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第3話 呪のあとさき

ー/ー



 
 
 その女は――夏越(なごし)の祓の日と、大晦日(おおみそか)の祓の日と、年に二度、自分のもとを訪れる。


「……上がって行くか? お茶ぐらいなら淹れられるが」
 そうたずねてはみるものの、相手の女が、
「……お気持ちだけいただくわ」
 と返してくるのを、皇(すめらぎ)柚真人(ゆまと)は知っていた。
 このやり取りも、もう何度目になるかわからない。相手の女も、老けたな、と思う。
 女は、腰までとどくほどの、白髪交じりになった腰に届くほどの長さの髪を、束ねて背中に垂らしていた。ここでは黒色の地味ともいえるシンプルなスーツを身に着けて、その歳になってもなお、凛とした強い空気を見に帯びている。
 その、気に強そうな面差しと容貌が、自分の想い人にそこはかとなく似ているのが、いつでも苦手な柚真人だった。
 だがまあ、それも致し方ないことだろう。この女は、自分が毎日苦しいほど想い続けている人間の、親(ちかし)い血縁者なのだから。
 女の名は、漣(さざなみ)(たまき)
 しかしこの『漣(さざなみ)』というのは、彼女の戸籍上の苗字ではなく、どちらかというと官位のようなものである。
「――それで。今年の夏越も、変わりはないか、鎮護官(ちんごかん)
 柚真人は彼女をそう呼んだ。
 鎮護官、というのは『漣』と対になる役職だ。官というだけに、所属は宮内庁である。世間一般的には非公式の――ということになるが。
 彼女とこうして顔を合わせると、どうしたって彼女と初めて会った日のことを思い返さずにはいられない。

      ☆

 あの日。あの時。


「柚真人(ゆまと)!?」
 額の奥が裂ける様な激痛。
 妹の声が遠くで聞こえる。
「……っ……ああっ」
 意識が急速に遠ざかり始めていた。
 視界が灼かれるように白濁していく。
 頭蓋の中で響くさまざまな声。
 脳の奥に氾濫するとりどりの色。
 痛い――頭が痛い。
「く……そ……っ」
「どう……どうしたの!?」
 戸惑う妹の声。
 もう二度と訊くことができない――のか――。
 こんな突然。
 こんなに突然に――!!?
「こんな……っ」
 彼女を突き放したままで。
 嫌だ。
 駄目だ。
「……っ……つか……さ……っ」
「柚真人……!?」
 ――さよならだ。
 ――もう二度と、逢えない、大切な。
 ――おれの――。
「……っ……」
世界で、この世で、一番――。
「ねえ柚真人っ!!! 柚真人!? どうしたの!?」
 視界が霞む。
「柚真人――!」
 閃光がすべてを消してしまう。
 すべてを――。
 
 
 その時、柚真人は自分がある『呪(のろい)』により、この世から消滅するのだと思っていた。ところが、その筋を、柚真人は大きく読み違えていたのだ。
『皇柚真人』に、かけられていた『呪』。
 それは。


 まるで――箍が外れたようだった。
『消滅』どころか、自分の中にその瞬間怒涛のように溢れてきたのは、記憶、だ。それまで自分が生きてきたと思っていた、十六、七年ではとうてい釣り合わないとわかるほどの、量の、記憶。そして感情。ゆえに、それまでの皇柚真人という存在を『変えてしまう』という意味では、柚真人が体験したことは、ある意味『消滅』と似ていたのかもしれない。ただ、柚真人の中で、別に『消えた』ものがあるわけではなかった。『柚真人』は『柚真人』ではあった。その上で、それに覆いかぶさるような、膨大な量の記憶に柚真人は塗りつぶされた。自分は自分であるのにもかかわらず、自分以上の圧倒的な何かに、自分というものを上書きされた、と言ってもいいかもしれない。
 柚真人は、憶い出したのだ。
 自分に、千二百年ほどの時間をさかのぼる、前世の記憶があることを。柚真人は、はじめにこの世に意識が生じさせた時には、『緋(あけ)』と呼ばれていた。『緋(あけ)』の『禍鬼(まがつおに)』と。『緋』は、人ではなく、鬼だった。それどころか鬼や怪異と呼び称される、人とは棲む世界を分ける異様の者たちを束ね従える首領だった。しかし鬼には人のような寿命も輪廻もない。それがどうして、人と同様に輪廻の中で生まれ変わりを願うことになったのか――。
 同時に、自分がなぜ、あれほど強く、激しく、恋しく、『彼女』に執着したのかも理解した。自分は、『彼女』を求めて人の輪廻を巡ることを受け入れ、『彼女』をさがし求めていつか彼女と同じ人として生まれ変わり彼女とふたたび巡り逢うことを誓ったからだ。

