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第2話 警哭

ー/ー



 やっぱり、道を変えようかなあ――と、ハルカは思った。
 会社からの帰宅の途中。顔を上げれば目の前にはやや勾配の急な50段ほどの階段があって、その上にある公園の脇を通る道を200メートルほど行けば、家には帰り着くことができる。けれども、この先に続く道をなんとなく通りたくない理由が、ここ最近のハルカにはあった。
 実は最近、この階段の上にある公園に――幽霊が出るらしい、というのだ。
 もちろんハルカはそんなオカルト話を簡単に鵜呑みにするような質ではないし、オカルトや怪談話のようなものに興味があるわけでもない。幽霊話は、ネットで知った。というより、ネットの中で噂になっていた幽霊の目撃情報があるとかいう場所を、会社の同僚のひとりが特定して、わざわざ教えてくれたのだった。ハルカ自身は、普段からそんな情報に自分から触れたいは思わない。しかし世の中にはそういう情報が集まるサイトと、そういうサイトに好んで張りつく人種があるらしく、同僚もそういう類の趣味を持っていたらしかった。もっともそれだけの話であれば、自分でもここまで幽霊が出るなんていうネット発の噂話を真に受けて怯えたりはしなかっただろう。問題は、その話にはさらに信憑性を与える事実があった、ということ。実際に、ここでは、少し前にある事件があった。しかも、幽霊が出るという話が噂になってもおかしくないような事件が。
 それはある殺人事件で、件の公園の中で、女性が遺体で見つかった、というものだった。女性はどうやら通り魔的に乱暴されてそこに捨てられていたらしく、犯人が捕まったという話もまだ聞かない。聞いた噂話によると、幽霊は、その時の女性と同じ服装をしているのだとか。確か、赤いワンピースだっか。
 まあ――この階段と、その先の公園の脇道だけは、街頭も少し少ない上に暗いような気がして、自分としてもあまり好きな通り道ではなかったのよね、もとから。ハルカは階段を見上げながら改めてそう思った。おまけに今日は残業で時間もかなり遅くなってしまっていた。
 この階段を上がらなくとも、家に帰れる道は他に二つある。けれどもそのどちらもが、この道に比べるとだいぶ遠回りになってしまうので、多少の不気味さには目を瞑って、ハルカはこの道を使っていたのだ。
 そもそもの発端だろうあの事件があったのは、もう3年ほど前になろうだろうか――。
 そう考えると、事件直後からではなく、なんで3年も経った今さらになって、幽霊話が広がったりするんだろうか、とも思えた。
 けれど。
 ネットでまで話が広がるときというのは存外そんなものかもしれない。
 前々からあった話とかでも、なにかのきっかけで急に拡散されて世間に広まったりするものだ。
 とにかく、ここは早く通り抜けよう。
 幽霊、なんて。
 真面目に、信じているわけじゃないけど。
 ハルカは階段に足をかけた。
  
      ☆
 
「――『神社カフェ』だぁ?」
 目の前の人物が、そう言ってそんなふうに怪訝そうな顔をするだろうなあ、というところまでは予想していた。
 優麻はうなずき、
「ええ」
 と相手に笑顔を返した。
「最近、多いんですよ。そういう……副業といっていいんでしょうね、カフェとか、なにがしかの教室とか、空いてる時間やスペースではじめるお寺とか神社さんが。だから柚真人くんもどうですか、と思いまして」
「……お前なあ。何を言い出すかと思えば。だから、うちはそういう神社じゃねえと――」
 言いかけて、ふと、以前にも同じようなことを口にしたことがあるなと思って言葉を止めたのは、当の神社の神主である、皇(すめらぎ)柚真人(ゆまと)だ。
 柚真人はそのまま話にならんとでもいうかのように口許を歪め、目の前の、テーブルの上に載っている料理に箸を伸ばした。
 二人は、都内のとあるダイニングバーにいる。神社の神主であり、夜も基本的には仕事のある柚真人はふだんからあまり外食をする習慣がない。今日はそこをおしてなんとかと強引に、 仕事上のパートナーでありかつ昔から公私の境目なく付き合いのある弁護士でもある優麻に連れ出された。
 ここのところは、実はそんなことも増えていた。優麻の言い分では、放っておくとすぐに今の柚真人の食生活が荒むから、ということらしい。まあ、人間だれでもそうだとは思うが、ひとりでは自分の食事はおろそかになりがちなものだろう。柚真人はもともと料理をするのは好きだったから、その気になれば自分ひとりでも食事に困るたちではない。ただ、それ以上に自分自身のことには無頓着なたちだったから、ひとりで食事をするとなると栄養さえ取れればなんでもいいか、という具合になってしまう傾向が強いのだ。
 優麻の行動は、そういう柚真人を心配してのことでもあろう。生命と生活の基本なのだから、なるべく美味しく楽しく、というようなことを優麻はよく言う。かつては、柚真人もそういうことを考えていたし、そういう信条を持ってもいた。一緒に、食卓を囲む相手が優麻以外にもあった頃は。そして、美味しいものを美味しく食べるという行為も好きだった。こういうところに機会があれば柚真人を連れ出すのも、だから、だろう。自分で自分のためだけに料理をする気にならないことも多い今ではなおさら、腕のあるプロが作ったものを食べるというのも、悪くない。
「柚真人くん、料理をするのが好きだったでしょう」
 と、柚真人の胸のうちをすかしたように優麻が言った。あと、どこかかつてを懐かしむようにも。
 柚真人にも、それを否定するつもりはない。だが、優麻は知っているはずだった。柚真人が、どうして料理をするのが好き『だった』のか。なのに、日々、こまめな食事の支度をするのをやめてしまったのか。
「だとしても。俺が、あの神社の、あの境内で? カフェ開業とか。んなことしてるの、想像できるか?」
 そういうことも言外に含んで、柚真人はにべもなく返した。
 すると、優麻は、それはそう、というような表情になり、
「まあ、そう言われるとできませんけど」
「だろ?」
 柚真人はかすかな苦笑いとともに、料理をつまんだ箸を自分の口許へと運んだ。
