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第29話 ふたりの海

ー/ー



「思ったより風つよ…」

 ほんの少し伸びた槇子の髪が風で揺れる。どうやらこのまま伸ばし続けるつもりのようだ。

 槇子のすぐ隣に立った惠美がつぶやく

「三、四回多喜と来た事があって、いつも風の強い日だった気がします」

「もう、どうして多喜ちゃんの話になると敬語になるの?」

「すいません、あいやごめん…」

 付き合いだした当初は年齢のせいもあって惠美の方から対等な言葉遣いをするのは気が引けていた。槇子はそれを嫌ってなるべく敬語は使わないよう惠美に求め、惠美もそれに応え今ではほぼ対等に近い言葉のやり取りをしている。それでも何故か多喜の話をする時の惠美は敬語になりがちだった。

 惠美は一方の手で槇子の手を取る。小さな紙袋を持ったもう一方の手で同じ槇子の腕にしがみついて寄りかかる。

「海はやっぱり怖かったけど、それでもここでこんな風に海を見るのって好きで。こんな風にボーっと二人で水平線を見てたな。日が傾いてくると波で海がキラキラして綺麗だった。多喜はやっぱり本の話をしていることが多かったかも。私はそんな多喜を見ているのが好きだった。見ているだけでよかった。声を聞いているだけで幸せだった」

 黙って遠く遠く水平線の向こうを見ている槇子。

 愛する人を失った悲しみ、愛する人が支えてくれている喜び、そして自分でもどうにもできない濁って澱んだ感情が渦潮の様に槇子の中で逆巻く。

 槇子はぽつりとつぶやく。

「うん」

 惠美の手を握る槇子の手にぎゅっと力が入る。多分槇子は今泣いている、と惠美はそう思う。

「ごめん、ごめんね…… ちょっとだけ……だか、ら……」

「はい」

 多喜について思い出す時、槇子が泣いたり苦しむ頻度も時間も次第に減っているように惠美には思えた。槇子の苦悩が和らぎつつあるのを実感し惠美は素直に嬉しい。
 槇子も落ち着いたのかその手を緩め笑顔を浮かべ天を仰ぐ。繋いだ手を子供みたいに前に後ろに振る。惠美がそっと槇子の顔を覗き込むとやはりまなじりに少し涙を浮かべていた。

「へへっ、ごめんね」

 槇子は惠美の顔に目を向け恥ずかしそうに、そして照れくさそうに言う。申し訳なさそうにも見える。

「何言ってるの? 槙ちゃんと私の仲じゃない」

 ちょっとおどけて惠美が言う。

「そうね…… うん、本当にありがとう」

 槇子が手をきゅっと握ってきた。さっきよりずっと柔らかに。目を合わせ、惠美もしっかりと槇子の手を握り返す。そして引き戻す。二人のいる世界、生者達の現世(うつしよ)へ。

 二人は手を握ったまま黙って海を眺めていた。惠美にとっては多喜と眺めていたのと同じ懐かしい海。しかし不思議なことに今日の海の姿はあの頃よりもずっと優しくきらめいて見える。

「はい、おやつ」

 槇子の腕にしがみついていた片手に持っていた小さな紙袋を、惠美は唐突に突き出して見せる。槇子は不意を突かれ少しびっくりするがすぐに嬉しそうな顔をする。

「わ、いつもありがとう! ホント上手よねぇ。羨ましい。今度は何を作ってきたの?」

「いやいや今日で三回目のまだまだ初心者ですよ? 今日はマフィン作ってみた。まぁまぁかなあ…… お口に合いますかどうか」

 少し照れた苦笑いを浮かべる惠美。

 槇子と付き合いだしてから惠美は料理やお菓子作りに興味が出てきた。喜んで食べてくれる恋人がいるとというのは作り甲斐としてはこれ以上のものはない。槇子だけでなく、惠美も少しずつ行動力や活力、生きる力を取り戻しつつあった。

「惠美の作ってくれたお菓子なら絶対美味しいさ! いいお嫁さんになれるね!」

「ホント? ちゃんと貰ってね? ね、貰ってよ? ね?」

 槇子がよろけるほど身をすり寄せる惠美。

「うわわわ…… もちろん! 期待してていいですよ! うふふふ…… でもいつも作ってもらってばっかりでごめんね。あ、そうそう。コーヒーと紅茶、この間話してたポットで持ってきてるからそれで食べよっか、せっかくだからここで。今車から持ってくるから待ってて」

