしたら思ったより、豊富なのでは……?
(……少し、無理をしてみようかしら)
自分の霊力がどの程度あるのか。実感が湧かない。だったら試せばいいのだ。
幸い、倒れても、今日は初日。駄目だったら狼煙もあるし、途中に支援隊士もいる。
普通のアルスは、七十キロどころか、四十キロも走れない。走っても、たぶん十キロが限界だ。朝は五キロでやめているが、何回か、十キロなら走った事がある。
心地よい速さ、間に合いそうな速さ、体力が残りそうな速さ。
アドニスはしっかり、時間を決めていた。一旦、止まって、時計を取り出すと、既に二十分が経っていた。周囲に人はいない。
(今、どの辺りかしら。ここからだと……)
と思ってきょろきょろしている見ると、少し先に誰かいた。
「おーい、そこの子、大丈夫? 道はこっちだよ!」
隊服を着ている。どうやら手伝いの隊士のようだ。日除けなのかフードを被っていて、男性と言う事しか分からないが、初めて会う隊士だ。
「あっ、はい。大丈夫です、ここって今何キロですか?」
「ここはまだ、十キロ地点だよ」
「えっ。もうそんなに? 全然疲れてないのに……」
「あ、そうなんだ? じゃあ頑張って」
「はい、そうします。どうしようかな……一時間で、折り返しまで……いえ、ちょっと無理ね。今二十分だから、あと一時間半くらいで……二時間かしら。帰りも一時間半で、合計三時間半、目標で。うん、行ってみます」
「そう? 無理せず頑張ってね」
「はい!」
アルスは軽やかに駆け出した。
――体が軽い。
思い出すのは、プラグの見事な走りだ。
あんな風に、風のように走れたら。きっと気持ちが良いだろう。
(正面を見て……笑ってたわね)
アルスは思い出した。
そう言えば。プラグはプレートを使うとき、いつも楽しそうに見える。
アルスは必死で、できないと困る、と思ってやっていたが。もう少し『自分』を楽しんでもいいのかもしれない。
■ ■ ■
アルスは自分のペースで、無理をせずに二十キロまで来た。
そこまでの間に、レジナル、ポーヴィン、ビリー、ライネル、ダニエル、ヨアヒム、グレイブが膝を突いていたり、歩いていたりして、こんなに? と思ったら、急にそれより多くなってきた。
下位クラスの男子達のほとんどが、体力が限界、もう足が動かない、と言った様子で、倒れ込んで、呼吸を乱しているのだ。
後は女子で言えば、リタとアイリーン。立ち止まって話したが、アイリーンが体調を崩してもう無理そうなので諦めるという。狼煙を上げていた。リタも体力が限界だと言った。二人ともそもそも、戦闘クラスにいるものの、さほど体力はない。アイリーンは悲しそうにしていたし、リタは泣いていた。
「そうよね、ちょっときついわよね。無理しないで。でもここまで来たのは凄いわ!」
「アルスちゃんは大丈夫? もう男子達も、ほとんど諦めてるの」
リタが言った。
「なんとか。コツが掴めた気がするの。もうちょっと頑張るわ、せめて完走する」
アルスは答えた。
「……完走、頑張って!!」
リタの応援を受けて、アルスは走り出した。
アルスはその後も順調に、距離を稼いでいったのだが。
前方に見覚えのある、長い金髪巻き毛、一つ結びの後ろ姿が見えた。
「ナージャ? どうしたの?」
アルスはびっくりして立ち止まった。ナージャが、立ち止まっている。
しかし、ナージャは倒れていない。
「先程、足が折れて……治療したのですが、続行できるか、考えていました」
「アドニスの話は聞いた? そういえば、少し前にいたわよね?」
アルスは言った。
確かナージャはアドニスの斜め前にいて、彼の話を少し速度を落として聞いていた。
「ええ、少し前で聞いていました。でも難しくて。できないようです。アルス様は?」
「私は、何とかなりそう……かも。ナージャはどうするの?」
「治療はあと一回ありますが、迷ってしまって」
「体力はあるの。霊力は?」
「それはなんとか……靴も壊れていません。ただ、呼吸をする感覚が掴めないんです」
ナージャが眉を顰めている。
「じゃあ、あと五分休んで、もう一回、走ってみて、考えたら? 折り返しまであとちょっとだし……あ。そうだ! ウォレスがね、立ち止まって、呼吸の練習をしてから走っていたの。試しにやってみたらどう? まだ後ろにいると思うんだけど。完走が目標だって!」
アルスは思い出して伝えた。ウォレスはまだ見かけない。多分、アルスの後にいるのだろう。
ナージャがはっと顔を上げた。
「! ……そうですね、やってみます。アルス様、どうぞ、お先に行って下さい」
ナージャの言葉に、アルスは頷いた。
ナージャのすぐ先に、レンツィ、フォンデ、エミール。
普通、これくらい走れそうな上位クラスの男子もいた。
――アルスは不思議だった。
(これって、そんなに、難しい事なのかしら。やっぱりアドニスの言う事って、的確なのね。呼吸が大事って聞いてなかったら、私もああなっていたわ)
その時、アルスはもしかして。と思った。
――もしかして『もっと、誰かに聞け』と言うことでは無いだろうか?
「まさかね」
アルスは呟いた。とても優れた隊士達がいるのだから、さすがにそれはないだろう。
そして。折り返しの印が見えた。赤いリボンが結んである――と言うよりリゼラが立っている。
「リゼラさん!」
アルスは嬉しくなって、速度を落として立ち止まった。思わず飛びついて手を取る。
「え! アルス!?」
リゼラは驚いたようだった。
あまりに驚かれたので、アルスは逆に驚いてしまった。掴んだ手を引っ込める。
「あっ、えっと……フィニー達はもう来ましたか?」
アルスは尋ねた。リゼラは苦笑気味に頷いた。
「ええ、二十分くらい前にね。後は、ペイトとゼラト、アラーク達も、何とか行ったわ。この訓練、いつもこうなのよ。実は『飛翔駆け』って、慣れないと普通の倍くらい体力を使うの。完走できるだけで本当に凄いんだから。無理しなくてもいいけど……いけそうなら、最後十キロは思いっきり走ってみたら? 骨折に注意よ。ちなみに明日は、筋肉痛かも?」
「うわ、筋肉痛……はい。そうしてみます」
アルスは思いっきり苦笑いをした。その可能性を忘れていた。
アルスは駆け出した。
――そう言えば、プレートを発動したままだったが、霊力を上手く抑えられている。
飛ぶように軽やかに駆けながら――きらめく物に気が付いて。初めて、木々の合間を注視した。
それは水面で。見慣れた景色なのだが、この場所から見たことは無い。綺羅綺羅と輝き、とても新鮮だった。
(楽しいわ!)
景色は流れるように過ぎていく。途中何人も追い抜いた。
あと、十キロ。
この森を抜けて、いつもの道に戻り――開始地点に戻って終了だ。
(全力ね、私の全力って何? 私の可能性って何?)
アルスはいつも分からない。
何ができるのか。聖女の力は生まれ付きの物で、体力があるのも生まれ付き。わりと賢いのも生まれ付き。王族だって生まれ付きで、容姿だって生まれ付き。なんでも、余るほど、なんでもいっぱいあった。欲しい物なんて無い。
ただ、母がくれた、あの押し花が、もう一度、欲しかった。
何でもない、自由な暮らしが、一度でいいから欲しかった。
(お母さん……!)
アルスは全速力で、駆け抜けた。