 
 柚真人は、『呪』の発動と引き換えに三日ほど意識を喪失していた。
 そして、搬送された病院先の病室で目覚めた時に、女――(さざなみ)(たまき)がいた。
 その瞬間も、ぼんやりと、司にどこか似ている、と感じたことを覚えている。
 その感じは、間違いではなかった。
 彼女の本名は草薙(くさなぎ)(たまき)。司の、実の叔母にあたるのだ。
 司は柚真人の妹であるはずなのに、なぜ叔母の苗字が草薙なのかと言えば、司の父親は、柚真人の父親とは違うから。柚真人は、そのことも憶い出していた。柚真人も、司も、実は(すめらぎ)の先代の正統後継者であった皇和季人(おきと)の直系実子ではなかったのだ。柚真人の実親と司の実親は、いずれも柚真人と司がまだ幼少だった時に命を落としており、柚真人と司はそれぞれの実親が死亡した時を契機に和季人の養子となり、のちのちに皇の家で兄妹となった。妹の司の方は、この幼少期の顛末をきっと少しも覚えてはいないだろう。柚真人がこれらの事実を記憶に留めて今になってあらためて認識できたのは、柚真人がもともとは只人でなく、かつ、『彼女』を探しもとめるためだけに自分自身で強く強く己の意識があるうちに拾い得たうちではひとつの記憶も残さずに留めおこうと胸に刻んでいたがゆえ。
 そうして、柚真人は(さざなみ)(たまき)に告げられた。
 柚真人が病院で意識を失っている三日の間に、妹の司が失踪した、と。
 司がいなくなった。行方がわからない。それを告げられた時の感覚は、柚真人の中に未だ鮮やかだ。その瞬間、柚真人は、いまだかつて感じたことのない焦燥のような怨嗟のような苦悶のような強くて苦しい感情の津波のようなものに飲まれかけた。なぜなら、ほかでもない司こそが、柚真人が前世より何度生まれ変わってでも必ずふたたびと探し求めた『彼女』に他ならなかったからだ。だから柚真人は司に――『妹』に恋をした。己がこれほどに焦がれて焦がれてやまない存在が、なぜ己の血のつながった妹なのかと、柚真人はこれまで幾度となく自問してきたのだが、答えはあまりにも明確で簡単だった。単に、必然に他ならなかったのである。実の妹だろうとなんだろうと、司以外の選択肢など自分にはなからありようもなかったのだ。
 柚真人がそのまま、急に自分の中によみがえった己の記憶と感情とに飲み込まれてそうになるところまで、漣(さざなみ)は予想していたのだろう。怒りや悔しさ、そのほかの何と呼んだらいいかよくわからないものの濁流に我を忘れそうになったところを、止めたのも漣環だった。
 その時に自らを鎮護官(ちんごかん)だと名乗った漣は、さらには柚真人を強く諫めた。
 鎮護官――たる者が何者であるかは、柚真人も皇神社の現当主として知っていた。鎮護官とは宮内庁は所属の一種の特殊な、一般的には知られていない役職である。同時に、神社本庁にも属する神職であり、つまり本来は存在するはずのない、公務員資格を持った神職だ。役目としては、宮内庁と神社本庁を繋ぐものであり、神社本庁管理下にある神社のうち、退魔や心霊現象に係る異能をその血筋に引き継ぐものを統括管理する。皇神社もまた、そのような異能と神事を血に継ぐ神社であるがゆえ、いわゆる『勾玉の血脈』――神代からその力を伝えることを意味する――として彼らの統括下にあった。
 その鎮護官のひとりがどうしてここで柚真人の目覚めを待っていたのか、ということも柚真人は漣に告げられた。
 柚真人が突然の覚醒――前世の記憶を取り戻し、その記憶に宿る己の本性をも取り戻した――をしたことにより、柚真人とともに『司』の存在が、それを知られてはならない者たちに知れ渡ってしまったのだ、と。
 『司』は、柚真人がそれと意識できないうちから必然的に焦がれた通り、『緋』と呼ばれた鬼が人の輪廻を巡る契機となった、人の娘、退魔の力を携えた巫女の生まれ変わりであった。ただ、柚真人と司がなにも知らぬままにただただ人として生きていれば柚真人と司の前世よりの因縁などこんなふうに表に出るものではなかったかもしれない。しかしその身に施された『呪』によって柚真人が強制的に前世を引きずり出されたことにより、まず、柚真人を目がけて、鬼やそれに類するものたちが群がった。司はその時に柚真人を守ろうとして。――目覚めさせてはならない『力』を目覚めさせてしまった。司が何者であるかが知れると、柚真人を襲った人ならざる異様の者たちは司にも襲いかかった。その間に割って入り、柚真人をなんとか助けたのが、漣とその統括下にあった、皇の一族とはまた別の退魔を専門とする勾玉の血脈の者たち。彼らが応戦してくれたおかげで、一度は襲い来る異様を退けた。その際、神社本殿は半壊、司と、その時司が使役しようとしていた神社の神刀・佐須良が――消えた。
