「あー。もうさいあく」
朝から大泣きの天気だった。授業を終えたあと、一階の渡り廊下では、紅葉が舌打ちをしながら髪を束ね直していた。
「百合野が編入生につきっきりだからってむくれないのよ」
「髪が広がるの! 湿気で!」
はねた毛先をつついてくる水澄を軽く小突いて、紅葉は言い返す。
「てかあかねのやつ。あんな見え見えの嘘吐くヤな女に!」
「もちろんあれはただの可愛い嘘よ。足が二本もついてるくせして、湖のレディなわけないもの」
水澄はごおごおと騒ぎ始める窓の外をぼんやり見上げて呟いた。
「百合野は純粋だから、信じちゃうと頑固なのよね」
「騙されてんじゃん。むかついてきた、今度ガツンと言ってやる。井藤ルルに!」
「はいはい、天気と一緒に大荒れね」
「みすみんはなんでそんな落ち着いてんの。天気予報見過ごして傘忘れたくせに」
紅葉は口を尖らせて、冷静な親友に訝しげな視線を投げる。
「みすみん、ずっと何持ってんの。それ」
紅葉が朝から気になっていて、ようやく指摘したのはペンくらいしか入らなそうな小さな紙袋。水澄は腕を水平に掲げて、あらためて見上げる。
「ん? 時計……落とし物。」
「ああ、いた。三賀さん、延寿さん」
「みっちゃん先生。なに?」
声をかけてきた担任に気安く返事をする。先生は忙しさを滲ませながらも簡潔に伝えた。
「暴風警報が出てるの。帰りの支度をしたら、講堂に集合して」
「ええ?」
「美術館みたいでしょ、うちの学校」
階段の踊り場で一人、窓枠に寄りかかっているルルを見つけて、新しい友人は声をかけた。
「大体が卒業生の寄贈品なんだよ。それはうちのおじいちゃんが」
ちょうどぼんやり見ていた照明を指さしてあかねはいう。
「おじいちゃんは八十科瑚羽の大ファンでね、ほら、あの照明にもガラスが嵌ってるでしょ」
「ああ、君んちの店にも似たようなのがあったね」
吹き抜けの空間のようになった広い階段と踊り場スペースを貫く長いシャンデリアは、ガラスで包んだ光源がポロポロと落ちるように並ぶデザインになっている。学校という高潔を善しとする機関にはいささか過ぎた装飾品である。それこそ美術館に置かれるべき代物だ。
「透明で綺麗だよね。おじいちゃんが夢中になるのも、わかる気がする」
「八十科?」
「知らない? 有名なガラス職人さんなんだけど。八十科くん……八十科影斐くんのおばあちゃんだよ」
「ほう。……えい君の親族なら婚約者の僕は挨拶すべきだろう。それなのに会った事がないな」
あかねはふと口をつぐんでから、声を小さくして事実を告げた。
「……去年ね。亡くなったんだ」
「死んだ? なぜ。病気かい、事故かい」
「あわわ、ルルちゃん」
声を落とさず聞き返され、あかねは慌てて人差し指を唇に当てた。
「詳しくは知らないんだけど……でもうちのおじいちゃんと同年代で、結構お歳を召してらっしゃったみたいだから。……順番、みたいなものだよ。きっと」
「じゅんばん……」
ルルは相槌も中途半端に、またシャンデリアを見上げる。
「なら、あれも順番か」
「あれって?」
ルルの視線を追ってもシャンデリアがわずかな空気の流れに揺れるだけ。
あかねが首を傾げていると、ルルがふとこちらを見た。
「あかねの髪と似てる。絹糸みたいにサラサラしてて、綺麗だ。だから君のおじいさまには宝であるんだね」
「え!? あ、ありが……」
あまりに唐突で、あかねはたじろいだ。
「髪といえば陸だとどうやって手入れするんだい? 洗うんだよね? 着の身着のままで転がり込んだから、えい君の家にあったのを使うしかないんだ」
「転がり込んだ?」
「ああ、今はえい君の家で暮らしてるんだよ。湖の底では会うのに不便だろ。でもなんだろうね、キシキシするっていうか……」
そう言いながら自分の毛先をつまんで見るルルだけれど、あかねは彼女のペースに追いつけない。彼女があの八十科影斐と、一つ屋根の下で暮らしている。それは親しくこそないものの、小学校時代から彼を知るあかねには想像もつかないことであった。
「……ルルちゃんって、八十科くんのどこを好きになったの?」
「ん?」
ゴン。
どこかで鈍い音が響いた。
「えっ今のなんの音?」
あかねが階下を覗くと、ちょうど噂の人物が下の踊り場で肘を押さえている姿があった。
「八十科くん!?」
「えい君。いま君んちの文句を言ってたところだよ」
影斐は仕方なく彼女たちに合流して、低い声でルルに言い返す。
