湖底のグラス・レディ、8
ー/ー 学校という社会では噂などあっという間に広がる。それからしばらく、クラス内でルルの立場はグラグラと危ないものであった。
一口に言って悪評。八十科影斐に横恋慕し、クラスメイトに暴力を振るう転入生。酷い出だしになってしまった。
最悪の状況に至らなかったのは不幸中の幸いだが、それはあの常人ならぬ力が恐怖を与えたからだろう。編入生の逆鱗に触れて、誰も紅葉と同じ鉄を踏みたくないのだ。
ルル自身はめげたりする様子もなく挨拶を欠かさないのだけれど、みんな逃げるようにして顔を逸らしていく、といった具合。着々とヒビが広がっていく足元の氷を堂々と歩く彼女を、影斐はジリジリとした心持ちで見守っていた。
「……こういうところは、私とではなく友達と行ってほしいのですが」
ちょっと寄り道、と気まぐれに方向を変えて一駅で降りるルルについて行った影斐は、散歩に付き合った末に通りかかった喫茶店の扉を開けることになった。
下校中に道を逸れるということをあまりしてこなかったので、この店に入るのも影斐は初めてであった。モダン風の外観に『璃々』の看板を掲げたその店は、入ってみれば控えめな照明とステンドグラスの窓から差し込む陽光が特別感のある空間を作り出している。テーブルとソファの木目が落ち着いたおしゃべりを促すように点々と置かれていて、好きな席に腰を下ろしたルルの正面に座る。
「放課後デートだよ。こういうの、そう呼ぶんだ。君は初心だから知らないかもしれないが」
「はあ」
「恥ずかしがらないでいい、他に誰もいないんだから」
注文を済ませたメニュー表をぱたりと閉じ、影斐に渡してくる。
「みんなに知らしめないとね。君の婚約者はあのいとこじゃない、僕なんだ」
「そうですか……」
ルルは興味津々に天井の小さなシャンデリアやキッチンカウンターを夢中で眺めて、初めての喫茶店デートを楽しんでいるようだ。うちにある窓や家具の装飾と似てるねだとか、君の紅茶はまだかな、僕のメロンソーダとやらはまだかなと落ち着かない。
「今頼んだばかりですよ」
ルルの言う通り、たまたま今は他の客が途切れたタイミングだったらしくソワソワと騒ぐ声は囁いているつもりでもそれなりに目立っている。影斐はそんな彼女を無感動に眺めながらお冷のグラスを撫でて無為に時間を潰す。
「もっと上手く立ち回れる身元引受人を選んでいればスムーズに人間社会に馴染んだでしょうに」
元々、影斐がちゃんとした友人関係を築いておけばルルを引き入れることもできたし、それを皮切りに友人ができればこんなにべったり世話に追われることもなかった。これまでの半生がここで裏目に出るとは。
「おい、梅雨はまだだぞ。じめじめするな」
彼女はからりと蹴飛ばすように言った。
「だいたい噂を鵜呑みにして言いふらしたのはあっちじゃない。どうして僕がこんなに拒まれなくちゃいけないんだ」
「それは貴女が人魚だから」
はっきりとそう口にすると、ルルは何も言わないまま影斐の頭に手刀を落とす。
あまり容赦がない。
「……人は恐ろしいものに非常に正直です。それに傷付くなら、人の領域に入ってくるべきじゃなかった。これからも辛い目に遭うことでしょうから」
薄暗い店内ではルルの瞳も鈍い黒に見える。
「で、どうしろって?」
「ご自由にどうぞ」
「君ってやつは」
挑戦的な鋭い視線をいなして、影斐は冷たい水を飲む。
「犯罪や非行に手を染めず、人の悪口を言わない。大きな音を出さない。保身のために嘘を吐かない。貼られてしまったレッテルはどうしようもないですが……腐らず人としての基盤は守って下さい」
「自由とかいうわりに注文が増えてないか?」
「ええ。あとは自由に過ごしていただければもういいです。……本当に苦痛なら友人だって無理に作る必要はないですし」
物静かを体現する少年は、このような二人きりの時間にもあまりルルと目を合わせない。左手首の腕時計を気にして、ベルトを付け直そうとしている。
ルルはそんな彼の袖を軽く引っ張り、それを妨害してこちらを向かせた。
長い前髪の奥に、望まず煌めく瞳が覗く。左目は使い込んだ彼の時計と同じ色をしていた。
