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 春のキャンパスを彩る桜並木。そのわきに設えられたベンチに座り、洋書のペーパーバックを読んでいると、ふいに女の声がしてこう言う。
「その本、おもしろいですよね」
 新入生だろうか。まだ幼さの残るその顔は、大学進学に合わせ地方から上京してきたばかりの初々しさと好奇心で満ちている。そして若干の心細さ。今田美桜に少し似ている。
 彼女の問いかけに答える代わりに、俺はその本に出てくる印象的な一節をそらんじてみせる。もちろん英語で。それを聞いた彼女はぱっと顔を輝かせ、こう言う。
「わあ、わたしもそこ大好きなんです!」
 こうして出会った俺たちはすぐに意気投合。連絡先を交換し、初デートの日を迎える。代官山の蔦屋でおたがいの好きな作家の本を紹介し合い、その後テラス付きのカフェで優雅にランチ。夜は中目黒の落ち着いた雰囲気の店へ。食後は目黒川沿いを一緒に散歩しながら、ライトアップされた夜桜の下で俺は彼女に言う。
「好きだよ」
「うん。わたしも」
 そうして始まるふたりの青春の日々。週に三日はデートをし、そのうち二日は彼女のアパートの部屋に泊まる。洗面台には二本の歯ブラシ。些細な行き違いからつまらないケンカをしたりすることはありつつも、ふたりはゆっくりとその愛を育んでいく。そして俺が二十八、彼女が二十六の年に俺たちは結婚をする。美桜は柳川(やながわ)美桜になる。幸せな結婚生活。俺たちの間には二人の子どもができる。男の子と女の子。二人とも彼女によく似てかわいらしい子どもたちだ。成長し、少々やんちゃになってきた二人にときに手を焼きながらも、俺と彼女はその後も幸せに暮らす。最高だ。でも現実はそうじゃない。
 現実の俺も桜の木の下でベンチに座って本を読んでいるけど、待てど暮らせど今田美桜はやってこないし、読んでいるのも洋書じゃなく本屋で平積みされていたエンタメ小説だ。いまは三限の授業が行なわれている時間だが、この時間になにも授業をとっていなかった俺は次の四限までの膨大な空き時間をこうしてひとりベンチで小説を読むという形でもてあましつづけている。四限がたいして重要じゃない授業ならすぐにでもサボりを決めこんで帰ってしまうところだけど、あいにく次の授業は必修だ。そうおいそれとサボるわけにもいかない。ただでさえ単位は不足がちだし。
 こんなことなら三限にもなにか適当な授業を入れておくんだった。こういうとき、平均的な大学生は同じく空き時間をもてあましている友人を誘って近くのカフェにでも行くんだろうか。ふう、と細いため息が出る。夢も、友だちも、恋人もなく迎えた大学三年目の春。
 ごう、と風が音をたてて吹き、大量の花びらが俺を襲った。顔や服が一瞬にして桜まみれになる。こんなとき小説の中だったら、舞う花吹雪のなかから不思議な美少女が現れて、それまでの生活が一変するような彼女との新しい物語が始まったりするんだろう。でもそんな都合のいいことは起こらない。なぜならこれは現実だから。現実でなにかを変えたいなら自分からなにか行動を起こさないとだめで、そして俺自身には一向に動きだす気配がない。
 またひとつ細いため息をつき、服についた桜を手で払い落とす。地面に落ちた花びらはところどころ土や汚れが付着して、もうあまり綺麗には見えなかった。


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 春のキャンパスを彩る桜並木。そのわきに設えられたベンチに座り、洋書のペーパーバックを読んでいると、ふいに女の声がしてこう言う。
「その本、おもしろいですよね」
 新入生だろうか。まだ幼さの残るその顔は、大学進学に合わせ地方から上京してきたばかりの初々しさと好奇心で満ちている。そして若干の心細さ。今田美桜に少し似ている。
 彼女の問いかけに答える代わりに、俺はその本に出てくる印象的な一節をそらんじてみせる。もちろん英語で。それを聞いた彼女はぱっと顔を輝かせ、こう言う。
「わあ、わたしもそこ大好きなんです!」
 こうして出会った俺たちはすぐに意気投合。連絡先を交換し、初デートの日を迎える。代官山の蔦屋でおたがいの好きな作家の本を紹介し合い、その後テラス付きのカフェで優雅にランチ。夜は中目黒の落ち着いた雰囲気の店へ。食後は目黒川沿いを一緒に散歩しながら、ライトアップされた夜桜の下で俺は彼女に言う。
「好きだよ」
「うん。わたしも」
 そうして始まるふたりの青春の日々。週に三日はデートをし、そのうち二日は彼女のアパートの部屋に泊まる。洗面台には二本の歯ブラシ。些細な行き違いからつまらないケンカをしたりすることはありつつも、ふたりはゆっくりとその愛を育んでいく。そして俺が二十八、彼女が二十六の年に俺たちは結婚をする。美桜は|柳川《やながわ》美桜になる。幸せな結婚生活。俺たちの間には二人の子どもができる。男の子と女の子。二人とも彼女によく似てかわいらしい子どもたちだ。成長し、少々やんちゃになってきた二人にときに手を焼きながらも、俺と彼女はその後も幸せに暮らす。最高だ。でも現実はそうじゃない。
 現実の俺も桜の木の下でベンチに座って本を読んでいるけど、待てど暮らせど今田美桜はやってこないし、読んでいるのも洋書じゃなく本屋で平積みされていたエンタメ小説だ。いまは三限の授業が行なわれている時間だが、この時間になにも授業をとっていなかった俺は次の四限までの膨大な空き時間をこうしてひとりベンチで小説を読むという形でもてあましつづけている。四限がたいして重要じゃない授業ならすぐにでもサボりを決めこんで帰ってしまうところだけど、あいにく次の授業は必修だ。そうおいそれとサボるわけにもいかない。ただでさえ単位は不足がちだし。
 こんなことなら三限にもなにか適当な授業を入れておくんだった。こういうとき、平均的な大学生は同じく空き時間をもてあましている友人を誘って近くのカフェにでも行くんだろうか。ふう、と細いため息が出る。夢も、友だちも、恋人もなく迎えた大学三年目の春。
 ごう、と風が音をたてて吹き、大量の花びらが俺を襲った。顔や服が一瞬にして桜まみれになる。こんなとき小説の中だったら、舞う花吹雪のなかから不思議な美少女が現れて、それまでの生活が一変するような彼女との新しい物語が始まったりするんだろう。でもそんな都合のいいことは起こらない。なぜならこれは現実だから。現実でなにかを変えたいなら自分からなにか行動を起こさないとだめで、そして俺自身には一向に動きだす気配がない。
 またひとつ細いため息をつき、服についた桜を手で払い落とす。地面に落ちた花びらはところどころ土や汚れが付着して、もうあまり綺麗には見えなかった。