 テーブルの上に載っているのは、二人がオーダーした、酒の肴風の一品料理が三皿ほどだ。飲んでいるのは最近流行のクラフトビール。柚真人が口に入れたのは、大根をサイコロ状にして味をつけ、表面に片栗粉をまぶして揚げ焼きにしたと思われるものだった。味をしみこませてから揚げてあるので他に調味料はいらない。とはいえ味そのものより出汁の成分が強く感じられ、なかなかいいな、と柚真人は思った。同時に、柚真人の頭の中には、今でも料理を食べさせたいと思う相手が浮かんでいる。浮かんでいて、その相手のために、自分がこの料理を再現するならああだな、こうだな、というインプットまでしているので、ともすると優麻の目論見はここまで見通しているのかもしれない。ただ前向きにきちんとした食事を摂ることで生きる以上に、強く、柚真人を生かすための力に。
 
 
 連れ立って店を出たのは、午後10時を過ぎたあたりだった。
 そんな時間になっても、上着もそろそろいらなくなる季節で、空気はややぬるい。酒も少し入っているので、そんな状態では、ちょうど気持ちがいい気温ともいえた。
「しかしお前、ほんとに次から次へと新しいこの手の店を仕入れてくるよな」
 とは、柚真人の、半ばは感心も込めた評価だ。
 店の入っていた雑居ビルは、規模はそう大きくはないものの繁華街と商店街が相半ばするような雰囲気の街の中にあった。ビルが面する通りには、行きかう人影もまだ多い。その中へと、二人して肩を並べて歩き出しながら。
 対する優麻はというと、満足げな表情を柚真人に向けていた。優麻にしてみれば、こういう時は、柚真人が食事に満足してくれれば、他に望むことはない。
「まあ、仕事柄ですね。それに、たまたま最近、この近くの同業事務所の方と知り合いまして」
「へえ」
「おススメされたんです。お酒も肴も美味しい、いいお店があると。それでまあ、柚真人さんもどうかと思いまして」
 弁護士は、仕事柄、と言った。弁護士と言えば、日夜、裁判やその準備、事務所での面談や調査ごとに忙しいイメージがあるが、飲食店や飲み屋を利用しての商談や打ち合わせも多いという。
 しかし優麻は、それからほんのわずかの間をとって付け足すことに、
「実は、その、たまたまというのがですね」
 このあたりで、すでに柚真人の中にぴくっと慣れた反応が起こるのは――互いの、付き合いの長さゆえだろう。
 さらりとした口調で、優麻は続ける。
「最近、このあたりで噂になってしまっているという、ある、幽霊話がきっかけでして」
「――幽霊話」
 だろうな、という感慨が、柚真人の胸には先にすとんと来る。
 そのうえで、 いちおうわざとらしく強調して繰り返してやる柚真人である。だとしても、むろん、優麻が意に介することはない。これも、互いの間ではすでに慣れたやりとりなのだ。というか、ここまでがもはや様式美というようなものですらある。
「ええ、幽霊話、です」
 と、優麻は頭をひとつ縦の動かした。
「ただ、問題は、その幽霊話そのものが云々というより、その噂がネットの中で急に拡散されはじめたことのようでして」
「……そいつはまあ、よくある話だな、最近は」
「その、拡散状況を気にした、事務所近くの不動産屋からの問い合わせがあったという話でして」
「不動産屋?」
「ほら、今はいろいろあるでしょう。不用意にそういった話が拡散されると、話をネタに、写真や動画を撮ろうとしたりして……私有地に立ち入ったりする迷惑行為が増えたり、深夜に人が集まったり騒いだり、賃貸物件まわりとか……。それで、まあ、もろもろトラブルがあって、巡り巡って私のところにその話がまわってきたというわけなんですが」
「ほう? ……しかし巡り巡って結局お前のとこに話が持ち込まれて来たってことは、その幽霊話自体が、ただの与太ってわけでもないってこったろ」
 柚真人がそう言うのは、相手の男が、柚真人と組んで、正式にその手の話を請け負ってくることもあるからだ。また、おかげで優麻自身も、弁護士という業界の中でうちうちに、そういったトラブルの解決に長けているという看板を背負っていることを、柚真人も知っている。
 優麻は頷き、
「ネットの中に、件の幽霊のものだという画像や動画が出回ってしまってまして。もちろんこのご時世ですから作り物がほとんどなのでしょうが、悪いことに、その話の元となる殺人事件もありましたからね。話を受け取る側にとっては真偽のほどなどはとうでもいい単なる娯楽です。それでまあ……どうにかならないかと」
 どうにかならないかと言われてもなあ、と柚真人も軽く唸った。
「たとえば近隣物件への不法侵入や迷惑行為、賃貸物件に関するトラブルなんかはそれこそそっちの専売特許だろ。たとえその『幽霊』が本当だったとして、『幽霊』そのものをどうにかしたとしても、ネット経由でおもしろおかしくあっちこっち拡散されちまった話は、子供に与えた玩具みたいなもんだ。ある程度消費されるだけ消費されて飽きられて、下火になるのを待つしかない。……最近は、どんな案件でもそんな感じでやりにくいって、お前もふだんから愚痴ってるじゃないか」
「私も相談には、同じように返しましたよ。それでも、もし本物なら――」


 その、瞬間だった。


「――!」
 先に、足を止めたのは柚真人だ。
 それから柚真人に従うタイミングで、優麻の足も止まる。
 二人が同時に、とある『異変』をとらえたからだ。
「こいつは……」
 ともに歩いていた道は、賑やかだった人の多い繁華街の通りを抜け、そこから少し暗く細い道へとさしかかりかけていた。その道を抜けた先にはコインパーキングがあり、優麻が柚真人をここまで乗せてきた車が止めてある。帰りは馴染の運転代行を頼む、というのが優麻が柚真人を連れ出すときのいつもの行動だった。
「お前、たまたまって、言ったよな。……『これ』も、本当にたまたまなんだな?」
 足を止めた柚真人は、軽くうさんくさそうに相手を見る目を優麻に向ける。
 受けて答える優麻は、至極真率に、
「……はい。もちろん、正真正銘、たまたまです」
「……」
 柚真人はまだやや疑いを含んだ目を向けたものの。
 す、っと目を細めると、
「お前、いま、――俺と同じものが『霊視()』えているか?」
 柚真人からの問いに、優麻は端的に頷いた。
「はい」
 かつて――この笄優麻という弁護士は、柚真人のような異能はなく、柚真人と同じものを見たり感じたりすることは出来ないままに、柚真人の生業とかかわりを持っていた。
 けれども、そのかかわりを決して短くはない間ともにしたのち、己の生涯を賭して柚真人の隣に立つと決め、以来、柚真人とともに、人の此岸に在るとはいえない存在となっている。今なお、人として生きながらではあるものの。
 ゆえに、現在は、感じ取るだけであれば柚真人と同じ感受性を持っていると言ってよかった。人の此岸から、そちらがわへと二人の感覚が振れる時、互いの関係は、スイッチを切り替えるように――一対の主従となるのである。