「では私も言いますが、誤解を生む言い方は避けてほしいのですが」
「何がだよ。なにも変なことは言ってないぞ。君、なんか……今日は何か物足りなくないか?」
「もういいです……どうぞ、私にかまわず続けて下さい」
彼女が相手では諭すのにも一苦労、無言で何か窺ってくる影斐と目が合って、あかねは慌てて話を戻した。
「えっと……ヘアケア用品だね。でも私、シャンプーやリンスはお母さんと同じの使ってるからあんまり詳しくないよ。紅葉ちゃんなら色々知ってると思うけど……」
「じゃあやっぱり仲良くならなきゃいけないな。人は教え合うものってことか。えい君が言いたいことがだんだんわかってきたぞ」
影斐がこっそりとため息を漏らす。眺めていて、つい笑ってしまった。
「じゃ、聞いてみようかな。教室にいるよね?」
「今からですか」
馬の手綱を引き戻すように、影斐はおもむろに歩き出すルルの手首を掴んで引き留めた。
「やめて下さい。教えてもらえません」
「なんで」
「なんで、って…………」影斐は一瞬言葉を無くしたが、挫けずに言った。「発送が遅れていた貴女の教科書が届いています。職員室まで取りに行って下さい」
「え、それこそ今?」
「今です。次の時間の科目なので」
しぶしぶ踏み出していた階段を降りていく。そんなルルの背中を見えなくなるまで監視して、影斐はふっと唇を閉じた。
あかねは耐えきれず、乏しいながらも疲れたような横顔に問いかけた。
「……一緒に住んでるの」
「身寄りのない人なんだ」
影斐は多くは語らず、短く告げる。
「……他言無用だが」
「ご、ごめんなさい」
影斐は小さく首を振って、再び階段を登り始める。
「とはいえどうせあの人のことだ、隠しなどしないだろうけどな……」
あかねはしかし、静かに去ろうとする影斐に続けて話しかけてみた。
「八十科くん、誰にも興味なさそうだって思ってたら、あんな可愛らしい恋人がいたんだね。どこが好きなの?」
キュ、と上履きが擦れる音。
「恋人?」
振り返った彼は、ずっと知っていた遠くの同級生に戻ってしまったようだった。
影斐は特に考えるふうもなく、ただ淡々と言う。
「……好きも嫌いもない。単なる婚約者だ」
「そうかなあ、」
「百合野」
「な、なに?」
八十科影斐。誰ともほとんど言葉を交わさない、寡黙な同級生。彼との会話がなんとも新鮮でぎこちなくなる。あかねは慌てて聞き返した。
「昨日、喫茶店に腕時計の落とし物があったりしなかったか。身につけていたんだが失くしてしまって」
「うーんと、なかったと思うけど」
「そうか。……もし負担なら、無理して井藤さんに付き合わずともいい」
「え? 気にしないでよ。二人ともいい子だし、ルルちゃんとも仲良くなれるはず。私が取り持つから、心配しないで」
「取り持つ……」
淡々と話す声がスピードを落とし、外の風が耳鳴りのようにピュウと鳴った。
「八十科くん?」
「リスクは考えてるのか」
「え?」
「異物を引き入れることでバランスが崩れるのはそっちの方だ。ただでさえ今は彼女の噂にいいものはない。以前からの友達と井藤ルルを選ぶようなことになれば、百合野は前者を取るだろう」
影斐の声が冷たくなっていく。意図の読めない言葉が階段の吹き抜けに溶けていく。
「義務感や中途半端な使命感で関わってそちらの関係性が悪化するくらいなら、迷惑だ。放っておいてくれ」
「そ、」
つまづくように階段を一歩上がって、あかねは言い返した。
「そんなふうに言わないでよ。どうして、八十科くんがそれを決めるの? 私が、私一人だけでもルルちゃんとおしゃべりしてれば、みんなあの子が怖くなんてないってわかってくれる……自分の恋人でしょ、どうして受け入れられないって思うの」
百合野あかねは教室で孤立する井藤ルルを苦い思いで見守っていたらしい。そのきっかけが自分の親友との衝突だったから、自分が修復すべきだと、責任を感じていたのだろうか。
「理想は、簡単だ」
再び、上履きの音が階段を一段一段と上がり始めた。
「言うだけで気が済む。夢とも言う。……自然を前に、それは無意味なんだ」
ぱつぱつ、窓を叩く雫の音が強まってくる。
「…………」
言い返せず、あかねは教室へ戻っていく影斐の背中を見送って。
しかし承服しかねる。自分のこぶしを握りしめ、身軽に走り出す。翻した身体にかすって、シャンデリアがぽろぽろと音を立てた。