 もともと、退魔の巫女などに肩入れし、それどころか眷属たちを棄てようとさえした『緋』は、かつては己の支配下にあったあらゆる人ならざる存在たちから、裏切りの誹りと怨嗟と呪詛を向けられていた。それが無力な人として生まれ変わったと知れれば、群がる雲霞のごとき襲来に見舞われるのは道理でったのかもしれない。あるいは、それこそが、『呪』の、本当の狙いであったのかも。
 ――十年前に、私がすべてを読み間違えたせいでこんなことになったのかもしれないわ。
 ――その点では、貴方と司に謝罪すべきなのでしょう……公式に、というわけにはいかないけれど。
 漣は、事情をようよう何とか把握しながら呆然となりかけていた柚真人にそう言った。
 ――本当は、十年前のあの時に。私は、司を殺せと命じられていたのです。
 ――でも、……できなかった。姪を殺すことはできなかった。
 ――あの時。十年前に、司の身に何が起きたのかを理解していても。
 ――それで、貴方と司の処置のすべてを、暁の者に委ねてしまった。……それも、間違いでした。
 その告白により、この漣環という女が司の血縁者であることも知った柚真人だった。漣環は、勾玉の血脈のひとつである『草薙(くさなぎ)』の神社に生まれながら、退魔の力を引き継ぐことができなかった者だった。ゆえに草薙の家を離れて、鎮護官となった。かわりに退魔の能力をもって生まれたのが環の兄・草薙(いさみ)の娘である――草薙司だ。この環の兄・勇と婚姻関係を結んだ、つまり司の母となったのが、柚真人の母――皇朔子(さくこ)であるということになる。『草薙』はそもそも『緋(あけ)』の名をもつ鬼と深くかかわりをもった人の巫女、初代草薙の巫女を始祖とすると伝えられる。その血の果てに、柚真人の異父『妹』として司が生まれたのは、必定の運命であったのか、それとも折り重なった因果の果てに生じた偶さかであったのか。
 ――当時の、あの事件から、今の貴方がそうなったことまで、背後に暁の当代が動いていたのはこちらでも把握しています。
 ――(あかつき)の当代――(あかつき)圭吾(けいご)は、貴方の父親……皇満と、どういうわけか協力関係にあったようでね。
 ――でもそれは、貴方もうすうす勘づいていたでしょう。
 ――あの事件のあと、貴方と司に暁圭吾が何をしたのか、その証拠一式も抑えて回収してあるわ。こちらは暁の病院の方が協力的でした。
 ――暁圭吾は、当時、皇の一族に数えられる能力を有してはいなかった。だから普通の人間として医者となっていたのだけれど、……それも、我々の油断と予断に繋がりました。
 ――まさか、術に必要な能力を、現代医学で代替するとは。
 ――それでも、こうも手の込んだ事態になっているとは、――…………『桜御護(さくらみもり)』でも、すべては、霊視えていなかったと。
 『桜御護(さくらみもり)』もまた鎮護官の管轄下にある異能の巫の呼称だ。確か、強い未来視の霊力をもつ巫女が代々引き継いでいる名だったか――その程度くらいの認識は、柚真人にもあった。勾玉の血脈同士は、別の血統の存在は知っていても、直接かかわることは少ない。
 ただ、唯一、柚真人にとって希望となったのは、
 ――桜御護は、司の『身』は無事だと言っているわ。
 ――同時に、皇の神刀が巫女と認めた彼女を守っているといっています。
と続けられた、漣の言葉。
 ――ゆえに、神刀と司はともに在るはずだと。どこかに。
 ――貴方のご両親が亡くなった時と同じように、どこかに。 
 だから――柚真人は頷いたのだった。
 さらに続けられた漣の、
 ――私たちも、司……その力をふたたび暴走さえたうえ、行方不明となったおそらくは最後の『草薙の巫女』を、このまま放っておくことはできません。
 ――そこで、どういうかたちにであれ、司の存在が確認・確保されるまで、互いに協力を……情報を共有して欲しいのです。貴方に。
 という申し出に。
 漣は、司についてはなお巫女としての司の状態によっては処分やむなしの命令が出続けているとも柚真人に開示してくれた。その上で、自分は、できることなら司を助けたい。そのためには、柚真人の協力が必要となる気がするから、と。
 また、柚真人が鬼の首魁としての前世を覚醒した以上、『皇柚真人』の宮内庁と神社本庁からの認識は、今まで通りの単なる皇の当主ではなくなる。むしろ司と同じように、組織から処分対象とすべきであると認識・判断されれば、一転、勾玉の血脈として守られてきた立場からの排除を命じられかねない。とすれば、司を巫女として取り戻すまでの鎮護官との協力関係は、柚真人の身分を少なくともそれまでの間は保証するものともなろう。
 かわりに、鎮護官との定期面会と監視を受け入れること、その身にいかなる事情があろうとも『人』として皇神社の当主としての務めを最優先で果たし続けること、が、鎮護官の側から条件とされ――。