「さっき、殺人事件があったと言ったな。その、詳細はわかるか? 俺はそれについちゃ知らないが、――『これ』は、『殺され』た『女性』、だ。若い。二十代半ばだな。それから、服の……赤い色――」
 柚真人の目は、虚空を見ながら何かに焦点を合わせていた。
 優麻も同じものを、脳裏、としかいいようのないところにうつしている。
「事件の記録や記事にも、赤い服、とありました。噂になっているくだんの『幽霊』も、赤い服の女性だとか。……おそらく件の事件の被害者で間違いないでしょう。このあたりでは、他にめぼしい事件の話はありませんし」
 優麻の方は、それこそ職業柄、件の幽霊話についての相談を同業者から受けた時に、該当事件の詳細まで調べてみたから柚真人にそう返すことができた。
「この感じだと、ずっと、囚われた場所から動けていないんだな。――優麻。その、事件のあった場所はわかるか?」
「ああ――少々お待ちください」
 優麻は自身の身に着けた衣服の内ポケットからスマホを取り出した。便利なもので、最近は、有名な事件のあった場所などであればこれひとつで簡単に調べることができる。
「なるほど、事件現場はここからもすぐ近くのようですね。この先に丘ひとつ上るほどの階段があって、そのうえにある公園が事件現場だったようです」
「そうか。じゃ、――――とりあえず、通報しとくか」
「――通報、ですか?」
 優麻は思わず軽く目を瞠って訊き返してしまった。だが、思えば当たり前といえば当たり前の反応ではあった。
「あたりまえだろ。これは、俺の仕事じゃない」
 柚真人の答えは躊躇いなく、すとんと振り下ろす刃物のようではある。――だが、柚真人はこうも付け足した。
「なに。俺がどうこうしなくとも、運がよけりゃ、『助かる』さ」
「運が、良ければ?」
「そう。それに、弁護士んとこに同業者から相談が持ち込まれる程度に世間に動画が出回ってるってことは、それを撮影している人間がそこそこいるってことだろ。それだけ人気の心霊スポットにでもなりゃ、このご時世、どこかにひと目はある。そのうえで――これが、お前の言うように本当にたまたまなのであったとすれば、すでに充分『運がいい』に値すると、俺は思うね」
 優麻は、柚真人のなにか確信めいたものを含む言葉を聞きながら、緊急通報をするためスマホの回線を開いた。
 同時に足を止めた時、柚真人と優麻は、近くどこかからか、明らかに人のものではない、かつ悲鳴のような『声』が上がるのを捉えていた。
 その『声』は、『助けて』『助けて』『助けて』と、繰り返す。すでにこの世のものでなく、しかしこの世から離れるための道を失って迷ってしまったものの『声』だ。
 しかも、必死で、かつたまらなく悲痛であった。こちら側に受け取る能力があるがゆえにではあるものの、その『声』の主の姿までもが眼裏に捩じ込まれてくるほどに。
『声』にそれだけの強さがあれば、なぜ『助けて』なのかという断片的な情報も、そこから拾い上げることができる。だからこそ、柚真人と優麻にはそれを捉えることが出来たとも言えよう。
 彼らは、他でもない――その『声』を聴き、遺る悔いや願いを拾いあげることをこそ生業としている、死者のための巫なのだから。

      ☆

 これ、まずい、と。
 頭の奥の一部がひどく冷静だった。
 背中――というか、自分の背面全部のいたるところに冷たくあたる固い地面の感触を感じ取りながら、ハルカは自分の思考をどこかまるで他人事のように受け止めていた。
 同時に、パニック状態のように、思う。
 これは、いったいなに。
 なんで。なんで。
 なんなの。いったい、どういうこと。
 あれから、いつもの帰り道に選んでいる薄暗い階段をのぼりきって、本当に幽霊が出たりしたらイヤだなと思いながら歩いていた。速足で、とにかく、はやくこの公園の脇を通りすぎなきゃ、と。
 そこで、後ろから衝撃を感じたのを覚えている。
 まったくの不意打ちだった。
 今、頭と首の付け根のあたりがひどく痛むから、たぶん道を歩いているところで後ろからそのあたりを強く殴られたかなにかしたんだと思う。それで、どれぐらいか、気も失っていた。は、と気が付いたらこの状態だったというわけだ。この状態とは、土のうえおぼしき感触のところに寝転がらされていて、口はガムテープみたいなものでしっかり塞がれ、両手もなにか、ドラマとかでよくみるプラスチックの拘束具のようなもので縛られている、という状態。そして、自分の身体の上になにかある。何かというか、誰か、いる。
 つまり、ハルカは帰宅途中で何者かに襲われて捕まったわけで、相手は、生きた、人間だ。
 幽霊が出るらしいという話は聞いていた。でも、これは幽霊なんかじゃ断じてない。そしてもちろん女性でもない。相手の顔は暗くて見えないし、視界もパニックを焦りと恐怖とで湧いてくる涙で滲んでいたけど、相手が自分よりかなり力のある異性だということは、わかる。
 それで、やっと、意識したのだ。そういえば、ここで、今の自分が置かれている状況によく似た事件があったのではなかったか。幽霊の噂は、その事件がもとになっていたはずだ。そして、その事件の犯人は、捕まっていない。
 バカじゃないの、あたし、とようやく思った。現実にはいるわけもない幽霊なんかに怯えている場合じゃなかった。実在するのは、まちがいなく現実に存在しているのは、幽霊なんかじゃなくて、事件と犯人だ。ここで女性が殺されたという事実だ。バカすぎる。ネットの不確かな噂や幽霊なんていう非現実的なものを怖がるくせに、なぜ実際に起きた事件と自分とはこれっぽっちも関連付けて考えなかったのか。自分とそういう事件とは、まったく無関係だと思い込めたのか。襲われたのは自分と同じ年頃の女性で、たしか犯行時刻も今頃の時間だってニュースで読んだ記憶があって、捕まっていない犯人の目的や素性は一切わかっていないのに。
 て、いうか。
 まって。
 だとすると、わたし。
 ここで、こいつに、殺される、ってことに……なる……。
 うそ……。
 思い至ると、いっそう恐怖が込み上げた。焦りに、心臓の鼓動が跳ねあがった。どくどく、どくどく、と耳の奥で音がする。でも、声は口を塞がれて上げることができないし、身動きもろくにできない。抵抗しなくちゃ。思うけれども、どうにもならない。
 自分が襲われているということの理不尽さに対する怒りだって湧きあがる。でも。
 いやだ。
 だれか……たすけ……。
「――……」 
 その時だ。
 ふと、何か気配が変わった。ような気がした。それから何か、声か、音か、聴こえたような気がしたとハルカは思った。
 なに。思うが、わからない。人の声? 何の音? 誰かいるの?