「諦めが早いな。言い出しっぺのくせに。わかってるさ、将来の夫である君の望みは叶えてあげないとね」
そんなこんなで話している間にも時間は流れるし、頼んでいたものは到着する。
「……え、井藤さん。八十科くん!?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、二人はホールスタッフを見上げた。
「あれ? 君は……」
「百合野あかねです。同じクラスの」
最小限に説明をすると、ルルはそれくらいわかると口を尖らせた。給仕らしいエプロン付きの制服に袖を通したクラスメイトは、意外な来客に配膳を忘れていた。
「どうしてここに……、あっ」
あかねが何かに気付いて入り口を振り返ると、ほぼ同時に店の外から高い話し声がここまで聞こえてきた。それにも覚えがあるような、と、顔を戻したあかねの顔に焦りの色がにじんでいた。
「こっちにきて!」
やにわにルルの手を掴んだあかねは器用にもお盆に飲み物を乗せたまま走り出し、ルルはただ「おおお、」と声を上げながらキッチンの方へ連れ去られていく。
影斐は何やら分からないままそれを追いかけるしかなかった。
ウェルカムベルが姦しく鳴り響く。
「こんにちはーっ」
「紅葉ちゃん。水澄ちゃん。いらっしゃい」
元気な挨拶と共に入ってきたのは喫茶店『璃々』の常連客。他でもない、あかねの親友二人だった。
制服のまま訪れた二人組はキッチンに立つあかねの母が案内するまでもなく、慣れ親しんだ特等席を見つけて座る。奇しくも、ちょうどルルたちが座っていたテーブルに。
「おばさん、あかねは?」
「お待たせしました、ストレートティーとメロンソーダフロートです」
家人の厚意で店から住居の居間に通され、改めてダイニングテーブルに注文した品が置かれる。
「引っ張ってきちゃってごめんね。ここ、私の家族がやってるの。あの二人はいつもきてくれるんだけど、井藤さんには気まずいかもと思って……」
「気まずい?」
「いや」
実際、その気持ちはありがたい。あの一件を経てルルはすっかり全員から敬遠されているものだと思っていたから。
「こちらこそ配慮が足りなかった。百合野の方が、三賀たちと気まずいだろ。今後は来ないようにする」
「そんな、全然気にしないで。よかったらいつでも来てよ」
あかねは慌てて両手を左右に振って言う。
「うおお……!? 泡が、泡が暴れ回ってる!」
しかしルルは話にそっちのけで、早速炭酸飲料の新感覚を楽しんでいる。
「頼む前に言ったでしょう。少し刺激がありますと」
「少しどころじゃないぞ、これ。……ん、でもこっちは甘いんだね。うちでも作らせようかな」
浮かんでいるアイスに気付くと大人しくなり、スプーンに穴を開けながらソーダに溶かしてみたりしている。影斐も彼女に続いてグラスを手に取った。
「ふふっ」
その様子を眺めていたあかねが肩を揺らして、言った。
「ほんとに婚約者なんだね」
「そうじゃなきゃなんなんだい」
「あ、疑ったわけじゃないの。ごめんね。……紅葉ちゃんがいやなことを言ったよね」
それもごめん、ごめんねと百合野あかねは友人に代わって頭を下げる。
「百合野あかね……」
……ルルは小さく息を吐いた。
ため息が沈黙をさらに重く装飾して、あかねの肩に力が入る。
「気に入った。僕の友達にしてあげよう」
「……え?」
しかし次の言葉に、あかねは目を丸くして顔を上げた。
「もう怒ってないよ。君たちが怖がるのもわかるつもりだ。僕は特別だからね……けれどその誠意は素晴らしい」
あかねの手を両手でしっかり包み込み、ルルは強引で、キラキラと逃れようのない笑みを浮かべる。……影斐にはどこか、夜の湖畔かどこかで見たような光景であった。からんとスプーンを陶器の底に置いた音が響く。
「……どうかな」
一方的ながらふと心配そうに顎を引くルルの様子に、あかねはくすっと笑い声をこぼした。
「嬉しい。私……私も井藤さんと仲良くできたらって思ってたよ。よろしくね、……ルルちゃん」
「!」
ルルは晴れやかな顔でこちらを見ると、勝ち誇ったように片目をつぶった。
どうだ、望み通りにしてやったぞ、なんて聞こえてくるようだった。
