まるで、無数の虫たちが体内で徐々にふ化し蠢くかのよう── 。
三年一組に近づくにつれ、そんな胸騒ぎが大きくなっていった。
「芦屋先輩が教室で大暴れしているって」
昇降口で上履きに履き替えていたとき、他クラスの生徒が話しているのを耳にしたからだ。
こんなことなら、もっと早く家を出るべきだった、と歯噛みしたところでどうにもならない。
オレは階段を一段抜かしで駆け上りながら、ばあちゃんの顔を思い浮かべた。
朝食を取ったあと、たまには守護霊孝行でもしておかないと罰が当たるかもと思い、珍しく自ら進んで仏壇に線香を供えていると、ちょうどばあちゃんがやって来た。
殊勝だと褒められるとばかり思っていたのだが、予想は大きく外れた。
どういう理由か、昨晩の説教の続きが再開されてしまったのだ。
ばあちゃんはオレの言動の全てが気に障るのか、はたまたストレスのはけ口としてオレを活用しているのか、どちらにせよ、説教は彼女の趣味と化している。
学校に遅刻しないで済んだものの、本来乗る予定だった電車には乗り遅れてしまった。
ばあちゃんめ。どうしていつもいつもオレを目の敵にするんだ!
不満と悔しさがモヤモやと降り積もる中、三年一組に辿り着くと、教室のちょうど真ん中に人垣ができていた。
机と椅子は教壇側へと押しやられ、クラスメイトが輪を作っている。
どうやら輪の中心にいるのが友人Aのようなのだが……あいつ、何をやらかしているんだ?
クラスメイトの間を縫って輪の中心に躍り出ると、オレは目を疑った。
友人Aと委員長の宮下がリングで戦う格闘家のように対峙しているのだ。
「ストップ、ストップー!」
試合中止を高らかに宣言するレフェリーのように、オレは大手を振って乱入を果たす。
「お前ら、一体何やってんだよ!?」
「決闘だよ、決闘。見りゃわかんだろ」
友人Aは宮下から、わずかも視線を逸らさず応えた。
「これは僕と芦屋君の問題だから、邪魔しないでくれ」
一方の宮下も怯む様子などなく、友人Aを睨んでいる。
「いいか、宮下。手加減なしの一本勝負だ。ビビってんだったら、棄権してもいいんだぜ?」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。僕にも譲れないものがあるからね」
ヒリヒリとした緊張感が肌を痛めつけるようだ。
例えるならば、剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎の因縁の勝負。
といっても、どちらが武蔵で小次郎かは知らないが、前代未聞のケンカが始まる予感に、オレは二人の間に飛び散る火花を消しにかかった。
「まずは一旦落ち着こうぜ。オレがひとりずつ話を聞く。まずは友人Aから……」
「必要ねえよ」
「崎山は教室から出ていってくれないか」
「ここオレの教室でもあるんだからな!」
二人の視線はオレの頭上を飛び越えて、バチバチと激しい音を立てる。
盛り上がった上腕二頭筋を見せつける友人A、指の関節を鳴らす宮下。
殴り合う気、満々といった風だ。
それぞれの拳が振り上げられた、と思ったとき──二人の体が床に沈んだ。
「いーち、にーい、さーん」
意味がわからなかった。
二人は両手のひらを床につき、肘を曲げたり伸ばしたり、腕立て伏せを始めたのだ。
床ギリギリまで鼻を近づけ、そして離れるごとに、クラスメイトたちが声を合わせてカウントする。
「芦屋さんと宮下は、聖子先生を取り合っているんだよ」
「取り合っているだって?」
呆気に取られているオレに、親切なクラスメイトが教えてくれた。
「宮下は芦屋さんが登校して来るなり頭ごなしに言ったんだ。『聖子先生を好きなのは芦屋君だけじゃないんだ』って。そしたら、二人で腕相撲が始まって、引き分けたと思ったら、今度は腕立て伏せ。回数の多い方が勝ちなんだって。面白いだろ」
「面白くねえよ」
思春期の男子がイキがり見栄を張り合う姿は、小学生のケンカより低俗で軽薄でバカバカしい。
宮下が腕をバネのようにしならせて、体を一瞬だけ宙に浮かせると、拍手をひとつ鳴らした。ドヤ顔を見せつける。
挑発に乗った友人Aは左腕を背中へと回し、右腕一本で腕立て伏せをする。
筋肉が悲鳴を上げているのか、額に青筋が立っているが、それよりも勝ち誇った顔つきが目立つ。
「聖子ちゃんは渡さねえからな」
「ちゃんはやめてくれ、馴れ馴れしい。僕らは彼女より年下なんだ。身をわきまえて聖子さんと呼ぶべきだ」
「年下も年上も関係ねえよ。年齢を気にする奴は恋愛する権利がねえ。つまり、宮下はオレと戦うリングにすら立っていないってことだ」
「ふん、芦屋君は何もわかってない。僕は聖子さんを敬えと言っているだけさ。恋愛というのは相手を尊敬することが一番大切なんだ」
