沖田真一はその日、いつもとは違う様々な感情を持ち合わせていた。新しい住まいに慣れない中、高校生活転校初日の朝。睡眠不足もあいまって気分は鬱屈としている。父の転勤都合とはいえ、疎ましく思ってしまうのも無理はなかった。
履き慣れた靴が自分の居場所のように思える。スマートフォン端末の地図通りに歩いていくと、朝の八時を少し過ぎた時間に学校に着いた。校舎は二つあり、大雑把に言えば東西に別れている。比較的新しそうでいて綺麗な佇まいであり、前いた学校と比べると利便性は高いだろうと感じる。
教室に入る前、職員室に寄るように伝えられていた真一は指示通りに向かった。
「おはよう、沖田君」
出迎えてくれたのは一昨日挨拶した担任の倉城将司だ。五十台くらいの恰幅が良い、ハツラツとした人だ。髪が後退しかけているが、それと白髪を利用して元気さを前面に出している。
職員室にいるのは大人ばかり、それは当然だ。微かなコーヒーの香りと涼しさが心を和ませている。
「ここじゃ落ち着かないだろうから、科学準備室で待ってて。階段上って二階、すぐ目の前にあるからさ」
「助かります」と真一は素直に言うと職員室を出て科学準備室に向かった。他の生徒達を見るに、偏差値が中より少し上なのは間違いない。転入試験が難しかっただけあって暮らしやすいだろう。
男は灰色の学生服、女子は灰色のカーディガンに紅と緑のスカートという至って地味なスタイル。人によってはカーディガンが黒だったり白だったりしている。学校内の喧噪を聞くと安心するのを不思議に思いながら階段を上り、科学準備室の扉を横に開けた。
「おっ」
準備室は大きめな白い机が二列に並んでいて、電気がついていた。だがそれよりも先に飛び込んできたのは、ちょうど中央にある机の椅子に座っている女子生徒の姿だ。彼女は腰にカーディガンを撒いていて、白のワイシャツ姿。黒の小さなリボンが首の辺りについている。
思わず真一はこう言った。
「ここは教室じゃないぞ」
彼女は短い髪を手で触りながら微笑んだ。
「何それ、おもしろ。私も転校生なんだよね」
人間には様々なジャンルがあるが、彼女の性格はまさしくダウナーというのが似合うだろう。気怠そうにしてはおらず、興味深そうに真一をずっと見ている。
ダウナーに神秘性がついた特殊な雰囲気を感じた真一は、目が合うと逸らしてしまう。彼女は間違いなく人気が出るだろう。この後を思うと憂鬱だ。彼女の周りには人が集まり、真一の周りに来るのは一人か二人か、想像は容易かった。
「私の名前は赤崎美沙。趣味は写真とゲーセン。休日は」
「聞いてないっつーの」
呆れ顔で言うと、美沙はキョトンとした表情で返してくるのだった。
「独り言だよ? この後の予行練習」
そう口にした後、彼女は一人で笑い始めた。真一は呆れながら彼女とは少し離れた位置に腰掛けた。
「ねえ、君もしてよ。予行練習。聞きたい」
「嫌に決まってんだろ。お前、よく恥ずかし気もなく独り言なんて言えるな」
「私、自分のこと好きだからね」
何を言われても動じない方がいいだろう。真一は黙って端末を取り出し、日課になっているゲームを始めた。おそらく倉城が来るまで三十分も待たないといけないはずだ。その三十分を美沙と過ごすのは精神的に耐えかねる。真一はどちらかといえば一人の方が好きだったのだ。
「何してるの?」
画面に夢中になっていたからか、気付くのが少し遅れた。美沙がかなり近くまで来ていたのだ。
「ゲームだよ」
色んな猫を育てて戦士にし、拠点を守っていく比較的平和なゲームだ。もう一度ゲーム画面に目を向けると、美沙が立ち上がって画面を覗き込んでくるではないか。彼女の吐息が首に当たり、思わず真一は端末を落としそうになった。
「近いっつーの!」
人生でここまで距離を詰められた経験がなく、反射的に真一は離れた。心臓がまだ騒がしい。
「あ、ごめん」
よく考えれば、少し独特な甘い匂いもしなかったか。思い出すにつれて心臓は更に鼓動を速める。
「私のこと嫌いになった?」
「はあ?」
ここまで来ると一線を超えて彼女は何らかの天才なのではないかと思い始める。
そう考えると彼女はどんな写真を撮るのだろうと興味すら湧いて来るのだ。最近のスマートフォンはカメラ機能もかなり優れている。そもそも何を被写体にするのだろうか。自分が好きなら自撮りをするのだろうか。
「私、なんかよく人に嫌われるんだよね。変わり者だって言われて」
言い得て妙とはこのことだ。最初に彼女を変わり者だと判断した人間は賢い。
「前の学校でイジメられて、それで転校したんだよね。中学は恵まれてたなー、良い人達ばっかりだった」
「美人でもイジメられるんだな」
失言をした、真一は時を戻したい衝動に駆られるも、彼女は気を病むどころかニヤリと口角をあげるのだった。
「私のこと美人って言ったね。見る眼あるよ、君」
「自撮りばっかしてそうな奴から言われてもな」
「したことないよ、自撮り」
意外だった。その証拠にと、彼女は水色のケースに収まっている端末を取り出すと、撮影した写真一覧を見せてくるのだった。画面には確かに美沙は映っていない。ほとんどが風景画か、ゲームセンターで撮ったような写真。友達の写真もあった。
「これ全部デジカメで撮ったんだよね。綺麗でしょ」
一枚を拡大して彼女は見せてきた。場所は東京の街並み、夕方くらいだろう。電信柱にカラスが止まっていて、バックにはぼかされた夕日が映っている。だが写真に特徴的な建物や人物はいなかった。
「なんかね、君には嫌われたくないんだ」
「同じ転校生だから?」
端末を胸ポケットに閉まった美沙はこう続けた。
「それもある。けどさ、なんか直感もある。君と他の人とは作れない関係を築いてみたいなって」
「意味分かんねえ」
科学準備室に来てからまだ十分も経っていない。時の流れがこんなに遅いなんて思いもしなかった。ゲームをしたい気持ちと、美沙を更に知ってみたい気持ちが同伴している。下手に動けば黒歴史になってしまいそうな気がして真一は机にヒジをついてヨソを向いた。
「君の名前と趣味は?」
助け船を出されたような気がして自分が情けなく感じるも、真一は名前だけ答えた。趣味は言いたくなかった。引かれる趣味ではないが、話好きの美沙にとびきり美味しい餌を与えてしまうようなものだった。
「趣味を知りたい。教えて、真一君」
「聞いても面白くないだろ」
「そっかあ、じゃあ。私の特技教えてあげるね」
興味無しと真一は身体の向きごとそっぽを向く。美沙には申し訳ないと思いつつ彼女に背中を向けたのだ。嫌いなわけではないが、今この瞬間真一の趣味は彼にとって財宝のようなものだった。奪われないように守るのだ。
美沙が立ち上がる音が聞こえた。
一瞬だけ何が起きたのか分からなかった。真一は脇の辺りに突然大災害が起きたような感覚に襲われた。三秒後、ようやく理解する。
「ほら、言えー」
くすぐり攻撃だ。