影斐は及第点を出した。
一口に言って悪評。八十科影斐に横恋慕し、クラスメイトに暴力を振るう転入生。酷い出だしになってしまった。
最悪の状況に至らなかったのは不幸中の幸いだが、それはあの常人ならぬ力が恐怖を与えたからだろう。編入生の逆鱗に触れて、誰も紅葉と同じ鉄を踏みたくないのだ。
ルル自身はめげたりする様子もなく挨拶を欠かさないのだけれど、みんな逃げるようにして顔を逸らしていく、といった具合。着々とヒビが広がっていく足元の氷を堂々と歩く彼女を、影斐はジリジリとした心持ちで見守っていた。
「……こういうところは、私とではなく友達と行ってほしいのですが」
ちょっと寄り道、と気まぐれに方向を変えて一駅で降りるルルについて行った影斐は、散歩に付き合った末に通りかかった喫茶店の扉を開けることになった。
下校中に道を逸れるということをあまりしてこなかったので、この店に入るのも影斐は初めてであった。モダン風の外観に『璃々』の看板を掲げたその店は、入ってみれば控えめな照明とステンドグラスの窓から差し込む陽光が特別感のある空間を作り出している。テーブルとソファの木目が落ち着いたおしゃべりを促すように点々と置かれていて、好きな席に腰を下ろしたルルの正面に座る。
「放課後デートだよ。こういうの、そう呼ぶんだ。君は初心だから知らないかもしれないが」
「はあ」
「恥ずかしがらないでいい、他に誰もいないんだから」
注文を済ませたメニュー表をぱたりと閉じ、影斐に渡してくる。
「みんなに知らしめないとね。君の婚約者はあのいとこじゃない、僕なんだ」
「そうですか……」
ルルは興味津々に天井の小さなシャンデリアやキッチンカウンターを夢中で眺めて、初めての喫茶店デートを楽しんでいるようだ。うちにある窓や家具の装飾と似てるねだとか、君の紅茶はまだかな、僕のメロンソーダとやらはまだかなと落ち着かない。
「今頼んだばかりですよ」
ルルの言う通り、たまたま今は他の客が途切れたタイミングだったらしくソワソワと騒ぐ声は囁いているつもりでもそれなりに目立っている。影斐はそんな彼女を無感動に眺めながらお冷のグラスを撫でて無為に時間を潰す。
「もっと上手く立ち回れる身元引受人を選んでいればスムーズに人間社会に馴染んだでしょうに」
元々、影斐がちゃんとした友人関係を築いておけばルルを引き入れることもできたし、それを皮切りに友人ができればこんなにべったり世話に追われることもなかった。これまでの半生がここで裏目に出るとは。
「おい、梅雨はまだだぞ。じめじめするな」
彼女はからりと蹴飛ばすように言った。
「だいたい噂を鵜呑みにして言いふらしたのはあっちじゃない。どうして僕がこんなに拒まれなくちゃいけないんだ」
「それは貴女が人魚だから」
はっきりとそう口にすると、ルルは何も言わないまま影斐の頭に手刀を落とす。
あまり容赦がない。
「……人は恐ろしいものに非常に正直です。それに傷付くなら、人の領域に入ってくるべきじゃなかった。これからも辛い目に遭うことでしょうから」
薄暗い店内ではルルの瞳も鈍い黒に見える。
「で、どうしろって?」
「ご自由にどうぞ」
「君ってやつは」
挑戦的な鋭い視線をいなして、影斐は冷たい水を飲む。
「犯罪や非行に手を染めず、人の悪口を言わない。大きな音を出さない。保身のために嘘を吐かない。貼られてしまったレッテルはどうしようもないですが……腐らず人としての基盤は守って下さい」
「自由とかいうわりに注文が増えてないか?」
「ええ。あとは自由に過ごしていただければもういいです。……本当に苦痛なら友人だって無理に作る必要はないですし」
物静かを体現する少年は、このような二人きりの時間にもあまりルルと目を合わせない。左手首の腕時計を気にして、ベルトを付け直そうとしている。
ルルはそんな彼の袖を軽く引っ張り、それを妨害してこちらを向かせた。
長い前髪の奥に、望まず煌めく瞳が覗く。左目は使い込んだ彼の時計と同じ色をしていた。
「諦めが早いな。言い出しっぺのくせに。わかってるさ、将来の夫である君の望みは叶えてあげないとね」
そんなこんなで話している間にも時間は流れるし、頼んでいたものは到着する。
