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哀愁の冷やし中華

ー/ー



 幹事長室を後にし、ふと腕時計に目をやると、時刻は正午を差していた。

 そういえば、今日はまだ食事をしていなかった。あんな大声を出した後なので、よっぽど腹が空いていたらしい……私の腹の虫がグウと音を立てていた。

 昼食はいつも外食である。私はあまり食べ物に執着が無いので、目に付いた店にふらりと入って食事を採る事が多い。

 今日もそんな気分で建物の外に出ると、この近所にある食べ物屋をきょろきょろと物色し始めたのだ。

 すると……

「あ……」

 あんなやり取りをした直後だからだろう……ある一軒の店先に立ててあったに、思わず目が向いてしまった。


『冷やし中華はじめました』

「また、ずいぶんと早いな……まだ五月なのに」

 しかし、今年の夏は涼しいのだ。

 その事実を知っている私にしてみれば、冷やし中華を始めるのが五月だろうが八月だろうが、大した違いを感じられないのも確かだ。


          *     *     *


 結局、その店に入った。

「いらっしゃいませぇ」

 あまり混んでいないその店は、年配の夫婦が営んでいる店のようだった。

 ほどなく、お盆に水とおしぼりを載せて、愛想の良さそうな顔でおばさんがこちらにやって来た。

「いらっしゃい。何になさいますか?」

 何を注文しようかと壁にあるメニューに目を移すと、再びあの文字が私の目に入った。

『冷やし中華はじめました』

「もう、冷やし中華始めたんですね」

「うちは、GWが終わったらもう冷やし中華始めるんですよ。でも、ちょっと早いかもしれないねぇ」

 そんな事を言って、私に向かってにっこりと微笑むおばさん。

「それじゃ、その冷やし中華を一つ下さい」

「はい~ちょっと待っててね」

 なんとなく、その時の気分で冷やし中華を注文してしまった。

 数分位待っただろうか……おばさんがあの笑顔と共に、冷やし中華を持ってやって来た。

「はい~お待ちどうさま、ごゆっくりどうぞ」

 私は、おばさんに軽く会釈をすると、届けられた冷やし中華に目を移した。

「うん、冷やし中華だ」

 なんとなく、そんな独り言をぽつりと呟いた。

 そして私は、割り箸を手に取り、黙々とその冷やし中華を食べ始めた。

 冷たい黄色みがかった麺。そして細切りにされた玉子とキュウリとチャーシュー。そして紅生姜。

 私は、あまり食べ物に執着が無い。

 この冷やし中華も、決して不味いとは思わなかった。

 けれども……

 無表情のまま冷やし中華を食べる私の様子を見て、カウンターの向こうからおばさんが話し掛けて来た。

「やっぱりかもしれないわねぇ」

 冷やし中華は暑い夏の方が美味しいか……

 だけど、そんな夏はもうやって来ないのだ。

「うん、これは冷やし中華だ」

 私は、それを自分自身に言い聞かせるように、再び呟いた。



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 幹事長室を後にし、ふと腕時計に目をやると、時刻は正午を差していた。
 そういえば、今日はまだ食事をしていなかった。あんな大声を出した後なので、よっぽど腹が空いていたらしい……私の腹の虫がグウと音を立てていた。
 昼食はいつも外食である。私はあまり食べ物に執着が無いので、目に付いた店にふらりと入って食事を採る事が多い。
 今日もそんな気分で建物の外に出ると、この近所にある食べ物屋をきょろきょろと物色し始めたのだ。
 すると……
「あ……」
 あんなやり取りをした直後だからだろう……ある一軒の店先に立ててあった《《ノボリ》》に、思わず目が向いてしまった。
『冷やし中華はじめました』
「また、ずいぶんと早いな……まだ五月なのに」
 しかし、今年の夏は涼しいのだ。
 その事実を知っている私にしてみれば、冷やし中華を始めるのが五月だろうが八月だろうが、大した違いを感じられないのも確かだ。
          *     *     *
 結局、その店に入った。
「いらっしゃいませぇ」
 あまり混んでいないその店は、年配の夫婦が営んでいる店のようだった。
 ほどなく、お盆に水とおしぼりを載せて、愛想の良さそうな顔でおばさんがこちらにやって来た。
「いらっしゃい。何になさいますか?」
 何を注文しようかと壁にあるメニューに目を移すと、再びあの文字が私の目に入った。
『冷やし中華はじめました』
「もう、冷やし中華始めたんですね」
「うちは、GWが終わったらもう冷やし中華始めるんですよ。でも、ちょっと早いかもしれないねぇ」
 そんな事を言って、私に向かってにっこりと微笑むおばさん。
「それじゃ、その冷やし中華を一つ下さい」
「はい~ちょっと待っててね」
 なんとなく、その時の気分で冷やし中華を注文してしまった。
 数分位待っただろうか……おばさんがあの笑顔と共に、冷やし中華を持ってやって来た。
「はい~お待ちどうさま、ごゆっくりどうぞ」
 私は、おばさんに軽く会釈をすると、届けられた冷やし中華に目を移した。
「うん、冷やし中華だ」
 なんとなく、そんな独り言をぽつりと呟いた。
 そして私は、割り箸を手に取り、黙々とその冷やし中華を食べ始めた。
 冷たい黄色みがかった麺。そして細切りにされた玉子とキュウリとチャーシュー。そして紅生姜。
 私は、あまり食べ物に執着が無い。
 この冷やし中華も、決して不味いとは思わなかった。
 けれども……
 無表情のまま冷やし中華を食べる私の様子を見て、カウンターの向こうからおばさんが話し掛けて来た。
「やっぱり《《冷やし中華は、もっと暑い夏に食べた方が美味しい》》かもしれないわねぇ」
 冷やし中華は暑い夏の方が美味しいか……
 だけど、そんな夏はもうやって来ないのだ。
「うん、これは冷やし中華だ」
 私は、それを自分自身に言い聞かせるように、再び呟いた。