「ん――――っ! ん――――!」
 塞がれた口の奥から呻きを発すると、どん、と口元を押さえられた。その瞬間後頭部が衝撃を感じた。それでもハルカはもがいた。本能的に状況の変化を感じたからだ。
 ――やべっ。
 ――こっちみた。
 人の、声だ。
 ――撮れてるか?
 ――わかんねえよ!
 ――おい、逃げるぞ! 
 ――あっ、待てよ!
 やっぱり、人の声。
 誰かいたんだ。
 でも。
 逃げるって。
 なによ。
 たすけてくれたっていいじゃない。お願い。
 たすけて。たすけて。たすけて。だれか。
 ハルカが絶望感を覚えながらそう思ったとき。遠くから――サイレンの音が聴こえてきたような気がした。

       ☆

 それから3日後。
 柚真人は、その場所へ一人で赴いた。
 
 
 気になったので、あらためて過去にあったという事件のことは調べてみた。けれども先日あったことで自分が受け取ったものを頼りにするだけでも、その場所にはたどり着くことができた。
 小さな丘の上にあるという表現が確かにぴったりくる公園。
 そこは、近隣の住宅街とそう離れているわけではないものの、高台に少しせり出すような具合になっていた。そして、この季節はとくに、葉の生い茂った木々に囲まれてもいる――ともなると、なるほどわりと死角も多そうではあった。
 もちろん、公園自体は小綺麗で、中にはベンチや遊具も少しある。だから、これが昼間の時間帯であれば、もう少し利用者はいるのだろう。
 今、時刻は夕方から夜へとさしかかっており、すでに薄暗くなりつつある公園内に、人影はない。
 先日の一件については、ここで会社から帰宅途中だった若い女性が襲われていて、通りすがりの第三者からのものと思われる通報から、助かった、といようなことが報道されていた。同時に、現場に居合わせたという動画配信者がおり、その配信者が公開した映像から、犯人も特定されそうだとか、なんだとか。
 柚真人の目の前に、ふっと。
 女性の姿があったのはその時のことである。
 赤い、服を着た女性。
 それは赤いワンピースで、女性が殺害されたときに身に着けていたものであると、ここのところ急にひろまったとされているネットの中での幽霊話には言われていた。
 しかし、こうして対峙してみると、柚真人にはわかった。それは服の色ではなく、血の色だ。
 彼女は、この場で襲われたのだが、その際、刺された。その血が、彼女の着ていた服を汚して、服は赤く見えていたのだ。犯人が凶器を持っていたとすると、先日ここで襲われた女性も状況的にはかなり危険であったと言える。が、彼女は辛くも助かったので、まあ、それも含めて、運が良かった。
 昏い瞳をしている、と。
 柚真人は彼女の姿をまっすぐ受け止めながら思った。
 これが、あの、『助けて』という悲鳴の主。
 彼女自身は、おそらく自身が殺害されたときからずっとここに囚われていた。ずっとここにいたはずだ。なのになぜ、最近になって急に『幽霊』などとして人の噂にのぼるようになったのかというと。
 彼女は、犯人がふたたびこの場所で獲物を物色しはじめたことに気づいたのだ。それで、なんとか警告を発しようとした。
 柚真人は、彼女のような存在を『幽霊』とはふだん言わない。だが、死後の道を迷わされてしまった御霊の姿が、強く何かを発しようとして、ただ人の目にまで映ることがあるとするなら、一般的には『幽霊』というほかないだろう。
「――あなたが警告しようとしてくれたおかげで、あなたと同じ目に遭うかもしれなかった女性がひとり、助かりました。あなたをそんな目に遭わせた犯人についても、どうやら早晩解決しそうです。それに免じて……俺なら、いまここで、その怨嗟からも、あなたを自由にすることもできますが――どうしますか」
 柚真人は、彼女にそう向けた。
 とはいえ、別に彼女からそういう意味での『助け』を求められたわけではない。いつものように仕事として祓いの依頼を受けたわけでもない。それは柚真人もわかっていた。本来であれば、そのように直接の縁が結ばれない限り、柚真人が動くことはない。でも今回は――たまたま、とあの男はいった。その、たまたま、もまた縁ではあろうと柚真人自身が思ったのだ。
 彼女の顔は、暗がりに沈んでいくあたりの景色とあいまって、なお、昏くなったように見えた。同時に、それが答えであろう、と柚真人は理解した。柚真人は日々、こうして様々な御霊と向き合うが、今の彼女はあまり感情のようなものをこちらに伝えてこない。凄惨な今際の際の出来事が、まだ彼女を囚えて離さないものと見えた。
 これは、もう少し時間が必要なのかもしれないな。
 柚真人はそう感じた。
 やろうと思えば強制的に彼女をここから引きはがす術も柚真人にはある。しかし、今、この時点でそうする必要があるとも思えない。未だここに留まり続ける彼女に、悪意や害意のようなものはない。
 明確な、答えのようなものも、彼女は感じさせてくれなかったが。
「――そうか」
 柚真人は、ふ、と、ほほ笑んだ。
 相棒の弁護士は、そういう時の柚真人の表情を、いちばん優しい顔をする、と評する。
「では、もし気が向いたら――社まで来ると良い。そうしたら、俺が――あなたのために、祝詞を送ろう」 
 柚真人は『社』とだけとだけ伝え、それが何であるか、そして自分が何者であるか、ということは彼女に対して一切述べなかった。
 でも。
 死者である彼女には、伝わっている。

       
 そのままゆるりと踵を返し、皇柚真人は公園を出る。
 公園を出ると、そこから下の街へと続く階段を降りた。階段からは東側の空が見え、夜の色が迫りつつある。空気はわずかに湿気を含み、梅雨の近さを思わせた。
 階段を降りきると、その場でいったん足を止め、携帯を取り出す。電源を入れると、登録されている数少ない連絡先から一番多く使用している連絡先を選び、
 ――このあいだの店
 ――しばらく居る
 と、メッセージを送った。
 店というのはもちろん、今回の出来事、いわば縁の起点となったあの店だ。
