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第19話 白真弓

ー/ー



 惠美は今どら焼きと対峙している。白真弓(しらまゆみ)とお抹茶のセットと。あの寺カフェで。喉が鳴るのは、別に食指が動いた訳ではなく緊張のあまりにゆえだ。




 惠美は多喜に死なれて以来ひどい出不精になり、友達との交流もぷっつりと途絶えてしまった。学校以外では塾にも行かず常時自室に引きこもる毎日だ。母親はこれを心配し、医師や教諭とも相談する機会を持った。その結果、何かと理由をつけては下校時に買い物をさせ、身体を動かさせるよう気を配っている。

 そして今回の惠美は大量のわら納豆を買いにお使いをさせられていた。学校帰り駅前の百貨店に寄ってお目当ての品を買う。だが商品を探す惠美の眼は生気を失っていた。

 惠美の身体も心も、以前と比べるとその力はひどく衰えていた。そして思うことと言えば死者のこと、そして好意をはねつけてしまった年上の女性のことばかりだった。

 心の中で悪態をつく気持ちにさえならず、重い足を引きずるようにして大通りから駐輪場へ向かう。

 足元ばかり見て歩いていた惠美が、何の気なしに面を上げると、ちょうど右手にある小さなお寺が目に留まる。槇子と入った寺カフェのあるお寺だ。惠美はつい立ち止まる。あの頃の記憶がよみがえる。冬の終わり、三月のあの頃を。もう半年以上も前の話なのに、ついさっきの出来事のように鮮明だ。

 気が付くと、誰かに背中を押されるようにして惠美は暖簾(のれん)をくぐっていた。

 そして、今惠美はあのどら焼きと対峙している。白真弓と。

 この間と違って客は随分と少ない。わら納豆を詰めた袋を持った女子高生という、実に気恥ずかしく、かつ実に何()えもしない今の惠美でも、少しは周りを気にせずにこの和菓子に集中できそうだ。

 朱と黒の(うるし)塗りのお盆に乗せられたどら焼きとお抹茶が運ばれ惠美の前に置かれる。薄めの生地に包まれた薄めのどら焼きを手に取り、少しずつ口にする。七ヵ月前と同じ味がする。少し嬉しくて少し笑みがこぼれた。

 しかし今は何もかもが変わった。今ここに槇子はいない。もう槇子に会うことはない。頬(ほお)餡子(あんこ)を取ってあげる事もできない。惠美に拒絶された槇子はもうこれ以上自分から接触を取ろうとはしないだろう。惠美も会社を通して連絡を取るなんてしないし、出来ようはずもない。惠美自身で槇子を拒んだのだから。

 なんで、あんな事しちゃったのかな。

 あれだけむきになって多喜への愛を頑なに守ろうとしていた惠美だが、今になってみると死者である多喜への操建(みさおだて)をほめる気にはなれない自分がいた。きっと誰もほめてくれないと思う。惠美と多喜の共通の友人も。多喜の両親も。きっと、多喜も。それは惠美にも分かっている。でも、こうする以外、自分自身に多喜への愛を証明する方法はあったのだろうか。多喜の死によって雲散霧消(うんさんむしょう)してしまうような、そんな軽い気持ちだったとは惠美は思いたくなかった。

 だけど槇子だけは違うような気がした。困ったような、悲しいような、だけどあの柔らかな笑顔を見せくれそうな気がした。「よく頑張ったね」「辛かったのね」などと言って労ってくれそうな気がした。ただ甘えたいだけなのかも知れない。だけど多喜が死んでからの惠美は誰にも甘えられなかった。誰かの腕の中で憩いたかった。

 指が濡れていた。そこで初めて自分が涙を流していることに気が付いた。そうなるともう止まらなかった。自分ではどうにもできないもつれた気持ちが、今突然惠美の心の中に湧き上がる。それは、苦しさや、悲しさや、苛立ちや、怒り。様々な辛い感情が一気に噴き出し涙となって溢れてきた。もうどら焼きは甘くはなかった。熱い塩味と苦味を加えたそれは惠美の喉を詰まらせる。

 声も出さずにぽろぽろと落涙しながら和菓子と抹茶をいただく惠美。店員も客もただ彼女を遠巻きに見守るだけだった。

 逢いたい。あたし槇子さんに逢いたい。やっぱりあたし逢いたかったんだ。

 この時惠美の心の中では、初めて多喜の姿が完全に消えていた。

 お盆に置かれ、今は涙に塗れているきれいな和紙の小さな短冊には、
《白真弓 石辺(いそへ)の山の 常磐(ときは)なる 命なれやも 恋ひつつをらむ》(※)
 と和歌がしたためられていた。

▼用語
※白真弓 石辺の山の 常磐なる 命なれやも 恋ひつつをらむ:
 万葉集第十一巻 二四四四 柿本人麻呂
 原文「白檀 石邊山 常石有 命哉 戀乍居」
 おおよその意味は「永遠を意味する石辺の山とは違い私の命は永遠ではないのに、あの人のことをいつまでも恋焦がれてしまう」