 以降、年に2回、彼女と面会することが、柚真人にとっては、義務ともなったのだ。

       ☆
 
「今年も――、暑い夏になりそうだな」
 柚真人は、漣環にそう向けながら、まだ梅雨のさなかではあるものの、今日のところは薄い雲を漂わせながらも晴れ渡っている空を見上げた。
 今日は夏越の祓の日なので、まだ日は高い。
 そろそろ皇神社としての参拝時間は終わりになる頃であるが、境内には他の多くの神社と同じように茅の輪が設置されていて、まだ時折茅の輪くぐりに訪れる参拝客の姿があった。
 柚真人と漣は、皇神社の境内の、拝殿と社務所の間のあたりで立ち話をしていたから、その様子がどちらの視界にも入っている。
 皇神社としての機能を保全すること。己が何者であったとしても、まずなによりもたゆまずにこの杜の主としての務めを果たすこと。あれから自分に課されたその約定を、柚真人は、守っている。そのことを、漣も確認しているのである。
 ここでの神事や祭礼の多くは特殊なものであるがゆえ、現在もほぼ柚真人ひとりがこなしてはいた。でも、それ以外の例祭や今日のような地域と関りのある行事のためには、一般の職員だって雇っているし、バイトもいるし、皇の皇たる仕事を支えている巫の一族たちも健在だ。
 とはいえこのままでは、やがては、そういったことを継続していくのにも、色々な意味で限界が来るのかもしれない。
 だが、いまのところは。
 まだ。
 時間は幾ばくか、残されている。
 官僚然とした漣と、境内に神職装束をまとって立つ柚真人との間には、そのことを含んだ緊張も、常に漂っているようでもあった。
「――年々、夏の暑さがこたえる歳になるわ」
 漣環は、そう応じた。
 あれから、幾年を数えたか。
 漣の方は、その分だけ歳を重ねているから、その容貌にもすっかりそれが表れている。流れた時間の量と重さを、だから逆に柚真人は彼女から感じさせられてしまうのかもしれない。
 柚真人はといえば――あの後、大学へ進学し、卒業した程度のところで、容貌の変化が止まった。もっとも、止めたのは柚真人自身の意思であり、そこには柚真人なりの理由もあり、その時にも鎮護官たちとはひと悶着あって少々どころではなく揉めに揉めた。それはまた別の話としても――肉体的な年齢の変化がおよそ二十五、六歳ほどで止まってしまった容貌を、柚真人の実年齢と比較して、老けて見えない、若く見える、で誤魔化せるのは、もうそう長いことではない。
 今の柚真人は、漣環と初めて会った時よりも、『鬼』の側へ近づいたのだ。人であるはずの身が、齢を重ねなくなったのはその証。そのことを漣も認識している。ゆえに、今となっては、彼女が柚真人の現状を守っていると言ってもよかったかもしれない。彼女が鎮護官でいられる限りにおいて、未だ、柚真人と司の処遇は、漣環の一存に委ねられている、と彼女は言っているのだから。
「――…………どうか、私の命のあるうちに……」
 と、小さく、漣が呟くのが、柚真人の耳に届いた。
 ところが彼女に目をやれば、彼女は柚真人の方ではなく、境内の、茅の輪の方を見遣っている。
 ともすれば、それはもはや漣の心の声がこぼれたような、ひとりごちりであったのかもしれない。
 あるいは、彼女の覚悟、でもあったろう。


 ゆるい風が流れて、境内を囲むように茂る緑の葉が鳴った。
 その木々の葉のざわめきの中。
 自分の耳にまでも届いた、鎮護官の覚悟を。
 柚真人は、砂に沁ませる水のように、自分の胸に受け止める。 
 言われるまでもなく。
 どれほどの刹那であろうとも。
 越えられるものなら越えたいのだ――柚真人とて。

 あの時。
「……お前はおれの妹だ。そうだな?」 
「……おれには、触れるな。……もう二度と」
 苦しい気持ちで、司を想って、司に向けた時。
 『呪』の発動を悟って覚えた、絶望。
 ――さよならだ。
 ――もう二度と、逢えない、大切な。
 ――おれの――。
 今のところそれは、『呪』が用意した道筋とは辛うじて結果を違えはしたものの、動かしようなく確たる現実となって、柚真人に苦悶を与えている。

 夏越の日の太陽に、柚真人はほそく目を眇める。
 かつて。過去にこの社から神刀が失われ、それがひとたび戻って来た日も、夏がはじまる――と思ったことを、柚真人は覚えている。
 そしてそれはふたたびこの社から姿を消してしまい。
 未だ。
 黄泉の女神のいます社に、戻らない。