 近くまできているからついでに、もう一度寄ろう、と思ったということもあった。けれども、店の料理の味もよかったし、気に入った、といえる部類に入るのも確かだ。そのことを伝えてやれば、この連絡先の向こうにいる相手が、多少なり喜ぶことも――柚真人は知っていた。
 さらにいえば、柚真人がなぜ、今、ここにいるのかということも、相手はちゃんと察するだろう。顛末を説明してやれば、それはそれで、相手の本業の面において役に立つことにもなるはずだ。
 わざわざ来いと言わなくても、相手は来る。
 それは、わかっている。
 長い――長い長い、それこそ倦むほどの長さの、付き合いだ。
 あの男相手だからこそ、倦む、ことはないけれど。
 到着まで一時間ほどかな、と見当をつけると、携帯をしまい、ふたたび柚真人は歩き出した。東の空とは反対の、まだわずかに夕方の明るさと赤さの残る空が広がる西の方角へ向かって。


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 けれど。
 ネットでまで話が広がるときというのは存外そんなものかもしれない。
 前々からあった話とかでも、なにかのきっかけで急に拡散されて世間に広まったりするものだ。
 とにかく、ここは早く通り抜けよう。
 幽霊、なんて。
 真面目に、信じているわけじゃないけど。
 ハルカは階段に足をかけた。
      ☆
「――『神社カフェ』だぁ?」
 目の前の人物が、そう言ってそんなふうに怪訝そうな顔をするだろうなあ、というところまでは予想していた。
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「ええ」
 と相手に笑顔を返した。
「最近、多いんですよ。そういう……副業といっていいんでしょうね、カフェとか、なにがしかの教室とか、空いてる時間やスペースではじめるお寺とか神社さんが。だから柚真人くんもどうですか、と思いまして」
「……お前なあ。何を言い出すかと思えば。だから、うちはそういう神社じゃねえと――」
 言いかけて、ふと、以前にも同じようなことを口にしたことがあるなと思って言葉を止めたのは、当の神社の神主である、皇《すめらぎ》柚真人《ゆまと》だ。
 柚真人はそのまま話にならんとでもいうかのように口許を歪め、目の前の、テーブルの上に載っている料理に箸を伸ばした。
 二人は、都内のとあるダイニングバーにいる。神社の神主であり、夜も基本的には仕事のある柚真人はふだんからあまり外食をする習慣がない。今日はそこをおしてなんとかと強引に、 仕事上のパートナーでありかつ昔から公私の境目なく付き合いのある弁護士でもある優麻に連れ出された。
 ここのところは、実はそんなことも増えていた。優麻の言い分では、放っておくとすぐに今の柚真人の食生活が荒むから、ということらしい。まあ、人間だれでもそうだとは思うが、ひとりでは自分の食事はおろそかになりがちなものだろう。柚真人はもともと料理をするのは好きだったから、その気になれば自分ひとりでも食事に困るたちではない。ただ、それ以上に自分自身のことには無頓着なたちだったから、ひとりで食事をするとなると栄養さえ取れればなんでもいいか、という具合になってしまう傾向が強いのだ。
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「柚真人くん、料理をするのが好きだったでしょう」
 と、柚真人の胸のうちをすかしたように優麻が言った。あと、どこかかつてを懐かしむようにも。
 柚真人にも、それを否定するつもりはない。だが、優麻は知っているはずだった。柚真人が、どうして料理をするのが好き『だった』のか。なのに、日々、こまめな食事の支度をするのをやめてしまったのか。
「だとしても。俺が、あの神社の、あの境内で? カフェ開業とか。んなことしてるの、想像できるか?」
 そういうことも言外に含んで、柚真人はにべもなく返した。
 すると、優麻は、それはそう、というような表情になり、
「まあ、そう言われるとできませんけど」
「だろ?」
 柚真人はかすかな苦笑いとともに、料理をつまんだ箸を自分の口許へと運んだ。
 テーブルの上に載っているのは、二人がオーダーした、酒の肴風の一品料理が三皿ほどだ。飲んでいるのは最近流行のクラフトビール。柚真人が口に入れたのは、大根をサイコロ状にして味をつけ、表面に片栗粉をまぶして揚げ焼きにしたと思われるものだった。味をしみこませてから揚げてあるので他に調味料はいらない。とはいえ味そのものより出汁の成分が強く感じられ、なかなかいいな、と柚真人は思った。同時に、柚真人の頭の中には、今でも料理を食べさせたいと思う相手が浮かんでいる。浮かんでいて、その相手のために、自分がこの料理を再現するならああだな、こうだな、というインプットまでしているので、ともすると優麻の目論見はここまで見通しているのかもしれない。ただ前向きにきちんとした食事を摂ることで生きる以上に、強く、柚真人を生かすための力に。
 連れ立って店を出たのは、午後10時を過ぎたあたりだった。
 そんな時間になっても、上着もそろそろいらなくなる季節で、空気はややぬるい。酒も少し入っているので、そんな状態では、ちょうど気持ちがいい気温ともいえた。
「しかしお前、ほんとに次から次へと新しいこの手の店を仕入れてくるよな」
 とは、柚真人の、半ばは感心も込めた評価だ。
 店の入っていた雑居ビルは、規模はそう大きくはないものの繁華街と商店街が相半ばするような雰囲気の街の中にあった。ビルが面する通りには、行きかう人影もまだ多い。その中へと、二人して肩を並べて歩き出しながら。
 対する優麻はというと、満足げな表情を柚真人に向けていた。優麻にしてみれば、こういう時は、柚真人が食事に満足してくれれば、他に望むことはない。
「まあ、仕事柄ですね。それに、たまたま最近、この近くの同業事務所の方と知り合いまして」
「へえ」
「おススメされたんです。お酒も肴も美味しい、いいお店があると。それでまあ、柚真人さんもどうかと思いまして」