「はあい」

槇子は小走りにすぐそばの駐車場に向かった。


【次回】
 最終話 海の向こうに


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「思ったより風つよ…」
 ほんの少し伸びた槇子の髪が風で揺れる。どうやらこのまま伸ばし続けるつもりのようだ。
 槇子のすぐ隣に立った惠美がつぶやく
「三、四回多喜と来た事があって、いつも風の強い日だった気がします」
「もう、どうして多喜ちゃんの話になると敬語になるの?」
「すいません、あいやごめん…」
 付き合いだした当初は年齢のせいもあって惠美の方から対等な言葉遣いをするのは気が引けていた。槇子はそれを嫌ってなるべく敬語は使わないよう惠美に求め、惠美もそれに応え今ではほぼ対等に近い言葉のやり取りをしている。それでも何故か多喜の話をする時の惠美は敬語になりがちだった。
 惠美は一方の手で槇子の手を取る。小さな紙袋を持ったもう一方の手で同じ槇子の腕にしがみついて寄りかかる。
「海はやっぱり怖かったけど、それでもここでこんな風に海を見るのって好きで。こんな風にボーっと二人で水平線を見てたな。日が傾いてくると波で海がキラキラして綺麗だった。多喜はやっぱり本の話をしていることが多かったかも。私はそんな多喜を見ているのが好きだった。見ているだけでよかった。声を聞いているだけで幸せだった」
 黙って遠く遠く水平線の向こうを見ている槇子。
 愛する人を失った悲しみ、愛する人が支えてくれている喜び、そして自分でもどうにもできない濁って澱んだ感情が渦潮の様に槇子の中で逆巻く。
 槇子はぽつりとつぶやく。
「うん」
 惠美の手を握る槇子の手にぎゅっと力が入る。多分槇子は今泣いている、と惠美はそう思う。
「ごめん、ごめんね…… ちょっとだけ……だか、ら……」
「はい」
 多喜について思い出す時、槇子が泣いたり苦しむ頻度も時間も次第に減っているように惠美には思えた。槇子の苦悩が和らぎつつあるのを実感し惠美は素直に嬉しい。
 槇子も落ち着いたのかその手を緩め笑顔を浮かべ天を仰ぐ。繋いだ手を子供みたいに前に後ろに振る。惠美がそっと槇子の顔を覗き込むとやはりまなじりに少し涙を浮かべていた。
「へへっ、ごめんね」
 槇子は惠美の顔に目を向け恥ずかしそうに、そして照れくさそうに言う。申し訳なさそうにも見える。
「何言ってるの? 槙ちゃんと私の仲じゃない」
 ちょっとおどけて惠美が言う。
「そうね…… うん、本当にありがとう」
 槇子が手をきゅっと握ってきた。さっきよりずっと柔らかに。目を合わせ、惠美もしっかりと槇子の手を握り返す。そして引き戻す。二人のいる世界、生者達の現世《うつしよ》へ。
 二人は手を握ったまま黙って海を眺めていた。惠美にとっては多喜と眺めていたのと同じ懐かしい海。しかし不思議なことに今日の海の姿はあの頃よりもずっと優しくきらめいて見える。
「はい、おやつ」
 槇子の腕にしがみついていた片手に持っていた小さな紙袋を、惠美は唐突に突き出して見せる。槇子は不意を突かれ少しびっくりするがすぐに嬉しそうな顔をする。
「わ、いつもありがとう! ホント上手よねぇ。羨ましい。今度は何を作ってきたの?」
「いやいや今日で三回目のまだまだ初心者ですよ? 今日はマフィン作ってみた。まぁまぁかなあ…… お口に合いますかどうか」
 少し照れた苦笑いを浮かべる惠美。
 槇子と付き合いだしてから惠美は料理やお菓子作りに興味が出てきた。喜んで食べてくれる恋人がいるとというのは作り甲斐としてはこれ以上のものはない。槇子だけでなく、惠美も少しずつ行動力や活力、生きる力を取り戻しつつあった。
「惠美の作ってくれたお菓子なら絶対美味しいさ! いいお嫁さんになれるね!」
「ホント? ちゃんと貰ってね? ね、貰ってよ? ね?」
 槇子がよろけるほど身をすり寄せる惠美。
「うわわわ…… もちろん! 期待してていいですよ! うふふふ…… でもいつも作ってもらってばっかりでごめんね。あ、そうそう。コーヒーと紅茶、この間話してたポットで持ってきてるからそれで食べよっか、せっかくだからここで。今車から持ってくるから待ってて」
「はあい」
槇子は小走りにすぐそばの駐車場に向かった。
【次回】
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