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 その女は――夏越《なごし》の祓の日と、大晦日《おおみそか》の祓の日と、年に二度、自分のもとを訪れる。
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 そうたずねてはみるものの、相手の女が、
「……お気持ちだけいただくわ」
 と返してくるのを、皇《すめらぎ》柚真人《ゆまと》は知っていた。
 このやり取りも、もう何度目になるかわからない。相手の女も、老けたな、と思う。
 女は、腰までとどくほどの、白髪交じりになった腰に届くほどの長さの髪を、束ねて背中に垂らしていた。ここでは黒色の地味ともいえるシンプルなスーツを身に着けて、その歳になってもなお、凛とした強い空気を見に帯びている。
 その、気に強そうな面差しと容貌が、自分の想い人にそこはかとなく似ているのが、いつでも苦手な柚真人だった。
 だがまあ、それも致し方ないことだろう。この女は、自分が毎日苦しいほど想い続けている人間の、親《ちかし》い血縁者なのだから。
 女の名は、漣《さざなみ》環《たまき》。
 しかしこの『漣《さざなみ》』というのは、彼女の戸籍上の苗字ではなく、どちらかというと官位のようなものである。
「――それで。今年の夏越も、変わりはないか、鎮護官《ちんごかん》」
 柚真人は彼女をそう呼んだ。
 鎮護官、というのは『漣』と対になる役職だ。官というだけに、所属は宮内庁である。世間一般的には非公式の――ということになるが。
 彼女とこうして顔を合わせると、どうしたって彼女と初めて会った日のことを思い返さずにはいられない。
      ☆
 あの日。あの時。
「柚真人《ゆまと》!?」
 額の奥が裂ける様な激痛。
 妹の声が遠くで聞こえる。
「……っ……ああっ」
 意識が急速に遠ざかり始めていた。
 視界が灼かれるように白濁していく。
 頭蓋の中で響くさまざまな声。
 脳の奥に氾濫するとりどりの色。
 痛い――頭が痛い。
「く……そ……っ」
「どう……どうしたの!?」
 戸惑う妹の声。
 もう二度と訊くことができない――のか――。
 こんな突然。
 こんなに突然に――!!?
「こんな……っ」
 彼女を突き放したままで。
 嫌だ。
 駄目だ。
「……っ……つか……さ……っ」
「柚真人……!?」
 ――さよならだ。
 ――もう二度と、逢えない、大切な。
 ――おれの――。
「……っ……」
世界で、この世で、一番――。
「ねえ柚真人っ!!! 柚真人!? どうしたの!?」
 視界が霞む。
「柚真人――!」
 閃光がすべてを消してしまう。
 すべてを――。
 その時、柚真人は自分がある『呪《のろい》』により、この世から消滅するのだと思っていた。ところが、その筋を、柚真人は大きく読み違えていたのだ。
『皇柚真人』に、かけられていた『呪』。
 それは。
 まるで――箍が外れたようだった。
『消滅』どころか、自分の中にその瞬間怒涛のように溢れてきたのは、記憶、だ。それまで自分が生きてきたと思っていた、十六、七年ではとうてい釣り合わないとわかるほどの、量の、記憶。そして感情。ゆえに、それまでの皇柚真人という存在を『変えてしまう』という意味では、柚真人が体験したことは、ある意味『消滅』と似ていたのかもしれない。ただ、柚真人の中で、別に『消えた』ものがあるわけではなかった。『柚真人』は『柚真人』ではあった。その上で、それに覆いかぶさるような、膨大な量の記憶に柚真人は塗りつぶされた。自分は自分であるのにもかかわらず、自分以上の圧倒的な何かに、自分というものを上書きされた、と言ってもいいかもしれない。
 柚真人は、憶い出したのだ。
 自分に、千二百年ほどの時間をさかのぼる、前世の記憶があることを。柚真人は、はじめにこの世に意識が生じさせた時には、『緋《あけ》』と呼ばれていた。『緋《あけ》』の『禍鬼《まがつおに》』と。『緋』は、人ではなく、鬼だった。それどころか鬼や怪異と呼び称される、人とは棲む世界を分ける異様の者たちを束ね従える首領だった。しかし鬼には人のような寿命も輪廻もない。それがどうして、人と同様に輪廻の中で生まれ変わりを願うことになったのか――。
 同時に、自分がなぜ、あれほど強く、激しく、恋しく、『彼女』に執着したのかも理解した。自分は、『彼女』を求めて人の輪廻を巡ることを受け入れ、『彼女』をさがし求めていつか彼女と同じ人として生まれ変わり彼女とふたたび巡り逢うことを誓ったからだ。
 柚真人は、『呪』の発動と引き換えに三日ほど意識を喪失していた。