 弁護士は、仕事柄、と言った。弁護士と言えば、日夜、裁判やその準備、事務所での面談や調査ごとに忙しいイメージがあるが、飲食店や飲み屋を利用しての商談や打ち合わせも多いという。
 しかし優麻は、それからほんのわずかの間をとって付け足すことに、
「実は、その、たまたまというのがですね」
 このあたりで、すでに柚真人の中にぴくっと慣れた反応が起こるのは――互いの、付き合いの長さゆえだろう。
 さらりとした口調で、優麻は続ける。
「最近、このあたりで噂になってしまっているという、ある、幽霊話がきっかけでして」
「――幽霊話」
 だろうな、という感慨が、柚真人の胸には先にすとんと来る。
 そのうえで、 いちおうわざとらしく強調して繰り返してやる柚真人である。だとしても、むろん、優麻が意に介することはない。これも、互いの間ではすでに慣れたやりとりなのだ。というか、ここまでがもはや様式美というようなものですらある。
「ええ、幽霊話、です」
 と、優麻は頭をひとつ縦の動かした。
「ただ、問題は、その幽霊話そのものが云々というより、その噂がネットの中で急に拡散されはじめたことのようでして」
「……そいつはまあ、よくある話だな、最近は」
「その、拡散状況を気にした、事務所近くの不動産屋からの問い合わせがあったという話でして」
「不動産屋?」
「ほら、今はいろいろあるでしょう。不用意にそういった話が拡散されると、話をネタに、写真や動画を撮ろうとしたりして……私有地に立ち入ったりする迷惑行為が増えたり、深夜に人が集まったり騒いだり、賃貸物件まわりとか……。それで、まあ、もろもろトラブルがあって、巡り巡って私のところにその話がまわってきたというわけなんですが」
「ほう? ……しかし巡り巡って結局お前のとこに話が持ち込まれて来たってことは、その幽霊話自体が、ただの与太ってわけでもないってこったろ」
 柚真人がそう言うのは、相手の男が、柚真人と組んで、正式にその手の話を請け負ってくることもあるからだ。また、おかげで優麻自身も、弁護士という業界の中でうちうちに、そういったトラブルの解決に長けているという看板を背負っていることを、柚真人も知っている。
 優麻は頷き、
「ネットの中に、件の幽霊のものだという画像や動画が出回ってしまってまして。もちろんこのご時世ですから作り物がほとんどなのでしょうが、悪いことに、その話の元となる殺人事件もありましたからね。話を受け取る側にとっては真偽のほどなどはとうでもいい単なる娯楽です。それでまあ……どうにかならないかと」
 どうにかならないかと言われてもなあ、と柚真人も軽く唸った。
「たとえば近隣物件への不法侵入や迷惑行為、賃貸物件に関するトラブルなんかはそれこそそっちの専売特許だろ。たとえその『幽霊』が本当だったとして、『幽霊』そのものをどうにかしたとしても、ネット経由でおもしろおかしくあっちこっち拡散されちまった話は、子供に与えた玩具みたいなもんだ。ある程度消費されるだけ消費されて飽きられて、下火になるのを待つしかない。……最近は、どんな案件でもそんな感じでやりにくいって、お前もふだんから愚痴ってるじゃないか」
「私も相談には、同じように返しましたよ。それでも、もし本物なら――」
 その、瞬間だった。
「――!」
 先に、足を止めたのは柚真人だ。
 それから柚真人に従うタイミングで、優麻の足も止まる。
 二人が同時に、とある『異変』をとらえたからだ。
「こいつは……」
 ともに歩いていた道は、賑やかだった人の多い繁華街の通りを抜け、そこから少し暗く細い道へとさしかかりかけていた。その道を抜けた先にはコインパーキングがあり、優麻が柚真人をここまで乗せてきた車が止めてある。帰りは馴染の運転代行を頼む、というのが優麻が柚真人を連れ出すときのいつもの行動だった。
「お前、たまたまって、言ったよな。……『これ』も、本当にたまたまなんだな?」
 足を止めた柚真人は、軽くうさんくさそうに相手を見る目を優麻に向ける。
 受けて答える優麻は、至極真率に、
「……はい。もちろん、正真正銘、たまたまです」
「……」
 柚真人はまだやや疑いを含んだ目を向けたものの。
 す、っと目を細めると、
「お前、いま、――俺と同じものが『霊視《み》』えているか?」
 柚真人からの問いに、優麻は端的に頷いた。
「はい」
 かつて――この笄優麻という弁護士は、柚真人のような異能はなく、柚真人と同じものを見たり感じたりすることは出来ないままに、柚真人の生業とかかわりを持っていた。
 けれども、そのかかわりを決して短くはない間ともにしたのち、己の生涯を賭して柚真人の隣に立つと決め、以来、柚真人とともに、人の此岸に在るとはいえない存在となっている。今なお、人として生きながらではあるものの。
 ゆえに、現在は、感じ取るだけであれば柚真人と同じ感受性を持っていると言ってよかった。人の此岸から、そちらがわへと二人の感覚が振れる時、互いの関係は、スイッチを切り替えるように――一対の主従となるのである。
「さっき、殺人事件があったと言ったな。その、詳細はわかるか? 俺はそれについちゃ知らないが、――『これ』は、『殺され』た『女性』、だ。若い。二十代半ばだな。それから、服の……赤い色――」
 柚真人の目は、虚空を見ながら何かに焦点を合わせていた。
 優麻も同じものを、脳裏、としかいいようのないところにうつしている。
「事件の記録や記事にも、赤い服、とありました。噂になっているくだんの『幽霊』も、赤い服の女性だとか。……おそらく件の事件の被害者で間違いないでしょう。このあたりでは、他にめぼしい事件の話はありませんし」
 優麻の方は、それこそ職業柄、件の幽霊話についての相談を同業者から受けた時に、該当事件の詳細まで調べてみたから柚真人にそう返すことができた。
「この感じだと、ずっと、囚われた場所から動けていないんだな。――優麻。その、事件のあった場所はわかるか?」
「ああ――少々お待ちください」
