カナメ・ノコナカは、高級車の後部座席であくびをかみ殺した。隣に座る護衛の男が放つ緊張感たっぷりの気配のせいで中々リラックスができない。体を包み込む高級クッションも、彼女の緊張をほぐすことは出来ない。
時刻は午後九時前。彼女はつい先ほどまで敵対企業の接待を受けていたのだ。医療・製薬系企業では、所属研究員の引き抜きや機密情報奪取などの諜報戦が日常茶飯事だ。今夜、カナメ・ノコナカ上級研究員は自身の研究チームを持てるかもしれない魅力的なオファーを受けていた。
〈判断は慎重にしなければ。軽はずみな転職と機密情報の持ち出しは転職先に信用できない人物という印象を与えかねない。三顧の礼のエピソードもある。あと最低二回は面談を重ねてより良い条件を引き出す必要があるだろうな〉
その時、ブレーキを踏みこまれた車が急停車した。シートベルトが胸に食い込み、ノコナカ研究員は咳き込んだ。
何事か⁉ ノコナカは運転席の護衛に問うた。フロントガラスに蜘蛛の巣状にヒビが入っているのが見えた。
「襲撃です。頭を下げてください」隣の護衛がノコナカの頭を押さえつけ、冷静に言った。
車がすぐに後退を始め、元来た道をバック状態のまま走行した。フロントガラスに新しいヒビが入る。銃弾による攻撃だ。その狙いは正確で、運転席のど真ん中の部分に命中していた。防弾ガラスがなければ最初の銃撃の時点で運転手は死亡。車は停車を余儀なくされていただろう。
車は後ろ向き走行のまま右折、道が開ける。前の道路を猛スピードで直進した。
ノコナカ研究員は口元を手で覆い思考を巡らせた。この襲撃は絶対に偶然ではない。そんな確信があった。それならば誰が襲撃を指示した?
所属企業が情報漏洩を警戒して事前にノコナカ始末のために動いていたのか。ありえない話ではないが、それにしては動きが速すぎた。転職オファーは今回の所属企業を介してセッティングされた会食にて、巧妙に隠蔽された状態で持ち掛けられた。ノコナカ自身も今日初めてオファーの話を受けたのだ。本人が知らない情報を先んじて得て背任の心配があるから始末にかかる。彼女の所属企業がそんな短絡的な行動をとるとは考えにくかった。
では誰が、いったい誰が彼女を殺そうとしているのか。ノコナカ研究員にはまるで心当たりがなかった。
車が再び急停車した。
「今度はなに⁉」
前を見ると、車のライトに照らされて、前方にライダースーツのような白い服を着た大男が立っているのが見えた。危機から脱したはずがその実、敵の誘導にしたがっていたというわけだ。前門のタイガー、後門のバッファロー!
運転手は前方を睨み逃げ道を模索した。彼ら護衛の仕事はノコナカ研究員の護衛と送迎だ。馬鹿正直に戦うことはない。彼は決断的にアクセルを踏み込み、車を急発進させた。目の前の敵は一人。送迎車の全重量をのせて轢殺する腹積もりだ!
タイヤがアスファルト切り裂く。金切り声を上げて突撃する。十メートル、七メートル、四メートル、三、二、一!
しかし、車が大男の体を砕くことはなかった。
車内の全員が驚愕の表情を浮かべた。コンクリートを易々と砕く装甲に換装された車のフロント部を大男がその大きな手で受け止めていた。アクセルをさらに踏み込むが車は微動だにしない。
大男が片腕を振り上げ、鋭い爪をボンネットへと深々と突き刺した! エンジンが破壊。車は移動能力を失った。
車の扉が勢いよく蹴り開けられた。後部座席から護衛が転がり出る。護衛は素早く拳銃を大男に向け二回発砲した。弾丸が大男の肩に命中。大男が視線を護衛に向ける。爬虫類めいて縦に裂けた瞳に睨まれ、護衛の背筋に寒気が走る。
「チッ、サイボーグか」護衛は弾丸を受けても痛がる素振りすら見せない敵対者の態度に舌打ちをする。インプラントされた網膜ディスプレイに表示されたキーボードを視線で入力。運転席の仲間にノコナカ研究員を連れ出すようにメッセージを送った。警護対象が十分に逃走するまで時間を稼がねばならない。護衛は電磁警棒を構えた。全身に緊張が走り、すでに存在しないはずの汗腺が開くのを感じた。まるで得体の知れない怪物を相手にしている気分だった。
覚悟を決めた護衛は警棒を振り上げ大男に殴りかかる。
『いまだ、行け!』
仲間のメッセージを受け取った運転手は身を低くしてノコナカ研究員を車から引きずり出し、合図と同時に走り出した。右手には拳銃。左手ではノコナカ研究員の服の襟をしっかりと掴み屈ませながら走らせる。襲撃者は他にもいるかもしれない。曲がり角や建物の扉にも注意を向けながら移動を続ける。周囲は閑散としており人も少ない。これでは人ごみに紛れながら逃げることはできない。先ほどから援軍のリクエストも送っているが到着にはまだまだかかる。
運転手は殺気を感じて上を見た。街灯の明かりが人間のシルエットに覆い隠される。運転手はノコナカをかばいながら咄嗟に身を引いた。
ワインレッドのスーツに身を包んだ金髪の女が受け身を取って軽やかに着地する。女が振り返ると空気を切り裂く乾いた音が響いた。
腕に痛みを感じた運転手は握っていた拳銃を取り落とした。尋常ではない痛みだ。
シュコー、シュコー。特徴的なガスマスクの呼吸音が聞こえた。運転手は姿勢を低くして襲撃者を警戒する。間違いない。この女、車両の前に立ちはだかりフロントガラスに弾丸を撃ち込んだ女だ。運転手はほぼ直感的に同一人物だと気づいた。
逃げる事に徹するには限界だ。ノコナカ研究員を下がらせ、運転手は電磁警棒を取り出した。警棒を前に突き出してじりじりと距離をはかる。互いの視線が交差する。護衛が警棒を女の胸めがけ鋭く突き出した。
「バカな奴」
クイーンは護衛を嘲笑うと、振るった鞭を腰ベルトのホルスターに納めて徒手空拳の構えを取る。突き出された警棒を護衛の腕ごと払う。護衛のがら空きの胴体に潜り込むとクイーンは素早い乱打を打ち込んだ!