【次回】
 第20話 燃え盛る炎


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 惠美は今どら焼きと対峙している。白真弓《しらまゆみ》とお抹茶のセットと。あの寺カフェで。喉が鳴るのは、別に食指が動いた訳ではなく緊張のあまりにゆえだ。
 惠美は多喜に死なれて以来ひどい出不精になり、友達との交流もぷっつりと途絶えてしまった。学校以外では塾にも行かず常時自室に引きこもる毎日だ。母親はこれを心配し、医師や教諭とも相談する機会を持った。その結果、何かと理由をつけては下校時に買い物をさせ、身体を動かさせるよう気を配っている。
 そして今回の惠美は大量のわら納豆を買いにお使いをさせられていた。学校帰り駅前の百貨店に寄ってお目当ての品を買う。だが商品を探す惠美の眼は生気を失っていた。
 惠美の身体も心も、以前と比べるとその力はひどく衰えていた。そして思うことと言えば死者のこと、そして好意をはねつけてしまった年上の女性のことばかりだった。
 心の中で悪態をつく気持ちにさえならず、重い足を引きずるようにして大通りから駐輪場へ向かう。
 足元ばかり見て歩いていた惠美が、何の気なしに面を上げると、ちょうど右手にある小さなお寺が目に留まる。槇子と入った寺カフェのあるお寺だ。惠美はつい立ち止まる。あの頃の記憶がよみがえる。冬の終わり、三月のあの頃を。もう半年以上も前の話なのに、ついさっきの出来事のように鮮明だ。
 気が付くと、誰かに背中を押されるようにして惠美は暖簾《のれん》をくぐっていた。
 そして、今惠美はあのどら焼きと対峙している。白真弓と。
 この間と違って客は随分と少ない。わら納豆を詰めた袋を持った女子高生という、実に気恥ずかしく、かつ実に何|映《ば》えもしない今の惠美でも、少しは周りを気にせずにこの和菓子に集中できそうだ。
 朱と黒の漆《うるし》塗りのお盆に乗せられたどら焼きとお抹茶が運ばれ惠美の前に置かれる。薄めの生地に包まれた薄めのどら焼きを手に取り、少しずつ口にする。七ヵ月前と同じ味がする。少し嬉しくて少し笑みがこぼれた。
 しかし今は何もかもが変わった。今ここに槇子はいない。もう槇子に会うことはない。頬《ほお》の餡子《あんこ》を取ってあげる事もできない。惠美に拒絶された槇子はもうこれ以上自分から接触を取ろうとはしないだろう。惠美も会社を通して連絡を取るなんてしないし、出来ようはずもない。惠美自身で槇子を拒んだのだから。
 なんで、あんな事しちゃったのかな。
 あれだけむきになって多喜への愛を頑なに守ろうとしていた惠美だが、今になってみると死者である多喜への操建《みさおだて》をほめる気にはなれない自分がいた。きっと誰もほめてくれないと思う。惠美と多喜の共通の友人も。多喜の両親も。きっと、多喜も。それは惠美にも分かっている。でも、こうする以外、自分自身に多喜への愛を証明する方法はあったのだろうか。多喜の死によって雲散霧消《うんさんむしょう》してしまうような、そんな軽い気持ちだったとは惠美は思いたくなかった。
 だけど槇子だけは違うような気がした。困ったような、悲しいような、だけどあの柔らかな笑顔を見せくれそうな気がした。「よく頑張ったね」「辛かったのね」などと言って労ってくれそうな気がした。ただ甘えたいだけなのかも知れない。だけど多喜が死んでからの惠美は誰にも甘えられなかった。誰かの腕の中で憩いたかった。
 指が濡れていた。そこで初めて自分が涙を流していることに気が付いた。そうなるともう止まらなかった。自分ではどうにもできないもつれた気持ちが、今突然惠美の心の中に湧き上がる。それは、苦しさや、悲しさや、苛立ちや、怒り。様々な辛い感情が一気に噴き出し涙となって溢れてきた。もうどら焼きは甘くはなかった。熱い塩味と苦味を加えたそれは惠美の喉を詰まらせる。
 声も出さずにぽろぽろと落涙しながら和菓子と抹茶をいただく惠美。店員も客もただ彼女を遠巻きに見守るだけだった。
 逢いたい。あたし槇子さんに逢いたい。やっぱりあたし逢いたかったんだ。
 この時惠美の心の中では、初めて多喜の姿が完全に消えていた。
 お盆に置かれ、今は涙に塗れているきれいな和紙の小さな短冊には、
《白真弓 石辺《いそへ》の山の 常磐《ときは》なる 命なれやも 恋ひつつをらむ》(※)
 と和歌がしたためられていた。
▼用語
※白真弓 石辺の山の 常磐なる 命なれやも 恋ひつつをらむ:
 万葉集第十一巻 二四四四 柿本人麻呂
 原文「白檀 石邊山 常石有 命哉 戀乍居」
 おおよその意味は「永遠を意味する石辺の山とは違い私の命は永遠ではないのに、あの人のことをいつまでも恋焦がれてしまう」
【次回】
 第20話 燃え盛る炎