 優麻は自身の身に着けた衣服の内ポケットからスマホを取り出した。便利なもので、最近は、有名な事件のあった場所などであればこれひとつで簡単に調べることができる。
「なるほど、事件現場はここからもすぐ近くのようですね。この先に丘ひとつ上るほどの階段があって、そのうえにある公園が事件現場だったようです」
「そうか。じゃ、――――とりあえず、通報しとくか」
「――通報、ですか?」
 優麻は思わず軽く目を瞠って訊き返してしまった。だが、思えば当たり前といえば当たり前の反応ではあった。
「あたりまえだろ。これは、俺の仕事じゃない」
 柚真人の答えは躊躇いなく、すとんと振り下ろす刃物のようではある。――だが、柚真人はこうも付け足した。
「なに。俺がどうこうしなくとも、運がよけりゃ、『助かる』さ」
「運が、良ければ?」
「そう。それに、弁護士んとこに同業者から相談が持ち込まれる程度に世間に動画が出回ってるってことは、それを撮影している人間がそこそこいるってことだろ。それだけ人気の心霊スポットにでもなりゃ、このご時世、どこかにひと目はある。そのうえで――これが、お前の言うように本当にたまたまなのであったとすれば、すでに充分『運がいい』に値すると、俺は思うね」
 優麻は、柚真人のなにか確信めいたものを含む言葉を聞きながら、緊急通報をするためスマホの回線を開いた。
 同時に足を止めた時、柚真人と優麻は、近くどこかからか、明らかに人のものではない、かつ悲鳴のような『声』が上がるのを捉えていた。
 その『声』は、『助けて』『助けて』『助けて』と、繰り返す。すでにこの世のものでなく、しかしこの世から離れるための道を失って迷ってしまったものの『声』だ。
 しかも、必死で、かつたまらなく悲痛であった。こちら側に受け取る能力があるがゆえにではあるものの、その『声』の主の姿までもが眼裏に捩じ込まれてくるほどに。
『声』にそれだけの強さがあれば、なぜ『助けて』なのかという断片的な情報も、そこから拾い上げることができる。だからこそ、柚真人と優麻にはそれを捉えることが出来たとも言えよう。
 彼らは、他でもない――その『声』を聴き、遺る悔いや願いを拾いあげることをこそ生業としている、死者のための巫なのだから。
      ☆
 これ、まずい、と。
 頭の奥の一部がひどく冷静だった。
 背中――というか、自分の背面全部のいたるところに冷たくあたる固い地面の感触を感じ取りながら、ハルカは自分の思考をどこかまるで他人事のように受け止めていた。
 同時に、パニック状態のように、思う。
 これは、いったいなに。
 なんで。なんで。
 なんなの。いったい、どういうこと。
 あれから、いつもの帰り道に選んでいる薄暗い階段をのぼりきって、本当に幽霊が出たりしたらイヤだなと思いながら歩いていた。速足で、とにかく、はやくこの公園の脇を通りすぎなきゃ、と。
 そこで、後ろから衝撃を感じたのを覚えている。
 まったくの不意打ちだった。
 今、頭と首の付け根のあたりがひどく痛むから、たぶん道を歩いているところで後ろからそのあたりを強く殴られたかなにかしたんだと思う。それで、どれぐらいか、気も失っていた。は、と気が付いたらこの状態だったというわけだ。この状態とは、土のうえおぼしき感触のところに寝転がらされていて、口はガムテープみたいなものでしっかり塞がれ、両手もなにか、ドラマとかでよくみるプラスチックの拘束具のようなもので縛られている、という状態。そして、自分の身体の上になにかある。何かというか、誰か、いる。
 つまり、ハルカは帰宅途中で何者かに襲われて捕まったわけで、相手は、生きた、人間だ。
 幽霊が出るらしいという話は聞いていた。でも、これは幽霊なんかじゃ断じてない。そしてもちろん女性でもない。相手の顔は暗くて見えないし、視界もパニックを焦りと恐怖とで湧いてくる涙で滲んでいたけど、相手が自分よりかなり力のある異性だということは、わかる。
 それで、やっと、意識したのだ。そういえば、ここで、今の自分が置かれている状況によく似た事件があったのではなかったか。幽霊の噂は、その事件がもとになっていたはずだ。そして、その事件の犯人は、捕まっていない。
 バカじゃないの、あたし、とようやく思った。現実にはいるわけもない幽霊なんかに怯えている場合じゃなかった。実在するのは、まちがいなく現実に存在しているのは、幽霊なんかじゃなくて、事件と犯人だ。ここで女性が殺されたという事実だ。バカすぎる。ネットの不確かな噂や幽霊なんていう非現実的なものを怖がるくせに、なぜ実際に起きた事件と自分とはこれっぽっちも関連付けて考えなかったのか。自分とそういう事件とは、まったく無関係だと思い込めたのか。襲われたのは自分と同じ年頃の女性で、たしか犯行時刻も今頃の時間だってニュースで読んだ記憶があって、捕まっていない犯人の目的や素性は一切わかっていないのに。
 て、いうか。
 まって。
 だとすると、わたし。
 ここで、こいつに、殺される、ってことに……なる……。
 うそ……。
 思い至ると、いっそう恐怖が込み上げた。焦りに、心臓の鼓動が跳ねあがった。どくどく、どくどく、と耳の奥で音がする。でも、声は口を塞がれて上げることができないし、身動きもろくにできない。抵抗しなくちゃ。思うけれども、どうにもならない。
 自分が襲われているということの理不尽さに対する怒りだって湧きあがる。でも。
 いやだ。
 だれか……たすけ……。
「――……」 
 その時だ。
 ふと、何か気配が変わった。ような気がした。それから何か、声か、音か、聴こえたような気がしたとハルカは思った。
 なに。思うが、わからない。人の声? 何の音? 誰かいるの?
「ん――――っ! ん――――!」
 塞がれた口の奥から呻きを発すると、どん、と口元を押さえられた。その瞬間後頭部が衝撃を感じた。それでもハルカはもがいた。本能的に状況の変化を感じたからだ。
 ――やべっ。
 ――こっちみた。
 人の、声だ。
 ――撮れてるか?
 ――わかんねえよ!
 ――おい、逃げるぞ! 
 ――あっ、待てよ!