 そして、搬送された病院先の病室で目覚めた時に、女――漣《さざなみ》環《たまき》がいた。
 その瞬間も、ぼんやりと、司にどこか似ている、と感じたことを覚えている。
 その感じは、間違いではなかった。
 彼女の本名は草薙《くさなぎ》環《たまき》。司の、実の叔母にあたるのだ。
 司は柚真人の妹であるはずなのに、なぜ叔母の苗字が草薙なのかと言えば、司の父親は、柚真人の父親とは違うから。柚真人は、そのことも憶い出していた。柚真人も、司も、実は皇《すめらぎ》の先代の正統後継者であった皇|和季人《おきと》の直系実子ではなかったのだ。柚真人の実親と司の実親は、いずれも柚真人と司がまだ幼少だった時に命を落としており、柚真人と司はそれぞれの実親が死亡した時を契機に和季人の養子となり、のちのちに皇の家で兄妹となった。妹の司の方は、この幼少期の顛末をきっと少しも覚えてはいないだろう。柚真人がこれらの事実を記憶に留めて今になってあらためて認識できたのは、柚真人がもともとは只人でなく、かつ、『彼女』を探しもとめるためだけに自分自身で強く強く己の意識があるうちに拾い得たうちではひとつの記憶も残さずに留めおこうと胸に刻んでいたがゆえ。
 そうして、柚真人は漣《さざなみ》環《たまき》に告げられた。
 柚真人が病院で意識を失っている三日の間に、妹の司が失踪した、と。
 司がいなくなった。行方がわからない。それを告げられた時の感覚は、柚真人の中に未だ鮮やかだ。その瞬間、柚真人は、いまだかつて感じたことのない焦燥のような怨嗟のような苦悶のような強くて苦しい感情の津波のようなものに飲まれかけた。なぜなら、ほかでもない司こそが、柚真人が前世より何度生まれ変わってでも必ずふたたびと探し求めた『彼女』に他ならなかったからだ。だから柚真人は司に――『妹』に恋をした。己がこれほどに焦がれて焦がれてやまない存在が、なぜ己の血のつながった妹なのかと、柚真人はこれまで幾度となく自問してきたのだが、答えはあまりにも明確で簡単だった。単に、必然に他ならなかったのである。実の妹だろうとなんだろうと、司以外の選択肢など自分にはなからありようもなかったのだ。
 柚真人がそのまま、急に自分の中によみがえった己の記憶と感情とに飲み込まれてそうになるところまで、漣《さざなみ》は予想していたのだろう。怒りや悔しさ、そのほかの何と呼んだらいいかよくわからないものの濁流に我を忘れそうになったところを、止めたのも漣環だった。
 その時に自らを鎮護官《ちんごかん》だと名乗った漣は、さらには柚真人を強く諫めた。
 鎮護官――たる者が何者であるかは、柚真人も皇神社の現当主として知っていた。鎮護官とは宮内庁は所属の一種の特殊な、一般的には知られていない役職である。同時に、神社本庁にも属する神職であり、つまり本来は存在するはずのない、公務員資格を持った神職だ。役目としては、宮内庁と神社本庁を繋ぐものであり、神社本庁管理下にある神社のうち、退魔や心霊現象に係る異能をその血筋に引き継ぐものを統括管理する。皇神社もまた、そのような異能と神事を血に継ぐ神社であるがゆえ、いわゆる『勾玉の血脈』――神代からその力を伝えることを意味する――として彼らの統括下にあった。
 その鎮護官のひとりがどうしてここで柚真人の目覚めを待っていたのか、ということも柚真人は漣に告げられた。
 柚真人が突然の覚醒――前世の記憶を取り戻し、その記憶に宿る己の本性をも取り戻した――をしたことにより、柚真人とともに『司』の存在が、それを知られてはならない者たちに知れ渡ってしまったのだ、と。
 『司』は、柚真人がそれと意識できないうちから必然的に焦がれた通り、『緋』と呼ばれた鬼が人の輪廻を巡る契機となった、人の娘、退魔の力を携えた巫女の生まれ変わりであった。ただ、柚真人と司がなにも知らぬままにただただ人として生きていれば柚真人と司の前世よりの因縁などこんなふうに表に出るものではなかったかもしれない。しかしその身に施された『呪』によって柚真人が強制的に前世を引きずり出されたことにより、まず、柚真人を目がけて、鬼やそれに類するものたちが群がった。司はその時に柚真人を守ろうとして。――目覚めさせてはならない『力』を目覚めさせてしまった。司が何者であるかが知れると、柚真人を襲った人ならざる異様の者たちは司にも襲いかかった。その間に割って入り、柚真人をなんとか助けたのが、漣とその統括下にあった、皇の一族とはまた別の退魔を専門とする勾玉の血脈の者たち。彼らが応戦してくれたおかげで、一度は襲い来る異様を退けた。その際、神社本殿は半壊、司と、その時司が使役しようとしていた神社の神刀・佐須良が――消えた。