「尊敬だと? だったら、聖子ちゃんがちゃん付けで呼んで欲しいと言ってもお前は、さん付けするんだな?」
「誰もそんなことは言ってない」
「それじゃあ、呼んでみろよ。聖子~?」
「……ちゃん」
「もう一回。聖子~?」
「ちゃん」
「いい調子じゃねえか。恋愛で大切なのは尊重だ。わかったか。もう一回、予行練習な。聖子──」
一体、いつどんなのときのための予行練習なのだろう。
確かに昨日の昼休み、「友人Aと絶対気が合うから、一度話してみろよ」と宮下に勧めたのはオレだが、こんな対決が見たかった訳ではない。
彼女いない歴=年齢である二人のシュールなトレーニングを眺めながら、呆れ返っていると、もしかして、とひとつの考えが降ってきた。
もしかするとこれは、宮下の友人Aに対するせめてもの罪滅ぼしなのではないだろうか。
友人Aのカバンから盗まれた財布が出てきたとき、宮下は友人Aの弁解を聞かず、一方的に疑い、辛辣な言葉を浴びせた。そのことに罪悪感を抱き、和解するため、わざわざこんなバカげたことをしているのではないだろうか。
委員長である宮下が友人Aと対決という形で向き合えば、宮下に引っ張られたクラスメイトたちが二人を応援し、歓声を上げる。クラスがひとつになる──。
これはバカを装った不器用な二人が巻き起こした友情の物語なのでないか。
そんな憶測が確信に変わる。いつの間にか、友人Aと宮下がクラスメイトたちの笑顔の花を咲かせていたからだ。
「バカだなあ、お前ら!」
二人の嘘に乗っかってやるのが、友情というものだろう。
クラスメイトと一緒に声援を送る真之助の隣に並んで、オレは笑った。
この対決はホームルーム開始のチャイムと共に終わりを迎える──そう高を括っていたのが甘かった。
なんと延長戦が体育の授業に持ち越されることになったのだ。
授業は例によって、オレの苦手なバスケットボールの練習試合だったのだが、神様のいたずらか、友人Aと宮下は同じチームに配置され、味方同士であるのに、まるで敵同士のようにボールの奪い合いやら、難易度の高いプレイを見せつけ合う、見苦しいマウントの取り合い合戦だった。
スポーツマンシップの欠片もなく、二人の対抗心は真夏のギラギラとした太陽よりもヒートアップし、周囲を困惑させる。
「真、オレにパスしろ!」
「いいや、僕にパスをするんだ、崎山!」
「敵にみすみすボールを渡すやつがいるかよ!」
オレは二人の対戦チームだったのだが、運悪くこぼれ球を受け取ってしまい、ジリジリと詰め寄られている。どうやら、今朝見た友情の断片は幻影だったらしい。
「お前ら、ガチの勝負だったのか。恐ろしいくらいの大バカだな、金メダル級だよ」
誰か、二匹の猛獣に追い詰められた可哀想なオレのパスを取りに来てくれ!
そう願うが、二人の鬼気迫る様子に誰もが圧倒され、手も足も出ない。
あたふたしながら、引取り手のないボールの里親を探していると、いきなり背後から激しいタックルを受けた。
顔面から派手につんのめり、不意打ちの痛みに顔を歪めるオレの上空を、飄々と飛び越えていく人物がいる。
「真之助!」
真之助にあて身をくらわされ、ボールを奪い取られたのだとわかった。
守護霊が公衆の面前でお付き人にタックルを食らわすとは、にわかに信じられない話だが、突拍子もないことをしでかすのが真之助なのだ。
さらに信じられなかったのはその姿。
みんなにはボールがひとりでに弾んでいるように見えているのだろうが、ドリブルをしながら颯爽とコートを駆け抜ける真之助の姿は、流麗な旋律を奏でる音楽か、風を操る妖精のダンスのようで、人を惹きつける力があった。
真之助はゴールの前に立つと、水鳥が飛び立つときのように音もなくボールを放つ。
美しい放物線を描いたボールがゴールネットを揺らすものだと信じ込んでいたが、そこで予期せぬことが起こった。
何を思ったのか二階のギャラリーへとボールを投げ打ったのだ。
ボールは無人のギャラリーへと真っすぐに飛んでいき、そして──破裂した。
テロリストが爆弾を作動させたような本格的な爆発だった。
ボールは散り散りになって辺りに飛散し、黒煙と異臭を漂わせながら、メラメラと燃えた。
ピ──────!!!
体育教師のホイッスルで現実に引き戻された生徒たちは消火活動を開始した。
「ボールに元凶が憑依していたんだ。ナイスシュートだったでしょ?」
何事もなかったかのような顔で戻ってきた真之助は彼のプレイと同じように軽やかに笑う。
もし、あのまま、ボールを持っていたらオレはどうなっていたのだろうか。
想像しなくてもわかる。
また真之助が危機から救ってくれたのだ。
元凶を引き寄せるという運命期の恐ろしさを今更ながらに思い知った。気を引き締めなければ──。
友人Aと宮下の決闘は有耶無耶となって終了した。
のちにこの騒動は「芦屋と宮下の呪い」と呼ばれることになる。