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番外編二 告白 ―― 夢の終わり ――

ー/ー



「そんなある日の夕刻、私たちの住んでいる貸家にいきなり夫がやってきました。10カ月くらいたってからの事でしょうか。結子は買い物に出ていてそこにはいませんでした。

 夫は頭を下げて言いました。『すまん、僕が悪かった』と。『僕が強要するのが辛くて逃げてきたんだろう。もうそんなことはしない。しないからどうか戻ってきて三人で一緒に暮らしてくれないか。多喜だって君に会いたがっている。子供の事ももう考えないから』って。

 多喜の名前を出されると愛しさと申し訳なさで胸が苦しくなりました。多喜と結子に挟まれて身体が引き裂かれるかと思いましたが、実際にお腹を痛めて産んだ子供がどれほど愛しいものかと初めて知りました。それとは別に、私にとって一番つらかったことから解放される喜びに安堵しました。その一方で同時にこのまままたこの異性の人と生活してゆくのかと思うと絶望しました。あの時私は全てを告げればよかったのでしょうか。この時私が同性愛者だと気づかれていなかったのは良かった事だったのか悪い事だったのか…… どうなんでしょう。私自身は今でも知られたくはないんです……

 夫が住まいに来た時はたまたま結子はいませんでしたから、私の頭はまだ混乱していて今すぐはい、ともいいえ、とも言える状態ではありませんでした。ただ、こんな遠くまで追ってきたからにはもう何度逃げても逃げ切れない、との覚悟と言うか、諦めの方に近いものを感じました。観念しました。私ではどうやってもこの男から逃げおおせることはできないのだ、と。だからもう逃げも隠れもしないし、出来もしないのだから一人でホテルに帰って待ってて、と仕事場にも話をしなくちゃいけないからすぐには帰れない、と言いましたが当然取り合ってくれません。必死になだめすかして泣いてせがむようにしてホテルに返しました。夫は不思議と私に男がいるとは思わなかったようです。考えてみれば玄関先には男物の靴がないわけですし、室内にも男物の服はなかったのですから。

 私はこの後どう結子と話そう、もしかしたらまた結子が私をさらってくれるのではないか、などと馬鹿な事を思いながら住まいで帰宅を待っていましたが一向に彼女は帰ってきません。その夜は結局帰ってきませんでした。こんな事は今までなかった事です。
 翌朝急いで仕事場の喫茶店に行ってみましたが結子はいませんでした。ただメニューボードに“Bye”と口紅で書かれているだけでした。昔の歌を真似て気取ったのでしょう。精一杯の強がりだったんだと思います。何せ安普請でしたので、住まいの外から私たちのやり取りを聞いていたのかも知れません。
 遅すぎる初恋が終わった瞬間です。涙が止まりませんでした。カウンターに突っ伏したまま涙を止める事が出来ませんでした。

それきりもう彼女には会っていません」


【次回】
 番外編二 告白 ―― 多喜 ――


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「そんなある日の夕刻、私たちの住んでいる貸家にいきなり夫がやってきました。10カ月くらいたってからの事でしょうか。結子は買い物に出ていてそこにはいませんでした。
 夫は頭を下げて言いました。『すまん、僕が悪かった』と。『僕が強要するのが辛くて逃げてきたんだろう。もうそんなことはしない。しないからどうか戻ってきて三人で一緒に暮らしてくれないか。多喜だって君に会いたがっている。子供の事ももう考えないから』って。
 多喜の名前を出されると愛しさと申し訳なさで胸が苦しくなりました。多喜と結子に挟まれて身体が引き裂かれるかと思いましたが、実際にお腹を痛めて産んだ子供がどれほど愛しいものかと初めて知りました。それとは別に、私にとって一番つらかったことから解放される喜びに安堵しました。その一方で同時にこのまままたこの異性の人と生活してゆくのかと思うと絶望しました。あの時私は全てを告げればよかったのでしょうか。この時私が同性愛者だと気づかれていなかったのは良かった事だったのか悪い事だったのか…… どうなんでしょう。私自身は今でも知られたくはないんです……
 夫が住まいに来た時はたまたま結子はいませんでしたから、私の頭はまだ混乱していて今すぐはい、ともいいえ、とも言える状態ではありませんでした。ただ、こんな遠くまで追ってきたからにはもう何度逃げても逃げ切れない、との覚悟と言うか、諦めの方に近いものを感じました。観念しました。私ではどうやってもこの男から逃げおおせることはできないのだ、と。だからもう逃げも隠れもしないし、出来もしないのだから一人でホテルに帰って待ってて、と仕事場にも話をしなくちゃいけないからすぐには帰れない、と言いましたが当然取り合ってくれません。必死になだめすかして泣いてせがむようにしてホテルに返しました。夫は不思議と私に男がいるとは思わなかったようです。考えてみれば玄関先には男物の靴がないわけですし、室内にも男物の服はなかったのですから。
 私はこの後どう結子と話そう、もしかしたらまた結子が私をさらってくれるのではないか、などと馬鹿な事を思いながら住まいで帰宅を待っていましたが一向に彼女は帰ってきません。その夜は結局帰ってきませんでした。こんな事は今までなかった事です。
 翌朝急いで仕事場の喫茶店に行ってみましたが結子はいませんでした。ただメニューボードに“Bye”と口紅で書かれているだけでした。昔の歌を真似て気取ったのでしょう。精一杯の強がりだったんだと思います。何せ安普請でしたので、住まいの外から私たちのやり取りを聞いていたのかも知れません。
 遅すぎる初恋が終わった瞬間です。涙が止まりませんでした。カウンターに突っ伏したまま涙を止める事が出来ませんでした。
それきりもう彼女には会っていません」
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