 もともと、退魔の巫女などに肩入れし、それどころか眷属たちを棄てようとさえした『緋』は、かつては己の支配下にあったあらゆる人ならざる存在たちから、裏切りの誹りと怨嗟と呪詛を向けられていた。それが無力な人として生まれ変わったと知れれば、群がる雲霞のごとき襲来に見舞われるのは道理でったのかもしれない。あるいは、それこそが、『呪』の、本当の狙いであったのかも。
 ――十年前に、私がすべてを読み間違えたせいでこんなことになったのかもしれないわ。
 ――その点では、貴方と司に謝罪すべきなのでしょう……公式に、というわけにはいかないけれど。
 漣は、事情をようよう何とか把握しながら呆然となりかけていた柚真人にそう言った。
 ――本当は、十年前のあの時に。私は、司を殺せと命じられていたのです。
 ――でも、……できなかった。姪を殺すことはできなかった。
 ――あの時。十年前に、司の身に何が起きたのかを理解していても。
 ――それで、貴方と司の処置のすべてを、暁の者に委ねてしまった。……それも、間違いでした。
 その告白により、この漣環という女が司の血縁者であることも知った柚真人だった。漣環は、勾玉の血脈のひとつである『草薙《くさなぎ》』の神社に生まれながら、退魔の力を引き継ぐことができなかった者だった。ゆえに草薙の家を離れて、鎮護官となった。かわりに退魔の能力をもって生まれたのが環の兄・草薙|勇《いさみ》の娘である――草薙司だ。この環の兄・勇と婚姻関係を結んだ、つまり司の母となったのが、柚真人の母――皇|朔子《さくこ》であるということになる。『草薙』はそもそも『緋《あけ》』の名をもつ鬼と深くかかわりをもった人の巫女、初代草薙の巫女を始祖とすると伝えられる。その血の果てに、柚真人の異父『妹』として司が生まれたのは、必定の運命であったのか、それとも折り重なった因果の果てに生じた偶さかであったのか。
 ――当時の、あの事件から、今の貴方がそうなったことまで、背後に暁の当代が動いていたのはこちらでも把握しています。
 ――暁《あかつき》の当代――暁《あかつき》|圭吾《けいご》は、貴方の父親……皇満と、どういうわけか協力関係にあったようでね。
 ――でもそれは、貴方もうすうす勘づいていたでしょう。
 ――あの事件のあと、貴方と司に暁圭吾が何をしたのか、その証拠一式も抑えて回収してあるわ。こちらは暁の病院の方が協力的でした。
 ――暁圭吾は、当時、皇の一族に数えられる能力を有してはいなかった。だから普通の人間として医者となっていたのだけれど、……それも、我々の油断と予断に繋がりました。
 ――まさか、術に必要な能力を、現代医学で代替するとは。
 ――それでも、こうも手の込んだ事態になっているとは、――…………『桜御護《さくらみもり》』でも、すべては、霊視えていなかったと。
 『桜御護《さくらみもり》』もまた鎮護官の管轄下にある異能の巫の呼称だ。確か、強い未来視の霊力をもつ巫女が代々引き継いでいる名だったか――その程度くらいの認識は、柚真人にもあった。勾玉の血脈同士は、別の血統の存在は知っていても、直接かかわることは少ない。
 ただ、唯一、柚真人にとって希望となったのは、
 ――桜御護は、司の『身』は無事だと言っているわ。
 ――同時に、皇の神刀が巫女と認めた彼女を守っているといっています。
と続けられた、漣の言葉。
 ――ゆえに、神刀と司はともに在るはずだと。どこかに。
 ――貴方のご両親が亡くなった時と同じように、どこかに。 
 だから――柚真人は頷いたのだった。
 さらに続けられた漣の、
 ――私たちも、司……その力をふたたび暴走さえたうえ、行方不明となったおそらくは最後の『草薙の巫女』を、このまま放っておくことはできません。
 ――そこで、どういうかたちにであれ、司の存在が確認・確保されるまで、互いに協力を……情報を共有して欲しいのです。貴方に。
 という申し出に。
 漣は、司についてはなお巫女としての司の状態によっては処分やむなしの命令が出続けているとも柚真人に開示してくれた。その上で、自分は、できることなら司を助けたい。そのためには、柚真人の協力が必要となる気がするから、と。
 また、柚真人が鬼の首魁としての前世を覚醒した以上、『皇柚真人』の宮内庁と神社本庁からの認識は、今まで通りの単なる皇の当主ではなくなる。むしろ司と同じように、組織から処分対象とすべきであると認識・判断されれば、一転、勾玉の血脈として守られてきた立場からの排除を命じられかねない。とすれば、司を巫女として取り戻すまでの鎮護官との協力関係は、柚真人の身分を少なくともそれまでの間は保証するものともなろう。