 やっぱり、人の声。
 誰かいたんだ。
 でも。
 逃げるって。
 なによ。
 たすけてくれたっていいじゃない。お願い。
 たすけて。たすけて。たすけて。だれか。
 ハルカが絶望感を覚えながらそう思ったとき。遠くから――サイレンの音が聴こえてきたような気がした。
       ☆
 それから3日後。
 柚真人は、その場所へ一人で赴いた。
 気になったので、あらためて過去にあったという事件のことは調べてみた。けれども先日あったことで自分が受け取ったものを頼りにするだけでも、その場所にはたどり着くことができた。
 小さな丘の上にあるという表現が確かにぴったりくる公園。
 そこは、近隣の住宅街とそう離れているわけではないものの、高台に少しせり出すような具合になっていた。そして、この季節はとくに、葉の生い茂った木々に囲まれてもいる――ともなると、なるほどわりと死角も多そうではあった。
 もちろん、公園自体は小綺麗で、中にはベンチや遊具も少しある。だから、これが昼間の時間帯であれば、もう少し利用者はいるのだろう。
 今、時刻は夕方から夜へとさしかかっており、すでに薄暗くなりつつある公園内に、人影はない。
 先日の一件については、ここで会社から帰宅途中だった若い女性が襲われていて、通りすがりの第三者からのものと思われる通報から、助かった、といようなことが報道されていた。同時に、現場に居合わせたという動画配信者がおり、その配信者が公開した映像から、犯人も特定されそうだとか、なんだとか。
 柚真人の目の前に、ふっと。
 女性の姿があったのはその時のことである。
 赤い、服を着た女性。
 それは赤いワンピースで、女性が殺害されたときに身に着けていたものであると、ここのところ急にひろまったとされているネットの中での幽霊話には言われていた。
 しかし、こうして対峙してみると、柚真人にはわかった。それは服の色ではなく、血の色だ。
 彼女は、この場で襲われたのだが、その際、刺された。その血が、彼女の着ていた服を汚して、服は赤く見えていたのだ。犯人が凶器を持っていたとすると、先日ここで襲われた女性も状況的にはかなり危険であったと言える。が、彼女は辛くも助かったので、まあ、それも含めて、運が良かった。
 昏い瞳をしている、と。
 柚真人は彼女の姿をまっすぐ受け止めながら思った。
 これが、あの、『助けて』という悲鳴の主。
 彼女自身は、おそらく自身が殺害されたときからずっとここに囚われていた。ずっとここにいたはずだ。なのになぜ、最近になって急に『幽霊』などとして人の噂にのぼるようになったのかというと。
 彼女は、犯人がふたたびこの場所で獲物を物色しはじめたことに気づいたのだ。それで、なんとか警告を発しようとした。
 柚真人は、彼女のような存在を『幽霊』とはふだん言わない。だが、死後の道を迷わされてしまった御霊の姿が、強く何かを発しようとして、ただ人の目にまで映ることがあるとするなら、一般的には『幽霊』というほかないだろう。
「――あなたが警告しようとしてくれたおかげで、あなたと同じ目に遭うかもしれなかった女性がひとり、助かりました。あなたをそんな目に遭わせた犯人についても、どうやら早晩解決しそうです。それに免じて……俺なら、いまここで、その怨嗟からも、あなたを自由にすることもできますが――どうしますか」
 柚真人は、彼女にそう向けた。
 とはいえ、別に彼女からそういう意味での『助け』を求められたわけではない。いつものように仕事として祓いの依頼を受けたわけでもない。それは柚真人もわかっていた。本来であれば、そのように直接の縁が結ばれない限り、柚真人が動くことはない。でも今回は――たまたま、とあの男はいった。その、たまたま、もまた縁ではあろうと柚真人自身が思ったのだ。
 彼女の顔は、暗がりに沈んでいくあたりの景色とあいまって、なお、昏くなったように見えた。同時に、それが答えであろう、と柚真人は理解した。柚真人は日々、こうして様々な御霊と向き合うが、今の彼女はあまり感情のようなものをこちらに伝えてこない。凄惨な今際の際の出来事が、まだ彼女を囚えて離さないものと見えた。
 これは、もう少し時間が必要なのかもしれないな。
 柚真人はそう感じた。
 やろうと思えば強制的に彼女をここから引きはがす術も柚真人にはある。しかし、今、この時点でそうする必要があるとも思えない。未だここに留まり続ける彼女に、悪意や害意のようなものはない。
 明確な、答えのようなものも、彼女は感じさせてくれなかったが。
「――そうか」
 柚真人は、ふ、と、ほほ笑んだ。
 相棒の弁護士は、そういう時の柚真人の表情を、いちばん優しい顔をする、と評する。
「では、もし気が向いたら――社まで来ると良い。そうしたら、俺が――あなたのために、祝詞を送ろう」 
 柚真人は『社』とだけとだけ伝え、それが何であるか、そして自分が何者であるか、ということは彼女に対して一切述べなかった。
 でも。
 死者である彼女には、伝わっている。
 そのままゆるりと踵を返し、皇柚真人は公園を出る。
 公園を出ると、そこから下の街へと続く階段を降りた。階段からは東側の空が見え、夜の色が迫りつつある。空気はわずかに湿気を含み、梅雨の近さを思わせた。
 階段を降りきると、その場でいったん足を止め、携帯を取り出す。電源を入れると、登録されている数少ない連絡先から一番多く使用している連絡先を選び、
 ――このあいだの店
 ――しばらく居る
 と、メッセージを送った。
 店というのはもちろん、今回の出来事、いわば縁の起点となったあの店だ。
 近くまできているからついでに、もう一度寄ろう、と思ったということもあった。けれども、店の料理の味もよかったし、気に入った、といえる部類に入るのも確かだ。そのことを伝えてやれば、この連絡先の向こうにいる相手が、多少なり喜ぶことも――柚真人は知っていた。
 さらにいえば、柚真人がなぜ、今、ここにいるのかということも、相手はちゃんと察するだろう。顛末を説明してやれば、それはそれで、相手の本業の面において役に立つことにもなるはずだ。
 わざわざ来いと言わなくても、相手は来る。
 それは、わかっている。
 長い――長い長い、それこそ倦むほどの長さの、付き合いだ。
 あの男相手だからこそ、倦む、ことはないけれど。
 到着まで一時間ほどかな、と見当をつけると、携帯をしまい、ふたたび柚真人は歩き出した。東の空とは反対の、まだわずかに夕方の明るさと赤さの残る空が広がる西の方角へ向かって。