東京駅の一つ手前、小さな私鉄のホーム。
風雅は、電車を降りてから何となく歩き続けていた。行き先も決めず、ただ足の向くままに。気がつけば、知らない商店街の外れにある喫茶店の前に立っていた。
木製のドアに書かれた文字は《アンサンブル》。
(なんか、面白そう)
ドアを開けると、ほのかにコーヒー豆の香りが鼻をくすぐった。静かなピアノのBGM、小さな丸いテーブル、窓際に差し込む午後の日差し——何も特別じゃないけれど、落ち着く空間。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
声をかけてきたのは、白いブラウスに黒のスカート姿の女性。やや控えめな声だったが、目元に優しい光があった。
「……あ、うん。一人。ここ、いつもやってるの?」
「はい。平日は夕方から、土日は昼から開いてます。……あの、お席はどちらに?」
「じゃあ、あっちの角の席で」
案内された席に腰を下ろしながら、風雅はふと彼女の名札に目をやる。そこには「由真」とあった。
(ああ……店員っぽくないというか、ちょっとだけ浮いてる感じ……なんか安心するな)
メニューを眺めていると、カウンターから杏奈が姿を現した。
白衣に見えなくもないグレーの上着、タブレット片手に注文を取りつつも、客の表情を観察していた。
「水、あまり飲まれてませんね。体調、どうですか?」
唐突な問いに、風雅は目を瞬かせた。
「え、えっと……たしかに、今日はあんまり……」
「乾燥した日ですから。室温も下げてます。ご希望があれば席の変更もできますが」
「……なんでそんなに気がつくの」
「理系ですから。観察と仮説は習慣です」
きっぱりと答える杏奈に、風雅は思わず笑った。
(変な人だな……でも、嫌じゃない)
そんなやり取りの後、店の奥からコトリと音を立てて扉が開き、男性が一人入ってきた。
「遅くなりました……あ、風雅、来てたのか」
「慎? なんでお前がここに?」
「俺、ここの修理係。オーナーの知り合いでさ。今日はコーヒーマシンのメンテ」
そう言いながら、穏やかな笑顔で慎はカウンターの裏に回り、工具箱を持って作業を始めた。
「……この喫茶店、なんか……人が流れてくる場所なんだな」
風雅はぼんやりとつぶやいた。
その“流れ”に導かれるようにして、さらに二人が店へ入ってくる。
崇はスポーツブランドのバッグを担ぎ、汗を拭いながら元気よく入店。
「おーい、泉ー! 先入ってるって言ってたのに、いないじゃん!」
「……まだ来てないみたいよ。というか、店で叫ばないで。迷惑」
一緒に入ってきた由香が、手帳を片手に小言を言う。
その口ぶりには計画性と切れ味があったが、身のこなしはどこか気ままで、芯は自由だった。
「……あー、すまん。今日、部活の帰りで気が立ってた」
崇は頭を掻き、店の隅に座る。
「ここ、いいね。……こういう場所で話すのって、悪くない」
その言葉に、杏奈が静かに答えた。
「偶然って、よくできてますから」
まるで、今この場が“偶然に見えて、必然である”ことを知っているかのような口ぶりだった。
そして、最後に扉が開いた。
「ご、ごめん遅れたっ!」
焦って飛び込んできたのは泉だった。
小柄で、どこか抜けているような雰囲気。だが、店内を一目見るとすぐに全員に軽く会釈をした。
「……誰がいても、あいさつは大事だって母に言われてるから」
そう言って笑う泉の言葉に、場の空気がふっと和んだ。
こうして、“たまたま”集まった7人は、互いを深く知らぬまま、同じ空間を共有していた。
だが——この日を境に、彼らの日常はほんの少しずつ、静かに変わり始める。
“今日が終わる前に”、彼らの小さな奇跡は始まった。