第七話 顔が見えなくてもいい

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 会計は割り勘で済ませた。そう言えば瑞樹は財布すら出さなかったな。
 野平さんとは経済感覚も合うのかも知れない。

 喫茶すみれを出た僕たちは南海難波駅に向かって歩き出す。どうやら日本橋巡りはしないようだ。さすがに喫茶店に二時間もいたから、タイムリミットなのだろうか。
 あれだけ喋っていたのに喫茶すみれを出てから、野平さんはだまってしまった。
 もしかして調子に乗ってオタクトークをしてしまったのが、野平さんを呆れさせたのだろうか。僕はまたやらかしてしまったのだろうか。

 僕が自己嫌悪に陥りかける寸前、突然野平さんに手をつかまれた。野平さんの手は思ったより硬かった。イラストレーターをしているということなので、ペンだこがあるようだ。指は硬いけど手のひらは温かだった。
 人肌を感じるなんていつぶりだろうか。思えば瑞樹と手をつないだなんてのは数えるほどであった。それ以上の関係にはならなかった。なる前に別れを告げられた。

 僕はずんずんと野平さんに手を引かれる。野平さんは僕を人気(ひとけ)のない路地裏に連れこんだ。
 これはもしかしてエッチな展開ではと心臓がうるさいほど高鳴る。
 自分のエロ妄想にすぐ行く癖に呆れてしまう。
 壁ドンするのではないかと錯覚する場所に連れて行かれた。僕の背中にコンクリートの冷たさが伝わる。

「水樹さん、あなたとの時間は本当に楽しくて幸せでした」
 野平さんは僕に向かいあい、そう言った。
 彼女の方が背が高いので見上げる形になる。
 もしかしてキスでもされるのかと僕は期待に胸踊る。僕の好きなエロ同人誌ならそういう展開になる。
 でも現実は当たり前だけど違う。

「だからだからこそ、嘘をついているのが辛くなりました。あなたと別れる前に本当の私を見てほしいのです。それで私のことを嫌いになってしまっても文句は言いません。あなたとの楽しい時間を思い出に私は生きていけます」
 野平さんは右手をサングラスに左手をマスクにかけた。その手はかすかに震えているように僕には見えた。
 僕は思わずごくりと生唾を飲み込む。
 ついに野平さんの素顔を見れるのか。
 だけど奇妙な恐怖を覚える。
 見ないほうが良いのではという思いが頭を支配する。
 僕の逡巡など気にすることなく、野平さんはサングラスとマスクをとった。

 野平さんの素顔は分からなかった。
 顔があるであろうところに子供がクレヨンで落書きしたようにぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。
 驚愕が喉を支配し、言葉が何も出ない。
 これは果たして現実なのだろうか。

「私は顔喪失症という病気なのです。他人に顔を認識されないという奇病におかされているのです。ねえ、怖いでしょう。私のこの顔を見て、ここを立ち去っても水樹さんのことを恨みません。こんな化け物みたいな女は嫌いでしょう」
 野平さんの可愛らしい声がどこか悲しげだ。
 彼女の顔はクレヨンに塗りつぶされたようで分からないが、泣いているように感じた。

 のっぺらぼうという妖怪がいる。
 顔の無い妖怪だ。
 たしか国語の教科書に載っていたな。小泉八雲の小説だったと思う。野平さんはのっぺらぼうだったのだ。だからそれを隠すためにサングラスとマスクをしていたのだ。

 するりと野平さんは手を離す。
 僕の手には野平さんの肌の温かさが残る。
 この温もりはすぐに消えるだろう。
 彼女はくるりと背を向けて、歩き出す。

 このまま野平さんを行かせていいのだろうか。
 確かにあのクレヨンでぐちゃぐちゃに塗られたような顔は不気味であった。
 だけどそれを補って余りある魅力も野平さんにはある。
 それはあの熟れたメロンのような特大の巨乳だ。テーブルの上に乗るほどの巨乳はめったにお目にかかれない。もし野平さんと付き合えばあのぷるんぷるんのおっぱいを好きにできる。
 それは下品な欲望なので、さすがに口には出来ないけどね。
 顔なんて皮一枚のことをそれほど気にする必要はないのではないか。
 あの魅力的なダイナマイトボディを好き放題できるなら些細なことではないか。
 それに喫茶すみれで二時間にも及ぶオタクトークはあんなにも楽しかったではないか。