「……え、井藤さん。八十科くん!?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、二人はホールスタッフを見上げた。
「あれ? 君は……」
「百合野あかねです。同じクラスの」
最小限に説明をすると、ルルはそれくらいわかると口を尖らせた。給仕らしいエプロン付きの制服に袖を通したクラスメイトは、意外な来客に配膳を忘れていた。
「どうしてここに……、あっ」
あかねが何かに気付いて入り口を振り返ると、ほぼ同時に店の外から高い話し声がここまで聞こえてきた。それにも覚えがあるような、と、顔を戻したあかねの顔に焦りの色がにじんでいた。
「こっちにきて!」
やにわにルルの手を掴んだあかねは器用にもお盆に飲み物を乗せたまま走り出し、ルルはただ「おおお、」と声を上げながらキッチンの方へ連れ去られていく。
影斐は何やら分からないままそれを追いかけるしかなかった。
ウェルカムベルが姦しく鳴り響く。
「こんにちはーっ」
「紅葉ちゃん。水澄ちゃん。いらっしゃい」
元気な挨拶と共に入ってきたのは喫茶店『璃々』の常連客。他でもない、あかねの親友二人だった。
制服のまま訪れた二人組はキッチンに立つあかねの母が案内するまでもなく、慣れ親しんだ特等席を見つけて座る。奇しくも、ちょうどルルたちが座っていたテーブルに。
「おばさん、あかねは?」
「お待たせしました、ストレートティーとメロンソーダフロートです」
家人の厚意で店から住居の居間に通され、改めてダイニングテーブルに注文した品が置かれる。
「引っ張ってきちゃってごめんね。ここ、私の家族がやってるの。あの二人はいつもきてくれるんだけど、井藤さんには気まずいかもと思って……」
「気まずい?」
「いや」
実際、その気持ちはありがたい。あの一件を経てルルはすっかり全員から敬遠されているものだと思っていたから。
「こちらこそ配慮が足りなかった。百合野の方が、三賀たちと気まずいだろ。今後は来ないようにする」
「そんな、全然気にしないで。よかったらいつでも来てよ」
あかねは慌てて両手を左右に振って言う。
「うおお……!? 泡が、泡が暴れ回ってる!」
しかしルルは話にそっちのけで、早速炭酸飲料の新感覚を楽しんでいる。
「頼む前に言ったでしょう。少し刺激がありますと」
「少しどころじゃないぞ、これ。……ん、でもこっちは甘いんだね。うちでも作らせようかな」
浮かんでいるアイスに気付くと大人しくなり、スプーンに穴を開けながらソーダに溶かしてみたりしている。影斐も彼女に続いてグラスを手に取った。
「ふふっ」
その様子を眺めていたあかねが肩を揺らして、言った。
「ほんとに婚約者なんだね」
「そうじゃなきゃなんなんだい」
「あ、疑ったわけじゃないの。ごめんね。……紅葉ちゃんがいやなことを言ったよね」
それもごめん、ごめんねと百合野あかねは友人に代わって頭を下げる。
「百合野あかね……」
……ルルは小さく息を吐いた。
ため息が沈黙をさらに重く装飾して、あかねの肩に力が入る。
「気に入った。僕の友達にしてあげよう」
「……え?」
しかし次の言葉に、あかねは目を丸くして顔を上げた。
「もう怒ってないよ。君たちが怖がるのもわかるつもりだ。僕は特別だからね……けれどその誠意は素晴らしい」
あかねの手を両手でしっかり包み込み、ルルは強引で、キラキラと逃れようのない笑みを浮かべる。……影斐にはどこか、夜の湖畔かどこかで見たような光景であった。からんとスプーンを陶器の底に置いた音が響く。
「……どうかな」
一方的ながらふと心配そうに顎を引くルルの様子に、あかねはくすっと笑い声をこぼした。
「嬉しい。私……私も井藤さんと仲良くできたらって思ってたよ。よろしくね、……ルルちゃん」
「!」
ルルは晴れやかな顔でこちらを見ると、勝ち誇ったように片目をつぶった。
どうだ、望み通りにしてやったぞ、なんて聞こえてくるようだった。
影斐は及第点を出した。
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