 かわりに、鎮護官との定期面会と監視を受け入れること、その身にいかなる事情があろうとも『人』として皇神社の当主としての務めを最優先で果たし続けること、が、鎮護官の側から条件とされ――。
 以降、年に2回、彼女と面会することが、柚真人にとっては、義務ともなったのだ。
       ☆
「今年も――、暑い夏になりそうだな」
 柚真人は、漣環にそう向けながら、まだ梅雨のさなかではあるものの、今日のところは薄い雲を漂わせながらも晴れ渡っている空を見上げた。
 今日は夏越の祓の日なので、まだ日は高い。
 そろそろ皇神社としての参拝時間は終わりになる頃であるが、境内には他の多くの神社と同じように茅の輪が設置されていて、まだ時折茅の輪くぐりに訪れる参拝客の姿があった。
 柚真人と漣は、皇神社の境内の、拝殿と社務所の間のあたりで立ち話をしていたから、その様子がどちらの視界にも入っている。
 皇神社としての機能を保全すること。己が何者であったとしても、まずなによりもたゆまずにこの杜の主としての務めを果たすこと。あれから自分に課されたその約定を、柚真人は、守っている。そのことを、漣も確認しているのである。
 ここでの神事や祭礼の多くは特殊なものであるがゆえ、現在もほぼ柚真人ひとりがこなしてはいた。でも、それ以外の例祭や今日のような地域と関りのある行事のためには、一般の職員だって雇っているし、バイトもいるし、皇の皇たる仕事を支えている巫の一族たちも健在だ。
 とはいえこのままでは、やがては、そういったことを継続していくのにも、色々な意味で限界が来るのかもしれない。
 だが、いまのところは。
 まだ。
 時間は幾ばくか、残されている。
 官僚然とした漣と、境内に神職装束をまとって立つ柚真人との間には、そのことを含んだ緊張も、常に漂っているようでもあった。
「――年々、夏の暑さがこたえる歳になるわ」
 漣環は、そう応じた。
 あれから、幾年を数えたか。
 漣の方は、その分だけ歳を重ねているから、その容貌にもすっかりそれが表れている。流れた時間の量と重さを、だから逆に柚真人は彼女から感じさせられてしまうのかもしれない。
 柚真人はといえば――あの後、大学へ進学し、卒業した程度のところで、容貌の変化が止まった。もっとも、止めたのは柚真人自身の意思であり、そこには柚真人なりの理由もあり、その時にも鎮護官たちとはひと悶着あって少々どころではなく揉めに揉めた。それはまた別の話としても――肉体的な年齢の変化がおよそ二十五、六歳ほどで止まってしまった容貌を、柚真人の実年齢と比較して、老けて見えない、若く見える、で誤魔化せるのは、もうそう長いことではない。
 今の柚真人は、漣環と初めて会った時よりも、『鬼』の側へ近づいたのだ。人であるはずの身が、齢を重ねなくなったのはその証。そのことを漣も認識している。ゆえに、今となっては、彼女が柚真人の現状を守っていると言ってもよかったかもしれない。彼女が鎮護官でいられる限りにおいて、未だ、柚真人と司の処遇は、漣環の一存に委ねられている、と彼女は言っているのだから。
「――…………どうか、私の命のあるうちに……」
 と、小さく、漣が呟くのが、柚真人の耳に届いた。
 ところが彼女に目をやれば、彼女は柚真人の方ではなく、境内の、茅の輪の方を見遣っている。
 ともすれば、それはもはや漣の心の声がこぼれたような、ひとりごちりであったのかもしれない。
 あるいは、彼女の覚悟、でもあったろう。
 ゆるい風が流れて、境内を囲むように茂る緑の葉が鳴った。
 その木々の葉のざわめきの中。
 自分の耳にまでも届いた、鎮護官の覚悟を。
 柚真人は、砂に沁ませる水のように、自分の胸に受け止める。 
 言われるまでもなく。
 どれほどの刹那であろうとも。
 越えられるものなら越えたいのだ――柚真人とて。
 あの時。
「……お前はおれの妹だ。そうだな?」 
「……おれには、触れるな。……もう二度と」
 苦しい気持ちで、司を想って、司に向けた時。
 『呪』の発動を悟って覚えた、絶望。
 ――さよならだ。
 ――もう二度と、逢えない、大切な。
 ――おれの――。
 今のところそれは、『呪』が用意した道筋とは辛うじて結果を違えはしたものの、動かしようなく確たる現実となって、柚真人に苦悶を与えている。
 夏越の日の太陽に、柚真人はほそく目を眇める。
 かつて。過去にこの社から神刀が失われ、それがひとたび戻って来た日も、夏がはじまる――と思ったことを、柚真人は覚えている。
 そしてそれはふたたびこの社から姿を消してしまい。
 未だ。
 黄泉の女神のいます社に、戻らない。