 野平さんの顔が分からないということで、彼女と二度と会わないなんてあまりにももったいなくはないか。
 せめてあのメロンおっぱいを一揉みするまでは離してはいけないと僕は思った。
 この際、性欲に正直にいこう。
 男なんて馬鹿な生き物なんだしね。

 背を向けて一歩を踏み出した野平さんの手を僕は握りしめた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
 僕はどうにかしてそれだけを喉から絞りだした。

 野平さんはくるりと振り向く。
 その顔はクレヨンによって塗りつぶされているので表情はまったくわからない。だけど野平さんの手のぬくもりは感じることができる。
 この肌の温かさはとんでもなく気持ちいい。
 女子の肌ってこんなにも気持ち良いんだ。

「私のこと怖くないんですが?」
 可愛らしい声が鼓膜に心地よい。
 ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた顔は正直怖いけどそれ以外は可愛らしいことこの上ない。
 顔が見えないデメリットとそれ以外のメリットを考えた場合、メリットの方に天秤が傾く。

「正直いうとちょっと怖いです。でもそれだけで二度と野平さんと会えないなんてのは寂しいです」
 僕は野平さんの見えない顔を見て、そう言った。
「野平さんとは今日会ったばかりです。あなたと話して僕も楽しかったです。またあんな風に過ごしたいって僕は思ったんです」
 そうだ。僕はまた野平さんとあんな風にアニメや漫画の話をしたい。

 ぐすぐすと鼻をすする音だけが聞こえる。もしかして野平さんは泣いているのだろうか。
 彼女は手に持っていたサングラスとマスクをつける。とたんにクレヨンのぐちゃぐちゃは消えた。
「はい、わかりました。また会って下さいね」
 野平さんのその声はどこか嬉しげに僕には聞こえた。