鉄球を投げつけられたかのような強烈なボディーブローを受けた護衛は、身体をくの時に曲げて吹き飛んだ。〈あの細腕のどこにそんな、重すぎる… 無念……〉クイーンの体格から繰り出されたにしては不自然な高威力パンチを受け、護衛の意識が遠のいた。
彼は選択を誤った。懐に潜り込まれたその瞬間に、無理やりにでも距離を取るべきだったのだ。クイーンはスマートな体つきだが、その細腕の筋力は成人男性の五倍、五倍である!
「ヒッ! ヒイイィ! 来るな、近寄るな!」自分を守ってくれる盾を失った事を悟ったノコナカはへたり込み悲鳴を上げる。心は恐怖に砕かれて体を動かすことができない。
ノコナカ研究員に近づき、クイーンは彼女を見下ろした。この女は、まるで自分がか弱い存在かのように振舞っている。悪意が無く、罪など犯したことがないというように怯えている。それがどうしても許せなかった。
「何を見ているわけ、殺るなら早くしなさいよ!」ノコナカが吠える。追い詰められて自暴自棄になっているのだ。
クイーンはガスマスクのストラップを緩めた。その頭上を宣伝広告飛行船が雄大に泳いでいる。船体下部のサーチライトがクイーンたちのいる場所一帯を照らす。ガスマスクが外れ、瞳孔が縦に裂けた黄金の瞳が露わになった。
ノコナカは怪訝な表情を浮かべた。ガスマスクを外した意味が理解できなかったのだ。非人間的な印象を抱かせるその黄金の眼には見覚えがあった。しかしそれがどこで見たかまでは思い出せなかった。ノコナカはその黄金の輝きを何度となく見ていた。学生時代のインターンシップでのことだ。彼女はその輝かしい経歴の最初のステップでクイーンと出会っていた。しかし彼女自身はそれを覚えていない。ノコナカは実験動物にいちいち感情移入するほどセンチメンタルではない。そしてその割り切りの良さが回りまわって彼女の命を脅かす事となった。
クイーンは落胆の表情を浮かべた。ノコナカの心情を察したのだ。この女もそうだ。誰も自分の事を覚えていない。今までに復讐を達成した三人の連中も皆同様だった。怒りとみじめさが胸中に広がる。クイーンは歯を食いしばって、いつの間にか確保していた護衛の拳銃をノコナカに向けた。
ノコナカが命乞いをするが、その言葉はクイーンの耳から締め出される。
〈あたしたちが助けを求めた時に、いったい何をしてくれた?〉
クイーンは無様なノコナカに白けた気分になりながら、無感動に引き金を引いた。何度も何度も、弾倉の弾が空になるまで撃ち込んだ。
その姿を、護衛の始末を終えて追いかけてきたジャックが悲しげに見守っていた。クイーンが復讐の一つを達成したのを見届けると、彼はクイーンに声をかけた。
「クイーン、人が、来ル。行コウ」
言葉の通り、遠くの方からサイレンの音が近づいてきていた。
「そうね。見られないうちに離れなきゃ」
そう言って、クイーンは足早に現場から離れた。そしていり組んだ路地へと入っていく。この路地を移動すれば、通報を受けて律儀に車を走らせてくる警察から簡単に逃げられるだろう。
ジャックは目の前でせかせかと歩くクイーンの背中に視線を向けた。クイーンの全身から漏れ出す怒りの匂いを、彼の鼻腔は嗅ぎ取った。言葉を交わさずとも、ある程度はクイーンの考えも読み取れる。
ジャックは待った。クイーンがいつものように自ら口を開くまで。
匂いに悲しみの感情が混じり始めた。
「あの女も覚えていなかった。顔を見せても、目を見せても、なにも! 何も、なかった……」
クイーンの目が熱くなり涙が滲む。声がしだいに震えてくる。彼女にとってこの復讐は、自分たちがされてきた事への意趣返しの他にも、自分の存在を価値を確かめたいという意図があった。
機械の子宮から産み落とされた少女は物心ついた時には実験施設にいた。紆余曲折を経て施設から兄弟たちと脱走後、クイーンたちは息を潜めて生きてきた。生きているのに死んでいる日々を過ごし、しだいに少女はマッドサイエンティストたちが何を考えて自分たちを作り出したのかを聞いてみたい、その目論見を台無しにして復讐してやりたいと考えるようになったのだ。
だが、現実はどうだ。今の今までにクイーンによって葬られてきた者たちは、誰一人クイーンとジャックの存在を覚えていなかったのだ。心が折れそうだった。怨嗟の叫びでもいい、誰か自分を覚えていないのか。
ジャックは寄り添った。クイーンを守護し肯定する。そのために彼は作られた。そのために共に生きていた。彼にはクイーンの存在が全てだ。
「これで三人目。誰でもいいから、誰かに覚えていてほしいのよ! あたしは! あなただってそのはずでしょ?」
同意を求める主人に、ジャックはただ頷きを返す。〈キミの思うままに〉