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 会計は割り勘で済ませた。そう言えば瑞樹は財布すら出さなかったな。 野平さんとは経済感覚も合うのかも知れない。
 喫茶すみれを出た僕たちは南海難波駅に向かって歩き出す。どうやら日本橋巡りはしないようだ。さすがに喫茶店に二時間もいたから、タイムリミットなのだろうか。
 あれだけ喋っていたのに喫茶すみれを出てから、野平さんはだまってしまった。
 もしかして調子に乗ってオタクトークをしてしまったのが、野平さんを呆れさせたのだろうか。僕はまたやらかしてしまったのだろうか。
 僕が自己嫌悪に陥りかける寸前、突然野平さんに手をつかまれた。野平さんの手は思ったより硬かった。イラストレーターをしているということなので、ペンだこがあるようだ。指は硬いけど手のひらは温かだった。
 人肌を感じるなんていつぶりだろうか。思えば瑞樹と手をつないだなんてのは数えるほどであった。それ以上の関係にはならなかった。なる前に別れを告げられた。
 僕はずんずんと野平さんに手を引かれる。野平さんは僕を人気《ひとけ》のない路地裏に連れこんだ。
 これはもしかしてエッチな展開ではと心臓がうるさいほど高鳴る。
 自分のエロ妄想にすぐ行く癖に呆れてしまう。
 壁ドンするのではないかと錯覚する場所に連れて行かれた。僕の背中にコンクリートの冷たさが伝わる。
「水樹さん、あなたとの時間は本当に楽しくて幸せでした」
 野平さんは僕に向かいあい、そう言った。
 彼女の方が背が高いので見上げる形になる。
 もしかしてキスでもされるのかと僕は期待に胸踊る。僕の好きなエロ同人誌ならそういう展開になる。
 でも現実は当たり前だけど違う。
「だからだからこそ、嘘をついているのが辛くなりました。あなたと別れる前に本当の私を見てほしいのです。それで私のことを嫌いになってしまっても文句は言いません。あなたとの楽しい時間を思い出に私は生きていけます」
 野平さんは右手をサングラスに左手をマスクにかけた。その手はかすかに震えているように僕には見えた。
 僕は思わずごくりと生唾を飲み込む。
 ついに野平さんの素顔を見れるのか。
 だけど奇妙な恐怖を覚える。
 見ないほうが良いのではという思いが頭を支配する。
 僕の逡巡など気にすることなく、野平さんはサングラスとマスクをとった。
 野平さんの素顔は分からなかった。
 顔があるであろうところに子供がクレヨンで落書きしたようにぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。
 驚愕が喉を支配し、言葉が何も出ない。
 これは果たして現実なのだろうか。
「私は顔喪失症という病気なのです。他人に顔を認識されないという奇病におかされているのです。ねえ、怖いでしょう。私のこの顔を見て、ここを立ち去っても水樹さんのことを恨みません。こんな化け物みたいな女は嫌いでしょう」
 野平さんの可愛らしい声がどこか悲しげだ。
 彼女の顔はクレヨンに塗りつぶされたようで分からないが、泣いているように感じた。
 のっぺらぼうという妖怪がいる。
 顔の無い妖怪だ。
 たしか国語の教科書に載っていたな。小泉八雲の小説だったと思う。野平さんはのっぺらぼうだったのだ。だからそれを隠すためにサングラスとマスクをしていたのだ。
 するりと野平さんは手を離す。
 僕の手には野平さんの肌の温かさが残る。
 この温もりはすぐに消えるだろう。
 彼女はくるりと背を向けて、歩き出す。
 このまま野平さんを行かせていいのだろうか。
 確かにあのクレヨンでぐちゃぐちゃに塗られたような顔は不気味であった。
 だけどそれを補って余りある魅力も野平さんにはある。
 それはあの熟れたメロンのような特大の巨乳だ。テーブルの上に乗るほどの巨乳はめったにお目にかかれない。もし野平さんと付き合えばあのぷるんぷるんのおっぱいを好きにできる。
 それは下品な欲望なので、さすがに口には出来ないけどね。
 顔なんて皮一枚のことをそれほど気にする必要はないのではないか。
 あの魅力的なダイナマイトボディを好き放題できるなら些細なことではないか。
 それに喫茶すみれで二時間にも及ぶオタクトークはあんなにも楽しかったではないか。
 野平さんの顔が分からないということで、彼女と二度と会わないなんてあまりにももったいなくはないか。
 せめてあのメロンおっぱいを一揉みするまでは離してはいけないと僕は思った。
 この際、性欲に正直にいこう。
 男なんて馬鹿な生き物なんだしね。
 背を向けて一歩を踏み出した野平さんの手を僕は握りしめた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
 僕はどうにかしてそれだけを喉から絞りだした。
 野平さんはくるりと振り向く。
 その顔はクレヨンによって塗りつぶされているので表情はまったくわからない。だけど野平さんの手のぬくもりは感じることができる。
 この肌の温かさはとんでもなく気持ちいい。
 女子の肌ってこんなにも気持ち良いんだ。
「私のこと怖くないんですが?」
 可愛らしい声が鼓膜に心地よい。
 ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた顔は正直怖いけどそれ以外は可愛らしいことこの上ない。
 顔が見えないデメリットとそれ以外のメリットを考えた場合、メリットの方に天秤が傾く。
「正直いうとちょっと怖いです。でもそれだけで二度と野平さんと会えないなんてのは寂しいです」
 僕は野平さんの見えない顔を見て、そう言った。
「野平さんとは今日会ったばかりです。あなたと話して僕も楽しかったです。またあんな風に過ごしたいって僕は思ったんです」
 そうだ。僕はまた野平さんとあんな風にアニメや漫画の話をしたい。
 ぐすぐすと鼻をすする音だけが聞こえる。もしかして野平さんは泣いているのだろうか。
 彼女は手に持っていたサングラスとマスクをつける。とたんにクレヨンのぐちゃぐちゃは消えた。
「はい、わかりました。また会って下さいね」
 野平さんのその声はどこか嬉しげに僕には聞こえた。